■ 1 いつの日にか ■
「はい?
どちらさまで?
えぇ、えぇ、えぇ……あぁ! 貴方様が!
――よくぞおいでくださりました。
えぇ、はい、そうでございます。
こちらは、ソロディン卿ポアジャル=ハボドゥジーネ様のお屋敷にございます。
えぇ、然様にございます。
さぁ、さぁ、先生、そんな所ではお風邪をひかれてしまいます。どうぞこちらへ。
え?
あぁ、帽子ですか。私めがお預かりいたします。どうぞコートもお脱ぎになって下さいまし。しっかり雪を落とさないと、カーペットがシミだらけになってしまいますので。
……これですか?
近頃は便利な道具が出回っておりましてねぇ、この棒を使うとほれ、この通り、すっかり雪が落ちてしまうのですよ。
便利ですぞ。
やはり、便利な道具と言うのは、日常生活に欠かせないものですなぁ。なにせ、ここはロシアの中でも「北の孤島」と呼ばれるところでございまして、今回は、もう、本当に、夢のようでございます。
貴方のような大先生に……いえいえ、ご謙遜なさらずに。先生の偉業は、ここまでしっかりと届いております。
コートや靴などは、お出掛けやお帰りの際、私めに一声かけてくだされば、そっくりそのままお運びいたします。こちらの呼び鈴でお呼びくださいませ。
なに、たいした手間ではございません。
このところのブリザードで、お客様がめっきり減りましてねぇ。
えぇ、夏になりますとまぁ、それでも一日三組や五組ぐらいなのですが……あぁ、入り口ですか?
そうなのです、それで、こういう造りになっておりまして、どちらから入れば良いかとさぞ迷われたでしょう。
こちらが、お屋敷の入り口でございます。
向こう側の立派な扉が、ホテルとしての入り口でございまして。
あぁ、それはどちらでもかまいませんよ。
今日のお客様は、先生お一人なのですから。
ははは。
なにしろこんな雪国ですからねぇ。
今の時期ですと、あと少しすれば天体観測目当ての物好きなお客様がちらほらお見えになるので。えぇ、丁度良い頃合でございました。
さ、お荷物はお運びしておきますので、ご主人様の書斎へ行きますまえに、ホテルとお屋敷のご案内をさせていただきます。
どうぞこちらへ。
ここは、ご主人様の曽祖父であらせられますスフロフスキー=ハボドゥジーネ様が、約百年前にお建てになられました。
十年ほど前に増改築いたしまして、その増築部分と改装したお屋敷の一部を、ホテルとして使っております。
どちらの棟も二階建てでございまして、ここはヴスジュ棟の二階中央でございます。一階部分のみが繋がっておりまして、このウスジュ棟と、向こうのオッジェルヴ棟の行き来は、一階部分でしかできないようになっております。
ささ、お進み下さい。
こちらが食堂、こちらが遊戯室、そしてこちらが談話室となっております。
オッジェルヴ棟の二階部分は全て客室となっておりますので、特にご案内はいたしません。
さぁ、着きました。
先生のお部屋はこちらでございます。
ヴスジュ棟の二階の、左の突き当たり。スウィートルームにございます。
部屋は三部屋ございまして、そのほかに遊戯室やベッドルームも備えつけてございます。バス・トイレ・暖房完備、お食事は私めが毎回ルームサービスを……え?
いえいえ、そういうワケにはいきません。
先生にはヴィスリージゲスト並みの対応をするようにと、ご主人様から言われております故。
この部屋がお気に召さぬようでしたら、次に位の高いスウィートルームへご案内を……は、馬小屋??
ははははは!
先生!
ここは南国でも草原でもありませんぞ。馬小屋などございません。あるのはトナカイの肉を貯蔵する穴あき小屋くらいでございます。あ、いえいえ、そんな所にご案内する気はこれっぽっちもございませんぞ。
さぁさぁ先生、そろそろご観念なすって下さいな。
このたびのご訪問には、ご主人様も大変喜ばれておいでで、いえいえ、料金などはお気になさらずに。
それでは、参りましょうか。
ご主人様の書斎は、ヴスジュ棟の一階でございます。
……どうなされました?
あぁ、その絵ですか。
えぇ、皆様そうおっしゃいます。
お綺麗な方で。
こちらが、今回ご依頼いたしました、ご主人様のー…まぁ、何とおっしゃいましょうか、えぇ、まぁ、えぇ、ははははは。
……名目はなんであれ、ご主人様はこのお方を愛していらっしゃるのですよ。
先生。
私めからも、どうぞよろしくお願いいたします。
あのままでは、あのお方が本当に不憫でなりません……。
フロントには、先生の事を通しておきますのでいつでも奥へお入りになってください。
こちらの、左へ曲がった奥が、ご主人様の書斎にございます。
――ご主人様!
私です。執事のウルジェーリ=リュドゥージャです。
ソロドブジエ先生をお連れしてまいりました!
さぁ、どうぞ先生。
お入りになってくださいまし。
私めはこれから、先生のお部屋へとお荷物を運びますので、何かございましたらフロントの者へ。いえいえ、チップなど、ご不要にございますよ。では、私めはこれにて」
■ 2 遠い夢を ■
ふり返ったその人物は、丁度ランプの煌きに顔があたり、豊かな黒髭がキラリと茶色に光って見えた。
印象的なのは、その大きな体である。
トナカイの皮をなめしたベストから、ぬっとはみ出している二つの腕。その先にある、奇妙な果実を思わせる、手。大きな椅子の中に、ずぶりと沈みこんでいる腰。そこから突然のびている、太い足。
ソロドブジエが一歩を踏み出すと同時に、その人物は椅子から立ちあがり両腕を広げた。反動で椅子がギッと鳴り、そのかわりにカーペットが大きく沈み込む。
広げた両手が影となり、ソロドブジエを一瞬の闇に包み込む。
「……―ぉお待ちしておりました、先生」
腹の奥から通ってきた声は、深く低く、まるで静かに落つる雪のようだとソロドブジエは思った。そうして思ったことを言うかわりに、彼はゆっくりと肩をまるめてお辞儀をする。
「初めまして。モスクワのカプレコグ病院から参りました、トゥスクリズ=ソロドブジエと申します、どうぞよろしく」
白のワイシャツにクリーム色のセーターは、ソロドブジエにとって最もスタンダードな格好のひとつだった。顔をあげ、灰のような……緑にも見える不可思議な髪の毛を払う。首にまでまとわりついているそれは、この出張の前日に切り損ねたものだった。
英国寄りの白い肌にいつもかけている眼鏡は、旅行鞄に入ったままになっている。焦点を合わせようと鳶色の瞳を細め、ソロドブジエが片手を差し出すと、彼の大きな両手がそれをゆっくりと包み込んだ。温かいを通り越して、いくぶん熱い、手。
「んん、先生のお噂は、この異端の地にまで届いておりますぞ。さぞかし長い旅であったでしょうに」
「いえ……シベリア鉄道は冬でも平気で走りますので」
圧倒されつつ上を見上げると、こちらを見下ろしている、濁った瞳にぶつかった。おそらく、値踏みされているのだろう。
「――ぁあ、自己紹介が遅れてしまい申し訳ありません。私の名はポアジャル=ハボドゥジーネ……村の者からはソロディン卿と呼ばれております、どうぞひとつ、よろしくお願いいたします」
「はぁ、」
気の抜けた返事をしながらも、その名前を頭に刻み込む。どちらともなく手を離すと、ハボドゥジーネは視線だけを窓の外に移した。
――白。
それ以外見えないのに。
「先生。長旅でお疲れでしょう。今日はゆっくりとくつろいで下さい。本題は、先生が落ち着かれてから……明日か…あさってか」
白に染まった窓を見ながら、ハボドゥジーネはゆっくりと笑顔を作った。その様子は、まさに「作られる」という表現がぴったりな様であった。少しずつ、頬があがってゆき、額のシワがひとつひとつ曲がっていく。そうしてまばたきをしたあと、それらが逆再生されているかのように、元に、戻っていった。
ゆっくりと。
やはり、雪のように。
それを見たソロドブジエは、もしかしたらこの人こそ治療が必要なのではないのかと、本気で疑った。
治療。
そう、彼は依頼を受けてここに来た。
患者を治療をするために。
遺伝。
真っ白な階段。一冊のノート。
汚された脳。
汚した真理。
――この子は悪魔なんです、先生!
「先生?」
「えっ、……あ、」
ビクリと身体をふるわせたソロドブジエだったが、すぐに身を正し、締めの口上に入った。
「いえ。申し訳ない、ちょっと考え事を……それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
「えぇえぇ、何かお困りのことがありましたら、ウルジェリュを呼んでください」
それはどうもと、にこやかに礼をし、ソロドブジエは書斎のドアを閉めた。
★
部屋に戻り荷物を整理していると、ふと、遠くから、なにかの音が響いた。ような気がした。
ソロドブジエはしばらく顔をあげて、それからまた旅行鞄に向き直る。遠く、遠くから、低い余韻をもたせて、聞こえてくる、連続した音。もの悲しい気分にさせる、じんわりとしたなにか。
……鐘?
ソロドブジエがペタリと旅行鞄をつぶすと、辺りはしんと静まりかえった。彼はウォールナットでできた大きめの机に座って頬杖をつく。質素なつくりのそれは、先ほどウルジェリュに頼んで用意してもらったものだ。もともと置いてあった机は、金や宝石で飾り付けされており、豪華すぎて眩暈がした。
コツコツと、指で机を叩く。
そういう気持ちは、出張に出たとき二、三回はなるもので、その気分自体は特に珍しくもなんともないのだが……。
本棚に積み上げた書類と本を見やり、ソロドブジエはため息をついた。こんなに早く、モスクワの灰色が恋しくなるなんて。
書類の山を指先でめくり、中から封筒を探す。しかし目当てのものは見つからない。そういえば、と思いなおし、つぶした旅行鞄の、一番手前のポケットを探った。
依頼の手紙だ。宛て先は、カプレコグ病院ソロドブジエ様、となっている。ソロドブジエという名前は、病院内では一人しか居ないため真っ直ぐ届いたが、誰か別なソロドブジエが居たなら、どうするつもりだったのだろうと彼は思った。折り目を開くと、冒頭は挨拶もなにもなくいきなり『母が病気です』から始まっていた。
こんな失礼な手紙、行くまでもない。
そう、ソロドブジエのマネージャーであるヴォドルブスキーは言ったが、今ここに居るのには、それ相応の訳があった。
目だけ動かし、読み返す。ところどころ青いインクが滲んでいた。きっと、さっき雪が入り込んだのだろう。
それでも根気よく全文を読み通し、折り目にそって丁寧にたたむと、ソロドブジエは出かける準備をした。
■ 3 その手の中に ■
「まったく。だからあれほど、止めておけば良いと言ったでしょうに」
受話器の先の人物は、そう呟いてコンコンと机を叩く。
音は飛び越え、ソロドブジエの頭の中に映像を刻み込んだ。
モスクワの、病院の、理事室の、あの懐かしい机。
「ごめんねー、ターニャー」
全く感謝などしていない声で、ソロドブジエは彼に礼を言った。
先ほどからソロドブジエと電話で会話しているのは、彼のマネージャーとして名高い、ヴェニニャータ=ヴォドルブスキー、通称ターニャである。
ターニャは、女性ではなく男性だ。
彼の両親が、女性の名だと長生きできるという迷信を本気で実行した結果である。彼はそれをコンプレックスとしていて、いつか改名してやると意気込んではいるが、名前は既に病院内で定着している。まだまだ先のことになりそうだ。
「もう何回か叩いて」
ソロドブジエはターニャに懇願する。
コンコン。
コンコン、コンコン。
普段はモスクワにあるカプレコグ病院の理事と特殊閉鎖病棟A棟の責任者を務めているソロドブジエだが、現場の第一線に立ちたいという願いもあり、二ヶ月に一回のペースで治療依頼の出張に出ている。
それ故、超能力こそ使えないが事務の天才であるターニャを、自分の穴埋めとして出張の間病院に残らせている。だが、もちろんただの建前だ。本当は、ターニャが婚約者と離れたくないからだという事をソロドブジエは知っている。
結婚も秒読みなのだ。
出張など行けるはずもない。
「電話は明後日あたりかと思っていたのですが……、何かあったのですか」
机の音とともに、心配そうな声が耳に飛び込んできた。
いくら超能力を持っていようとも、ソロドブジエの外見は、どう考えても20代前半。下手をすると不摂生な高校生に見えなくもない。治安の悪い土地で恐喝に遭ったり、うろうろして警察の目に不審者として映ったり、とにかく、色々な不具合に巻き込まれていないか、名高いマネージャーはいつも心配しているのだ。
「ううん、なんにもなーい」
ソロドブジエは軽やかに言い放ち、挨拶もしないまま受話器を本体にガチンとかけた。いつものことだ。ターニャに対してだけは、ついいたずら小僧のように振舞ってしまう……先ほど対峙したソロディン卿のときとは大違いだ。早めに、あの時の様な紳士的な態度を取り戻さなくては……。
しばらく公衆電話の前で瞳を閉じ、スウィッチを切り替えると、ソロドブジエはマフラーを巻きなおし、空を見上げた。
やはり、鐘の音。
それを彼は今、目の当たりにしている。
天まで届くかのような巨大な円柱は、風の影響か片面にだけ雪が張り付き、長く厳しい冬に耐えようとしていた。コンクリートの巨大なオブジェ。その一番上に、鐘がついている。
ここからでは見えないが、オフジェの隣に立ててある案内板にはそう書かれていた。
その説明からすると、どうやらこれは、昼の十二時にしか鳴らないもののようだった。
しばらく眺め、地面に視線を戻す。
明日の昼、ここに来れば聴けるだろうか。きっと間近で聴けば、もっと違った感想が得られるだろう。
となると、今日あたりから、早速依頼の患者を見せてもらわなければならない。そうソロドブジエは考えた。
出張期間は一週間だが、ここに着くまでに一日半をシベリア鉄道の列車内で過ごしている。帰りも同じく一日半かかるとして、実質、あと四日しかない。
くるりと向きを変えて歩き始めると、ソロドブジエの耳に
「きゃッ……!」
短い悲鳴が聞こえた。公園の入り口付近で、走りまわっていた女の子が転び、倒れたのだ。小さな手には手袋がはめられ、帽子にマフラー、コート。転んでも、なんともないであろう格好だ。
しかし、ゆっくりと起き上がると、少女は声をあげて泣き始め、友人だろうか、少年少女達がかけ寄ってきた。けれど、女の子は泣き止まない。
ソロドブジエは少し考えたあとで肩をすくめ、女の子に近づき、ひょいと抱きかかえ、立たせた。
女の子は一瞬、キョトンと泣き止む。
「どうしたのー? 転んじゃったのー?」
彼がしゃがんで目線をあわせ笑うと、女の子の顔はゆがんだ。
「だいじょうぶ、ほら、くすぐったいよー?」
ソロドブジエが女の子の頭を撫でる。
すると女の子は、
「おじさん! やめて、くすぐったい!」
そう言って、笑いながら走っていった。少年たちも笑いながら、ソロドブジエから離れていった。
「おじさんって、ひどいなー」
大きな通りに出ながら、彼は苦笑する。
少し寂しそうな笑みをうかべて。
ソロディン卿の屋敷に戻ると、ソロドブジエは肖像画の前に立った。この屋敷に来たとき、最初に目にしたものだ。唇に手をあてがい、じっくりと眺める。
四人の人物が描かれていた。手前の長椅子には女性が二人座っており、椅子の後ろに男性が二人立っている。皆、うっすらと笑みをうかべていて、心安い家庭をソロドブジエに想像させた。
金色のプレートには、この屋敷を建てたというスフロフスキー=ハボドゥジーネ、そしてその妻、その娘、娘の夫と書かれている。プレートは、その絵の古さにそぐわない、真新しい光を放っている。
「先生、」
呼ばれて振り向く。廊下の奥に老紳士の姿が見えた。
コートを脱ぎ渡し、早いが患者を見せてくれと頼むと、ウルジェーリ=リュドゥージャは「かしこまりました」と一言。ベルボウイにコートを預けると颯爽と歩き出しだ。
ソロドブジエは慌てて声をあげる。
「紙とペンを部屋から取ってきたいのですが!」
「おぉ、それはそれは。失礼いたしました。カルテというやつですな。では私もソロドブジエ様のお部屋までお付き合いいたしましょう」
■ 4 白く黒く ■
……ロシアでは現在、超能力医療が発展し、超能力病院が数多く存在する。
もちろんカプレコグ病院もそのひとつであり、ソロドブジエ自身、いくつかの超能力を持っている。
透視、ヒーリング、サイコキネシス……。
その中でも、彼が最も得意とするのは、超能力を用いた催眠治療である。
最近では「意識解剖」という名で新たな分類の申請もなされている超能力治療であり、今のところソロドブジエしか使えない、特殊な能力でもある。
軽度の病気や怪我であれば、先ほどの少女のように、言葉だけで脳に直接暗示をかけることも可能だ。痛いという脳の信号を麻痺させ、麻酔薬も打たずに手術が可能である。実際、出張前に行った瘤の摘出手術は、まさしくそれであった。
しかし、意識解剖という能力の核は、また違うところにある。それは、ゲノムノートという人間の根源、遺伝子の羅列を変え、脳と身体に直接影響をおよぼすというものであった。神の与えた羅列を人工的にかきまわすため、患者への負担が大きく、また、その配列変化の辻褄合わせのように、術後の患者のどこか一部分「のみ」が、すっぽりと抜け落ちてしまう。
現在ではまだ何件かしか成功事例が出ていないが、既にその世界では噂がひろがりつつあった。
――悪魔の所業として。
そして今回の依頼も、まさに意識解剖を求めてのものだった。
ソロドブジエが簡単なカルテ用紙とペンを用意するのを待って、有能な執事はまた歩き出した。
「今後、面会をお求めの時には私めにひとつお声をかけてくだされば、鍵を開けますので」
老人はポケットの奥から鍵を取り出し、行き着いた小さな木製のドアを開けた。そこは、ソロドブジエが泊まっている部屋と大して変わりのない、豪華な調度品に彩られた部屋だった。
「どうぞ」
ウルジェリュはカーテンの奥に隠された、もうひとつのドアを開け、ソロドブジエに入るよう促す。
なんとも言えぬ臭いが鼻をつき、思わず顔をしかめる。
狭い窓がひとつあるだけの、黒い部屋。
ベッドの上で、何かが蠢いた。
それは紛れもない乾いた老婆だった。髪は伸びきり、所々が金に光って見える以外は白く、弱々しい腕で、やっとのことで起き上がる。
「先生、紹介いたします。この方が大奥様、ネヘテシアー…」
「私はそんな名前ではないわ!」
ウルジェリュが紹介したとたん、細い声がキンと響いた。老婆は異様に光る眼球でソロドブジエを見据え、どなたかしらと尋ねる。それも、威厳を保とうとしているかのような、虚勢のような、切羽詰った声であった。が、直後ひどく咳き込んだ。収まるのを待ち、声をかける。
「初めまして。ボクは医者です。あなたを治療しにー…」
「スパイね」
「え、」
「家を追い出されてなお、降りかかる試練! わかっているわ。スパイなのねッ!! 執事! 追い出して頂戴!!」
「ネヘテシア様……」
「私はそんな名前じゃありませんわ! 私の、私の名前はー…!」
そこまで言いかけ、老婆はソロドブジエをじっと見つめた。手馴れた医者はすかさず
「体温と血圧を。失礼」
と事務的に動く。テキパキと血圧を測り始めると、老婆は疑惑の目を向けたまま、それでも大人しく診察を受けた。
基本的な事柄をカルテに書きとめ部屋をざっと見渡す。本当に何もない部屋だった。しかし、その対処こそが正しいだろう。この匂い。結核持ちか。精神もひどく切羽詰っているようだ。様々考え直すため一旦部屋に戻りますと言うと、老婆はひどく高みから一言。
「下がってよろしい」
「あ、まだ僕の名前を言っていませんでしたね」
「要らないわ! スパイの名前なんて」
「トゥスクリズ=ソロドブジエです。よろしくお願いします」
「……私の名前は、」
★
受話器をあげ番号を押すと、三回もコールしないうちに繋がった。
「はい、カプレコグ病院。精神科受付です」
「あれ、その声ベーロチカ? 今日の昼勤務って受付担当なのー? 暇? ねぇ暇? 僕だけどー」
「……トゥスクリズ先生。僕、ではなく、もっとマシなお名前が貴方様にはあると思いますが?」
「あははごめーん、わざと」
雪で凍りつく笑い声を聞き、電話の向こうではため息がもれた。
「ターニャでしたら今は会議中ですよ。繋ぎましょうか」
「や、ベーロチカに頼みたかったの。調べてほしい事があるんだー」
間が空く。
回線が切れないうちに、手のひらで温めたコインを数枚入れた。
「――良いですわ。明日の休みを有給でいただければの話ですが」
「手続きは事後でいい?」
「えぇ、」
「オッケー」
そこまで会話が進んだところで、ソロドブジエは一呼吸ついた。
現在会議中のマネージャーはかなり有能であるが、それにも増してこの病院の看護長は大変信頼のおける婦人なのである。
「あのさぁ、ニコライ二世の四女って……そう、あの女の子」
推理などではない。しかし、それを捨てきれないのは、崩壊前の幸せな家庭を見ていたからで。
老化のシグナルを出す遺伝子を、操作するのは簡単だった。完全に消し去るのではなく、すこしシグナルを遅くする配列に変えればいいのだ。おかげで毎日風呂に入らなければならないが、別段苦でもなかった。
ソ連崩壊後の混乱。住民の証明書を書き換えるのさえ、たやすい。たとえソロドブジエが、あの時点で三十年余り、子供の姿で過ごしてきたとしても、だ。
わざと。懐疑的に。
「――アナスタシアって名前じゃなかったっけ?」
■ 5 隣に立っている ■
電話を終えると外は、いつの間にかうす暗い闇に包まれていた。吹雪はひとまず止んだらしい。だがまだ雪はちらついている。歩いて屋敷へと戻るとウルジェリュがソロドブジエのコートを取り、ディナーの準備ができている事を知らせた。
部屋へ運んでもらい、しかしそれには手をつけず、ソロドブジエは近くの窓から外を眺める。雪の乱舞はやまない。飽きるまで眺めた後またあの依頼の手紙を取り出し、ソファに腰掛けると、はじめから読み始めた。
『母が病気です。先生ならきっと治せると思ってこの手紙を書いています。母は、自分ではけんこうそのものだと思い込んでいて、病院に行きたがりません。けれどずっと咳き込んで、この前たおれてしまいました。それに、自分のことを王家の「まつえい」だと信じて言いはじめ、僕にも、母は少し気が変になったんだとわかって、とても悲しいです。父さんはくらい部屋に母を閉じこめて、それからはもう僕に会わせようとしなくなりました。モスクワの先生の話はこっちまで届いています。先生なら、きっと、母の心も体も、ぜんぶ治してくれると信じています。おねがいします。母を治してあげてください。ソロドブジエ先生へ。』
署名はない。
文体からして、まだ子供だという事はわかったのだが、それにしても。
ソロドブジエは不思議に思う。そういえばまだこの屋敷の中で、子供を見たことが無い。
不可思議なことはまだある。この文が子供だとして「病気の母」があの老婆なのだろうか? 病気の母があの老婆だったとして、子供はというと、ソロディン卿という事になる。あの大きな男が、こんな幼い文章を書くだろうか?
あるいは「父さん」がソロディン卿だったとして、ソロディン卿の妻はどこにいる? 子供は? ウルジェリュは手紙でやってきた先生という事を知っていて、ソロディン卿の部屋や老婆の部屋へ通した。
老婆は自分をアナスタシアだと言った。ロマノフ家の崩落。老婆の年齢とあわせると確かに合ってはいるが、それはベーロチカの調べ次第で後ほど変わってくるだろう。
さぁ。
僕は。
どこを間違っている?
きっと根本から間違っている……。
口に手をあてソロドブジエが長く考え込んでいると、ノックの音とともにウルジェリュが顔を出した。
「先生? お食事はお済みになりましたかな?」
低いテーブルに置かれたまま手をつけられていない皿を見、細身で小柄な執事はサッと驚きの色を示した。が、直後。ソロドブジエに向き直り、後ろに手を組んだ。直立したまま無言で空を見つめている。
この執事は聡い。ソロドブジエは、ターニャよりも控えめでターニャより聡い人間を久々に見た、と思った。長考している自分が質問するのを予期し、待っているのだ。
「……すみません、お腹は空いてるんですよ」
「それは良うございました。本日のチキンキエフはシェフの自信作でして、先生の感想をぜひ伺って来いと。ボルシチも、温めなおしたものをもう一度持ってこさせましょう」
執事はニコニコと手をすり合わせ、しかし立っている場所から動こうとはしなかった。やはり聡い。
「あの、ちょっと聞きたいことが……」
「えぇ! 何なりと」
「今回の、僕への依頼の手紙を出したのは誰ですか」
「……それは、したためた人物という意味ですかな? それとも、投函した人物という事であればー…私めでございますが」
「何色の封筒か覚えてますか、」
ウルジェリュはしばらく視線を空中にさまよわせ、こういっては何ですが、変なことをお聞きになりますな先生、とひっそり笑った。
「私めの記憶が正しければ、カーキ色……」
――ゴトン!
ソロドブジエが立ち上がった拍子に、ソファは大きくゆれ音をたてた。
「どうなされました、先生?!」
「これからソロディン卿に会うことは、」
「申し訳ございません先生。ご主人様は今夜、村の会合に出席しており明日もスケジュールが詰まっておりまして……、どうなされました?」
ふらりとソファに座りなおした男の顔は青く、血の気が引いている。しかし元から白い肌をしているため、その様子は巧みに隠れていた。
「いいえ。なにも……あともう一つ聞きたいんですが、患者の年齢を。知りたいんです」
「大奥様ですか……はて、私めにもなんとも…。誕生日でしたら6月18日ですな」
★
「あの館に比べれば、ここなんてまだいい方。
私たちは窓を塗りつぶされたうす暗い部屋に一日中閉じ込められて滅多に外に出してもらえなかったわ。外で待機している兵士たちも、護衛なんかじゃなく全員敵なのよ。
トイレに行くのさえいやだったわ。彼らは、私たちが通るたびに下品な罵声をあびせるのよ! 部屋にいる間でも、外から卑下た歌をあびせられて。
私たちはそのたびに賛美歌を歌ってそれを聞こえなくして、ずっと耐えていたわ。
けれど、あの日。
あぁ! 思いだしたくもないあの夜!!
私たちは突然たたき起こされて、地下室へ連れて行かれたわ。町で暴動が起きてしまい、いつここに暴徒が乱入してくるかわからないからといわれて……。
私の可愛いジェミー。
まだこんな小さな子犬だったのよ。いつも虐待されて……あげく、あぁ!
殺されてしまったわ。
ジェミーだけじゃあなくってよ。私の最愛の姉たち……父、母、弟、果ては従者たちまで! でも私は生きていたの。あいつら、銃を乱射したけれど私だけは姉たちの死体の下で、生きていたのよ。息をひそめて、死んだフリをして。
兵士の一人が気がついていたけれど、彼の慈悲で死んだことになったの。毛布に巻かれてトラックへ投げ入れられたわ。死体を焼くために、どこか遠くへ行くために。
私は暗いなか、死んでいるみんなにお別れを言って、毛布ごとトラックから飛び降りたの。深い森の奥だったわ。
私はずっと一人で果てしない時間を歩いて、そしてこの村へたどりついたときには、もうボロボロの状態だったわ……」
■ 6 その意識の奥で ■
モスクワの空は今日も曇っている。
雪は久方ぶりにやんだが、気温はことさら低く、カプレコグ病院の周囲をしんと冷やしていた。
ヴェニニャータ=ヴォドルブスキー、通称ターニャが、主のいない理事室に入り込んだのは連絡を受けた昼のことだった。しかし、誰もいない筈の空間に、ひとつの影。
カーテンの隙間から光が洩れ、ウェーブを描く金の髪と豊満な胸、そして腕章がつけられた看護服をあらわにした。先客は、カプレコグ病院精神科の看護長を務めている、ベーロチカ=ルジェノヴォクである。
「……看護長?」
ひかえめに放たれたターニャの疑問をよそに、聡明と名高い看護長はそっと机に指をあて、埃をすくいあげた。
数日ぶんの白が指に塗られる。
「理事長代理、トゥスクリズ先生の出張は……中止した方がよろしいんじゃなくて? すぐにでも……呼び戻した方がよろしいんじゃなくて?」
「行く前に散々言いましたよ」
ターニャは降参だとでも言いたげに両手を挙げ、理事室右壁の棚へと歩を進めた。
紐で縛られた手紙の束を取り出し、机の上に積み上げていく。最後の束を置いたところで、ターニャは先ほどから婦人が一歩も動いていない事に気付いた。普段であれば、仕事を極限まで詰め込み、セカセカと忙しく院内を歩き回っている、辣腕の、あの婦人がである。
ターニャは確信した。
今から発する問いに対して、必ず良い返事がもらえるであろう事を。彼女は――今、トゥスクリズ=ソロドブジエを案じている。
つとめて明るい声を出し、ターニャはベーロチカの目を見た。
「看護長。今、お時間は? ひとつ手伝いを頼んでも?」
「ええ、」
「この束からカーキ色の封筒を選び出してほしいのです。カーキに近い色味も含めてお願いします。私はこちらの束を。あぁ、他の色の封筒は床に落として下さい。あとで掃除しますから」
二人は作業に取り掛かった。
膨大な量の封筒。その中身は、全てソロドブジエへ宛てた出張治療の依頼書である。しかし、どれも封が切られていない。少し前までは、ターニャが律儀にも読んでいたのだが、あまりにくだらない内容が多すぎて諦めたのだった。
数ヶ月に一度、この束の中からランダムに封筒を選び出し、その内容がまともでありなおかつソロドブジエの興味を引くものならば、出張に行く。という、なんともお粗末なシステムとなっている。
今回の出張……、ターニャは止めたがソロドブジエが行くと言ってきかぬため、仕方なく、彼は封筒裏の電話番号――判読にかなり時間がかかった――に電話を繋げた。すると、ウルジェーリ=リュドゥージャという初老の男性が出た。
『私はカプレコグ病院のヴォドルブスキーという者ですが……』
『なんと! もしや、治療依頼の件ですな?!』
『えっ、……あー、えぇ、それでー……』
『先生はいつお着きになられますか! 部屋は心配要りません。ワタクシどもはホテルを経営しておりますので、最上級の部屋をご用意させていただきます! おお、なんという幸運! ありがたいことでございます! こちらまでの道順はファックスで送りますので……』
という具合にまくしたてられ、ターニャは、あの、子供がいたずらで書いたような依頼の手紙は、本物であるという結論に達したのだった。
しかし……。
封筒選別の手を休めずに、今朝の電話を思い出してターニャは顔を歪める。
子供が書いた依頼書の封筒は白。青いインクで書かれていた。ソロドブジエが出向いた先の依頼主、ポアジャル=ハボドゥジーネが送ったとされる依頼書の封筒は、カーキ色だというのだ。
最後の一通が床に落ちた。
机には、全てのカーキ色、そしてそれに近い色だけが残されている。今度は送り主の文字を舐めるように読んでいく。果たして封書はあった。宛先はカプレコグ病院精神科御中、送り主は、ポアジャル=ハボドゥジーネ。中を確認する。内容は、結核におかされ、自分が何者か分からず妄想に執着する祖母を救って欲しいというものだ。
「――見つかったようなら、これで失礼しますわ」
ハッとターニャが顔をあげると同時に、理事室の扉は強く閉められた。
見つかった事に意識がいきすぎて、看護長のことをすっかり忘れていたのである。
★
ネヘテシアの診察では、ずっと戸口にウルジェーリ=リュドゥージャがついていた。心音を聴こうとしたり必要以上に触ろうとすると忠告される。モヤモヤと気にかかっていた事のひとつだ。しかし今度ばかりは主に呼ばれ、ソロドブジエを気にしながらも執事の姿は外へと消えた。
素早く戸口に駆け寄る。耳をあて、誰の気配も無いことを確かめるとソロドブジエはクスリと笑った。
その笑みを、顔にはりつける。
なるべく汚らしい、本性があらわれたという低い声を出す。
「――ようやく、誰もいなくなった」
医師の豹変に、老女は自らを納得させうるべき答えを導き出した。
「お……っ、お前はやはり、スパイなのねっ! 執事、助けて! こ、来ないで、こっちに来ないで!!」
「来ないで? 『どうして』来てほしくないのかなぁ?」
コツリ、一歩を踏み出すと、老女はガタガタとふるえはじめた。
「いや……!」
「いや? いやだから? 僕が――、『何か』するとでも?」
「助けて、やめて! 殺さないで……!」
恐怖をあおるようにせせら笑いながら、医師はまた一歩近付く。
「殺す? 僕が『誰を』殺すのかな、あぁ、『誰を』殺そうかなぁ?」
一歩。さらに一歩。
老女は何かを抱えるような仕草をし、ベッドから転げ落ちた。必死に壁際へと這い、ついには部屋の隅に、何かを背中にかばうよう両手を広げて泣いた。ソロドブジエは笑顔で詰め寄り、右手で銃の形をつくる。
「やめて! お願い! ジェミーだけは……!!」
「あなたの『息子』の名前は、ジェミーというんだね?」
コクコクと頷いた老女は、もはや老女ではなかった。身を挺して
息子を守ろうとする母親であった。ソロドブジエが「バン!」と言うと女は気絶し、同時に開かれた扉のノブを、青ざめた執事が握っている。
■ 7 組み立てられた ■
肩をわなわなと震わせ、執事は言った。
「……先生、これは、……なんて、ことを、………」
ソロドブジエは女を抱きかかえる。ベッドに寝かせると衣服を剥ぎ取り、丹念に体を触りはじめた――、確信を持った鳶色の目を閉じる。ゆっくり息を吐きだすと、彼女の服を元に戻して毛布をかけた。
「先生……、先生! 旦那様に……お知らせいたします!」
「そうして頂いて構いません。もちろん、ウルジェリュさんもご一緒に。片棒を、かついでいらしたんですから」
笑った医師の、見透かし、射るような視線。
執事は先ほどの昂ぶりも忘れて凍りついた。
――この医師は、何もかもを解っていらっしゃる。だが、なぜ……?
完璧であったはずの計画が、どうして解かれてしまったのか、執事には検討もつかなかった。いや、完璧と呼ぶにはあまりにも脆弱だったのだろう。しかし、こんなに早く……?
動揺している執事をよそに、ソロドブジエは戸口の前で素早く消毒した。霧吹きの消毒液を手と顔に噴きかけ、白衣を脱いでビニール袋に詰める。
女が寝ているみすぼらしい隠し部屋の扉を、ゆっくりと閉めた。
「今日、モスクワの病院から連絡が来る予定です。それまで自室で待機していても?」
「……いえ、いけません先生。少々、こちらでお待ち下さい」
やっとの思いで言葉をしぼり出し、執事は足早に豪華な部屋を出た。が、すぐに部屋へと舞い戻る。
「お電話が届いております。ヴォドルブスキー様から。フロントにてお受け取りください。その間、私めはご主人様に取り次ぎますので、電話が終わりましてもフロントでお待ちいただきますよう……くれぐれも、お願い申し上げます」
医師がホテルフロントにて、ボーイから受け取った受話器を右耳にあてると彼にとってはお馴染みの声が、歌うように流れた。
「まったく、疲れましたよ。連絡、1日空いてすみません」
「ごめんねーターニャ。あんまりよろしくない事になったよ」
「そうですか」
淡々とした声である。
「カーキ色の依頼書が見つかりました。それと、看護長から伝言を預かっていますよ。有給の件というのは何です? ……まぁいいです。死亡は確認されている、と公的に発表されている。夢もほどほどに。とのことです」
「了解」
ソロドブジエは周囲を見渡す。フロントカウンターに人はいない。執事もまだ戻ってはきていないようだ。
「ターニャ、僕死ぬかもしれない」
「そうですか」
淡々とした声である。
「実は看護長が、きのうの昼から有給を取っているんです。というか今日でお帰りになられるんでしたよね? 患者はどうなっています?」
ソロドブジエは向こうに飾ってある肖像画を見た。ソロディン卿の家族4人が描かれているものだ。最初に見た時と同じように、女達は微笑みながら椅子に座り、男達もまた、優しい表情を浮かべながら立っている……。
「僕にあのひとは治せない」
静かな一言を聞き、ターニャは受話器越しに机をペンで叩いた。
「そうですか。では、さっさと荷物を持って帰ってきてください」
★
数日ぶりに会ったソロディン卿は、やはり大きな躯体を大きな椅子に沈み込ませていた。部屋の扉を閉めた執事が、後ろ手に鍵をかけた。ソロドブジエの耳に、その音は確かに届いていたが、気付かないふりをして数歩、ソロディン卿に歩み寄る。
「トゥスクリズ=ソロドブジエ殿……一体どういうおつもりですかな? 祖母の精神を追い詰めるような事を、したというではありませんか」
大男の声にあわせて椅子がギギ、と悲鳴をあげる。医師は、首をかしげ、声のトーンも高く言い放った。
「祖母、ですか? 栄養失調の体、洗っていない肌の汚さと白髪だけで、祖母とは……。あんまりではありませんか? あなたの――、妻に」
「なっ、何を言っておられますか先生!」
ソロドブジエの声に反応したのは、戸口の執事の方である。
「証拠がありませんぞ! こちらには証拠が、あの肖像画のお顔そのままではないですか!」
「あのプレート、かなり新しかったですよね。本当はあれは「曽祖父母と祖父母」ではなく「祖父母とあなたとあなたの妻」を描いたものではないのですか、ソロディン卿。あなたが、あの絵の時点から太った。それだけの話です」
椅子が、さらにギシギシとがなりたてる。ソロドブジエは続けた。
「なぜ僕に依頼をしてきたか? それは狂ったことにすれば話が早いからだ。僕の専門は精神科ですからね……基本的に、体に触らない。すると容易に狂っていると判定してもらえる。ではなぜ彼女が狂っていると公に証明したいのか? それは「ジェミー」が消えた、という彼女が訴える事実を、狂ったことにして――」
「先生! おやめください、先生!」
窓の遠くから、低く、鐘の音が響きはじめた。
「消してしまいたかったから。あなたが、ジェミーを殺した。妻の目の前で。おそらく日常的に虐待していた、あなたの、息子を」
沈黙し、鐘の音とソロディン卿の影が室内を満たす。大男は立ち上がっていた。ソロドブジエを覆い隠すように。青年はポケットから手紙を取り出す。ソロディン卿の息子ジェミーが書いた、拙い字の依頼書を。
「僕には彼女を治すことができません。たとえ一時的に治ったとしてもまた狂うでしょう。真実から逃げ出すために……診断書は、僕の部屋に」
ソロディン卿は手紙を読み終わったあと、両手を差し出した。
「ぉお……先生……まことに、感謝いたしますぞ!」
卿の手が、医師の首にかけられた。ソロドブジエはとっさに指をこめかみに当てる。締められ、ゆすられる。ガン、と、頭に硬い衝撃。目の前が白く光り、明るい闇がそぞり寄る。あの影が、無数の手が、来る、レニエム先生――…。
倒れ、死んだ青年を前に、ソロディン卿は次第に息を落ち着けていった。それとは逆に執事は、ことの重大さに眉間のシワを深く刻んでゆく。
「シーツか何かにくるんで、就業時間が終わるまでここに置いておけ。皆が寝た後、外に運び出す」
「……かしこまりました、ご主人様」
窓の外の明るい吹雪がやむと同時に、正午の鐘の音が、終わった。
■ 8 冬の鐘に ■
母親に、手をひかれ。
少年はぼんやりと歩いていた。小さな手。彼は、少年というには体格があまりに小さい。
少年がちらりと上に目をやっても、母親は彼を見ようとはしなかった。頑なに前を向いたままだ。少年は諦め、下を見る。服はもう何ヶ月も洗ってもらっておらず、泥で汚れていた。靴も拾い物だ。母親が前にどこかから拾ってきて、少年に投げつけた。彼は自嘲し、涙はおろかその笑みすら……母親は見たくないのだという事実を、ただただ再確認した。手すら触りたくないのだろう。母親は、厚手の皮手袋を二重にして彼と手を繋いでいた。いつもは少年の首にリードを繋いでいたが、今日は世間体を考えているようだ。そこまで思って少年はため息をつく。寒さで、ハリッと白が舞った。
たどり着いたのは古い鉄筋のアパートであった。
「――本日予約していた者ですが」
インターホンに向けた母親の声。扉が開いた。
そこにいたのは若い女性であった。肩まで伸びた金の髪、ふくよかな胸、聡明さが透けて見えるような、力のある青い瞳。微笑む、太い唇。
「お待ちしておりましたわ! レニエム=ドストエフスカヤです。さぁ、どうぞお入りになって」
レニエムは、親子を応接室に通すと丸テーブルをはさんだ奥側に腰かけた。座るように促す。ところが――、母親は微笑みながらソファに座ったが、少年は立ったまま、ぼんやりと虚空を眺めているだけで。
レニエムにとって、一目瞭然とはまさにこのことであった。
虐待。
口に出さずとも、ここを訪れる親子のほとんどがそうであり、また、この施設もそういった親子のためにこそ、存在している。
何度も目にしているが、やはり心が痛む……そう思い、レニエムは微笑むよう努力にながら少年の肩に手をかけた。
そのとたん、
「先生! あぁ、いけません! 悪魔が乗り移ってしまいます!」
叫んだのは母親である。
一体どういう事なのか、問いただしたい衝動にかられながもレニエムは少年の肩から手をはずした。聡明な彼女はこんなところで取り乱したりはしない。自分の中の「感情的な自分」に話しかける。
――大丈夫、書類にサインをしてもらった後で、彼の保護権が確実にこちらに移ったあとで対処すれば良い事だわ――。
少年を立たせたまま、母親が書類に記入し終わった。このちいさな少年を施設に入所させるための書類である。
が。ここでも彼女は、驚きの色を必死に隠さねばならなかった。
少年の年齢の欄に「10」と書かれているのだ。個人パスポートの生年月日を確認する。やはり計算しても10才。今年で11才になる。
どう考えてもこの少年は、いや、この子供は、やはりどう考えても4才ほどにしか見えないのに……?
それも、ここによく来る子供達のどれとも違う。ネグレクトなどで弱っている子供は、しばしばその年齢より下に見えるほど細い。しかしこの少年はそうではない。ボロボロの衣服や、消えかけた痣の見える皮膚を除外しても、ごくごく健康体であろうことがうかがえた。
――健康な、普通の、4才児に見える。
顔には出さずとも、書類と少年を交互に見るレニエムに対して、母親はこう言い放った。
「あぁ、もうお気付きになりましたでしょう? この子は……この子は悪魔なんです、先生! 私、もう限界なんです! ここまでやっとの思いで育ててきたんです、けれどもう、もう……!」
少年の瞳がかすかにゆらいだ。これ以上傷つけさせるわけにはいかないと、レニエムは立ち上がり母親の背中をやさしくさする。言葉だけは強く。
「後ほど所員が聞きますので、さぁ、承諾のサインを」
……母親が別室へと移る。別れの際にも母親は、少年を見ようとはしなかった。レニエムは立ちあがり、戸棚からクッキーの缶を取り出す。往年の名店・ドゥジェヴァーダの詰め合わせ缶である。
「クッキーは好きかな?」
「………」
「あっ、自己紹介がまだたったね。レニエム=ドストエフスカヤです、よろしくね! ええと、きみのお名前はー…」
「僕は売られたんですか?」
流れ出た甲高い声からは、悲壮感というよりも、何もかも諦めきった機械的な確認の意思がみてとれた。
「ソファにかけてちょうだい。もうここでは、自由にのびのびして良いのよ。きみのお名前は?」
「……悪魔。母がそう言っていたじゃないですか」
自分の質問がないがしろにされたなら、こちらの質問もないがしろにする。消極的な挑戦者。レニエムは姿勢を正し、クッキーを勧めた。
「ソロドブジエ君。きみは今日からここで暮らします。このアパート全体が、家族から見放された子供達のための施設として動いています。職員はほとんどがボランティアです、私もね。衣服は寄付されたものを自由に着ていいし、食事や、諸々の費用は募金で賄われています。ただ、もしご両親に会いたくても、無断でここを抜け出さないことだけがルールよ。ここまで大丈夫かしら?」
「もちろんです、レニエム「先生」?」
「先生はいらないわ。きみの事をきいても大丈夫? とても小さいのね」
ソロドブジエは、今まで自分の中にあった概念を、はじめて口にした。
彼にとって、自分の身体は一冊の本のようなものであり、ページを破り、追加し、バラバラにして組み替え、操作することができるというのだ。打撃を与えられ痛かったら「痛くないように操作」し、食事が与えられなければ「腹が減らないように操作」する。そういった過程で「体が成長しないよう操作」した、というのである。
レニエムは驚きをひとつも隠さず、笑った。
「神秘的ですごい事ね! でも、体が成長しないと、色々不都合があるのよ。うーん、ケーキをホールで食べられない、とかね。今からでも身長は伸ばせるのかしら?」
この言葉には少年も面食らった。
今まで、ソロドブジエの言葉に賛同してくれる、かつ何かしらの助言を与えてくれる、といった人間は、彼の周りには存在しなかったのだ。
少年はレニエムをじっと見つめる。彼女はおおきく、力強く頷き、再度クッキーを勧めた。少年は一口、噛む。さくっと、音をたてて。
「甘い……」
……目を開けるとうす暗く、ソロドブジエは全身を布に巻かれていた。首を絞められたことによる脳の酸素不足と頭部殴打による脳内出血は滞りなく治っていた。ただ、右の耳介を「とられた」感覚だけが強く、今しがたの夢の余韻を、容赦なく消しはじめる……。
■ 9 手をかざす ■
「はい?
どちらさまで?
えぇ、えぇ、えぇ、あぁ、先生の!
大変申し訳ございませんが、先生は本日の昼過ぎにここを発たれたのです。残念ですが――、えぇ、入れ違いになられたようですな……。
え?
いえいえ……まぁ、なんと……違うと申されましても……はて、困りましたな。
ソロドブジエ先生は、確かにチェックアウトなさいました。サインも頂いております。……いえ、お見せする訳にはいきません。個人情報ですので。
はぁ、客人として?
泊まる?
本日ですか?
それこそ困りましたな。本日は生憎、団体の観光客が来られまして客室は全て、えぇ、満室なのです。申し訳ございません。
しかし、このような吹雪の真夜中に、他のホテルまで歩くのも大変でございましょう。よろしければワタクシどもの方で車を手配いたしますので、ロビーでお待ちになっては……」
ベーロチカ=ルジェノヴォクは慣れた手つきで、全身に貼り付いた雪をくまなく落とした。荷物を右手に下げ、コートを着たまま、冷えたロビーのソファに腰掛ける。
ロビーの照明は全て落とされ、チェックフロントのカウンターだけが暗闇の中でぼんやりと光っていた。
――あの老人が言ったことは全て嘘だ。
彼女は確信している。
そうでなければここまで来ないだろう。
妙な調べものを頼んできた電話越しの医師の声、理事長室の床に散りばめられたカーキ色以外の封筒たち、背だけが高いあの堅物の理事長代理が簡単に有給の申請を通した事実、そして――、カプレコグ病院の者だと告げた時、支配人であろう老人はなぜ患者の、治療の礼を一言も話さなかったのか――。
ベーロチカの胸のざわつきは、ホテルに着いてから収まるどころかますます強く、警告を発していた。
程なく、老紳士は、何かを手に隠しながら現れた。
緊張が高まり、ベーロチカはバッと勢い良く立ち上がる。
「車を呼びましたので。この雪ですから、残念ながら玄関口まで来られないようで……村の大通りの交差点で待機するとのことです」
支配人は、隠していない方の手でやんわりとベーロチカの背中を押し出した。その手の力強さに困惑しながら歩き出す。様々な疑念が、彼女の頭の中を飛び回る。
早く帰れという事か、何を隠しているのか、トゥスクリズ先生は、こちらから大声で問い詰めようか、何を隠しているのか、笑顔が怖い、ナイフ? 殺そうとしている? まさか。先生は? 先生も、まさか!
気付いたときには、玄関の扉の前。ドン、と扉に押し付けられた。ベーロチカの左の手袋に棒のようなものを握らせ、老紳士は小声でささやいた。
「――生きております。玄関を出て左から裏へ、小屋の中に」
驚き、彼女が振り向くと、支配人と思しき老紳士は何事もなかったかのように姿勢を正した。
「村の大通りは、ここから一本道を百メートルほど行った所です。街灯があるのですぐにお判りになるかと思います。生憎の満室でお力になれず申し訳ございません。どうぞ、お気をつけて」
外に出て扉を閉めると、ベーロチカは左手に目を落とす。果物ナイフだ。彼女は荷物を背負うと吹雪の中を走り出した。
左に曲がる。とたんに、足首まで積もっていた雪がヒザの高さにまでせまってきた。ここから先は除雪されていないのだ。蹴るように雪を掻き分ける。ブーツの上から、雪が進入する。構わない。進んで行く。見える窓には全て厚いカーテンがかけられており、明かりはないが、重い壁の気配を左の頬に感じながら、ベーロチカはできる限り真っ直く進んだ。早く、早く、早く。
ふっと足の重さがなくなり、彼女は無様にも転倒した。除雪されている場所――ホテルの裏手に出たのだ。痛みに耐えながら立ち上がると、唐突に風が止んだ。右側に、闇が一層濃くなっている場所を発見する。小屋だ。駆け寄り、手探りで出入り口を見つけ中に入った。
片足を軸に、もう片方の足で円を描いては前進した。四回目で壁にぶつかる。向きを変えまた足を動かすと何かに当たり同時に
「ぐッ……」
ぐもったうめき声があがった。ベーロチカは素早く屈んで手袋を滑らせ、布の塊の先端と思しき場所に口を近づけた。
「先生? トゥスクリズ先生?」
返答は無い。ベーロチカは左手の果物ナイフで行き当たりばったりに布を切りつけた。切り口から手探りで裂き、そこからまたナイフで切り続ける。布の塊は縛られた医師へと変化した。暗闇に目が慣れてきたベーロチカは、続いて手袋を脱ぎ捨て縄を切りはじめた。最後にソロドブジエの目に巻かれている布を掴み、指と皮膚の隙間にナイフを滑り込ませ動かすと、ブツリと音を立てて切れ、お馴染みの顔が現れた。
闇の中、鳶色の目がゆっくりと開かれる。
ベーロチカが冷たい、と感じたのは、触れられた唇よりも頬に添えられた、トゥスクリズ=ソロドブジエの細い指先であった。
二秒後、無言で彼を押し返す。
ベーロチカは唇を手で三度ぬぐい、ストールを鼻の上まで巻き直すと立ち上がり、ソロドブジエの背後に置かれていたコートを、彼の肩にかけた。手袋を慎重にはめ、深呼吸し、ベーロチカは全く感情がこもっていない声で言った。
「帰りますわ。先生」
★
ポアジャル=ハボドゥジーネは逮捕された。
彼は、彼の執事兼、ホテルの支配人でもあったウルジェーリ=リュドゥージャを縊死させた疑いがもたれている。
ソロドブジエ医師に手紙を寄越したジェミーという名の子供については、ハボドゥジーネ家に捜索の手が入ってからも、その存在が確認されることはなかった。唯一の証拠である手紙も破棄された模様である。
この件に関連してヴェニニャータ=ヴォドルブスキーは先日、ネヘテシア=ハボドゥジーネの入院を拒否した。カプレコグ病院はモスクワ随一の総合病院であり、精神科に入院させるための費用は高く設定されている。その費用を賄うあてがない、というのが主な理由である。
ターニャから報告を受けたソロドブジエは力なく首をふり、気に入りのウォールナットの机をコツコツと叩いた。窓の外は吹雪だが、もう、何の音も聞こえることはなかった。
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