戻る

【第14話】

◆『紺さんが言うならそうだ』は、第9話21Pで出ている言葉

◆にじり口は、武士が帯刀したままでは入れないような入口、かつ、姿勢を低くしなければ入れない、ということで「茶の席は、士農工商分け隔てない場所である」という意味合いで作られた。ちなみに作者はお茶会出席で過去数回にじり口から入ったが、毎回頭と腰を打つので個人的にはもう入りたくない。

◆謝らい(仙台弁)←→(標準語)謝りなさい(命令)

◆出来ねが? そべっこが?(仙台弁)←→(標準語)出来ないのか? 甘えん坊(お子ちゃま)なのか?

◆ただいるなまだら(仙台弁)←→(標準語)働きもしないで只そこに突っ立って居るだけの怠け者

【第13話】

◆烏崎山の頂上にアーク灯を設置したのは、書籍や言い伝えでは「電気技師がシャレでつけた」「工事関係者の思いつきで」「面白かったから」という風に伝わっている。今日まで残っている技師の名前は伊藤清次郎しかなく、また、伊藤の幼少期からのぶっとびエピソードの数々を拝読した結果、こいつが戦犯だと確信するに至った。ただ一応、個人的な考察だと山をはさんだ向こう側の水門からでも発電の様子を見えるようにして、水門開閉を指示したのではないかと考えている。

◆カーバイトは明治35年、三居沢で初めて国内製造された。電気よりむしろカーバイト功績のほうで伊藤清次郎の名前が挙がっている史書も多い。

◆伊藤清次郎は病弱で甘党。重箱につめたお菓子を持ち歩いていたのはなんと史実。

◆伊藤清次郎は優れた記憶力と洞察力があり、記憶力を駆使して晩年の口伝を小西利兵衛(11代目)が記した「電狸翁夜話」は現在でも往時の仙台を知る重要な書籍となっている。

◆国見家の複雑な構造は、先代の増改築によるもの。別邸に関してだけは千代のために重尚が建てた。

◆窓は釘打ち、引き戸は片側が開かずに反対側は開けた瞬間物がくずれ落ちるという事で、鍵が無いながらも疑似密室となった離れ。

【第12話】

◆形代(かたしろ)とは人間の厄を移す人形のこと。通常は人の形を模した紙を使い、厄を移して燃やし祓う。着物の合わせが右前(死者の向き)なのは、彼は厄の形代であり「影隠(かげおに)陰鬼」――この世のものではないと見なされているから。

◆どこの楼でも、まわし部屋がある二階の廊下に見張りの男(何かあれば駆けつける用心棒)を置いておく。楼によっては番頭が2人いて、一人は外の呼び込み&一人は二階の見張り、といった具合にしている。

◆イトーセジロー(伊藤清次郎)……前話冒頭で相澤に声をかけ、次話の前半で登場する予定の変人。

◆あんこたんねぇ(仙台弁)←→(標準語)脳無し。「頭」にルビを振ったが、実際は「あんこ=脳みそ」で、脳みそが足りないという罵倒の意味。

◆石垣の名前はチュータロウと読む。

◆遊女への折檻は、主に楼主が行った。吉原では女性監督者である「遣り手」が行う場合もあるが、仙台での同ポジションである「なかまりさん」は、皆の味方のお母さん的存在であったと文献から推測される。沙羅が折檻された言外の理由は、接客を放棄した事と客を他の遊女の本部屋に入れた事。そして、遊郭内で死者が出たら、その死者の持ち物は楼主・番頭・なかまりさんによる「分配」――貢献度による配布が行われるが、分配される前に玉藻の本部屋に侵入し金品を得ようとした疑いがある事の3点。

◆ケツ押し(尻を押す、つまり後押しするという意味)……悪事を働かせる場合にケツを叩く意味合いで使われる言葉だが、この場合は「独自の捜査に協力してやれ」という意味。

◆この時代はまだまだ土葬が主流だったが、娼妓だけは、化けて出ないように必ず100%火葬された。まだ人々が霊の存在を信じていた時代であった。

【第11話】

◆警察の制服は7月1日から夏服なのだが、何も模様がない白い服でつまらないので、衣替えは旧暦の7月1日からという設定にして黒い冬服のままにしている。

◆常盤の絵図については明治26年の測量図を入手したため正確に描けた。詳しくはこちらの下部で。

◆常盤のシステムはかなり現代のホステス・ホストクラブに似ている。吉原だと男女は疑似結婚であり鞍替えは認められていないため、一旦高い地位になれば盤石だ。しかし常盤ではそれがゆるかったようで、先月の売上如何で容易に花娼から脱落する。腕試しとして常盤に来た吉原娼妓もいたほど。

◆吉原では疑似結婚という性質上、客と遊女のマッチングは仲人がわりに「遣り手」と呼ばれる老女が担当した。常盤ではそれらは全て番頭が担当する。

◆1本2本は線香の事。1本は四半刻(約30分)。客との時間は線香が燃え尽きる長さで計測していた。嫌いな客の時は灰に深くぶっさし20分強にしたり、好きな客の時には倒して40分弱もたせたりと、娼妓の裁量で調節可能だった。

◆まわし部屋は掃除して何度も使うラブホの一室のような場所。幾度も通って情夫になると娼妓の私室である本部屋に通され一夜を過ごすこともあった。

◆酒やつまみは基本相場の3〜5倍、ときには10倍というぼったくり価格であった。

◆男が女に櫛を贈るという行為は、実質プロポーズ。結婚して苦死(くし)を共にしたい、また、共に一夜を超え、乱れ髪を櫛で整える朝まで一緒に居たいという意思表示。

【第10話】

◆大泉旅館亭主・大泉梅次郎は、闊達なアイディアマンであったと伝えられている。鉄道の利用価値にいち早く気づき、まだ建設前の段階で自分を担保に駅前の土地を確保し停車場支店を建てた。のちに洋風に改装して「仙台ホテル」と名を改める。大泉の表紙のキセルの持ち方は、博徒がよくする持ち方。これは停車場支店の逸話自体が大博打だと感じたため画に落とし込んだ。

◆当時の風呂はちょうど現代風呂に近い形に転換し、とはいえまだまだ天井は低めで、中身は暗め。タイルという存在はまだなく、四方は全部木でできている。水を逃がすために、床はすのこ的な構造になっている。先に髪や体を洗ってから入るのがマナー。そのため佐藤や紺の髪はすっかり濡れている。湯加減的にはけっこうかなり熱い。脱衣所と湯殿の仕切りは特になく、そのまま繋がっている。本当は堀りの湯舟だとパーフェクトだったが、大泉屋は巨大なので、一の湯&二の湯は堀りで、たぶん佐藤たちが入っているのは後から作られた三の湯とかなのだという言い訳を用意している。

◆江戸時代の吉原などでは、かさむ借金に年期など明けるわけもなく死んでいった話が大量に残っているが、意外と仙台はちゃんと1〜2年で出れた。ただし、年期が明ける前に親が追加の借金を頼んできたり、年期が明けて家帰ったあと再度親が借金をして廓入りし、結果的に遊郭の中で亡くなるというのは往々にしてあった。

◆常盤の娼妓たちが梅毒検査をしに行く日は決まっており、その日は人力車が列をなして病院まで向かった。娼妓たちも思い思いの服装で出たため、華やかなパレードのようだったと伝えられる。のちの宮町移転の際には、廓の中に病院がつくられたため、このパレードはなくなった。

◆集団検査日以外の外出には必ずなかまりさんが付き添った。下っ端は完全に外出禁止で、親が死んでも無理。外出できるのは花娼クラスの限られた人間のみで、記録によると、三味線など芸事習いや個人塾で勉強する際の外出が認められていた。

【第9話】

◆扉絵は国分町警察署。明治17年の絵地図には門柱表札「宮城懸警察署」と描かれてるが、この時期の宮城県はまだまだ伊達藩「城下町仙台+その他の宮城郡」といった意識が強かったと推測されるため、作中での名称は県警察本部ではなく「国分本署」としている。

◆巡査の津治良作は史実の人物。国分町時代から遊郭門前警備をしているのも史実で、娼妓が逃げ出さないように顔を覚える必要があった。勤勉で優秀な警官に贈られる賞を授与された記録もある。

◆戸籍がない娼妓についての火葬の手続きは当時の書籍に記事があったため参考にした。戸籍の制度は明治8年に施行されたが、十数年の年月を経ても戸籍申請しない人間は多かった。面倒・文字が書けない・役所の場所が遠い・申請を頼める伝手がない、などの理由からである。

◆娼妓の価格設定は基本的には一律だが、玉藻(花娼)の価格設定はかなり跳ね上がっている。参考までに江戸時代の吉原花魁ではまず指名料が10万円、一晩は100万円、プラスして宴会代金、楼主および介添え遊女へのご祝儀などで50〜100万円、合計200万円ほど。

◆剣徳流は、愛宕赤星(古上武徳)が創始した捕手術を表芸とする総合武術の流派である。「剣術・捕手(体術)・槍術・薙刀術・鎌・棒術・捕縄術」の7つがあり、それぞれの修行が厳しすぎることで有名。例をだすと、例えば体術では後ろに倒れた際の受け身を頭ひとつで取る(頭の固さと首の強固な筋肉が必要)とかそういうレベル。

◆仙台箪笥はもともと武士くずれ(野牢人)の刀入れ箪笥という意味で「野郎箪笥」と呼ばれていた。現時点(明治21年時点)では飾りは控えめで、ここからゴテゴテと豪華になっていく。

◆鏡面仕上げは手触りをツルツルに仕上げること。木地呂塗りは、木の木目が見えるような透明感ある塗りで、漆塗りの中でも工程が大変。

◆見知らぬ仙台箪笥を順序良く閉めきるには、順序の理解に15〜30分の時間を要する。

【第8話】

◆祓へ給ひ清め給へとは、祓詞の中の一節。祭儀の最初に読まれる基本的な言葉。

◆柏手は打つときに手の平を少しだけずらす。しっかり打ったときは、ポーンポーンと高くて大きい音が響く。

◆つけすごとして→突っ返ぇす事して(仙台弁)→(標準語)言い返すようなことをして。鳩が佐藤について再三注意していたにもかかわらず、紺がろくに取り合わなかったため出た言葉。

◆使用人・書生用別館は二階建ての洋風建築。ただし中身は、廊下までが洋風の板張りで、部屋の中は畳。一階が男部屋・二階が女部屋と別かれている。

◆ベッドは相澤のみが使用している。他の使用人らは布団を使っているという設定。ベッドの参考は陸軍で使われていた実際の物。

◆相澤が佐藤に盛った薬は「抱水クロラール」。水にすぐ溶けるため湿気をさけて保管する。不眠症の薬として使われていた。鼻をつく刺激臭と飲んだ時の苦みをコーヒーで誤魔化しているが、本来はカフェイン含有のコーヒーと一緒に飲むのはNG。

【第7話】

◆こんやろっこ→この野郎っ子(仙台弁)→(標準語)このお子ちゃまくん。宮城以北では小さくて可愛らしいものに対して語尾に「こ」をつける。

◆遊郭の1店舗に努める女全員を貸し切って遊ぶ「総揚げ」は、そこそこの頻度であった。軍人らが大勢で来て店を貸切るのも一応「総揚げ」だが、1人ないし2・3人でパーっと金を使って遊ぶ事こそ「総揚げ」――男のロマンであった。文献によると、とある男2人組が総揚げして遊んだ時の金額は40円(現在の約130万円)ほどであった。

◆キセルの吸い殻は、陶器製の巨大な灰皿、もしくは煙管一式が入った灰箱のフタの、鉄で囲んだ凹みに落とす。本当は、キセルで吸う時点で灰箱ごと隣にあるハズなのだが、演出上やむなく紺に持って来させた。

◆お客全員に酌をして、お客が帰る際には(当主のかわりに)玄関まで見送る、というのは本家長男の絶対的な仕事。これは作者の実家がそうだったから、明治時代もたぶん同じだろうと考えて描いた。

◆予告なしの試験点灯に、八幡近辺の住人たちが狐火だと騒ぎ巡査が出る事態となったことは史実。不慣れな水力発電だったため、水の勢いが一定ではなく、まるで狐火のように揺らめいた。これが、日本国内で一番最初の水力発電であった。

【第6話】

◆Parce que tu es mon oeuf d'or(フランス語)→(日本語)お前は俺の金の卵だからな

◆仙台七夕祭りの始まりは、常盤遊郭の夏祭り。吹き流しの飾りは、娼妓たちが昼の暇な時に手作りして様々な願いを込めたといわれている。

◆ばくされ(仙台弁)→(標準語)婆腐れ、女を罵倒するときの言葉

◆はだぎづげっと(仙台弁)→(標準語)叩きつけるぞ

◆南町の新餅屋は、明治2年の創業から百年続いたという記録はあるが、その後の記録はなし。作者の調べた範囲では現在経営が確認できていない。名物の御汁粉をもとめて門前市ができるほどの超人気店だった。作中では器はお椀だが、価格からしておそらくどんぶりだったと思う。

◆身請けは年期にもよるが基本的には10〜30円。現在の貨幣価値で約30万〜100万円。現在の価値感覚ではだいたい100万円〜300万円といったところ。

◆廃娼論については、仙台でも度々新聞に言論が掲載されていた。

◆上善若水(じょんぜんはみずのごとし)……理想の生き方とは水のようなものであるという「老子」の一節。

◆この時代、現代風ネクタイはあまり普及しておらず、洋装のタイは基本的に蝶ネクタイだった。でも直すのが面倒くさいので、笑って許してください。

◆五つ紋とは、着物に五か所家紋を染め出した第一公式の礼服。ちなみに国見家の家紋は八幡様に所縁のある「三つ巴」の設定。

【第5話】

◆時期の旬はカレイやイワシ。カレイについては、宮城は365日なにかの種類のカレイがあがるため、よく食卓にのぼる。

◆西口の「仙台朝市」は戦後の闇市から始まった。こちらの明治時代の市は、基本的に日曜日に行われる所謂持ち寄りの青空市。

◆仙台常盤型染めは、模様が描かれた型を使って、まるで絞りのような模様に染めることができる。現在では廃れた技術。

◆工場の駆動部である特注のタービンは、工場建設時、運んでいる最中に牛越橋から落としてしまったことがある。なかなか引き上げられず、しばらく広瀬川で寝ていた。

◆「電灯器設創予算」の発起人は、菅克復(紡績会社社長)・遠藤作兵衛(副社長)・佐藤助五郎(のちの仙台銀行創設者)・山崎勇馬(元宮城郡主席書記)・鈴木太郎(株主総代)。

◆提示された電灯器の予算には、渋澤栄一の叔父である第一銀行尾高惇忠仙台支店長が関わっている。ちなみに仙台にある七十七銀行も渋澤栄一と関りがあったりする。

◆この時の日本銀行総裁・富田鉄之助は、仙台出身。

◆東京では明治19年に、現在の東京電力にあたる電気事業会社ができ、明治20年に各戸への送電を開始したばかりであったため、いわば試験中。「前途いかなる障害の生ずるかまだ分からない」と富田は時期尚早だと断言した。

◆常盤町は明治11年9月に完成した。それまでは国分町に貸座敷が点在していたが、このような店が市街地の真ん中にあるのは不当であるという声が高まり、一か所に集めて廓とした。移転当時は西側に大店6軒、東側に小店9軒の計15軒が一廓を成した。

◆銀華楼の建物のモデルは南幸楼。3階建てで、3階部分には橋がかけられており、豪華絢爛な吉原風の店であった。

◆なぬすた(仙台弁)→(標準語)何した

◆史料によると花代は1円十銭であった。(現在の貨幣価値で約3万円)作中では分割して基本料金1円&指名料十銭からとした。

◆楼の中には「まわし部屋」と「本部屋」がある。まわし部屋は純粋にお客専用の部屋で、掃除して何度も使う。本部屋は娼妓の自室。常連になり情夫となると、本部屋に通して泊めることもあった。

【第4話】

◆十符(とふ)というのは細長い葉で、乾くと独特のまだら模様が浮き出る(らしい)。これを編んで様々な工芸品を売っていた。現在では生産されていない。

◆矢白鳩については、当初性別不明で「神官の格好→勾当台鳩男」「巫女の格好→矢白鳩子」と名乗るという設定だったが、蛇足だと感じて「女装神官・矢白鳩」という設定に変更した。

◆いぎなりがおるわ(仙台弁)→(標準語)マジでテンションだだ下がり

◆〜〜ちゃや!(仙台弁)→(標準語)〜〜だろうが!

◆初代藩主伊達政宗公が指揮をとり建造された神社と城6か所は、直線をひくと仙台を囲むように六芒星の形となる。八幡様も主要神社のひとつ。

◆まれびと(客人)とはもともと来訪神のこと。旅人も神と同じように歓待するようになったことから、異邦の旅人を指す言葉として定着した。

◆赤ちゃんを斜めに切った樽に入れるのは、明治時代の風習ではなく作者の実家の習慣。なぜ実家でそうしていたのかは今をもってして謎である。

◆ファイブ・ウェイ・ポジショニング戦略は、星野リゾートで有名な星野佳路社長が実践している商売戦略。

【第3話】

◆夏越しの大祓は1年の半分が過ぎた6月30日に、年越しの大祓は12月31日に行う。現代では年越しの方しか知らない人が多いが、実は現代でも6月30日に祓をやっている神社は多い。

◆菅克復は常に紋付袴の格好で、古武士のような風貌であったと伝えられる。紋が確定できなかったため「管」姓で一般的な梅の紋にした。

◆ミュール紡績機は非常に高価であった。作者が計算したところ、現在の価値でいうと1台1億五千万円くらい。計算違いじゃないかなと目を疑った。計算違いかも知れない。

◆宮城紡績会社建設にあたって出資した地主についての名簿資料はないが、数十名にのぼったとみられる。

◆牛越橋は当時木組みで高さのある橋であった。現代ではそんなに高さはない。橋の下の牛越緑地は毎年芋煮やバーベキューをする人々で賑わっている。

◆宮城紡績会社の建物は外観が一枚絵で残されている。左側には地下から広瀬川に排水するための堀があった。

◆宮城紡績会社の跡地は現在、バスの営業所となっている。柵の所にある松が、一本だけ現在でも残されている。

◆ミュール紡績機は当時千錘が稼働していた。本当は当初2千錘までそろえたが、故障が相次ぎどんどん少なくなっていた。修理できる技術者がいなかったためである。

◆当時はまだ、現代のカフェと同じようなシステムや概念はなかった。現代で言うネットカフェに似たシステムの可否茶館は、料金の高さなども相まって5年もたたずに潰れてしまった。

◆書生という言葉は、寄宿の貧乏学生のほか、住み込みで働きつつ独立の勉強をしている人間も指した。

◆コッペパンは明治時代に唯一パンを製造販売していた鍛冶町の「蛸屋」から仕入れているという設定。

◆こンてほ語り野郎が!おだづなよっ(仙台弁)→(標準語)この嘘つき野郎が!調子こくなよ!

【第2話】

◆国見別邸の大きさや窓の参考は、現存する宮城県榴ヶ岡公園内・旧歩兵第四連隊兵舎。

◆当時の内閣府は黒田内閣、大日本帝国憲法を制定するために、様々な物事の是非が問われている時代であった。

◆時を同じくして婦人運動が盛り上がりをみせ、女性の社会進出の波は仙台にまで及んでいた。

◆旧制第二高等学校は、作中では説明を省いたが、史実では一高・三高・山口高等中学校に次ぐ第四番目の設立であった。

◆「若者組」とは現代でいう青年会と消防団を合わせたものであり、地域に住む40歳までの男衆で構成された。

◆閨中の接待については、身内の未婚女性が行うのが常識であった。また、基本的に常盤の女性は外出禁止で、玉藻だけが特殊な例。

◆当時は、童貞で結婚する事は珍しくなかった。性病に対する薬は乏しく、死に至る病でもあったことから「童貞=性病の危険がない」という事で安心して子供を作ることができたため。

【第1話】

◆「かつては馬車で三泊四日」のくだりは、五泊六日と書かれている書籍もある。これは、徐々に鉄道を延ばしていったためと思われる。

◆和菓子店「玉澤」は現在、のれん分けをした2店舗がある。この漫画内に描かれているほうの玉澤は「九重本舗玉澤」で、九重や霜柱が有名。

◆当時のずんだ餅は、餅の上にずんだ餡をぽってり乗せるタイプが主流であった。作者が直前にさいちのおはぎを食べたためにこうなってしまった。

◆仙台四郎については諸説あり、必ずしも作中の話と同一ではない。

◆和菓子店「賣茶翁」は、現代では珍しい電話番号非公開の店。明治時代と同じように、当日足で来て買ってくださいというコンセプトで今も営業している。

◆現在、仙台城大手門復元の話が浮上している。十年後くらいにはこの漫画と同じような大手門が登場するかも知れない。

◆百貨店「藤崎」の屋上には恵比寿さんをまつっている小さな神社がある。藤崎の前身の「得可主屋(えびすや)」からきているものと思われる。

◆松原街道はその名の通り、街道沿いに松の木が植えられていた。

◆国見家の場所は現在の仙台市青葉区国見二丁目。史実では全く開拓されておらず、森と大きめの沼だけがあった。

戻る

【コメント】

 〒見る