星屑のドアマン















 まだ。
 夢の中にいて。

 うっとりとまぶたのふちを動かした、消防車のサイレンが遠くに置かれる、気だるい、7階の午後。

 越したばかりの綺麗なフローリングに体を投げ出していた僕は、ひかえめに開けられたドアへと首をかたむける。新しい風は細く運ばれ、肌の手前で停滞している。
 帰ってきたんだ。
 丁度よく体温とリンクした床から、できれば一生離れたくはないけれど、手をひたいにあて笑う。
「なんだ、早かったね……」
 とたん、あざやかなオレンジのタイが目にとびこんで、僕はおどろき、不用意に焦点を合わせてしまった。体躯の良い青年が、いぶかしげに見下ろしている――。

 青年、というには少し年がいっているかも知れない。28か、29か。ザックリと切られた黒髪は清潔で、薄青のYシャツには糊がきいている。ぼんやりとした頭の膜で、僕は、この男に好感をもった。
「エットー。起きた?」
 ジューリの声。
 風がふく。

 そういえば窓も開けっぱなしだった。カーテンをちらりと確認すると鳥が、一羽。ななめに横切った。
 見下ろしたまま微動だにしない男の首にからんだのは、真っ赤に塗られた長い爪。ジューリの、最近のお気に入りなのは知っている。
 相当慣れているのか、本当に動かない青年のタイは手際よく後ろから外され、まるでシロップのように全てをすりぬけると、僕の顔にそうっとかかった。
 思わず閉じる。
 まぶたの向こうが金から茶に光りかかり、そのあとは。

「っ、ん……」

 有無をいわさず顎をつかまれ、ジューリの瑞々しい唇が、軽く甘くただいまを触れ続ける。

 キス。
 いつものことだ、感動もない。

 抵抗しない僕に満足したのかサッと放され、
「ナナイ。この子がさっき言っていたエットー。だらしなくて可愛い子でしょ? 起きて。ねぇ、エットーってば」
「……もう起きてる、キスしただろ」
 こんなに早く帰ってくるとは思わなかったよ、と、言いかけてやめた。
 ジューリはどんな事でも素早く決断してしまう性格だったし、それに、わかっていながら寝ていたのは僕だ。

 首をふり、起き上がる。
 第一印象がこんなになったことを、少しだけ、後悔した。僕はシロップを握りながら夢うつつに会釈し、彼は「初めまして」と笑った。
 その眼に疑問が浮かんでいることを一つも、隠さないまま。
 指の腹で乱暴に唇をぬぐった。鼻の下ではまだ、ジューリのシトラスが香っていて、そのたびに、どうしようもなく孤独な気分になることを高い声だけが気づいていない。



1



 寄せ、立てかけてあった白のテーブルを中央に置く。冷蔵庫からは手当たりしだいにジュースやシャンパンが飛び出し、クロスがかけられた四角の中に、これも適当に配置される。買い物袋は一階のコンビニのマーク。それも、行き当たりばったりカゴに放り込んだとみえて、テーマが統一されていない弁当やらお菓子やらが、乱雑に並べられた。
 ジューリが動くたび、ストッキングは激しく右左にゆれる。
 その肌を横目でうかがいながら、僕はナナイに自己紹介をしなければならなかった。
 とはいっても

「初めまして、ナナイ。僕はエットー。よろしく」
 これ位しか話すことはない。
 ナナイも似たようなものだ。けれど、目の前の青年からは、話していなくとも気まずさを感じることはない。
 僕は早いうちに、彼もおそらく孤独に住む人なのだろうと結論を出した。

 ジューリの選ぶ人間はほとんどがそうだー…。

 昼食が済むと、僕はそそくさと全てを片付け――とはいっても、台所に持っていくだけなのだけれど――何もなくなったフローリングにゆっくりと頬をあてた。
 目を閉じる。
 冷たい感覚が全身にひろがる。
 ジューリは「この子はいつもこうなの、気にしないで」と熱っぽくナナイの腕をとり、部屋を案内しはじめた。カーテンがゆれ続ける。

 ぼくらは1年か、早ければ半年で住居をかえていた。ここに越してきたのはつい3日前で、まだフローリングは、僕という存在を値踏みしている最中だった。一応僕の部屋もある。荷物は、ノートPCと数点のシャツを残して、梱包されたまま置かれている。
 どこに住んでいてもできる仕事だった。
 ジューリは劇団に所属していて、時々踊ったり歌ったり。僕は文章を書いていて、時々雑誌に載ったり載らなかったりした。
 ドアマン制度を提案したのは、引っ越す前の部屋でのことだった。僕もジューリも、誰かが訪ねてきたとき、ドアを自分から開けるという習慣がない。
 雑誌の編集者、僕の担当であるユキさんが、まったくあなたの部屋はいつ来ても居留守ね、と皮肉めいた顔で言ったとき、タイミングの悪いことにジューリとはち合わせてしまったのだ。

「……これは、ドアを開ける専門のバイトが必要だわ」

 ドアマンを探してくる、と、ジューリが出て行ったのは、まだ日ものぼらない朝の事だった。
 古びたダンボールの浮浪者から選んできたのか、知り合いのツテで探してきたのかは知らない。
 とにかく、彼。ドアマン・ナナイは、この部屋で一緒に暮らすこととなった。
「夏が終わるまで、」
 ナナイはそう締めくくり、体躯に似合わない丁寧さで礼を。
 彼は、冬になると本格的に仕事が始まるらしい。それまでの共同生活。
 かまわないとぼくらは口々に言い、ドアを開けてくれるだけで本当に助かる、とも付け加えた。

 ジューリはフローリングをダンスフロアにして踊っている。狂ったシャーマンのように、手を上げ下げして歩き回っては、時々止まり、後ずさる。
 鼻歌は、Gotyeの「Hearts a Mess」だろう。
 両手を放つようになげつけたジューリのキスを、僕とナナイは、部屋の隅にかろうじて置かれているソファに腰を掛けて受け止めた。

 風だ。
 生暖かくて湿った、都会の風。

 ブルーのカーテンがゆれ、その瞬間、夏はゆるぎなく鎮座した。


























 とはいっても、3人が一堂に会するということはほとんどなかった。

 ナナイは別な仕事の都合で、不定期に出かけていったし、ジューリの仕事は夜こそ本番で、ナナイが帰ってきたと同時に出て行く。僕はたいていフローリングに寝たまま、気が向いたときにソファの横からノートパソコンをひっぱりだす、という毎日だった。冷蔵庫から持ち出した缶ビールを少しだけ舐め、頭に浮かんだ文字を書き付けていく。

 ちいさくて白い、ツルリとした冷蔵庫のドリンクは、ジューリの気が向いたときにだけ缶ビールから子供用シャンパン、ジンやチンザノロッソに変わった。
 食事を作るのはもっぱらジューリで、ある夕方の奥、魔女のような赤い爪が実は付け爪だということに、ナナイは感嘆の声をあげた。そんな彼はというと、暇なのか仕事のつもりなのか、朝の涼しい時間帯によく部屋の掃除をする。
 僕はしぶしぶソファの上に避難するけれど、そのうち仕方がなくなって、洗濯機のスイッチを入れに立つ。
 自分の部屋で寝ていたジューリが、楽しそうな音がすると言って出てくる。3人で遊びましょうと張り切るけれど、ものの数分でソファを占拠し、寝息をたてるのはいつものことだった。

 今年一番の熱帯夜になるだろうと天気予報が告げた夜。
 パソコンの画面に、おおいかぶさるようにナナイが。あわてて画面を閉じる。
「何書いてるのか、ずっと気になってた」



2



 ナナイも最初の態度と比べ、ずいぶんとくだけている。自分はソファで十分だなどと遠慮していたけれど、今ではジューリと同じ部屋で寝る。それは恋仲などではなく、単に、貸していた僕の部屋が落ち着かないというだけの理由だった。生活リズムが違うため、同じ部屋を使っていても寝る時は1人だ。
 さすがに暑くて眠れないらしい。
 外された僕のヘッドホンからは、シューマンの「予言の鳥」が、ボソボソと流れ続けている。
「……面白くないよ」
「みんなそういうんだ。それで、本当に面白くない場合が大半で、面白い話が10%ってところだろ」
 皮肉にやられ、白状するしかない。

「女の裸体にペンキを塗っていく男の話」

「ピンクか」
「歌詞だよ」

 ナナイは驚いたようだった。僕はただの制作者で、歌うのは別な人間だ。長くして、あとから削ってチョイスするほうが楽でいい。
「もちろん、どこかの雑誌に載せることもある……、一番最初の客人だよ。ドアマン?」
 そこまで言って、ナナイははっとした。
 ナナイが最初にドアを開けたのは、編集者のユキさんだった。
 僕はユキさんの、僕を見る……舐めるような視線がたまらなくいやだったし、データはメイルで送れる時代だというのに、メモリカードをちらつかせながら幾度となく部屋に通ってくるところもいやだった。

 ナナイを見た時の、ユキさんの表情といったらなかったな。
 ナナイにはあらかじめ頼んで、ユキさんが帰るまでずっとリビングのはじに、座っていてもらったのだ。

 暑い暑いとぼやきつつ、ナナイがジューリの部屋に戻ったのをきっかけに、僕は閉じたままのノートパソコンをじっと眺めた。
 言葉の羅列。
 まだ何色のペンキにするか、そういえば決めていなかった。

 何色を……。

 意を決して振り向いた。

 誰もいない、暗く冷えているフローリングの中央を、午後三時の明るさに戻してやる。カーテンも窓ガラスも、光をあびてまぶしいくらいにうるさい。
 そこへ。

 ジューリを立たせた。

 だらしない気をつけの姿勢。マネキンのように何も言わない。動かない。夏色のワンピースは、初めて給料をもらったとき無理やり買わされたものだった。
 ふらふらと、近寄って。
 背中のジッパーをゆっくりおろしていく。ジ、ジジ、ジ、ィ。肌色が、いつも風呂上りにちらりと見る腕よりも白い、肌が、服が、めくれてあらわになる。ブラジャーはつけていない。開いたジッパーと肌のすきまに両手を入れ、そうっと押し広げる。それから前にまわり、肩からはずした。わきの下から体のラインをなぞるだけで服は、スルリと布に変わった。まるで、水溜りの波紋のように落としたまま僕は続けて、赤い下着に手をかける。少し力を入れて広げ、勢いよくさげると、裏返しになりながらも足首まで下がった。太ももは、ダンスレッスンのおかげで筋肉が目に見えるほどついている。膝にすこしだけ唇をつけ、夢の延長として立ち上がった。
 窓の前に、ペンキが置かれている。
 数種類の色が描かれている缶たち、黄色のバケツ、真新しいハケ。

 何色を……。
 ふいに、まぶたにかけられたシロップを思い出した。

 缶のなかから、黄色と赤、そして白のペンキを選び出す。



3



 ハケの柄でフタを押し開け、適当な量をバケツに流し入れて掻き混ぜていく。
 ナナイのネクタイには程遠い、淡いオレンジ色ができあがった。

 バケツを持ち、ジューリの足元に座る。トロリとしたハケでそうっと爪をなぞると、そこからはもう歯止めがきかなくなった。

 何も考えず、夢中で重ねていく。
 オレンジがしたたりおちる。

 足首からふくらはぎ、太もも……腰骨、へそ、肋骨のくぼみ、背骨の美しいライン、ゆびさき、てのひら、細い腕、両わきから肩、鎖骨へとまわる。僕は息をきらしていた。片手にハケを、もう片方には黄色のバケツを持って、フローリングはしびれる甘い匂いで満たされた、目が合わない。こんなに近くにいるのに、どうして――。
 肩をつかみ、ゆっくりと押し倒した。
 べっとりとペンキがついた手で頬を包み、音をたてて軽くキスをすると、そのまま舌で歯を探り当て、こじ開けた。
 男も女も死んでいた、欲したからにほかならなかった。永遠に続く愛というオブジェを。そんなものは、この世のどこにもない。わかっているんだ。わかっているからこそ。
 バケツに残っていたオレンジを床へ。
 斜めに傾けるとあっという間にあふれ、座っている僕ごと、トロトロに混ざり合ってカーテンからそそぐ熱射光は、空気ごとゆらいで、なみだがでてきた。ほんとうはこんなんじゃなかった。ほんとうは、ジューリじゃなかった。ほんとうはこれは、ここは、ちがう! ほんとうは。ほんとうはクルカが、

「――ッ……エットー!」

 激しくゆさぶられて目が覚めた。
 青白い顔をしたナナイがそこにいて、熱は消え、ここは夜で、僕はいつのまにかふるえていた。うわごとのように「ごめん」「なんでもない」を繰り返し、目が触れた瞬間。

 ナナイの指に顎をすくわれた。

 向き合う唇が、夢が、ゆれて侵食する。


























 ジューリがテレビを見たいと言いだした。
「世間とのズレを認めたうえ、しかもその溝を埋めようなんてずいぶん殊勝な心がけだね……」
 ぐったりとソファに横たわったまま軽口を叩くと、ジューリは「夏ばての対処も知らないのは、昼のタメになる番組を見ないからよ」とナナイに同意を求めた。

 本から目を離さないまま頷く青年は、まるで、昨夜のキスを忘れたように涼しげだ。
 もしくはあれは、本当に僕の夢なのかも知れない。

「行ってきて! ちいさくて、片手で持てるようなテレビよ!」
 共同で使っているサイフを頭に投げつけられ、だるい体を無理に起こした。
 ぼたぼたと足をひきずるように自分の部屋へ行き、積まれたままの段ボールを眺める……たぶん、コレだ。一番上の箱。
 検討をつけて開けると、予想通り僕のスニーカーが入っていた。

 丁度外に出るところだったというナナイに道案内を頼み、近場の駅から数駅ほど離れた電気街へ行くこととした。一ヶ月近く外に出ていなかったけれど、特に、世界は、劇的に変わったわけじゃあない。
 雑踏は相変わらず不規則なリズムを刻んでいたし、しいていうなら、この町に来たとき改装中だった駅の壁面に、巨大な電光掲示板がかけられていたくらいだった。
 道中。
 よく引っ越すくせに、とか、NHKの人が来て困る、とか、テレビはかさばるだけなのに、とグチのように――実際グチだ――ナナイにこぼすと、彼は、まかせておけと胸をはった。
 電気街の改札から、先陣をきって歩き出す。
 着いたのは携帯ショップで、なるほど、今時の携帯電話はテレビも見れるらしい。

 簡易仕切りのついた椅子に座らされ、書類を記入していく。ナナイはしばらく他の新作をひやかして歩いていたが、飽きたらしく、こちらに来た気配がしたと思うと、僕の真横から書類をのぞいた。
 とたん。
「――えっ?」
 存外大きな声に驚いてナナイを見ると、彼はさっと顔をあげ、いぶかしげにこちらを観察しているショップ店員に、愛想笑いをふりまいた。
 僕も向き直り、少し笑って首をかしげる。
 伝えるメッセージはこうだ――変な人なんです、気にしないでください。

 制服を着た女性は事務的な顔に戻り、僕の手元を見てから目線をあげた。
「免許証か保険証はお持ちですか?」
 免許がないため保険証を渡す。
 コピーのため店員が席を外したのを見計らって、僕は大げさに振り向いた。書類にはまだ名前しか書いていない。でもきっと、驚くには十分だった。
 わかっていながら、これは。
 笑いそうだ。

「どうしたの、ナナイ」
「ジューリ……エットウ?」

 名前欄にはこう書かれている。
 十里越冬。

 フリガナ、ジュウリエットウ。

「最初から言ってるだろ、きょうだいだよ。双子の。男と女の、双子」
「ジューリは……」

「ジューリは名前が嫌いなんだ、いいんだよ。苗字で」
 僕ももう何年もジューリを名前で呼んでいないし、あいつは絶対にこういう事をしない。苗字の次には名前を書くからだ。引越しの手続きも役所の面倒ごとも、全部僕に投げつける。それも、サイフごと。
 そう説明した直後に店員が戻ってきた。
 テーブルに目を向ける。
 視界のはしには困惑した顔の青年が立っていて、オレンジのタイが微かにゆれた。

 夢がちらつく。

 そのうち、あの白い昼。倒されたジューリのカラダが熱をもって、オレンジは蜃気楼のように、唇のやわらかさ、反射する罪の意識、ほんとうはこれはジューリじゃなくて。違うんだ、夏が、熱が。頭の奥でゆらいで――、ダメだ。ここは外で、僕は今、フローリングの床じゃない……。
 ふれそうになる心をどうにかおさえて書類を書き終えると、そこからは時間があっという間に飛んだ。



4



 どう帰ったのか覚えていない。
 気がつくとソファの上で、窓の外は夕闇。携帯を手に踊るジューリと床に座っているナナイ。流れているのはレディオヘッドの「Paranoid Android」だった。壊れそうなほど美しい声が、部屋を満たしている。
 視線で、ジューリに疑問を投げつけた。

 僕はどうなった?
 また飛んだのか?
 だからいやだったんだ、外に出るなんて。

 ジューリは答えるかわりに両手で僕の頬をはさみ、僕が怒りを口にする間もなく激しく、キスを。
 無理やり酸素が送り込まれる。咽につっかえて盛大にむせた。
「ねぇエットー! あたし今夜は休みなの。すごいと思わない?」
「……口をベタベタにしてキスするの、やめてくれないか」
 ハチミツだ。
 じんわりと痺れる唾液を仕方なく飲み込んだ。
「ジューリ、僕は」
「忘れてた! オーブンっ!」
 赤い爪がひるがえったかと思うと、ジューリはバタバタと台所へ向かった。

 何だ一体。ナナイに助けを求めようとすると、彼は立ち上がり、台所からクロスと皿を持ってきた。窓の外へと向かう。
 開け放たれたベランダには、既に背の高いテーブルがセットされていて、ふたりは僕を放ったまま着々と準備を進めた。並べられたキッシュ、チーズとトマト、三人分のシャンパングラス、焼きたてのローストビーフ。

「しあげよ」
 ジューリがはしゃぎながら、僕の部屋からカンバスを運んできた。
 淡い、オレンジと黄色の光が重なりあっている草原は、エンデという画家の連作で、僕が一番好きな絵だった。100号サイズというかなり大きなそれが、開け放った窓の、隣の壁に立てかけられる。

 シャンパンの乾杯で食事が始まった。
 テーブルのキッシュはナナイが作ったらしく、ジューリは辛らつな感想をうたい、すぐになくなるグラスの中身。ぼくらは3人で5本ものビンを空けた。
「予行練習よ。いつか、3人で行きましょう。ピクニックに」
 エンデの絵画のような、幸福な草原に。

 ジューリはよく笑って、ナナイはよく食べ、僕はというと夢も怒りも疑問も忘れて、何度も、ひどくしあわせだなと思った。


























 インターホンが鳴り、ドアのきしみが室内に響いた。
 入ってきたのはジューリでもナナイでもなく雑誌の編集者ユキさんで、彼女のあとから外気が、熱のかたまりになって押し寄せた。
 今日も快晴で。
 それは昨日も明日も同じだった。部屋に入ってきた夏の暑さはクーラーに吸い取られ、もう何も、感じない。

 明日来るということは電子メイルで受け取っていたけれど……。今日だったかなと尋ねると、ユキさんのポケットから
「近くまで来たから、完成してるなら貰っておこうと思って」
 銀のフラッシュメモリが取り出された。
 僕は、スーツスカートからのびる脚を一瞥して頷くと、画面に表示された文字列を追いはじめた。昨日も、ほぼ徹夜で何度も読み直したというのに、まだ、間違いがあるんじゃないかと不安になる。20分ほど経ったところで、ユキさんは荷物を床に降ろした。

「エットーくん、」
「もう一回だけ……」
 聞こえるほど大きなため息。視線が背中に、ねっとりと張り付く。
 居心地が悪い、早く終わらせたい。
 けどもう少し改稿したい。

 どこで兼ね合いをつけようか。

「ねぇ。前に言ってたモデルの話、考えてくれた? エットーくんみたいなタイプの子、ウチの専カメが探してたのよ」
「いえ……そういうの、興味ないので…」
「あの男のどこがいいの?」

「………、え?」
 ふり向くとすぐそばに、ユキさんの顔があった。

 瞳は射るような熱さで潤んでいる。化粧品と香水が混じって、少し、息苦しい。
「何、の……こと、ですか」
「わかってるの、私。でもそんなに勝ち目ない? ねぇ。気持ち、気づいているんでしょ? エットーくん私ね。本当に……好きなの」

 迫ってくる顔をよけようとして、ズルリと床に崩れ落ちた。
 肘が悲鳴をあげる。
 とっさにナナイの顔がうかび、次にジューリが、夢が、過去が、

「やめ……」

 大丈夫だよ大丈夫エットーは私が守ってあげる私が守ってあげるだから心配しないで大丈夫だから心配しないで守ってあげるから目をつぶって何も考えないでそうだ草原だよ想像してほら草原で遊んでるずっとずっと遊んでる光がいっぱいでここは安心できる場所でほらもう心配いらないよここには誰もいないよ楽園だよ大丈夫だよ私がずっと見ててあげるエットーの心は、私が守ってあげる――

「――何してるんだ?!」
 ナナイの声にビクリと跳ね上がったユキさんの体は、素早く動き床の荷物をさらった。ナナイを突き飛ばし、乱暴にドアが閉まる音。
 呆然としたままの僕に、ナナイは、困惑しながらも手を差し出した。
 けれど。
「やめろ! 僕に触るな!」
 力任せに叩いて拒絶した。

 両手で自分を抱きしめる、震えがとまらない。
 壊れたラジオのノイズのように、自分じゃない声が頭に流れ続ける。
 いやだ、たすけて。ごめんなさい、ごめんなさい。ゆるして、たすけて、やめて、こわいよ、たすけて……。
「たすけて……」

「エットー!」

 強い、力で。
 抱きしめられた。

 いつもクルカがしてくれたことだった。
 僕がどんなにボロボロになって、汚くなっても、光の草原から戻ってきたあと、泣きながら笑顔でぎゅっと抱きしめてくれたんだ、いつも。
 こんな風に。

 だんだんと震えはおさまり、気づくと、頭の中の声も「jynweythek」に変わっていた。Aphex Twin。ナナイの規則的な心臓の鼓動が、肌を通して伝わってくる。
 そのまま、ずいぶんと経ったころ。腕に力がこめられ、薄闇色の室内でナナイはポツリと言った。

「大丈夫だ、エットー。俺が……守るから」



5




「僕とジューリが物心ついたときには、もう母親はいなかった。家は広い、レンガづくりの洋館で、そこに僕とジューリとお手伝いのおばさんと……、父親がいた。母親は、ぼくらが産まれた時に死んだって、聞かされてた」

 父の愛情を一心に受けていたのはジューリだった。
 僕たちは双子で、髪形も顔も体形も同じ。その当時は区別がつかないほど似ていたけれど、服装だけ入れ替わっても父は巧みに見分け、僕に何かをくれるということは万にひとつも無かった。
 与えることは、あったけれど。

 それは罰だった。

 父の憎しみを一身に受けていたのは僕だった。
 何かをするたびに――それは例えば、食事のときにスプーンを落としたり、ぼんやり前髪をいじっただけでも――書斎に連れて行かれ、躾という名で叩かれた。
 繰り返すごとに、一回に叩かれる数は多くなり。繰り返すごとに、叩くものは手から本、本からベルトに変わっていった。
 ごめんなさい、もうしません、ほんとうです、ごめんなさい、ぼくがわるかったです、もうしません、ごめんなさい、おとうさん、ごめんなさい、ゆるして……。
 何度謝っても許してはくれなかった。

 運よくお手伝いのおばさんが来たり、ジューリが部屋の外から呼んだりしたときにだけ、父の意識のすきまをぬって書斎を抜け出し、走って自分の部屋にとびこんた。
 鍵をかけて布団を頭からかぶる。
 階段をかけ上がる足音が響くと、次には父の怒号と、扉を叩き続ける重い音。
 音が終わっても、その日一日は下の階に行けるわけはなかった。
 本とCDだけは多すぎるほど持っていたから、時間をつぶすのは簡単だった。ジューリが、こっそりパンとお菓子を持ってくる。分け合って食べるのが常だった。

 そんな日常が、壊れる……決定的な事が起こったのは……、よく覚えていない。
 小学5年かそのくらいの、夏だったと思う。
 その日父はひどく苛立っていて、僕は書斎に引きずられる間もなく台所で叩かれていたんだ。何かのはずみで水が、わからない、よく覚えていない。とにかく僕のTシャツは濡れて、脱いだのか、脱がされたのか、わからない。逃げようとはしたんだと思う、天井はゆれて、頬を叩かれる衝撃、濡れた体を貫く激痛、なにもかもが終わって――。

「ぼんやりしている横でジューリが泣いていた。そこから先、父の折檻の最後には、いつもソレが待っていた。その頃からだったよ。ジューリが、家を出て行方をくらませる計画を……たて始めたのは」

 窓の外には星が光り始め、けれど懺悔しても、誰も許してはくれない。


























 けれど、このことが――オレンジのタイがよく似合う青年に、過去をさらけ出してしまったことが――僕の中でひとつの分岐になったようだった。

 相変わらず晴れた日が続き、僕らは、たまにリビングに集まる以外はいつも通りの生活をしていた。
 ただ、僕はナナイを前より受け入れていたし、彼のほうも、以前にはなくふざけることがあった。
 僕の部屋に戻すのが面倒だからと、ピクニックの予行練習からこちら、リビングの壁にはエンデの草原が立てられている。インテリアとするには少々大きすぎる。最初から部屋にあった、望まない備品だと言っても誰も驚かないだろう。
 ジューリが花のように開くワンピースの裾を右手でつまみながら、バレエのように回転し始める。
 鼻歌はたぶん、コレルリの「La Folia」だ。

 僕はあいかわらず、うとうとと夢と現実を行ったり来たりして、すっかりなじんだフローリングの床に、うつぶせに倒れ死んだフリをしている。時々重い腕を持ち上げて、開きっぱなしになっているノートパソコンに一文字、二文字、打ち込んだ。
 ナナイはソファにもたれきって、薄い文庫本を読みふけっている。ちらりと視線をあげては、ジューリの踊りっぷりに微笑み、また本に戻る。
 突然、ジューリが絵の前でお辞儀をし、草原でのダンスは終わった。
「エットー、おいで! 立ってはいスダンダップ!」
「なんだよ……」
 立ち上がる間もなく汗ばんだ体に抱きしめられ、熱い唇が、コケティッシュな音をたてながら首筋を這いあがってきた。くすぐったくて思わず声が洩れる。最終的には耳から額に焼きつけられた、楽園の遊び。

 ナナイはソファにかけたまま、笑いを隠さず見守っている。
 ジューリの口紅がきっと、そこかしこについているんだ。シャワーは朝、あびたばかりだというのに、壁の草原は光のまま停止している。



6




 この絵は。
 僕の楽園だった。

 父から折檻されているとき、僕は決まってこの草原にたどりついた……。
 たぶん、脳が、壊れないように僕の心を逃がしたんだと思う。
 僕はそこで一人で、何もかも終わるまでずっと遊んでいたんだ。
 何度も、何度も。

 エンデの絵画展に行ったのは偶然だった。前の前の前の、また前のどこかの街に住んでいた頃だったか。対峙したときの衝撃しか記憶にない。
 この絵は――まぎれもなく僕の草原だ。
 そう確信した。
 買ったことを後悔はしていない。
 逃げるときに持ち出した父の通帳にはそれだけの金があったし、売れない画廊は、奇特な客を逃がすまいと人物確認をひどく怠った。

 と、インターホンが鳴る。
 ナナイが立ち上がった。

 ……ユキさんだろうか? あれから来ていない。できあがった原稿を送信しても、何のメイルも返ってこなくなった。
 ドアが開いて数分、ボソボソとした男とナナイの残響が聞こえてくる。宅急便か何かだと思っていたら、突然、大声が侵食してきた。

「いるんだろ――出せ! わかってるんだ、出て来い!」

 鋭い、記憶が、奥から突き刺すように這い上がって来た。

 ゆれう天井、全身の痛み、草原、汚い顔が上下している、夢、あれは、誰だ?
 あれは、夢か?
 誰かが叫び続ける。

 あれは、そうだ。

 あの声は、まさか、なぜ? どうしてここが? どうして、

「大丈夫。ここにいて」
 ジューリが僕の頬を両手でやさしく持ち上げた。

 僕、そんなに情けない顔してた?
 慈愛に満ちた、ナイチンゲールのような微笑みがかえされ、そっと、唇が触れ合った。

 いつも僕にだけキスをして、それが終わることの無い懺悔だと、知っている、知っていたんだ。ジューリ。僕はただ、思考を止めて何もかもを受け入れていただけで。
 許していなかった? 僕は本当は、許していなかったのか?
「……行くな…」

「ごめんね、大好き」
「違う!」

「違わない」
 こんなんじゃなかった。
 本当は、これは、あの場所にいるはずだったのは。僕じゃなかった。
 違うんだ。
 ほんとうは。
 愛だって憎しみだって、ほんとうは全部混ざり合わなきゃいけなかった。
 けれど幼い双子は、それに気づくのが遅すぎた。僕は激しい憎しみに壊されれて、ジューリは窮屈すぎる愛から逃げ出した。

「今度は違うわ。私が全部受け止める」
「ダメだ……行くな。行くな、行かないで」

 怒号はやまない。ナナイも大声で応戦している。ジューリは立ち上がり目を閉じて、長く息を吐き出すと、震え始めて動けない僕、に。
 分かりきった愛を落とした。

 とびきりの、最後通牒。

「大好き」

「行かないで――クルカ!!」
 静寂を宣言するようにドアが閉まった。



7




 あれから何時間経ったかわからない。
 太陽はかたむき、フローリングの影が薄くのびている。ブウン、とエアコンがうなりながら姿勢を正した。暑いはずの午後。感覚が遠い。ここは、何かが抜け落ちている。
 僕の。
 抜け落ちた欠片。
 いや、僕のほうがジューリから抜け落たんだ。

 盲目に震え続ける僕の後ろから、無骨な太い手がのびて肩にかけられた。ふり返ろうとしても、首がきしんでうまくいかない
「ジューリは……ジューリを…どこへ……ナナイ…」

「好きだ。エットー」
「――意味がわからない!」
 はげしくかき抱かれた。僕は震えているままで、返す手もなにもない。

 本当は僕が。
 僕が、許さなきゃいけなかったのに。

「……好きだ。壊れそうで、守りたい」
「みんなそう言うよ……ジューリでさえも…」

 今はとにかくちゃんとしたベッドで寝たほうがいいと言うナナイに根負けして、ダンボールが詰まれたままになっている部屋でおやすみを言った。埃臭いシーツに倒れこむ。眠れるわけはなかった。


























 ジューリがいなければ僕は、ひがな一日、液体以外なにも口にしないのだという事が判明した。
 ノートパソコンの隣には、ガラスのコップがいくつも置かれている。今残っているコップの中身は、ウィルキンソンのジンバック。
 薄いカーテンは暑さを遮断しきれず、ゆれる。

 太陽の光とともに、僕も、融けてしまえばいいのに。

「……何聴いてるんだ?」
 見かねたナナイが、冷凍のピザを皿に載せてきた。電子レンジで温められたそれは、急な温度変化でくったりと横たわっている。
 ヘッドホンを外しスマッシング・パンプキンズだと答えると、ナナイは好きだよな、と言った。
「何が?」
「それ系。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインなんかも好きだろ」
「いいね」
 ソファの横に積み上げておいたCDの山から、血の色をしたジャケットを取り出す。ガシャガシャと音を立てて崩れ落ちたけれど、気にしない。パソコンにセットし、ヘッドホンのジャックを抜くとランダム設定にしていたそれから「Come In Alone」が流れ始めた。

「今度は、何書いてるんだ?」
「天使を信じたままビルから飛び降りる鳥男の話」

 ユキさん経由じゃないインディーズバンドから歌詞を作る依頼がきて、最近、そればかり考えている。
 ジューリのことを考えないように、別の思考で頭を埋めている……といった方が正しい。

 最初のうち、ナナイは、ジューリを父から取り返そうと息巻いて、そのあまりの激しさに恐怖を覚えるくらいだった。けれど、僕はその行動を拒否し、帰ってくるまでここで待とうと言った。
 取り返しに行くだなんて、父と会ったら僕は父を殺してしまうかもしれないし――それよりも震えて動けなくなるだろう事は分かっている――ジューリは自分から出て行ったのだ。
『今度は違うわ。私が全部受け止める』
 身を差し出すことで、僕を救った。

 救われた人間が、もう一度救われない場所に戻るには、ひどいくらい勇気がいる。

 僕は。ずうっと壊れっぱなしで、父のあの行為が終わるたびに笑顔で抱きしめるジューリを、一度も、たった一度でさえ許したことがなかったというのに。
 もう許すこともできない。
 救われて、けどおびえることも怖くて、進むことすらできず、途方にくれて待っている。

 突然、部屋中に電子音が響いた。

 ナナイは携帯電話を取り出し、あぁ、とかうん、とか言いながら歩き回りだした。時々、ちらりとこちらを見る。通話が終わるとナナイは、廊下にいつも立てかけている自分のアタッシュケースを持ち出し、少し出かけてくるとオレンジのタイを結びなおした。
「なるべく早く戻る」
「別にいいよ、ゆっくりしてくれば。ピザもあるし」
「……エットー、」
「なに、」

「死ぬなよ」

 ナナイが出て行ったあとピザをかじり、パソコンの電源を切ってフラフラとソファに横たわった。床に散らばったままのジャケットたちを、ぼんやりと眺める。睡眠時間が足りないことを言っているのだろう……。

 夢の中で僕は、エンデの草原に立っていた。
 光があふれる心地よい空間。
 いつもは独りきりのハズが、ジューリもナナイもいて、そうだ、ピクニックに来たんだっけ。バスケットの中からは、いつもの冷蔵庫のように手当たりしだい何でも出てきた。パン、グラス、食器、デザート。3人でバカな事を言って笑い合った。乗り付けたのはナナイの車で、助手席に置かれた小さなCDラジカセからはレディオヘッドが流れている。
 急に雲行きがあやしくなり、草原にさあっと雨が降った。こんな事は初めてで、僕が驚いているうちに2人は荷物をまとめ、バラバラに駆け出した。追いつこうと走り出すも、ふたつの背中は右と左にわかれた。
 どうしよう。
 追いつくって、どちらに?

「待って……」
 僕は走って、選んだ背中に触れようとした。

 けれど。
 すり抜ける。
 触れられない。
 走るスピードがあがった。
 追いつけない。
 どうして。
 こんなに近くにいるのに――、

「待って、待ってくれ。行かないでナナイ……、ナナイ!」

 ハッと目を見開く。
 息があがっている。夜だ。
 急に目が慣れる。窓の外から月光がさしこんでいた。照らされたナナイの青白い顔が、じっと見下ろしている。
「大丈夫か? 水は? うなされてて……俺を、呼んだから…」
 僕はしばらくはずむ胸に手をあてて、それから、顔を歪めながら、やっとのことで絞りだした。

「ここに……、居てくれないか、」
「エットー?」

 オレンジ色のタイをつかんだ。

「ずっとここに、そばにー…。違うんだ、ジューリのかわりとかじゃなくて、今だけでもなくて、何て言えばいいか……よくわからない。でも。居てほしいんだ、僕が。ナナイ、僕は――、」

 顔をあげた瞬間、唇を、ふさがれた。
 ジューリとは比べ物にならないくらい激しい、噛み付くようなキス。
 とっさに呼び起こされる、夢の奥で動き続ける父の残像。違う。決定的に違っていた。僕が、僕は――、望んでいる。そうだ。気づいてしまった、戻り道がわからない。
 草原はどしゃぶりのままかき消え、動くたびに床のCDジャケットがキラキラと反射した。
 星屑が散りばめられた室内で、導かれるまま心を知った。
 夢からさめる、方法を。

 こんな簡単なことだったんだ、ジューリ。
 僕の内側に溜まった、君からもらい続けた愛を、僕は懺悔と勘違いして見向きもせずここまで生きてきたね。本当は、違ったんだ。それは愛という名で、今、ようやく自分から求めている。



8




 いつか。
 君が帰ってきたら。
 インターホンが鈴のように鳴ったら、笑ってドアを開けよう。
 そうしたらきっと、君は満面の笑みで僕にキスしてくれるね。

 ピクニックに出かけよう。

 僕たちがこんな事になったのを聞いて、どう思うかな。少し照れくさいけれど、僕はやっと知ったんだって、君に言うよ。
 夏が終わっても、ドアは開く。
 明日を。
 僕らは待ち、開きつづける。















星屑のドアマン














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--Presentation by ko-ka--