≪PRESENTATION WRIST CUT≫

H side 8


 席が後ろだというだけで、クラスメイトの彼女は私に話しかけてくる。
 例えばそれは、今の小テストの出来具合とか、センターの対策とか、
一方的な恋の雑談だったりした。
 仲良くしたくないのに、話しかけてくるのだ。
 それも、最初に自分から回答を言っておいて、一見対等に、けれど
優位に会話を引きだそうとする。
「キスされたことって、ある? あたしはねぇ、まだない」
 仕方なく「あるけど違う……」と口ごもると、大げさに驚いて見せた。
「違うって、好きじゃなくてキスしちゃったってコト?!」
 それも違うと答えると、この能天気なクラスメイトは、少し考えて
から、じゃあ、きっと、その人のコト好きなんだよと言った。
「好きでないなら、まず怒るじゃん?」
 それは彼女の持論だ。
 私はあなたが好きじゃあないけれど、怒ったりはしない。
 進路希望だって、母親の言う通り選んでいる。私の希望じゃない
けれど、やっぱり怒ったりはしない。
 ただ、傷が。増えるだけ。
 そういえば店員さんにキスされた日の晩、私は、手首を切らなかった
な、と、思った。
 次の日。彼女の影響ではないけれど、朝、コンビニへ行った。けれど
どこにも店員さんは居なかった。
 その次の日も、次の日も。ずいぶんたって、辞めたのかと思い当たる。
 マンションに足を運んだけれど、入るのをためらった。

     ★

 それから何度も、ぼうっとしているトキに、唐突に、店員さんの声が
思い出したように再生された。
 授業中に、昼休みに、保健室で、体育館で。低くささやかれた。
 選んでくれないかな、音にも色があるからね、おいで、それで切っ
ちゃダメだよ、一時に終わるから、バイト、いらっしゃいませ……。
 沈めたくない。
 店員さんは私の鏡じゃない。生み出した幻想でもない。生身の、人間。
 ――会いたい。
 はじめて切実に思った放課後、校門の前に彼が居た。気づかないフリ
で通り過ぎると、案の定、ひかえめに後ろから足音が聞こえた。
 私の家の前まできたとき、ポンと、引越しの手続きが済んだから
カードキーが使えなくなる、と店員さんは言った。
「引っ越すんですか」
「そう、」
 一旦区切って、付け足すように
「バイトも辞めた」
 空を見る。
 白い何かが目についた。雪がまた、降ってきたのだ。
 少しの間。
 ふいに「ねぇ」と、彼は言った。
 穏やかに。
 瞬間。これで最後なのだと気づいた。引っ越すことじゃない。もっと、
別の、
「握手していいかな?」



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--Presentation by ko-ka--