■ 見た夢、連番。 ■
■ 11 ■
「今夜の世界ふしぎ発見は、宮城県! 熊本県と並びイ草の産地でもある@@@の沼地へ行きました!」
画面に沼が広がる、神社のような建物の赤い屋根部分が隠れているほどの高い水面が広がり、周囲には葦のような中が空洞の細めの草(これがイ草なのだろう)が生い茂っている。
おなじみのBGMが流れる。
スエスチョン部分はなしで、ずっとミステリーハンターが案内していく。
「さて、今日は@@@にやってきました。うわぁー、広い」
ハンターが白い道を歩きながら、豪華で青い中世の館のような場所(外側)を歩いている。
カメラは道の先へパン。
道なりに切りそろえられた生垣が広がり、四角い窓が多い、白い壁面と、ドーム型になっている真っ青な屋根が、晴れた空に映える。
『ここはシメイ館。まるで中世のヨーロッパのような雰囲気です。日本の原風景のような沼地への入り口には、ちょっとそぐわないような景観』
建物の中へ。
建物の中もヨーロッパのような雰囲気をかもしだしている。
館の客間と思しき場所に、ひょろ長くて老けた男がひっそり立っている。黒いウェットスーツ。
「こちらが今日案内してくださる沼地の管理人、@@さんです。こんにちはー」
「こんにちは」
『今日は沼地の案内ということなんですが、普段は立ち入り禁止の、文化財に指定されている区域も案内して下さると言うことで、イ草でイカダを組んでくれるそうです!』
沼地の入口、釣り堀のような四角い空間。
細い竹を組んで一人用に作られた、カヌーのようなイカダの操作を、あわてながら操作するミステリーハンター。管理人はうまく棒を使い沼地をススっと進んでいく。
「うわっ、これ難しい―。でも不思議です! こうやって組むだけで、すいぶん浮力があるんですねー、それに泥も! 水面の下はすぐにサラサラした泥になっていて、すごく高いです!」
「これはイ草の栄養のために、村人たちが毎年田の土を運んでくるんです」
『たしかに! この神社のような部分、もう屋根まで埋まってしまっています』
ようやく慣れてきたところで、管理人と禁止区域に入っていく。
カメラ固定で二人の後ろ姿が沼地の奥へと小さくなっていく。
イ草の林の中、沼地の区域は一区切りごとに杭と社があり、名前がついていて、ここは@@、ここは@@、と管理人が声をはりあげて説明してくれる。
管理人のイカダがくずれてしまうというハプニングがあるが、大道芸者よろしく、支えの棒と少しのイカダの残りで管理人は飛ぶように進んでいく。まるで沼の上を歩いているようだ。
『ここで! 管理人さんがストップの合図』
「この木は@@といいまして、」
管理人が木をゆすると、実のような白い綿がゆっくり落ちてくる。沼の面に落ちた後は半分浮かんで、解けない雪のよう。
「うわー、幻想的です……」
画面が切り替わる。
「ここは@@@といって、面白い区画ですよ、ちょっと泥を掬ってみて下さい」
「うわぁ!」
泥を掬うと、その中からゼリー状のオレンジのツブツブが手のひらに。
ミステリーハンターは何度も掬う。ついでにカメラの男性スタッフもなぜか掬って感嘆の声をあげる。
また画面が切り替わる。
「ここは@@@といいまして、」
管理人が区画に一本だけ生えている細い木をゆらすと、木につけられた無数の鈴がシャンシャンと音をたてる。
「遠くで地震があったとき、地面の骨格を通じて地震を知らせるために作られた木です。地震があると鳴ります」
「へぇー…。綺麗な音色ですねー」
ここで番組の時間がなくなり、まだまだ二十数区画が残っているがエンドロール。
エンディングに合わせて、沼地の色々な画面が映っていく。
浅瀬へ出るとイカダを押して歩く。沼に足半分つかりながら管理人は、この前の地震があったとき、液状化した街へイ草で作ったいかだをプレゼントしようとしたが、操作が難しいのでやっぱりやめたという話をしている。
沼地を背景にテロップで、六月が見物に一番良い季節であると出た後、駅からの地図が出る。駅から歩いて20分程度の場所にシメイ館があり、そこから沼地が広がっている地図。
番組終了。
■ 12 ■
僕が依頼されるのは、ひとつは人脈が幅広いということ。
そしてもうひとつは、死に近い人を探すのに長けていること。
自殺とは到底思えないという彼の遺族の頼みを聞いて、ふたつ返事で請け負う。
彼はけっこう好きな芸能人だったし、僕が彼とまったく知り合いではないということは、そう、つまり、死ぬ気配がなく突然死んでしまったイコール、衝動的な殺人の可能性も十分ありえる、ということだった。
僕は生前の彼についていたマネージャーと名刺を交換し、その話が秘密裏に行われた、生前の彼が住んでいたマンションのエレベーターに乗る。最上階からくだる。
一階ではまだ報道記者がちらほら。そしらぬ住人のフリをして、まぁ、彼らの滑稽な図をながめるのもたまにはいいかな、とロビーわきのソファに腰掛けたとき、丁度外に通じる自動ドアが開いて、数人の女性が入ってきた。
その中の一人と、目が合う。上品なおばさまといった感じだ。
僕は、あれ、この人どこかで見たことあるな、と思う。
おもいだせない。
誰だったか。
おばさまはスグに僕だとわかったようで、親しげに会釈。そのままエレベーターに乗り込む。
閉まるドア。
あぁ、マズいパターンだ。
誰だっけ。
いや、知ってるんだ。
知ってるハズなんだ、誰だっけ。
頭の中のキーがさけぶ。あの人と、話をしなければ。
と、いうわけで、僕はしばらく考えこんで、数十分後に降りてきたおばさまに、話かけなければならないという結論に至った。
チン。
エレベーターのドアがひらく。向こうも、今度こそは話すような雰囲気で近づいてくる。
あぁ、本当に思い出せない。
でも言わなきゃ。
えっと、佐藤さんだっけ。いや、鈴木さんかな。とにかく汎用性の高い名字だったような気がする。高橋、いや、そんなかたそうな名前じゃなかった、ここは一つ、言ったけど聞こえないみたいな感じのこう、ほにゃららみたいなごまかしでいくか。
「あ、あのー、さ…にょー…さんですよね? あの、お久しぶりです」
おばさまは見越した笑いで「菊池ですよ」と言った。
「お久しぶりですわ、南さん。あの事件以来で」
「――あ!」
思い出した。そうだ、2年前。
芸能人が飛び降り自殺した件で知り合ったんだ。
記憶がばばっと鮮明になる。
僕が今回呼ばれたのも、その事件の功績があったからで。
あの事件はいたたまれなかった、有名な俳優で、病院に運ばれた時はまだ意識があって。きっかけはそのとき遺した言葉で、そして、この菊池さんもその筋ではー…つまり探偵業の方なのだけれど…ー有名で、僕らは情報交換がてら、数回一緒に食事をしたのだ。
そうだそうだ、菊池さんだ。
「お暇です? これから軽くお酒でも、ウフフ。いかが?」
菊池さんが上品に微笑む。裏稼業などとは想像できないほどスマートな笑み。
さっそく情報交換というわけだ。
でも。
どうしようかな、眠い。
なぜだか意識が飛びそうなくらい眠い。
時計をみると夜十一時をまわったところだった。最近の睡眠不足がたたったのか。
ふいにくらっと、ソファに沈みこむー…。
☆
ハッと。
朝だ。
愕然とした。
なんだこれは。
知っている。
二年前の件も。
そして時間は連続していて。
舞台は同じで。
菊池さんは僕を知っていて。
話しかけてきた。
生きているひとだ。
だって、僕も菊池さんを知っている。
僕は今、夢の中か?
こっちの僕が、夢なのか?
胡蝶だ。
まだ、こっちが現実だという自信がない……。
■ 13 ■
今日、別な用事であの病院に、行ってきた。
実に1年ぶりの訪問だった。
久しぶりに会った先生は僕のことを覚えていて、僕は帰り際、一枚の紙をもらった。
小さいサイズのそれには、ふるえる薄い鉛筆の文字で斜めに「しとるしとるしと」と書かれている。
あの時の、願いを記した唯一の、言葉。
【死 取る】
僕は一度、あの病院で死んだ。
☆
すこし過去のことを話そうと思う。
僕は一人っ子で、両親は滅多に家にはいなかった。淋しい、なんて思わない。ただ誰にも振り返られない僕という人間に、果たして価値はあるのかと、生まれてこの方ずっと考えていた。
自暴自棄になったきっかけは忘れた。
なにもかも、自然な運びで僕はあの日の前の数日間、様々な種類の「薬」と名のつくものをかなりの量、機械的に服用していった。
手足のしびれが起こったのは、昼頃だったと思う。
薬をたくさん飲んでも何も起こらない……代謝を良くすれば何か症状が出るかも知れないと、僕は温泉に行ったのだ。ぬるい湯に数十分、その後熱い湯に十分ほど浸かり、あがって、着替え終わったくらいのことだ。
しびれる感覚の後、急に胃がむかつきはじめ、よろける。
服はもう着たあとなのが幸いした。温泉が、前料金であることも幸いだった。
何でもないように装って建物を出てすこし歩いたそこが病院だった。
フラフラと、玄関先に。
昼休み中なのだろう。玄関には誰もいなかった。もちろん、その先の待合室にも誰も居ない。受付カウンターにも人はいなかった。
玄関先でバッタリと倒れる。
手足どころか、全身が激しく痙攣しはじめる。
いやな汗が背中をツウ、ツウ、と通り抜けていく。
寒い。胃が気持ち悪い。
誰か、人はいないのか、僕はガクガクと震えながらも、身をよじるような形で、玄関をあがった所にある木の壁をノックした。
コツ……コツ……。
誰も出てこない。
今考えるとおかしなことだ。
道端で倒れて、そのまま野垂れ死ねばいいものを、なぜ病院なんかに入ったのか……、けれど、自分の事を――自分の行動の由来を――瞬間瞬間の心情を――まるっと説明できる人間ならば、そもそも死のうとしないだろう。
僕は僕が考える普通の人間よりも、はるかに孤独だった。
保育園でもひとりぼっち、小学時代はいじめられ、中学ではそれが更にエスカレート。不登校にならないのが不思議なほどだった。高校では自分から関係をシャットアウトし、クラスの中では常に一人。
いちばん窓際の、いちばん前の席で、公衆電話の、あの、狭い、四角い、ガラスに標本として収まったような生活をしてきた。
それは別にいい。
とにかく、僕がその時どうして病院なんかに入ったのか、自分で自分が理解できない。という部分だけわかってくれればいい。
痙攣は続き、ガクガクと揺れ続ける視界に病院用の白いサンダルが迫った。
その人間こそが、僕にさきほど紙をくれた女医である。
彼女は僕に言った
「――おい! 私がわかるか?」
わかるけれど、焦点をあわせられない。
次に彼女は、走ってきた他の看護士に向かって荒い声を2・3。たぶん「どうして気付かなかった?!」とか、そういう罵声だと思う。
僕は処置室に運ばれた。
そうそう、結局僕は死ぬまでこの処置室で震えていた。どこにも移動していない。あの時の僕の感覚では、死ぬまではあと数時間以上かかるはずだ。けれど、記憶は曖昧で、そこからぶつぶつと途切れる。もしかしたら数十時間は経っていたかもしれない。
何回目かの症状の上下で、一時だけ、ささやかな理性が戻った時(それでも言葉は喋れないしずっと震えてばかりだった)女医は僕に紙と鉛筆を渡した。
「生きたいと願う、気力が大事なんだ。頑張れ」
と言われ、僕は震える手で「しとる」と書いた。
【しとる しとる し と】
「――馬鹿野郎!!」
彼女の激怒と僕の最期の瞬間は、ほぼ同時に訪れた。
心臓が、停止したのだ。
たとえ心臓が停止しても、電源を落とすようにスグ死ぬわけではない事を、僕は経験した。
徐々に震えが収まり、そのかわり、手足の先から、じんじんとしたしびれが訪れた。しびれは無感覚に変わり突然、息のしかたを忘れ
「……、……、―っは、は、は、はぁ、はぁ、はぁっ、」
弱く、心臓の活動が再開した。
ちいさく連続して息を吸い込むけれど、肺もまた、疲れたように動きをとめる。
心臓もふたたび止まった。
頭には霞のベールが強制的にかぶせられる。
心臓が止まり、また再開するたびに生きたくない、死にたい、キツい、苦しい、などという感情……思いが、一段階、二段階、三段階と、徐々に白く消え去り、身体の感覚だけが全てを支配する。
こんなときでも耳だけは良くて、あわただしい人の足音と機械の心音数値を読み上げる声なんかは、今でも覚えているほどだ。けれど本来それに付随する感情は、思い出す今なお、ない。
僕はあの時、完全に物質となった。ただ生命活動をするだけの、肉塊。それも数分で、ピィーという高音と「心肺停止しました!」という声に、終わる。
僕は、死んだ。
が、
「生きろ、生きろ、生きろ、生きろ!!」
女医の声が、心臓マッサージが始まった。
口から無理やり酸素が送り込まれる。
☆
そこから先の記憶はない。
気がつくと白い部屋に僕はいて、両親もいて、久しぶりに会った彼らはすこし、疲れた顔をしていた。
一日中ぼんやりしているうちにいつの間にか入院期間は終わり、僕はぼんやりする場所を自宅の自室に移しただけで、「ちゃんと」気がつくまでに――あらゆる物事に小さな感情と記憶がつきはじめるまでに――更に数か月を要した。
今日、久々に先生に会ったとき、なぜ僕にこの紙をくれたのか、先生の意図がわからない。
僕は「しとる」と書かれた紙をひっくり返してみる。裏は病院のアンケート用紙になっている。というか、僕の面がアンケート用紙の裏側だということだ。
僕ではない字で、「Happy New Year」と書かれているのを発見する。
僕が死んだ日、日付は今でも覚えている。11月25日だ。
今はあれから1年がめぐり、12月に入ったところだけれど……、何だろう。
僕の、あたらしい門出の年を祝う……みたいな意味だろうか。
勝手にそうだと解釈した。
歩きだす。
今は、相変わらず一人だけど、あまり死にたいとは思っていない。
■ 14 ■
世界は平和になった。
僕は、怪物になった。
悪の怪物を倒す会社の会長をしていた僕は、自らも長い戦いに参加し、勝利した。
敵はこの世から消滅し、会社の中はお祭り騒ぎ。
みんな平和を喜んでいる。
けれど、僕だけは素直に喜べなかった。
怪物を倒すたび、僕は自分が奴らと同じ怪物になっていることをヒシヒシと感じていた。
精神が、じゃない。
肉体が、だ。
あの時、切り傷に怪物の血を浴びたせいかもしれない。
怪物を倒すために開発した装置が、なぜか僕のだけアルティメットに進化したせいかもしれない。
――ここにいてはだめだ。
僕は会社を辞めることを宣言し、鞄をひとつ持って外に飛び出した。
空は晴れていて、たったそれだけなのに息がきれるまで走った。
着いたのは駅。
ここから電車に乗って、新幹線のある大きな駅へ行って、新幹線で空港まで行って、外国へ行って、そう、外国といっても都会じゃなくて秘境がいい、とにかく誰にも見つからない山奥がいい。
そこで、静かに暮らすんだ。
誰にも会わなければ誰も傷つけないだろう。
僕はガタガタ電車にゆられながら、そんなことを思った。
と、響く着信音。
僕の携帯からだった。
ピ。
「もしもし?」
『――社長!! 今、どこです?!』
秘書の成田さんだった。
彼女は戦いばかりの会社の紅一点で、会社の中で唯一戦闘に参加していなかった人だ。
「……どこって、電車」
『何線ですか?! どこ走ってます?!』
「えー…? よくわからないけど、鈍行だと思う。毎回駅に停まるし」
成田さんの背後でざわめく、駅のアナウンス。駅まで来たのだろうか、僕を捕まえる気なのだろうか……、ただ、遠くへいきたいだけなのに。と、思ったら、この電話の意味はそういうのではなかった。
『社長……っ、私、社長が新幹線に乗ると思って、急がなくちゃって特急に乗ったら、先に都市の駅に着いちゃったんです!』
………、成田さん……。
いや、彼女のそういう面白い所もいいんだけどね。
待たなくていいよと言って電話を切ったものの、彼女はおそらく待っているだろう。
僕は電車にゆられながら、「会社をたたもう」と言った時の、社員のみんなの顔を思い浮かべた。虚をつかれたような、子供のように澄んだまるい目たち……。
電車は終点に着いた。
目の前には、遊園地。
どうやら、適当に乗ったら間違って別の場所に着いてしまったらしい。都市の駅に行く電車もこの終点から別路線で出てはいたが、時刻表を確認すると、そちらの発車時間まで20分もある。
なんだかなぁ……と思いつつ、数個のアトラクションで暇をつぶす。
けれどまったく楽しめない。
これらのどこがおもしろいんだ?
戦いばかりで感覚が麻痺しているのか、それとも、精神まで怪物に近づいてきているのか――。
わからない。
ふと、目にとまった幽霊屋敷のアトラクション。
建物に入るとゾンビの顔の老人が、ゴトゴトとやってきた乗り物に誘う。
一人乗りで、この乗り物に乗ってぼんやり妖怪とかを眺めるだけのアトラクションのようだった。
だが乗ってから気づいた。
この乗り物……、生きている。
残党か?!
と思い構えようとしたが、敵意はないらしく、その乗り物は土着の妖怪だとわかった。
ゾンビ顔の老人も妖怪の類だったようで、封印が解けかけている地蔵の再封印を頼まれた。
やろうと考えたら、手から出てくる謎の光線。
さくっと封印できた。
人間だった頃は、こんなことできなかったハズなのに。
はは、もう完全に化け物だな。
別な電車に乗り換え、遊園地をあとにする。
都市の駅では新幹線乗換口の待合椅子に腰かけて、成田さんが待っていた。
声をかける。
「成田さん、」
「……社長。どうしても行ってしまうんですか」
そんな思いつめた声で言われると、惚れられてるのかと勘違いするじゃないか。やめてほしい。
「会社のみんなにはヨロシク言っておいてくれ。僕は……」
怪物だから、
「……とにかく今は一人になりたいんだ。終戦記念の一人旅ってコトで。ここにいたら……」
いつかみんなを傷つける、
「……なんか、ダメなんだ。うん、なんとなくだけど、絶対ダメ。平和な世界には僕は必要ない」
ガタン、と、成田さんが席を立って、自動販売機の方へ行った。
カルピスを買って、戻ってくる。成田さんは飲まずに、ボトルを両手で握った。握りつぶしそうな位、力が入っている。
「……社長、私はー……!」
――と、いう良い所で目がさめた。
■ 15 ■
あの人の後ろ姿が壁に吸い込まれていった。
ざくざくと切られた薔薇の匂いだけを残して。
芸術展覧会の会場は広く、ありとあらゆる空間を埋めるように絵画やら彫刻、書道やオブジェ、映像作品まで展示されていた。
僕は招待客として、連なる部屋部屋を渡り歩いていく。どれもこれもくだらなく見えるのは、目的に合致しないからだった。
――この展示会には秘密がある。
招待客しか入れない、裏の展示があるのだ。
ただし裏の展示空間に行くには、この広い会場のどこかに存在する「抜け道」を探さなければならない。見つけて通り抜けた人間だけが、その展示会の真の「展示」を見ることができる――。そんな文言とともに招待チケットを渡された。あの人に。美しい顔の造形だけで一目置かれているデザイン学科の春夫先輩に。
もう三周目だ。
見つからない。
そもそも本当に裏の展示なんてあるのか?
春夫先輩のただのお遊びである可能性を頭の中央に持ってくる。あの人の。コップに沈んだ薔薇のような目。茎についた棘のような声。滴り落ちる水が伝う体躯……。
あの人を……。
あのひとを絵画にできたらどんなにいいだろう。
真っ白な布の上に横たわらせ、欲情のかわりに花弁を散らし、イーゼルをたてて水張りした白に描き込んでいく。日が暮れても夜になっても朝の光が差してさえそこには二人きりで、切り取られた永遠が透明な保存液で満たされ、作品タイトルは未定のまま、構図を何度も書き直し、破り、投げ捨て、また描いて、先輩を描いて、何度も、散らして。骨になるまで。
ハッと白昼夢から戻ったとき、誰かが急にいなくなったような気がした。
会場は混雑しているものの、塊として順路に沿いゆっくり動いている。その中で、急に質量が消えたような気がしたのだ。
気になったブースを注視する。
鮮やかな赤い壁と床と天井の空間に、何枚も和紙の幕がたれ下がり、壁には読めそうもない行書体の書が細長い掛け軸に彩られている。
所狭しと飾られているその一端を、誰かが持った。
そしてするりと掛け軸の裏側に入っていく。
掛け軸は元通り静かに展示されている。
入った人は出てこない。
裏の。
入口ー…!
本当にあったのかと驚き、足は完全に止まった。
順路の流れを遮っているため、展示を見に来た一般客が怪訝な顔をして僕を避ける。通り過ぎていく。
入ろうかどうか逡巡した。
裏って一体何なんだ。
怪しい響き。
もしかして入ったとたんに拉致されて、どこか外国に売り飛ばされるのかも……。
と。
見覚えのある後ろ姿が掛け軸の前でとまった。
春夫先輩。
先輩は僕に気づかずに掛け軸を持ち上げ、難なくするりと入っていった。
掛け軸はひっそりとしていて、余韻すらのこさない。
僕は気が気じゃなく急いで展示ブースに歩き、掛け軸を触った。吊るされているため軽く、ふわっと浮き上がるように手前に動いた。後ろの壁には人ひとり通れるような空間がパックリと開いている。
先輩を。
先輩を追いかけないと。
僕は先ほどまでの逡巡をゴミ箱にぶち込み、裏の展示会場とやらへ潜入した。
裏側は暗く、左右は通路になっている。
とりあえず右側に歩を進める。
すると、ぼんやりとした灯りが見えてきた。
灯りは進行方向左側。
凹んだ空間になっており、海の中を模したような展示がされていた。真珠をイメージしたであろう巨大な銀の玉がいくつも浮かび、岩肌を再現した中央に美しい人魚が横たわっている――。
人魚?
いや、人形じゃない……あれは生身の人間だ。
目を閉じて死んだように見えるが、胸が上下している。
息をしている。生きている人間。
僕はその人魚の手首に枷を見つけ、心底気分が悪くなった。つまり、裏の展示とは、生身の人間をオブジェのように扱う展示の事なのだろう。
歩いていくごとに展示ブースは現れたが、予想の通りどれもこれも人間が展示されている。それも、おそろしく美しい人間が。そして、扱っているテーマは様々なのに、誰もかれもが死んだように眠っている。何か変なクスリでも入れられでもしたのだろう。手枷も、手首に綺麗に嵌っている。抵抗の痣がない。
しばらく歩いていると、僕は急に不安になった。
長い通路の中、ずっと無人なのだ。
先に入っていった春夫先輩はどこにいったのだろう。まさか、クスリで眠らされて展示品になっているのではなかろうか。早く見つけないと。急いで通り過ぎようとして視線がぶれた先にパネルを見つける。展示品のタイトルと解説。そして右下に、ちいさく数字が書いてある。
値段、だ。
気づいた背中がぞわぞわした。
「コレ」は売っているのだ。
やられた。先輩が危ない。でも……春夫先輩ならいくらの値がつくのだろう。きっと高値で取引きされるに違いない。僕が買えないような法外な値段で、どこか国外の貴族かなにかに買い取られる。そして薔薇を一輪握りつぶすように蹂躙され、茎が折れたようにたおれて枯れる。その姿さえ美しく、棺桶という名の額縁にぴったりと収まり、動くことはもうない黒薔薇色の唇だけが咲く。
展示ブースとブースの間に黒い非常用扉を見つけ、予兆はいっそう高まった。通り過ぎた中で展示がされていないブースもいくつかあったのも怖い。
ここから裏の裏に入れるはず。もし先輩が捕まっていたら助けなければ。
そんな気持ちで扉を開け、存外でかい開口音にビビリ散らす。
真っ白な廊下に躍り出て、走り出す。数十メートル続いた先には倉庫のようなコンクリート空間が広がっていた。四角い布を垂らしたテントのようなものがいくつかあり、一番手前の布をなんとはなしに持ち上げたとたん、すぐに先輩を見つけた。
「先輩っ!」
思わず大声。
いわんこっちゃない。
だいたい招待チケットも、街を歩いていたら知らないオッサンに貰ったとか言っていたし。本当に顔以外はどうしようもない人だ!
「先輩、先輩、起きてください」
手術台のようなベッドに寝かされている先輩を大きく揺さぶる。
起きない。
心臓に耳をあてる。動いている。
眠っているだけだ。
起きる気配は微塵もないけれど。
何度声をかけても全然起きないので、僕は逆にすこし落ち着いてきた。
テント内の周囲を見渡せる程度に冷静さを取り戻したのだ。
周囲には。
絵の具とパレットが散乱していた。
化粧道具も見受けられる。衣装と思しき布、ブースに飾る予定であろう小道具、そして薔薇――。見た瞬間、僕の脳裏に天啓が訪れた。
先輩を、飾れる……?
この美しい顔に化粧を施し、頭の先から足の先まで全身をくまなく吟味し、いちばん筋肉が映える角度をつけて、抵抗もしない裸体に透明な保存液を塗って、唇に、うっすら水を垂らして……。
突然。
四角いテントの布がバサリと音をたてた。
見知らぬ男が入ってくる。
男は僕に気づき歩を止めた。
僕は台に横たわっている先輩の頭を抱え込むようにして男と対峙する。
「………」
無言で流れていく時間を、僕は笑顔でせき止めた。
「……あの、」
自分が思う限りの最大級の人懐っこい笑みを浮かべ、
「この人をどういう風に展示するんですか?」
すこし高めの声で、
「先輩には銀より金のほうが似合うと思うんです」
堰をきったように、
「ほら、この角度。この角度がいちばん美しいんですよ。春夫先輩は。色彩をおとした薔薇もよく似合うひとなんです。だから展示するならモノクロベースで、薔薇に、所々に金を入れて、それで……」
僕は喋り続ける。
先輩は動かない。
まるで白昼夢。
覚めないで。
飾らせて。
ずっと思い描いていた、僕だけの幸せ……。