≪PRESENTATION WRIST CUT≫

H side 5


 その部屋には音が溜まっていました。高く、低く、大きく、小さく、
早く、遅く。
 私は店員さんに聞きます。
「それ、なんのピアノですか」
 言ってから、何の曲ですか、と聞いたほうがわかりやすかったと思い
軽く眉間にシワをよせる。
 店員さんは挑発するような瞳で
「スポーツと気晴らし」
 と見つめる。
「……え?」
 しばらく考えて、それが曲の名前だという事に気が付きます。
 そうか、私が知っているかどうか、試したんだわ。
 店員さんは笑って、何も言わずにYシャツのそでをまくったけれど
私には『やっぱりわからなかったね』という風に聞こえました。
 細い腕に、私は、たくさんのオレンジ色を見つけます。とたんに、
そこに近寄るのがイヤになります。
「おいで」
 と言われたけれど、いやですと答えました。
 あなたの腕が、嫌なのです。私の腕を見せられているようで。
「……おいで、」
 店員さんはもう一度、強く、静かに、コトバを発しました。
 私は、あぁ行かなくてはと思い、できるだけゆっくりと、ピアノに
向かって歩きます。
 もう、音はやんでいるのに。これは、雪の音?
 もう、私は病んでいるのに。それは、誰の傷?
「店員さん、」
「なに」
「キスしていいですか」
 彼はハッとした顔で、私の、髪を優しくつかんで引っ張りました。
「そんな顔、しないでください」
「僕も……、したかった」
 もう、私は病んでいるのに、これ以上どうして必要とされる必要が
あるのですか。
 やっぱり私の知らない曲を弾きながら、
「学校は?」
 と聞いてきたので私は、ピアノの音に負けない程度の声で
「風邪、ということになっています」
 つまり、サボりで、私は母親の声色で学校に電話をかけたのです。
 見ている楽譜は、とても大きい。後ろから覗くと、それは楽譜ではなく、
絵の具で色が何本も引かれているだけの、スケッチブック。
 私の視線に気付いた店員さんは
「音にも色があるからね」
 はかなく笑ってまた、ページをめくりました。
 店員さん、その腕は一体どんな音が出るのですか?
 そのオレンジ色は、私の赤い、色は。
 ……店員さんと居ると次から次へと疑問だけがわいて、そして、消え
ずに私は困る。
 こんなことになっただけで切ってしまったら、お笑いだわ。
 窓を少し開けて上を見る。
 雪はいつのまにか、雨にかわっていた。



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--Presentation by ko-ka--