■ 1 旅立ちの朝 ■
1976年8月24日。
AM7:00。
工業都市であるクラスノヤルスクは、まだ静かに就業時間を待っている。
朝日が差し込むクラスノヤルスク駅のホームには、モスクワ行きのロシア号を待つ数十人の旅客が立っていた。長々と続くコンクリートの巨大なホームは、シベリア鉄道のために造られたものだ。
6時ごろから、ぽつりぽつりと人が増え始め、しかし陽気な声はどこにもない。皆、眠たそうに列車の到着を待っている。
そんなホームのなかに、また1人、新たな旅人が加わった。
モンゴル系の血が混じった、黒髪碧眼の青年だ。
黒いTシャツと褪せたジーンズ、荷物がパンパンに詰まった大きなリュックは、夏の旅人によくある姿である。青年、ヴェニニャータ=ヴォドルブスキーは右手の乗車券をちらりと確認すると、よっと声をあげて大きなリュックを背負いなおした。
遠くから、音にもならない大きな気配が近づいてくる。
それはやがて、鈍い音をたてる列車の姿となり、ブレーキをかけながらホームに滑り込んできた。
鳥が一斉に飛び立つ。
気が遠くなるほど長いロシア号の車列は、数分かけてホーム内に完全に入り、ようやく停止した。
青年は、11号車までゆっくりホームを歩いた。
11号車のドアに立っていた乗務員に券を見せる。軽く挨拶すると、車掌は「ようこそロシア号へ、良い旅を」と定型文を述べた。ヴォドルブスキーは頷き、ロシア号に乗り込んだ。
乗車券の番号を確認しながら狭い通路を歩き、数日寝泊まりする自分の寝台へと向かう。目的の、2等寝台の4人用ボックス部屋にヴォドルブスキーが入ると、既に先客が1人いた。ちいさなベッドに横になり、頭まで毛布にくるまっている。寝台列車の朝によくある光景だ。
ヴォドルブスキーは向かい側の座席の椅子を開けると、自分の荷物を手早く入れていった。持ち込んだ食料を検品し、足が早そうな果物とパンを昼食にしようと決める。椅子を閉める。貴重品とお菓子は簡易な手持ち袋にまとめた。文庫本を数冊、席の端に置く。大きなペットボトルの水はその横にゴロンところがしておく。
ヴォドルブスキーは一息ついた。
ここが当分の、自分の居場所となる。
最後に、旅の定番であるトランプカードをケースごと窓辺に置いてしつらえが完成した。昨年同室となった、見ず知らずの友人とやったのが面白く、また持ってきたのだ。だが今回、その相手となりそうな人物はまだ寝息をたてている。
毛布が規則的に上下しているのを眺めていたヴォドルブスキーだったが、汽笛の音にパッと顔をあげた。
出発の合図だ。
列車は一度おおきく揺れ、次にちいさく揺れながら、ゆっくりと動き始める。
スピードに乗るとすぐに工業都市は田園風景へと変化した。帰省していた実家の懐かしい風景は、まったく違う新しい光景へと移っていく……。
車窓を眺めならヴォドルブスキーは、久々に見た家族の顔を一人ずつ思いだした。次に、モスクワの大学で再び同じ机につくであろう友人たちの顔。それから尊敬する教授の横顔。太った寮母の、エプロンからはみ出るほどの脇腹。懐かしささえ感じる寮自室の間取り……。
急に手持ち無沙汰となったヴォドルブスキーは、持ってきたお菓子の封を切った。一口食べ、ペットボトルの封を開けようとしたが思い直す。
シベリア鉄道の列車内では、お湯が無料サービスとなっており、コップも備え付けてある。紅茶やコーヒーを淹れて飲料として楽しむのはもちろん、お湯で戻す粉末ポテトやカップ麺なども手軽に食べることができるのだ。
通路に出て少し歩き、お湯を持ってきたヴォドルブスキーは、売店で買った紅茶のティーバッグを入れた。慣れた手つきでクイクイと上下させる。
漂う香り。
心地よい列車の振動。
青年は、またもやモスクワの大学を思い出して紅茶を啜った。
と。
向かい側の毛布が、もぞもぞと動きだし、人の形をとった。
ハラン、と毛布がはがれおちると、その姿にヴォドルブスキーは衝撃を受けた。
美しい――女神のような少女……いや、少女と見間違うばかりの……少年…?
一瞬動きが止まったヴォドルブスキーだったが、紅茶を一口飲み、観察した。
目の前の人物は白いタンクトップを着ており、男であることを強調しているように思えた。ぺったりとした胸板だったが、腕にはやや筋肉がついている。
灰色の髪は、少年がすこし動くと朝の光に反射して輝いた。影の部分は、緑のような不思議な色彩をかもしだしている。
顔立ちは、青年というよりは……やはり少年だ。ヴォドルブスキーは13才くらいだろうかと見当をつけた。透き通った白い肌。眠そうにまたたく鳶色の瞳、それを覆いつくすような白い睫毛は絶え間なく上下して、
「……ドーブラエウートラ、ふあぁー…」
今までヴォドルブスキーが聞いたどの声とも違う、人間でも動物ですらないような不思議な声色が、朝の挨拶を耳に告げた。
少年はまた、大きく伸びをした。
直後、その伸びた手をヴォドルブスキーに差し出し、
「紅茶ちょーだい」
「………、は?」
「こーちゃ」
「………、え、」
「いーい? ありがと」
今しがた淹れたばかりの紅茶が、細く白い手に絡めとられてあっさり移動した。
ヴォドルブスキーがぽかんと眺めていると、少年は小首をかしげ、それから思いついたように「あ、」と言った。後ろを向き、ごそごそと何かを探る。出てきたのは巨大なクッキーだった。
自身の顔ほどもあるそれをヴォドルブスキーに渡し、少年は微笑んだ。
「よろしく。ボクのことは、ソロドブジェと呼んでください」
瞬間、車窓から光がさしこみ、さながら天使の祝福のように少年を包み込んだ。