■ 1 白い子供 ■
控えめなノックの波長といっしょ。
「……先生? いらっしゃいますか」
ドアの向こうから、なにか、声がする。けれど僕には、そのテノールに応える余裕がない。
どこからか無数の手がのびてきて、白い闇の、その光の中。僕の心臓をつかもうとするんだ。そうしてつかまれた心臓は濁り、不規則な動きを重ねている。
手はゆらめいてフラフラと、僕の腎臓を汚そうとする、僕の足を切ろうとする、僕の首をしめようとする、僕の血管に水をたらそうとする。
限りなく傷つけて、そこへ、新しい命を吹きこもうとするー…。
「先生、先生。いらっしゃいますよね。そろそろ学会へと行かれる時間ですよ」
僕はカタチだけ抗って、そのうち、乾いたくちびるを少しだけあけて許してしまう。痛みと恍惚の奥、とろけるような進化のさえずり。その禁忌の行為を。
意識は下からくずれ落ちてゆく。
僕の身体がなくなっていく。
発光する闇のとなり、誰かが僕を見ている。
幾重にも書き直されるゲノムノート。
束の間の幻覚でさえ、声が、
「先生。いらっしゃいますか先生」
……声?
「先生、先生!」
――ドン、ドン!
あぁ、そうだ思い出した。ターニャだ。
はずみで脳から落ちてしまった、僕の、遺伝子ピースの色たち。拾わなきゃ、足元に。
「先生! まだ寝てるんですか、入りますよ!」
ノックはやまない。
汚い極彩色のピースは、世界と同じ色をしている。世界は人間、人間は汚い、汚い世界、世界は人間……永遠の思考、回廊に立った僕の手は勝手に動き、口は勝手につりあがる。
は、は。あは、あははははは!
さぁ……両手で、すくえるだけすくおう。
「起きてください! ソロドブジエ先生!」
待ってて。今、組み立てるから。
★
――白衣を着た人々の群れの中で、ひとつ、緑の葉が舞ったような。
ヴェニニャータ=ヴォドルブスキーは、後に書いた本の冒頭で、意識解剖学の第一人者であるトゥスクリズ=ソロドブジエ名誉教授の印象を、こう語っている。
数ある超能力医療の中でも「意識解剖」というジャンルは、昔も今も特異――…悪魔との取り引きと題して研究が進められており、その構造を説明するのは少々難しい。
超能力医学の専門家でない限りは、簡単に、実践的な意味合いでの「催眠治療」と捉えておいてもらった方が説明し易いだろう。
催眠治療では実際、軽度の病気であれば「病は気から」の言葉通り、自分が健康であるという言葉の暗示や、必ず治るというサブリミナルを映画に刷り込んだだけで病気が治る、または状態が良くなる。
だが、重度の病気となると催眠では治りにくい。
そこで登場するのが「意識解剖」という超能力治療である。
意識解剖手術により、術者は患者の脳の中に入り込む。そして「ゲノムノート」という患者の身体構造を根本から書き換えることにより、どのような病気でも完治させることができる。まさに奇跡だ。
……しかし、代償として患者の身体の一部が失われる。
それは例えば小指だったり、片肺だったり、筋肉の一部だったりする。
それこそが「悪魔との取り引き」と呼ばれる所以であり、意識解剖に対して悪いイメージを持たせる原因だ。代償は、術者の意識や患者の希望に関係なく失われる。操作しようがない。一部の研究者の間では、意識解剖という治療そのものがまだ不完全だからだという説もある。
精神を病んだ患者に特に効果的なこの意識解剖治療は、現在「身体の病」と「心の病」その二種類以上のものに侵されているAクラスの患者に限り、治療が認められている。
だが、ヴェニニャータ=ヴォドルブスキー、通称ターニャがソロドブジエと出逢って間もない頃は、超能力医学会非公認の超能力であった。
ターニャは大学生の頃、シベリア鉄道の列車内でソロドブジエと偶然出会い、たまたま車内に急患が出て緊急の手術が必要となり、ソロドブジエの意識解剖手術に立ち会ったのだ。そしてその才能と将来性に惚れこんで、自らソロドブジエに交渉し、彼のマネージャーとなった。
治療は非公式なものとなったが、手術は成功し、患者は正気を取り戻し、病気も治り、そして右目の角膜を「とられた」のだった。
「――先生!」
扉を開いた瞬間、ターニャは勢いあまって前につんのめり、そのまま走って机に両手をついた。ゴン、と鈍く机が揺れる。
大きな音が立て続けに鳴ったにもかかわらずソロドブジエは回転椅子にもたれて瞳を閉じており、やはり眠っていたかとターニャは舌打ちをした。
ソロドブジエ特有の、灰色がかった緑の髪は軽くウェーブを描き、そのまま首にまとわりついている。ずるりと椅子にもたれているため、白衣は変にずれ落ち、彼の右肩だけはだけている。白衣の下はクリーム色のセーターだ。いつも鼻にかけている茶色の眼鏡は机に置かれ、英国寄りの端正な顔立ちがあらわになっていた。
揺り起こそうと肩に手を置くと、鳶色の瞳がゆるゆると開いてゆく。
「……やーぁ、ターニャだー」
のほほんとした声。ターニャは眉間にシワをよせ、ギリギリと言葉をしぼりだした。
「やあ、じゃないでしょう先生ッ……! 学会をお忘れですか!」
ターニャの手帳には「三時から超能力医療に関する学会に出席」と、しっかり書き込まれている。玄関口で待っていたのだが、いつまでたっても病院から出てこず、まさかと思って来てみたらこれだ。
入り口付近の壁から急いでコートと帽子を剥ぎ取り、それらをソロドブジエに渡すとターニャは自分のコートの前を合わせた。
「すぐに出発します。早く支度してください」
「えー、いいよぉーこんなの。自分の意識いじれば寒くないしー」
「時間がないんです、早く!」
玄関に待たせていたタクシーの扉を乱暴に開け、行き先を告げながらソロドブジエを放り込むと、運転手は口を真一文字に結んだまま、ゆっくりとうなずいた。モスクワの冬は、人を無言にする。
■ 2 緑の悪魔 ■
そろそろ学会が行われる会館まで着くというところで、突然ターニャのポケットから、けたたましい電子音が発せられた。
少々手に余るサイズの黒の塊を取り出すと、ターニャは慣れた手つきで通話のボタンを押した。この時代では珍しい、ポケットに入る携帯電話である。
「……あぁ、私だ。どうした?」
どうやら病院からのようだと、ソロドブジエは検討をつけた。寝たフリもここまでのようだが、本心から言えば、まだ眠っていたい。これから学会で袋叩きに遭うにしても、病院に戻るとしても、体力はギリギリまで温存しておくべきだ。
「あ、すいません、病院まで引き返してもらえますか?」
ソロドブジエの予想通り、ターニャはバックミラーの運転手にそう告げ、また携帯電話のボタンをいくつか押した。
「カプレコグ病院のヴォドルブスキーだ。皆さんお見えで? ……そうですか……えぇ、患者の容態が急変しまして―……」
ターニャは電話に向かって喋りながら、隣の肩をつかんで揺らす。
揺らされたソロドブジエの眉はひどくよせられ、気だるいうなり声がタクシー内に響いた。窓に顔をつけたまま、コートを頬までずりあげた。まだ寝かせてくれ、という合図だ。しかし優秀なマネージャーは構わずソロドブジエの背中をバシバシ叩いた。
「先生、ちょっと! もう、起きて下さい、先生!」
「……なーに」
ソロドブジエは重いまぶたをどうにか開き、シートに座りなおした。
「三〇一号の患者が、いよいよだそうで、」
「あー、セリョージャねー、そっかそっか」
A棟の患者の容態が悪化するという事は、同時に、緊急の意識解剖手術が必要だとの報せでもある。
車が揺れ、ターニャがソロドブジエを見ると、トロンとした彼の顔が徐々に覚醒するのがわかった。いつもの、極上の笑みがこぼれー…。
「……先生…」
「なーにぃ?」
「いえ、何でも……ありません…」
なぜこうも、狂っているように見えるのだろう。
笑いながら、この人が、悪魔のように残虐に人を殺してしまってもおかしくないように感じる。それは、ターニャがソロドブジエと出会ってから、何年も変わらない不可思議な感覚だった。
「あははー、今度はドコをとられるんだろう、ね?」
ゾクリ、背中に悪寒が走る。
笑顔が。
認めたくない。
この人は医者だ。
決して悪魔なんかではー……。
そのまま窓の外へと視線を移すと、丁度、雪に覆われた街角に、カプレコグ病院の正門が見えた。
料金を払い、コートを着たまま院内を小走りでかけてゆく。正門からA棟まではずいぶんと遠まわりだ。しっかり運転手に言っておけば良かったと、ターニャはため息をついた。
外科の受付を横目に、待合室、レントゲン室などを通り過ぎる。患者や外来の人々が、走っている二人を不思議そうに眺めている。ソロドブジエが珍しいのだろう。それもそうだ。彼が普通の患者を診ることなど、滅多に無い。
――A棟へまわされない限りは。
意識解剖の必要な「特に重病」とされる患者を入れているA棟は、病院の北口、精神科の外来から更に奥へと入り、二階の渡り廊下を通った離れとなっている。入り方も特殊なもので、渡り廊下に設置されたキーロックの鉄扉を三回くぐらなければならない。A棟にはそれ以外出入り口はないのだ。手術室も血清なども、全て棟の中に完備されている。
身体の病が深刻でない者はたいてい徘徊癖があるため、そうせざるおえないのだ。ソロドブジエも、緊急の患者のため、普段は理事室ではなくA棟の五階に常駐している。理事などとは名ばかりであるが、本人は気にしていないようだ。
しかし、今日はソロドブジエが学会で留守だった上、キーロックメンテナンスのため、全ての扉を開け放している。それは、患者全員に麻酔の投与を行ってからだったのだが、患者の一人がどういう訳か、麻酔が効かずに暴れ始めたのだという。
看護長でさえ手がつけられない。最後の手段としてターニャに電話がかかってきた、と。電話での会話を短めに説明すると、ソロドブジエは苦い表情をうかべた。
「バッカじゃないのーっ、管理部はさぁ!」
「しかし、ロックは連動していますので! 開け放たないことには看護士たちも通れないでしょうし!」
「学会は? いいって?!」
「仕方ありません……っていうか、先生、いつも席で寝てるから、あっても関係ないじゃないですか」
「んなっ……! なんで知ってんのさー!!」
やっと渡り廊下にたどりついた時、A棟の奥から獣のような深い悲鳴が轟いた。メンテナンススタッフが、おどおどした様子で二人のもとへと駆け寄る。ターニャは息を切らしながらもしっかりとした声で
「向こうの声は気にしないで、早くメンテナンスを」
と、スタッフの背中を押した。
「それがあのー、部品がひとつ見あたらなくてですね……」
「どれ? 工具箱の中は探しましたか、手伝いましょうー…先生! 早く患者さんの元へ」
「あ、うん……っ!」
開いたままの扉を三回くぐり、ソロドブジエは病室に向かって駆け出した。同時に、いくつかの大きな金属音と看護士たちの叫び声が響く。文字通り暴れているのだ。
三〇一号は、拘束室のすぐ隣にある。普段から暴れる患者なのだが、最近は比較的おとなしかった。日常に油断していると、すぐこうなる。
ソロドブジエの頭の中で、危険という字が大きくなっていく。
――自分が焦ってはいけない。
息を整え、開いたままのドアに手をかける。数人の声、ベッドがきしむ音。白い空間はじっとりとした湿気に包まれていた。
「ベーロチカ看護長、」
「トゥスクリズ先生!」
看護士たちがソロドブジエに意識を移した瞬間、患者は押さえられている手をふりほどき勢いよくベッドを飛び出した。
ソロドブジエに突進してくる。
「AAAあああああああああっっっっがあああああaaaaa!!!!」
彼は、それを受け止めてナーシングカートに体を打ち付けた。
■ 3 黒い大人 ■
「――ッう!」
「先生っ!!」
カートが派手な音をたてて倒れる。
「……っぅ…あ、はっ、」
散らばる脱脂綿や血圧計、ゴムバンド、麻酔用注射器。
呆然とその様子を見ていた看護士たちはハッと気づき、倒れこんだ患者に駆け寄る。しかし、それがまた患者を刺激したようで、再度手足をふり回して叫びはじめた。
「あああウあっっAAAああうあウアアっっaaaaa!!!!」
「先生! あぁ、なんてことでしょう!?」
看護長の叫び声に、瞳を開けたソロドブジエは苦い咳とともに胸を押さえ、なんとか息をととのえると、
「だい……じょーぶ!」
患者の首をつかみ、もう片方の手を大きく手を広げ、その頭にあてた。
瞬間。
ぐにっと、爪先が頭の中に喰い込み、患者の動きが止まった。看護士たちは口をあんぐりと開けて、その光景に釘付けになっている。ソロドブジエはかまわず、手を、更に患者の奥へと入れた。
目を閉じて、息を吐く。
ソロドブジエの意識の奥から、いつもの、あの白い闇がゾゾリ、這いあがってくる。
「ベーロチカ……大丈夫だから、ターニャ呼んできてー……僕、」
僕、もう我慢できない。
黒ずんだ遺伝子ピース。
見つけた。
入れ替えるときの恍惚。
神の領域を。
侵しているんだ。
とろける。
あぁ。
なんて汚くて、なんて、なんて美しい。
福音を。
となえて。
さぁ。
「――G,ATC−T,CCA−G−T,GA」
ぐにゅっ、ぐちゅっ、っちゅ。
ソロドブジエの手は、もう指が見えないほど、患者の頭にめりこんでいる。看護長に呼ばれ部屋に入ったターニャは、周りの看護士たちに気付き、慌てて退出するように言った。
手術の助手を務めている者ならさておき、A棟の看護士は女性が多い。こんな光景など、見ないほうが良い。
「先生! 一旦抜きましょう」
ターニャはいつものように、ソロドブジエの肩に手を置く。しかし、彼は一向に抜こうとせず、ブツブツと言葉の羅列をつぶやいている。
「CC,GCGT−TA……」
「拘束室に……いえ、向かいの手術室の中に移動をー…」
「A,CG…GA……あはっ」
「せんせ……」
「あはは、あははははは!!!」
悪魔の笑い。
ターニャはぐっと唇を噛み、患者の頭と彼の手に布をかけて消毒剤を探し始めた。
★
「僕は狂ってないよ」
理事室の椅子を回転させながら、ソロドブジエはクッキーを食べる。
「狂ってるのは患者さんだよ、だって、ねぇ、病気なんだもん」
「それは……先生がそうお思いならば、きっとそうなのでしょう」
ターニャは白紙の始末書用紙を片手に、彼の食べているクッキーを取り上げた。
「なにさー」
「糖尿病になりますよ」
「いいがかりつけないでよ、まったく。ケチなんだから、ターニャは」
ソロドブジエは患者を治療した。
ターニャは、その場から動かないソロドブジエと患者を考慮し、消毒剤やら何やらを病室に揃え、簡易の手術室としたのだった。もっとも、意識解剖の手術には通常、消毒すら要らない。全ては患者の内部で起こっているのだから。
カラダの病気も、ココロの病気も、全てが治った。
右の薬指を一本「とられた」けれども。
「ターニャ、怒らないで?」
椅子が回転をやめる。ソロドブジエの髪の毛が、たまたま窓から差し込んだ夕日に当たって、ゆるくきらめいた。
「……今日のは本当に焦りました」
「あーあれはさぁ、まぁ、ね? 許して?」
てへっ、という効果音が似合う仕草で、彼は手を頭の後ろへまわした。
「よくありませんッ! 看護士たちにしっかり目撃されたのは、誰のせいだと思ってるんですか!」
「ごめーん、頭まわんなくてー、入れるしかないかなってカンジで」
ターニャは眉間のシワを指でおさえ、深いため息をついた。
――まったく。貴方はいいクソガキですよ。
とにかく、意識解剖はまだまだ非公認の部分が多い。学会に詫びの電話を入れたときも、やはり全ての術の承認には、長い年月が必要だろうという返答しか、もらうことが出来なかった。
もっとも、意識解剖の他に、透視やサイコキネシス、ヒーリングなどもできるソロドブジエにとっては、この病院でなくとも働き口はある。国内の病院にかかわらず、他国からも治療依頼が来るなど、ひっぱりだこなのがその証拠。
ここに留まっているということは、まだ本人でさえも発展途中だと思っているのだろう。もしかしたら、意識解剖すら彼の通過点のひとつでしかないのかも、知れなくて。
遠い。
ターニャは思う。
この人は、悪魔のチカラを手に入れた、純粋な子供なのだと。だからこそ、多少は疲れるが、自分がついて居なくては、と。
ソロドブジエは笑う。
「ねぇターニャ、今度の出張はどこ? 僕はできれば南の国がいいなぁー」
「……はぁ…、そうですね」
まだまだ子守りは続きそうだ。