≪PRESENTATION WRIST CUT≫

N side 8


 手続きはすんなり済んだ。
 父が大学に来て、そして、僕は売店に併設されているカフェで、退学
届けを書かせられた。
 僕は、あの医者に出すのと同じように
「ハイ。書いたよ」
 笑顔をつくった。
 こういうのはよくある事で、突然、飛行機でどこかのちいさな島に捨て
おかれたり、汽車の中やデパートの階段に、やっぱり捨て置かれたり
したものだった。気まぐれなのだ。
 けれど。
 カッターを買ってから、泣かなくなった。初めて選んだ指。
 まるで言い訳のように会った担当の助教授に、父が、事情を説明した。
大学を休んで、遠くに引っ越すのです。しばらく、新しい家族と暮らし
たいと思いまして。いえ、休学するくらいならいっそ、もう、こちらに
は来させないつもりで。
 心が枯れる前に、一曲弾きたい。ぼんやり思う。
 ピアノとカッターの次に、声が、浮かんだ。

     ★

 それからずっと、準備に追われた。
 追うほどのものなんて、僕はなにも持っていないハズだったのに、
ダンボールがいくつも積まれた。
 親友たちに引越しの話をすると、ふたりとも、彼女に言わなくていい
のかと言った。彼女って? と聞くと、とぼけるなと一喝された。
 気づく。
 君の家なんて知らない。
 連絡先もわからない。
『――何から逃げているんですか?』
 また、声が浮かんだ。
 逃げたくない。
 雪が積もった翌日。僕は大巴高校の門の前に居た。門から散っていく
大勢の高校生の中に、すんなりと、君を見つける。
 数歩うしろの足跡に、ブーツを重ねてしばらく。
 フフ、と、笑い声が届いた。
「ストーカーみたいですね」
「……そうなんだ、初心者だけど」
 君の家は、坂道を結構のぼったところにあった。小さな庭のある家。
木に雪が積もりきっている。
 しばらくそのままで、待ってましたとばかりに白がふり始めた。
 カードキーはあげるよ、と呟く。
「え?」
「引越しの手続きが済んだから、もう、あさってからあのカードは使え
なくなるんだ」
「引っ越すんですか」
「そう。バイトも辞めた」
「そうなんですか……」
「ねぇ、」
 一拍おいて、左手を出した。左手じゃなきゃダメな気がした。だって、
「握手していいかな、」



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--Presentation by ko-ka--