■ 見た夢、連番。 ■

■ 6 ■

 僕がその街に行くには、電車をいくつも乗り継がなければならなかった。
 展示会の黒い送迎車が駅前で疲れた僕を拾い、ベルリンの壁をくぐる。
 ここは日本だけれど、その街の高い壁は市民から「ベルリンの壁」と呼ばれ親しまれていた。
 有名な都市だ。
 車は展示会場に向けて、高さ何十メートルはあるであろう大きな壁沿いを順調に走り、僕は眠気も手伝ってしばらくぼうっとしていたけれど、突然轟音が響き渡った。
「え、なに?」
 びっくりした運転手もブレーキを踏んだので、荷物を持って車から降りると街中の警報が鳴っていた。
 津波警報だ。
 大津波が襲ってくるらしい。
 そんなこと言われたって、どうしようもないだろう。
 考える間もなく壁の向こうから、高い、大量の波が降るように動いてきた。
 幸いここは壁沿いだ。威力は半減されるだろう。
 けれどいきなりぶつかったら衝撃で死ぬかもしれない。
 僕は荷物を持って自分から波にぶつかっていった。

     ☆

 目を開けると、浮いていた。
 ここは海ではない、日本だ、と気づくまでに何秒かかかった。
 僕の荷物は、ルイ・ビトンのケースではないけれど、中身は窒素ガスの入ったチップ系菓子ばかりなので助かったというわけか。
 ベルリンの壁さまさまである。
 しばらく、泳ぐことにする。
 何か足場がほしい。
 そうこうしているうちにコインロッカーのようなものが見えた。
 日本では数年前からのプロジェクトで、大津波による沈没に備えいくつかの高い、高い、ロッカーを各所に設置している。
 十分足場になる大きさのロッカーの中には、様々な食料や医療器具などが常備されている。
 そもそもベルリンの壁自体が津波の衝撃で建物が流されないようにするためのもので、近場に高いロッカーがいくつも設置されている。
 カパと開けると衣料品が見えた。
 別なところを開けると、薬品と本が見えた。
 さすがにお菓子は常備していないみたいだ。
 もし生きるなら、これから先のお菓子は僕のリュックの中身のみとなるだろう。
 異常事態にお菓子の心配をしている自分がちょっとおかしい。
 けれど晴れていて、コインロッカーの上であることを除けば、無人島にバカンスに来たような気分だった。
 と。
 水音がきこえた。
 向こう側から、おばさんが泳いでくる。
「あらー、奇遇ねぇー」
 おばさんは水をはらい、笑って言った。
 まるで近所の子供と偶然会ったみたいな、そんな、明るい声で。
 僕とおばさんは、どうやら同じ人種のようだった。
 日本が沈んで、人が大勢死んだなんて口に言いたくないほうなのだ。
 言っても言わなくても、状況は変わらないのだから。
 結局二人で話したのは、他にもロッカーがあるからそっち方面へ足をのばしてみよう、ということだった。
 ロッカーの中にあったロープで二人をつなぎ、おばさんが前方を泳ぐ。
 おばさんはベルリンの壁の中の住人だったようで、ロッカーに番号がふられていることも、その番号で次のロッカーまでたどり着けることも、おばさんに聞いてはじめて知った。
 僕は、なにか危機があっても自分は真っ先に死ぬだろうと思っていたので、それらを覚えようともしなかったのだ。
 次のロッカーにたどりついた。
 そこには、二人の男女が座っていた。
 若い、今風の、チャラチャラした感じの二人だった。
 男がジロジロと僕らをみながら
「ここは俺たちのシマだからな」
 と言った。
 僕とおばさんは絶句する。
 この男は、今の日本の状況を見て言っているのか。
 変ななわばり意識なんて必要ないだろ。こいつ、バカだ。
 少しだけ休ませて貰ったあと、番号を確認して僕とおばさんは次のロッカーへと泳ぎだした。
 若い女の方は何かいいたげだったけれど、無視した。
 ベルリンの壁の都市は、高い場所に建てられている。
 ここから先は、位置的に山にはいっているとおばさんから聞き、不思議な気分になった。
 僕は今、山の上を泳いでいる。
 次のロッカーは、その山の頂上に設置されているという。
 遠くに、緑が見えた。
 人口色かと思ったけれど、あれは立派な雑木だ。「あれか」と、声にならない声でつぶやく。
 土に手をつけると、勢いに任せて水からあがり、ひっくりかえってねそべった。
 相変わらず晴れている。
 太陽がまぶしい。
 泳ぎきってぜいぜいの僕でも、この山の高さから沈んだ範囲が想像できた。
 山の頂上付近は沈没しきれてなくて小さな島のようになっていたのだ。せいぜい周囲が×××メートルといったところか。
 この山が、日本で一番高いのだから、もう日本は絶望的だ。
 でも。
 ひさびさの土の感触。
 僕はしばらく、よくわからない感情と一緒におばさんと笑った。
 立ち上がってロッカーに行くと、そこには三人の男女が座っていた。
 これで七人生きていることを確認できた。
 僕とおばさんの話をきいて、その男女――ひとりは男でほかは女だった――は、他にも生き残りがいることを素直に喜んでいるようだった。
 特に男の方は、一人で気まずかったらしい。
 肩を叩いて歓迎してくれた。
「楽しくやりましょうよ」
 ふっと静かになったとき、一番年上であろう女性が、手をさしのべながら言った。
 僕は。
 あいまいに笑う。
 僕はぜんぜん楽しくない。
 僕が死ねばよかったのに。
 土壇場で生きることを選択したあのときの僕は、今の僕を、鮮やかに裏切っている。
 本能、そうでなければ、心神喪失状態というやつが。
 あぁ、どうして生きているんだ。大体僕は、泳ぐのは苦手なんだ。
 僕でなければ、君が死ねばよかったのに。
 彼女の顔は、波にのまれて死んだであろう幼馴染の顔によく似ている。そう思った。
 手は、にぎりかえさなかった。

     ☆

 山の上のロッカーは巨大で、寝袋や、いくつもの火種や、何トン単位の水や、そういった生活に必要なものは全て揃っていた。
 そのうえ山小屋が建てられていて、ある程度生活するのに不便はなかった。
 おばさんはここで暮らせばいいよ。僕は、もうちょっと泳いで別のロッカーを探すから。
 と話をしていたら、足りない、という声が聞こえてきた。
 三人のうち、いちばんたくましそうな男の声だった。
「野菜が足りない!」
 そうか、と僕は納得する。
 ロッカーに、生ものはないのか。ピクルスでも入れておけばいいものを。
「僕がとってきましょう」
 にこやかに僕は言い、男は怪訝そうな顔でこちらを見やる。
「僕が最初にたどりついたロッカーの中には、農作業用の薬品と道具、ハウツー本と、種が置いてありました。泳いで、とってきましょう」
「そりゃあいいが、今着いたばかりでー…」
 じゃあね、おばさん。
 僕はひっそりとささやいて、岸まで駆け出す。
 とめる声なんて、聞こえないふりをして。
 あさっての方向に泳いで死のう。
 でも僕は方向音痴だから、もしかしたら前の前のロッカーまでたどりつくかもしれない。
 その時生きるかどうかは、自分への褒美としてお菓子を食べながら決めることにしよう。
 僕は勢いをつけて、日本の底へ、ダイブした。

■ 7 ■

 ぼくが寝ている間に、彼は殺されてしまったようだった。
 製図機。
 事務所。
 近代的なデザイン。
 黒い柱。
 寝ていたソファ。
 ここはどこだったか。
 しかし、机に伏している彼が、死んでいることは分かっている。
 彼は、死んでいる。
 彼は、だれだったか。
 ぼくはぼんやりしながら、最後の証拠品を持ち去るハトを見ている。
 ハトは三匹で、どのハトが言っているかまるでわからなかった。
『これが最後の証拠品だ』
『彼の指紋がついた毒薬の壜』
『交換だ』
『交換しよう』
『毒の入っていない壜に』
『交換だ』
『ほら、』
『これで証拠はなくなった』
『アハハ』
『アハハ』
『早く帰ろうぜ』
『窓から飛ぶよ』
『落とさないように』
『壜を落とさないように』
 バササ。
 ぼくがやったのではない、という証拠はもうどこにもなかった。
 おそらくは自殺だったと思う。
 けれど僕はハトによって殺人者という状況に仕立て上げられた。
 白いハトだ。
 ぼくは、白いハトは信用しないことにしている。
 まだ事務所には誰もきていない。朝だ。
 面倒で。
 なにもかも億劫で、事務所はビルの高い階に。窓から飛んでハトを追いかければ死ねるハズなのに、面倒だからソファにもう一度沈み込んだ。
 彼はだれだったか。
 ちらりと見る。
 動かないまま伏しているのは、ぼくのような髪型でぼくのような服装でぼくのような……、ぼくは、死んだのか?
 黒い断絶された世界に、独りしかいなければ、生きているか死んでいるかはわからないものだ。
 ここは巨大な黒い箱のようだった。
 窓から青い光がさしこんで、すがすがしいほど適当に、
「今日の街は快晴だろう」
 と、ぼくは検討をつけた。

■ 8 ■

【登場人物】
 僕:金河南。鮫の研究者。イルカに言わせると愛妻家。息子がいる。
 イルカ:斑鳩入鹿。海洋研究施設のトップ。僕とは古い付き合い。
 双子の男たち:イルカのガードマン。
 双子の少女たち:イルカのガードマン。ガードガールとでもいうべきか。
 ワタセ:女の子。4月から施設で働いている。
 ワタセの親:昔、事故でイルカの両親を殺した。
 聖人:キヨヒト。イルカの熱心な信望者。僕を疎んでいる。
 妻:りりす。僕の妻。愛してはいない、好きなだけ。
 ケイ:蛍。僕の息子。もうすぐ2歳。

     ☆

 突然だが、僕はいま、巨大な鮫数十匹にかこまれている。
 ウエイトを調整しつつ少しだけ浮き、片方の手に持っている死んだ鮫の子供の腹を、裂いた。
 鮫たちの様子を観察する。
 少し噛まれそうになり、心臓がヒュっと縮む。
 浮き、オレンジ色のボートに上がると、柵の奥から一人の男が手を振っているのが見えた。
 ここは巨大な海洋研究施設。
 世界一とも言われる、鮫のプールがある施設だ。

     ☆

「――死んだ同胞の肉は食わないときた。ここの鮫たちは贅沢にも程があるぜ」
 リノリウムの白い廊下を歩きながら、僕は男ー…斑鳩入鹿(イカルガイルカ)に声をかけた。並んで歩いている彼は笑いながら、
「人間が死んだらその肉を君は食えるのかい、」
 と問いかけてきた。
「うーん……、妻のなら食えるかな」
「へえ、愛妻家だ」
「愛とか、やめてくれないか。僕はライクで付き合っているんだ、彼女と。結婚してもね」
「愛してる」
「気持ち悪い」
「私は君の肉なら食えそうな気がするなぁ」
「それも気持ち悪いな、イルカ。らしくないぜ」
 しばらくくだらない話をしながら、僕とイルカは彼の住んでいる寮の奥へと歩いた。
 イルカの部屋の手前で、双子の少女たちと会う。イルカは彼女たちに手をあげて立ち止まり、僕を紹介した。彼の名前は金河君。鮫の研究をしていて月末までここに出向する、彼は顔パスで頼む。といった具合に。
 聞くと、見張りだと言う。僕は率直な感想を述べた。
「要人だ、」
「そうだよ。私は施設のトップだからね……、っと。ここが私の部屋だ。少し待っててくれるか」
「あぁ」
 彼とプライベートの友人の僕でさえ、彼の部屋には入れないというわけだ。
 整った顔立ち、少し伸びた黒髪、スラッとした長身だが、彼の周囲に女性の影はない。
 イルカは、この巨大な海洋研究施設のトップであった。
 機械的な意味でのトップ(施設長)であり、心理的な意味でもトップだった。
 皆、彼を尊敬し、同時におそれている。天涯孤独の身であり、彼はここに文字通り何十年と住み、支配していた。そうだ、トップというより支配者―…。
 この連想に僕は満足し、ドアの横の壁に背を預けた。

     ☆

 夕食の席――もちろん施設内の食堂――で彼はポツリと言った。
「ワタセの娘が、4月からここで働いているんだ」
 言葉はそれきり、彼は別な話題にうつったが、僕の心は引っかかりを覚え、その名前を脳内で検索しはじめた。ワタセ? ワタセ……ワタセ……、誰だ? まったくどれにも該当せず食事は終わり、僕は出向のためしばらく寮のひと部屋をあてがわれた。
 巨大な海洋研究施設は、おりしも、数年に一度の一般開放の時期をむかえていた。
 つまり、文化祭のようなものだ。様々な催しの準備で、頼りにしていた鮫飼育の主任も使い物にならない。そこはかとなくイライラしていた僕に、鮫たちもなつきはしない。
 施設内で時々みかけるイルカは、一人の女性とよく歩いていた。とても若く、まだこちらに来て間がないことは新品の白衣でわかった。
 あれが「ワタセの娘」なのだろうか。
 僕は、この施設の自分の行動範囲内の地理を、ようやく覚えたところだった。
 巨大な海洋研究施設は、僕が一番よく行く鮫のプールが敷地の一番奥にあった。万が一プールが壊れて鮫が解放されても被害が少ないように、鮫の水槽館にはドアがひとつしかない。
 ドアの隣は餌用の小魚館。こちらもドアはひとつ。
 その隣が体育館。まぁ、海洋研究施設に体育館という言葉は似合わないだろうな。とにかく体育館のように広い場所で、普段は大きめの機材を置く倉庫となっている。こちらは一般開放に合わせて機材をどけ、今では本当に体育館のようになっていた。
 そちらにはドアが3つあり、ひとつは小魚館への道。もうひとつは食堂と寮へ向かう廊下。そしてあとひとつは、2階の野外プールへの道だった。
 食堂へ抜けると、食堂の上、2階部分は公民館のような広い座敷になっていた。平素、飲み会などをやっているらしいが、こちらもまた一般開放に向けて、休憩室として使われる予定だそうだ。
 体育館の別な扉から階段を上がり野外プールへと進むと、そのあとはポンプなどがあり行き止まりだ。このプールは水のみ。海水の浄化が主な仕事だ。
 と。
 僕はひとつ発見した。
 野外プールと寮の建物は丁度隣り合っていて、野外プールの奥の奥、あるひとつの窓が、イルカの部屋に繋がっているということに……。

     ☆

 「ワタセの娘」が何を意味するのか、ようやく気がついたときには既に、一般開放のお祭り騒ぎの最中だった。
 僕は鮫の生態について説明する係として働かされており、ここには妻と息子のケイも来ていた。大好きな家族。幸せだ。
 そう、イルカは昔、僕の家族でいうところのケイだった。両親と、一人息子。今のケイのように幸せだったであろう。
 イルカの両親は死んだ。
 車の、衝突事故だった。
 衝突されたほうがイルカの両親。衝突したほうの名前は、たしか、そう――ワタセ。
「イルカ……?」
 説明している場所から遠く、鮫の水槽館の入り口にイルカが立っていた。
 後ろ手でドアを閉め、そのままごそごそとやっている。
 その視線の先。
 ワタセの娘、彼女がいる。
 まさか。
 僕は普段直感とうものをあまり信じていない。
 けれど、イルカの考えが手に取るようにわかった。
 思い出す。
 僕がよく見ていた彼女とふたりで歩いていたシーン。彼女は微笑んでいたけれど、イルカも、パッと見たら微笑んでいるように見えるだろう。
 昔から彼を知っている僕には、とてもではないけれど、あぁ。
 彼の目は。
 いつでも冷ややかだった。
 僕は説明を簡単に終わらせるとドアまで走った。イルカは人ごみにまぎれてもういない。ドアに、鍵がかかっている。僕はそれを開けた。開け、ドアも開け放って走る。小魚館のドアも閉まっていた。鍵がかけられている。それも開けて、ドアを、開けて、走ったところで爆発音。
 体育館のドアもやはり閉まっている。鍵を開けてドアを開放する、人々のざわめきが悲鳴にかわり、大量の水が流れ込んできた。この水量と流れだと、幾分もたたず放たれた鮫もやってくるだろう。こっちのドアを開けよう。急げ。かじりついたプールへの扉にも、やはり。鍵が。
 イルカ!
 ……彼女を。
 君の両親を殺した奴の娘を、殺すつもりなのか。
 利発な君は追い詰められている様子さえ見せなかった。自らを巻き込んだ復讐だとは――、僕が、言わせない。
 君が死んでも言わせない。
 こうしてドアを開けておけば、無差別殺人を狙ったテロだと思われるだろう。
 加担?
 は?
 なんのことだ?
 僕はただー…。

 鍵 が 閉 ま っ て い た か ら 、 善 意 で 空 け て ま わ っ て い る だ け だ 。

 屋外プールへと出て、奥へと走る。位置的には間違いない窓に手をかけると、窓の鍵は開いていた。イルカの部屋へと侵入する。薄暗いそこには、きっとあれがあるはずだった。ワタセの起こした、事故の新聞記事かなにかが。それらを回収すれば万全だろう。
 と、ドアが開く。
 身構えた。
 その身構えはすぐに解かれる。
 同じ研究員の聖人(キヨヒト)が立っていた。聖人は僕のことを非難の目で見ていたが、その更に向こうの薄暗い廊下に双子の少女たちが立っており、どうやら聖人は気付いていないようだった。
 僕は彼を無視し、少女たちを見ながら口に指を一本、立てた。
「――Shii.」
 聖人と双子の少女たちを部屋に入れる。
 目的のものはもういい。少女たちが知っていて抜きに来たのだ、任せよう。ただ、聖人は違う。イルカの熱心な信望者だったから、たぶん、そういう目的じゃあない。この騒ぎに乗じてイルカの所持品を盗みに来たんだろう。放っておいても害はない。僕とイルカの仲に嫉妬している、バカな男だ。
 すれ違いざまに、
「生きてるよ」
 と少女の一人が言った。
「生きてる」
「ケイくん」
「行ってあげて」
「奥のほうにいるから」
「早く」
「……わかった。ありがとう」
 聖人と目が合った。
 非難の目だ。
 イルカを死なせただろう、と。
 そんなわけはない。僕は気付いている。死にたがっていたのはアイツのほうだ。
 それを、僕が、わかったから道連れにしたのだ、彼女を。死なせたのは。
 イルカと僕だ。
 堂々と、寮の出口へと廊下を歩く。
 見張り役の双子の少年たちが僕に気付く。
 かまわない。
 イルカは死んでいる。その見張りはもう意味のないことになっている。彼らはそれに気付いていない。
 2階に上がると、休憩室となっていた座敷には生き延びた避難者が大勢集まっていていた。がたいの良い男の人が、大声で生存者の氏名を確認しながら名簿を作成している。ケイを探しに、僕は奥へと進んだ。
 思った通り、大勢の避難者は比較的手前の場所にいた人々だった。奥へいくほど、鮫の水槽館に近い所にいた生存者。
 一番奥、水槽館で生き延びた人間は、2人だけだった。
 ケイと、え?
 彼女?
 ワタセだ。
 彼女が、なぜー……?
「……ケイ。――ケイ、おいで。僕だよ」
 彼女の胡坐の上にちょこんと座り、チョコレートを噛んでいたケイは、声に気付き、顔をあげ、僕を認識すると、くしゃくしゃになって泣きはじめた。両手を差し出してきたので、僕はケイを抱きとった。もうすぐ2歳になる僕の息子は、そのまま、わんわんと泣き続ける。
 ケイを抱いたまま立ちあがり、彼女を見下ろす。
 憎悪。
 憎悪がわきあがってくる。
 ここに居ないということは、イルカは死んだのだろう。鮫に食われて。なぜ君が生きているんだ。イルカの、イルカの想いは何だったんだ? 君は、君が、イルカを殺したというのに? 君だけ生きてイルカが死ぬなんて? 僕の手助けはなんだったんだ。僕の妻も死んで、イルカも、あぁ、――とんだ死に損だな、イルカ!
 できる限り爽やかに、
「生きていたんですね、息子を助けてくれたことはどうもありがとう。一発殴っていいですか?」
 彼女は肩にかけていた毛布をにぎり、カタカタと寒そうに震えながら僕を見上げた。
 その時、
「やめてあげて……」
 僕の言葉を聞いていた、まったく知らない女性が声をあげた。
「その人……恋人を亡くして……でも赤ちゃんだけはって、必死に、……やめてあげてください……」
 恋人!!
 ハッ、とんだお笑い草だ。
 イルカと彼女が恋人だったとは、僕は初めて聞いたがね。
 僕はその人を冷ややかに見下ろし、また、彼女に向き直り見下ろした。
 視線で殺人ができるなら、そうしてやりたい位だったが、やめてあげた。僕は優しいんだ。恋人と思い込んでいるなら、悲しんで生きていけばいいんだ。大事なひとを亡くした、イルカのように。
 僕は泣きじゃくるケイを抱き、避難所をあとにした。

■ 9 ■

 仕事の都合で、久々に盆はじめに実家へ帰ってきた。
 ぼくはバイクに乗って、夕暮れの庭に、昔いつも自転車でそうしていたように、エンジンを止めて惰性でくるりとまわった。
「ただいま」
 玄関を開けると、続きになっている作業場いっぱいに、テーブルと食事が盛られ布がかけられていた。
 今日はこっちでご飯を食べるの、と聞くと母が
「それはかえってきた仏様が食べる分」
 笑って言った。
 夕飯はちゃんと台所に用意されていて、半分に割られ置かれているスイカを見て、あぁ、もっと早く帰ってくれば、三時のおやつはスイカだったのか、と思った。
 椅子に座る。
 実家での、いつもの席だった。
 向かい合って三席あるうちの、右側の真ん中。
 隣には姉が座った。反対隣りには父が。七つ目の上座には母が座る。向かいに祖母、妹、祖父が着席した。
 「いただきます」は言わないのがならわしだ。
 家族の和やかな食事が始まった。
 ことさら祖母が元気で、僕のななめ前で箸をうごかしている。
 最近からだの調子がよく、薬も飲まなくていいらしい。
 祖父は早々にたちあがり、作りかけのハンバーグの、仕上げにかかった。
 そこでふと、ぼくは違和感をおぼえた。
 祖父が元気に歩いて喋っている姿を見るのは、久々だった。
 違う、久々どころじゃない。
 祖父はもう、数年前に、とっくに。
 ぼくは言いだそうか迷った。
 お盆の魔法。
 帰ってきたのだ。
 言ったら魔法がとけてしまうかも知れないし、いや、もしかしたら、ただのぼくの勘違いで、本当は祖父は死んでいないのかもしれない。
 姉に、ひそりと
「……なぁ、じいちゃんって…前に…春に……」
「それは言っちゃダメ」
 姉は静かに、それでいて有無を言わさずぼくを肯定し、そしてとめた。
 食事は、ほんとうにゆっくりと過ぎてゆく。
 ハンバーグが出来上がった。ぼくらは交互にありがとうと言いながら、箸で自分の皿に盛る。
 祖父がぼくに何かを言った。
 内容は流れていく。
 そんなことより、ぼくの記憶している祖父の声は、果たしてこんなだったろうか?
 ユメの中でずっと問いかけていた。

■ 10 ■

 使用人の美女ユキさんと、古い道具や中古の品を売っている店に入ったときの事だった。
 木色や鈍色の乱雑な店内で、僕は手のひらにおさまるサイズのメモ帳と人骨の名前を収集した本を購入した。
 レジの青年は青いエプロンで、つまり、目を合わせたくないためにエプロンしか印象に残らなかったということだ。
 店を出て、家に帰ると早速僕はメモ帳を開いた。
 使い勝手が良さそうな薄い罫線をパラパラとめくると、ふいにインク文字がとびこんできた。
 星野高広という文字に、40才ほどに見える男性の顔写真が貼り付けてある。
 改めて裏からめくると、なんということだろう。その星野一家についての詳細な家族メモや、実験アイディアを書き込んだ羅列、何かの図、何かの記号。中古品とはいえ、普通これを売るか? と思うような文字が、10ページほど書き込まれていた。10ページ目の最後には、久子、と書かれた少女の顔写真があった。おそらく本人の子供なのだろう。
 何かの手違いで売ってしまったのだろうか?
 改めて読み直す。
 こんなアイディアは僕でも思い付かず、僕はこのメモ帳の本来の持ち主、星野高広に興味がわいた。
「この人、探せるかな……」
 思わずつぶやいた一言に、使用人のソメヤ老人が
「本名に顔写真があれば容易でございましょう」
 とにこやかに答えた。
 先ほどの古道具屋は町のすみにある小さな店だ。まぁ、おそらくこの近くの住人だろうと見当をつけ、暇つぶしがてら、僕はユキさんとこの界隈を探す事に決めた。
 夕日が沈みきった虹色の空を背景に立つ、美しいユキさんに
「そちら側をお願いします」
 と指を差す。
 ユキさんは笑った。
 僕は、まったく金持ちではないのにユキさんを雇った事を後悔していない。
 話がそれるようだけれど、僕がユキさんに抱いている想いは、愛や恋ではなく、なんというか、完璧に美しいものを傍に置いているという安心感だ。

     ☆

 探しはじめるとすぐに携帯が鳴った。着信はソメヤ老人からで、星野さんが見つかった、急いで家に戻ってきてくださいませという。
 家に帰ると老人は、新聞を開いて僕に差し出した。
 新聞に載るほどの有名人だったのか、と思い、見開きの右上から見始めると、ソメヤは、そこではなく中央の左下です、と言った。中央付近を見ても顔写真すらなく、いやな予感がする。
 ここは……、お悔やみ欄だ……。
 確かに星野高広の名前があった。枠は大きく、二重の黒で囲まれ、電話番号も書いてある。それによると、葬儀日程は今日が通夜だった。
 慎重に電話番号を押す。
 電話に出たのは男性で、星野高広さまのお宅でしょうかと言うと、ハイそうですと返ってきた。
「あの、僕は金河という者ですが、あの……」
 言葉が続かずユキさんを見る。
 ユキさんは手を口に当て
「全部正直に言った方が良いです」
 と囁いた。
 ユキさん。
 迷った時の重心は、いつもユキさんにかたむく。僕は「本人と知り合いなんです」などと、ウソをつこうとしていた自分を恥じた。
 古道具屋でメモ帳を購入したが、どうやらそちらの星野高広さまの持ち物である事と、書かれている詳細な家族構成を言うと男は「確かに兄のもののようですね」と言った。
 夜の道に白と黒の幕、そして提灯の灯りがともった星野家の前に、僕とユキさんは立っていた。
 ソメヤが用意してくれた香典を出し、喪主の男にメモ帳を渡すと男はそれをパラパラめくり、後ろを向いて
「久子!」
 と大声で叫んだ。
 出てきたのは写真の少女とは違う、少女の面影を残した高校生ほどの女の子だった。男は少女にメモ帳を渡した。
「これ、パパの?」
「あぁ、そうだ。こちらは金河さん。メモ帳を届けてくれた方だ」
「ふうん。ありがとうございました」
 彼女はつまらなそうに言うと廊下の奥へ消えた。
「あの……失礼なようですが、死因などは聞いても…?」
「えぇ、癌でした」
 バイオの研究員だった星野氏は、末期ガンだと診断されたとたん、身の回りの品を全て売り払ってしまい、身一つで入院し、そのまま帰らぬ人となった。
 残った遺品はないという。
 男は、久子も喜ぶでしょうと締め、なにもありませんがどうぞ飲んでいってくださいと席を立った。
 ユキさんはまた口に手をあて
「喜んでいた風には見えませんでしたね」
 と囁いた。
「そうだね……」
 僕は白菊と黒と金に彩られた祭壇を眺めながら、なにかしらの強い運命めいたものを感じていた。
 今日、たまたま古道具屋に行き、たまたまメモ帳を購入し、興味をもって探そうとし、偶然ソメヤが新聞を見つけ、たまたま通夜が今日で、ここまで来てしまった。
 失われた遺品のひとつを、たまたま僕が、運んできた。
 もしかしたら星野氏は、やっぱり遺品をひとつ位、家族に持っていてほしかったのかも知れない。
 帰りましょうかとユキさんが言った。
 僕はユキさんのその微笑みに安心しきって、僕が死んだら、僕の心という遺品はユキさんのものになるだろうと確信した。
 それが恋や愛だとは、ソメヤですら言わないのだから、この先も誰も言わないだろう。