| Pёквием |

「遺伝子操作で簡単に新しい野菜を作れる技術が進んでるんだって。そういうけれど、そんなの作ったところで誰が食べるんだろう。それを食べてもし死んだら? 死んだ後に防腐処理を施したら? 赤の広場の廟に、飾ってでもくれるのかな」
 彼は椅子に座りベッドに向かって話しかける。見舞いの品はいつもクッキーで、彼が日々、激務の合間にこっそり隠れて食べているものだ。
 白い病室は光にあふれている。
 かたむけた首とともに枕の上に据えられた瞳がゆっくり動く。唇が、かすれた音でいつもの名前を紡いだ。
「……どうでしょうね…、先生」

     ★

 トゥスクリズ=ソロドブジエがヴェニニャータ=ヴォドルブスキーと共に居る歳月も、もう50年が過ぎようとしていた。
 その間、意識解剖という超能力が使える、才能のある子供たちも何名か出現し、カプレコグ病院には重病の患者達が、数多く集まる様になり、それは、ソロドブジエの出張にいつもついていけないターニャの願いでもあった。
 当初は「悪魔」と恐れていた超能力学会の人々も、彼の柔和な態度に対応を改め、今ではすっかり打ち解けている。厳重なチェックを何重にも重ねられた特別な患者には、立会人のもと、意識解剖手術を行っても良いという法律もできた。
 彼は今大学で、その超能力が特定の子供にしか開花しないという旨の、長たらしい論文を書いている最中だ。しかし、彼は元々文章を書くのが嫌いなたちであり、一週間前と比べても、ページは全く進んでいない。
 ロシアの超能力医療、最先端をゆく彼であったが、文章能力はターニャの方が格段に上である。ソロドブジエ監修のもと、意識解剖学に関するいくつかの本とソロドブジエの伝記のような本を出版した所、それらは、書かれている内容があまりに衝撃的だったため、またたく間にロシア全土に売れ渡り、爆発的なヒットとなった。
 晩年まで彼に付いて子供のようだった彼に、色々な事を教えたターニャではあったが、月日の流れというものは残酷なもので、意識解剖によって年をとらないソロドブジエに比べ、一般人であるターニャの体は、確実に枯れていった。
 長距離を走れなくなり、目が悪くなり、腰も曲がり、車椅子になり、寝たきりになり……。
 ソロドブジエは、ターニャへ何の治療もしようとせず、ただ、毎日、仕事の合間に彼を見舞った。悔しいことに、彼が超能力を使える人物というのは、厳重な規定におさまる患者のみなのだ。
 コツリ、ドアの音。
「入るよ、ターニャ」
 危篤の知らせを受けてソロドブジエは集中治療室に急いだが、どうやら少し持ち直したらしく、一人だけの個室に移動されていた。
 センセイ、と瞳を動かすターニャのそばにあった椅子に腰をかける。
 いつものように首をかしげてソロドブジエは言った。
「ターニャー、ねぇ、クッキー食べたい」
 慣れた手つきで酸素マスクを外されると、ターニャは長く咳き込んでから一息ついて、
「……まったく…後任のマネージャーとまたケンカですか」
 呆れたような顔をした。
「言ったでしょう、ワタシはもう長くないのですから、後任の者とはくれぐれも仲良くして下さい、と。まったく……この年になっても気苦労がたえませんね……」
 ソロドブジエは小言にめげず、ニコリと微笑んだあと、ベッドに膝をかけ、かがみこむようにターニャの首を軽くつかんだ。
「いい?」
「えぇ、」
 ターニャは即答する。
「くれぐれも、後任のマネージャーと仲良く」
「えぇー…」
「えぇーじゃないでしょうが……ワタシは、もう、」
 ソロドブジエは「そうだねぇー、」と笑う。悪魔にも、そして天使にも見えるその輝く笑みで。
 きっともう何十年経っても変わらずあるだろう。
 それだけで満足だ、と、ターニャは伝えようとしたが、やめた。
「すごく興味があったんだ。一度やってみたかったしー」
「で、しょうね。顔が笑ってますよ」
「えへへーぇ」
「いいですよ、これだけは……」
 幕を下ろされるなら、
「気苦労さしてばっかりでごめんねぇー…、これだけは。ボクがする」
 少しずつ、腕にチカラを入れる。
 そのうちターニャの息遣いが途切れ、彼は苦しそうに口を開けてソロドブジエを見た。笑い声が室内に響く。
「ターニャにだけは、苦しんで逝ってほしいから、今まで何もしなかったし、これからもそう。だって、ターニャじゃないマネージャーなんていやだもん。いっぱい意地悪してやる」
 ――ご冗談ばかり! まだまだ子供ですね、先生。
「あははっ、あはははは!!!」
 閉じたターニャの瞼に、パタパタと何かが落ちた。それは透明で美しい笑い声を包んでいった。

     ★

「最近になって不便に思うんだ。若いままだって、色々不都合があるんだね。いっつも「周りのことを考えろ」ってターニャに言われてきたけれど、死んでから理解できることって、わりと重要なのかなーなんて思うんだ。これからは適度に年をとっていくことにするよ」
 彼は平らな石に向かって話しかける。供えの品はいつもクッキーで、彼が日々、激務の合間にこっそり隠れて食べているものだ。
 ごろりと芝生の上に寝転がった彼の瞳は、やんわりと細められ、鳥の声とともに、夏の到来を予感させた。
「昼寝でも、しようかな」
 まぶたの奥に、懐かしい顔がうかぶ。あきれたような、笑っているような。
 ――先生、私が起こさなくてどうするんです、夕方まで寝るおつもりですか?
「うん、そうなんだ。起こしてくれなくてもいいよ……」
 緑の墓場は、とめどなく光にあふれている。

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