ずいぶんと遅くなってしまって、家に帰った私は、母に、頬を叩かれ
ました。何回も、何回も。
部屋に走り、母が
「降りてきなさい!」
と叫ぶのを無視して、カッター……私の。
チキチキキという笑い声のような音はもう出ません。私のカッターは
ジャリっという不快な音を出して。私の血で、錆びてしまって。
刃を手首にあてたとき、私は、店員さんの顔を思い出しました。
深い色をした髪が目にかかって、眉をひそめながらピアノに手を置く
動作。
心はまだ家に帰って来ていない。
★
手首に新しいキズがつくたび、店員さんと会うのがこわくなってもう
一週間も、顔を、見ていませんでした。一週間のうちにまたキズがつく
と、そこから更に一週間。グズグズして、みっともない。
最初に声をかけたときにあった度胸はもう消えてしまったのです。
窓の外は雨。
テスト続きで会いにこれなかった、という言い訳を考えて私はため
息をつきました。ノートの上にペンシルを放り投げ、ゆっくりと、首を
ふります。
これは恋じゃない。
愛でもない。
数日後、コンビニには行かず、直接見上げたマンション。なぜだか、
今日は、店員さんが、ココに居る気がしました。
部屋に居て、独りで、どうしようもなく泣いている、そんな気がした
のです。
私は、やっぱり部屋に行くのをやめようかと考えました。
店員さんに会えば、会ったら、そしたら。
いえ。
なにもある筈がないのです。
エレベーターに乗り込むともう一人、乗ってきて、一瞬目があいました。
すぐにそらしたのは私。弱くなってる。
「――僕の名前を言うのと、布団を敷くのと、どっちがいいか選んで
くれないかな」
店員さんは予想通り、泣いていました。
私がそう見えただけ。
布団とエアコンを選択して、手に持ったコートを机の上に置きました。
カッターを、隠すように。
それを見た店員さんは、クスリと笑いました。
気だるさが漂う笑い方を見て、私は、やっぱり泣いていたんだな、と
こちらも気だるく笑ってみせて。
ゆっくりと立ち上がり、店員さんは
「布団、あけるよ。届いてからまだ一回も出していないんだ、」
私のとなりの荷物を見てこちらに向かってきました。
ピアノ。カッター。雪。手首。ひとみ。深い髪。血、が。
それは愛でも恋でもない、はずなのにー……
「ヒラサカさん……」
いえ。言ってしまったのです。
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