「先生、準備はできましたか?」
コンコンとノックしてターニャが理事室に入ると、カプレコグ病院の理事であるトゥスクリズ=ソロドブジエは、びくっと肩を震わせた。
「た……ターニャ…」
バカでかいウォールナットの机の横、部屋の隅にうずくまっていた彼は、その灰色がかった緑の髪をゆらして、そろそろと振りかえる。
その手には大きなクッキーの缶が。
「――先生っ! あれほどクッキーは禁止と言ったでしょうが!!」
「ごめーん!! だってだって食べたかったんだもーん!」
今にも泣き出しそうなソロドブジエをにらみつけ、ターニャはその手からクッキー缶を取り上げた。
両手で抱え込んでも余るほどの大缶は、あの有名なクッキーチェーン店「ドゥジェヴァーダ」のロングセラー商品である。
「まったく、あなたという人は……。医者の不養生の鏡ですね。糖尿病になりますよ」
クッキー大好きなこの理事長は、給料日まで我慢できず、病院の予算をくすねてクッキーを購入したり、患者に貢物(手作りクッキー)をねだるなど素行に問題ありまくりで、一時期、失脚話が持ち上がったほどの珍奇な人物だ。
こうしてターニャが、必死の思いで理事長補佐に昇格した今となっても、彼はクッキーを食べることを止めない……いや、更に酷くなっている気がする。とターニャは思う。
ため息をついて缶を持ち上げると、異様に軽いことに気がついた。振ってみても音がしない。
ターニャはハッとする。
まさか、全部食べてしまったのかー…?!
中身を確認しようと、あわてて机の上に缶を置き、フタを外す。ベコン、という音とともに開かれた缶の中には、なんと、
「?!!!」
乾燥ワカメが入っていた!
ターニャはしばし呆然とし、ソロドブジエはクツクツと笑い出した。それはだんだんと大きくなり、しまいに彼は
「ドッキリ成功ー!」
と叫んだ。
「この前の衣替えのときに、クローゼットの中で偶然見つけたんだー」
彼は晴れやかな顔で立ち上がり、ふっかりとした理事椅子に腰を落ち着けた。さっきまでの泣き顔も、全てはドッキリ作戦だったのだ。
「…………」
「それでねー、ターニャを驚かせようと思ってねー、」
「………先生」
「ん? なに、ビックリしすぎてチアノーゼでも起こしたー?」
「……この、」
「え?」
「このワカメを入れる前のクッキーは、どうしたんですか……」
ターニャの一言に、ソロドブジエはあからさまに「しまった!」という顔をし、ターニャから目線をそらすと「アハハハー」とぎこちない笑い声を響かせはじめた。
「先生ッ!!」
「いいじゃんいいじゃん、ターニャのケチー」
モスクワの空は今日も灰色である。