Act.1 山奥で
今日は満月のハズなのに、木と雲と闇に囲まれ、その姿は見えない。
ボクはキミの手を引いて、枯れ木と枯れ草と小枝の絨毯を走っていた。
手っ取り早く言うと、逃げていた。
何から?
あいつらから。
キミを見つけたのは実験棟Aの、とある部屋。
ボクは、ハカセの手伝い兼世話役で組織から雇われている。いや、脱走したのだからもぉ「雇われていた」と言った方がイイ。
雇われた時点で、ボクはこの「三浦山機関」という組織が、そういう…遺伝子操作による人体実験をしているというコト…を知らなかった。
知らなかったので、余計な好奇心と冒険心で、ボクは実験棟Aを隅々まで探検した。実験棟Aはハカセの管轄なので、至極自由に歩き回れた。
そしてソコに、キミが居た。
鎖に両手首をまかれ、全裸で立つキミ。
体中の切りキズと、その虚ろな瞳が、ボクの心に焼き付いて離れなかった。
しばらく見とれていると、かすれた声で、キミは言った。
「…見ないで」
ボクは、キミのすべてを見た。
そして、キミの髪に触れた。
「キレェだ」
と、正直な感想を言った。
瞬間、繋がった気がしたのは、ボクだけかい?
いや、キミもだったに違いない。
キミに出逢って十日目の今日、逃げる手配をして、今に至る。
この森を抜ければ、確か県道がある。六五一だったかな。実験棟に来るとき通った道路。
そう説明した後に、
「逃げよう」
とボクは言った。
差し出した、雑務に汚れたボクの手を、キミはやさしく包んでくれた。
鎖の音とともに。
君にあげたのは、ボクのYシャツと、白衣と、靴。
キミはゆっくりそれらを身につけ、ボクに手を差し出した。
ボクは、笑った。
手をつないで、走り出した。
警備は、手薄だった。
幸運だと思った。
幸福だと思った。
だから今、走っている。
真っ直ぐに、木々をよけて。
でも実際、いくら走っても県道など見えてこないし、キミは大丈夫そうだけれど、ボクの体は疲労感を訴えていた。
「休もうか?」
ボクはキミに聞いた。
いや、一応聞いただけで、ボクはその場にしゃがみこんだ。
だらしないな…。
まだまだ走らなければ、いけないのに。
ボクはため息をついた。
「…はぁ…っ」
ボクの口から出たその息は、とてもとても白くて、一瞬ボクは、妖精が出たのかと思った。
と。
――パン。
「…ぇ…?」
ボクの横を、風が通り過ぎた。
キミが倒れこむ。
スローモーションで。
振り向く。
「逃亡ごっこは…終わりだ」
低い声。
ボクは瞳の奥に、ハカセの姿をとらえた。
「…ハカセ」
「サタケ。君には失望したよ」
ハカセはククッと、笑い声をもらした。
「君がこんなに馬鹿だったとは思わなかったよ」
バカ?
ボクの体は怒りに震えた。
バカだって? それはこっちのセリフだ!
「人間を…こんな風に扱うなんて…ッ! あなたは狂っている!」
一拍の、間。
「…ほう?」
ハカセは肩を揺らした。
「その化け物をかばうのかい? 狂っているのは…サタケ。君の方じゃぁないかい」
アアァァァアァァァッ!
「!」
ハカセの声に反応したようにキミは、叫び声を上げてその姿を異形のモノへと変化させた。
虚ろだった瞳は、漆黒に映えるサファイアのようで、切りキズだらけの腕には毛が生え、キレェだと思った唇からは牙が何本も伸びて、そして、そして、そしてそしてそして…!
―コレは、何だ?
クワァァアァァアアッツ!
何だ? 何だ?
人間じゃない…。コレは…「コレ」は…ッ!
「解ったかい、サタケ」
ハカセの後ろに満月が顔を覗かせた。
一瞬。
ほんの、一瞬ダケ。
「狂っているのは」
そしてスグに消えた、鮮やかな金色の満月。
奇怪な音を出しつづけている、キミ。
「サタケ、君の方だよ?」
アァァァアァァァァッッッツ!
「ぅ…あ…ぁ……」
ボクは、涙を、流した。
四つん這いになって、土を掻き分ける。
ボクは、何を、しているンだ?
涙が、止まらない。
震える。
ボクは。
キミから、逃げようと、している。
逃げようと!
ボクは、ボクは…あぁ!
「サタケ」
いつの間にか、ハカセがボクの目の前に居た。
差し出された手も、気がつかなかった。
「…仕様がないね」
ハカセは「よっ」とつぶやいて、ボクの手を引っ張った。
瞬間、ふわっと、何かが抜け落ちた。
「このままでは、県道に被害が及ぶな」
「……ハイ」
ボクは呆然としたまま、答えた。
そうか、もぉ近くまで来ていたのか。
ボクは訳もなく納得した。
県道を照らす灯りも、車の音も、何も、ないのに。
「殺すか」
「……コロス……」
ハカセの手には、まだ、銃が、握られている。
「いいのか? サタケ」
…イイノカ?
ボクは、呆けた顔で、頷いた。
何もかも、夢のように。
無声映画のように。
そうだ、コレは、現実じゃナイんだ。
ゲンジツジャナインダ。
再び銃声が響くと、頭を砕かれたのだろう。キミは大きくのけぞった。そして、しばらくそのままで、やがて、鈍い音をたてて、キミは、倒れた。
やけに、鈍い、音を、立てて。
――コレはユメ?
いや…ゲンジツ…だ。
ボクはフラフラとキミに近づき、キミの髪を、触った。
キミは、人間だった。
にんげん。ニンゲン。人間。
「どうして…?」
ハカセ、聞きたい。
「どうしてこんなコトを、するンですか……」
「……サァ、どうしてかな……」
初老の男は、煙草に火を点けた。二・三回吸うと、ソレを君の傍に置き、彼はボクに背を向けた。
「…そぉいえば何年か前、キミと同じコトを言って組織を脱退した男が居たな…その男は、キミと同じ名字だったよ。サタケ。今、思い出した」
ハカセの置いた煙草は、まるでキミへの、弔いの線香のようだった。
「気が済んだら、戻って来なさい」
「………」
ハカセは立ち去った。
煙草を一つ、残したままで。
「……あぁ、」
ボクが戻ると思っているの?
疑問はボクの奥にこびりついて、ソレは苦々しいため息に変換させられた。
「満月…見えないな…」
キミの姿も闇に溶けそうで、無意識のうちにボクは、キミの在処をさがした。
……トン。
居る。
キミは、ボクは、ボクらは、確かにココに居る。
今この瞬間。忘れない。
その存在が、ちっぽけな…たとえ忘却の彼方に置き忘れるようなモノでも、土に還ると決められた運命だったとしても…そうだ。ボクは、ボクだけは、キミを覚えていよう。
涙があふれて止まらなかった。
そして。
ボクは、キミに、キスを、した。
髪に、瞳に、唇に、乳首に。
キミの、胸を、さわった。
思いきり、抱きしめた。
嗚咽を、ため息と一緒に、吐き出した。
キミの、中に、入った。
泣きながら、動いた。
射精した。
瞳にキスを、十回ぐらい。
とろけるコトバを、百回ぐらい。
満月の光はついにキミを照らすコトなく、ボクは、何度も、何度も、キミの中に精を放った。
三日か、その後には死んでしまう、儚い命の源を。
この日を一生覚えていよう。
ボクは勝手に、そう決めた。
ね?
いいでしょ? ……愛してる。
キミは無言でボクを受け入れた。
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