■ X.It’s sleeping blue. ■

■ T−1 黒い携帯電話 ■

 最近。
 何度も同じ夢を見る。
 私は、両手いっぱいに力をこめ、押し倒した貴方の首をしめている。喪服姿の貴方は、私の手にその手を重ねながら、いつまでも笑ってる。そのうち、貴方の唇がふるえはじめ、徐々に青くなる、顔。ビクリと体が痙攣したと思ったら、ぐるりと上を向く、瞳。パタリと床に置かれた、もう動かない手……あぁ、息絶えた合図。
 落ち着こうと深呼吸をして辺りを見回すと、さっきまで白かった空間には、白黒の垂れ幕が張られ、喪服姿の親族たちが、私を、じっ、と、見ている。木魚の音とお経を読む声が響いている。よろよろと、立ち上がる。
 ――そう、そうだったわ。ここは、お爺様の。
 白い菊で飾られた祭壇。足を踏み出すたびに、畳はぐにゃりと私を責める。顔の部分の小窓をあけ、棺桶を、覗いて。
 そこには誰も入っていなかった。
 誰も。
 良かった。
 お爺様は、生き返ったのよ。
 そうよ、そうだわ。私が生き返らせたんだわ。
 笑みがこぼれた瞬間、私の肩に、そろりと、遠慮がちに誰かの手がかけられた。
 ゆっくりと、振り返る。
 死んだ、いえ、殺した筈の貴方が。笑いながら。
 動けない私の耳元に、唇を寄せる。
 肩から首に、手がまわる。
 青く、青く、青くー…。
「……計画通りだね」

     ★

 すっかり冷えた手をジャケットの袖でこすりつけ、私はコーヒーカップに口をつけた。
 窓の外は暗く、気だるそうな分厚い雲が、月も星も、その口の中に隠してしまっている。まだ七時だというのに、この暗さ。夏が過ぎたのは知っているけれど、冬至って、いつだったかしら。私はひとりごちて、肩にまとわりつく髪の毛をゆっくり払った。喉に流れ込むカリン湯の甘さは、秋すら通り越して冬の訪れを許している。
 鈴木ゼミの仲間たちは、私を一人残して全員買出しに出かけていた。要するに、ゼミの飲み会で、皆は買出し。私はジャンケンで負けた、運の悪い留守番娘というわけだ。
 正確には、私と貴方。
 けれど、鈴木ゼミの誇る天才児・松島貴方は、先刻からどこかに行ってしまい、部屋の中は、どことなくがらんとしていた。トイレにしては長すぎるけれど、私は、部屋の外に出たくない。退屈。
 みっちーや佐伯さんみたいに、さっさと「用事があります」なんて言って断っておけばよかったものの、いつもながら、自分の要領の悪さに辟易する。
 ――早く皆が帰ってきますように。
 そう思った瞬間、私の黒い携帯電話が震えた。
 このゼミでは、携帯電話の電源を切っておくことが原則なのだけれど、もう発表も終わっているので電源をつけていたのだ。着信は、ゼミの後輩の浅見秀次郎。私は一息ついてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『あ、やまもり先輩?』
 後ろから街の喧騒が聞こえてくる。車の音、話し声、足音、ざわざわ。
『今、皆とコンビニに寄るところなんですけど、先輩、何か食べます?』
「んー…、じゃぁ、プリン買ってきて」
 特に考えもなく言ったのだけれど、浅見は明るい声で
『はいはーい、了解でーっす』
 私より先に通話ボタンを押した。プツリと途絶える電気信号。ディスプレイには通話時間が表示されている。
 その文字の上に小さく書かれている時刻表示を見て、私は椅子の硬い背もたれによりかかった。
 ……まだコンビニ?
 このキャンパスは丘の上に建てられていて、ここから近くの酒屋までは、歩いて10分。更にコンビニまでは、そこから5分かかる。
 やっと折り返し地点か。
 今から買い物で10分として、戻ってくるので15分。先は長いわ。そんなため息ばかりついても仕方がないので、一向にトイレから戻ってこない貴方のぶんも計算して、私はお湯を沸かしはじめた。
 皆が帰ってきたら、お酒を大量に飲むのだ。今ぐらい、温かい飲み物がほしい。蛇口をひねると、ゆるやかに透明な液体が流れ落ちた。幸い、聖条学院の中でもここ、隆星キャンパスは水が美味しい。隣を流れる梨木川のおかげだ。
 それにしても、こうして一人で居ると、余計なことまで思い出しそうで怖い。最近の夢とか、お爺様の葬式のこととか、昔の思い出とか、色々。
 そう、色々ありすぎて、私はとても困っていた。どう困っているかは上手く言えないけれど、とにかく困っているのだ。
 おかまいなしに鳴りたてる、ヤカン。沸騰の音。
 ふっとため息をつく。
 そうして3杯目のカリン湯を飲んでいると、ドアが勢いよく開き、私はびっくりして立ち上がった。
 息を切らして戸口に立っているのは、見慣れた紺のジャンパーを着込んだ松島貴方だった。裂けたジーンズからこんがりと焼けた膝が見える。
 そこだけ見るとまだマシなのだけれど、腰に吊るしている市松模様のポーチが、彼のファッションセンスを物語っていた。顔だけは小綺麗なのに、洋風と和風が入り乱れている。ジャンパーのポケットから、愛用している扇子の端が覗く。
 貴方は無言で近くの椅子まで歩き、どさっともたれて瞳をつむった。いつもボサボサと立っている髪が、心なしか濡れてしんなりしている。気づいたのはいいけれど、外は霧雨かと聞くのは……何か、厭だわ。
 仕方がないので4杯目のカリン湯を紙コップに注ぎ、無言で差し出す。貴方はぐいっと飲みこみ、瞬間「あっつ!!」と言ってゲホゲホむせた。
 あきれた瞳で貴方を見ると、彼は肩をすくめて
「ふー、死ぬトコだった」
 と。
 ――死ぬトコだった?
 笑えない冗談ね。
 私は毎日、貴方を。
 飽きるほど何回も殺しているのに。

■ T−2 橙の果物飴 ■

 もう何もかも知っている気になってしまって、私はまた困ってしまった。貴方の、どこを見ているかわからない横顔。その首すじの感触もよく知っている。人を見下したような笑いが、脳のどの願望がそうさせるのかも、青くなってゆく頬の温度も、冷たい声色も、もう、なにもかも。
 夢と現実がごそりと混じって、いつか、私は本当に貴方を殺すんじゃないかと、今も、気が気ではないのに。
 ゆっくりと窓辺に寄って、ガラスにこつりと額をつけた。私の顔が夜に反射して映っている。
 ほっと息をついた私は、ふと、闇の中にぼんやりと浮かぶ、オレンジ色の何かを発見した。ちょっと顔を遠ざけ、また、近づける。焦点を、そうっと合わせる。
 ……何かしら。
 向こう側の建物は、確か取り壊し作業が始まっているK棟。ここ、鈴木ゼミのある教室はL棟で、K棟とは小さな中庭を挟んでいるだけ。遠いとはいえこの距離で、見間違えるはずはない。
 まだ、誰か作業しているのかしら?
 それにしては変。ポツリと、淋しそうに浮かぶ飴色。工事ならきっともっと明るくするわ。よく見ようと目を凝らしたとき、
「山本、コレ」
「え、」
 声をかけられた。
 ふり返ると、貴方は笑いながら、棒がくっついている飴を差し出していた。女の子のキャラクターが描いてある、平たい、飴。
「皆にはナイショだからな!」
 貴方は快活にそう言うと、くるくると回転しながら鼻歌をうたい始めた。あれで歩けるなんて、器用としか言いようがない。
「……ありがと」
 一応小声でお礼を言い、飴を受け取ってまた窓を見る。
 けれど。
 あるのは暗闇だけ。
 さっきのは、何だったのかしら。
 不思議に思いながらも、私は窓から離れて自分の椅子に座り、飴を舐めはじめた。
 甘くて、舌がジンジンとする。それは糖分が舌の細胞を壊している警告なのだと、高校の時誰かが教えてくれた。あれがもう、遠い昔のように感じる。
 私は来春、この大学を卒業して就職する予定になっていた。単位さえしっかり取れれば、卒業に問題はない。だからといってはなんだけれど、最近、私はゼミの内容が頭に入ってこなくなっていた。
 ここは三年生からしか入れないゼミで、メンバーは殆ど四年生。それだけ高等な内容を、鈴木助教授は教えている。言ってはなんだけれど、ここは、人を選ぶ場所だ。けれどその四年メンバーの中でも、貴方だけが、行き先……つまり就職先ということだけれど、決まっていなかった。こんな秋口近くになっても決まらないなんて、これはプー太郎になるしかないかぁ、なんて、皆、笑いながら軽口を叩いていたのに、ついこの間。あっさりと留学が決まった。
 今日はそのお祝いの飲み会。
 本当に、断ればよかったのに。
 きっと、縁が、そうさせない。
 私は飴の最後のパリパリを、音をたてないように甘く、噛んだ。
 貴方と初めて会ったのは、このゼミではなくもう何年も前のこと。
 お爺様が、死んだ。
 私は、高校生になったばかりだった。
 公民館を借りて行われた葬式。近所の人々があとからあとから出たり入ったりしていた。けれど人々の顔は一様にうなだれていて、私は正直、気が滅入った。
 そんな中、窓辺によりかかるようにして、貴方は座っていた。
 いつの間に現れたのだろう。周囲の誰も、彼も、悲しみに暮れて貴方のことなど気にしていなかった。
 見た目の第一印象は、悪くはなかった。
 スッキリと整えられた濡れ羽色の髪に、切れ長の瞳。黒の、スーツ。けれど顔つきは、私と同年代かと思えるくらい若い。今思うと、スーツに着られていた。
 その時私は、少女漫画にありがちな「恋の予感」を少し、感じた。そういう年頃だったのだ。
 ……でも。
 その予感は一瞬の幻想でしかなかった。
 何の挨拶もなしに住職が進み出て、読経が始まった瞬間、彼の周りの空気が、ひどく冷たく変わった。貴方はお経が進むたび、何かを思い出しているかのように瞳を細め、そうして、ゆっくり笑う。
 その笑い方にドキリとした。
 何を笑っているのだろう。皆と違うその様子。私は視線を外さなかった。外せなかった。
 と。
 木魚がカンッと鳴った瞬間、貴方は、言った。正確には言ったワケではない。私はそれを見て、感じたのだ。唇の形で、彼が、たしかにこう言ったのを。
『――…計算通りだね』
 ゾクッとした。
 読経は激しく、続いた木魚の音が私に警鐘を鳴らす。この人は。
 この人とは、関わってはいけない。ましてや恋なんて。
 危険。ダメだ、この人はもしかしたらー…!
 ……お爺様は、誰かに殺されて死んでいた。錠のかかった蔵の梁に、足首から、ぶらさがって、
「山本?」
 貴方が心配そうに、私の顔をのぞきこむ。回想していたアレと重なって、私は瞳を大きく見開いた。心臓がうなる。落ち着け、私。ただの、記憶。
「なんでもありません」
 つとめて冷静に言い、貴方は「そうか!」と笑った。
 実を言うと、私は、ゼミに入って初めて貴方と出会った事になっている。ウソをついたのだ。私が。
 高校の時にあれほど短かった髪を伸ばし、運動部を辞めて筋肉を落とし、食を細くして体型を変えた。喋り方も、笑い方も変えた。親戚を拒絶し、大学へ行くため必死で勉強した。それもこれも、皆、貴方にもう一度会うという確信のためだった。どれだけ嫌でもいつか、必ず会うだろう。それは恋などという生ぬるいものでは決してない。
 家族を全員亡くした私の、絶望的な直感は、今、当たっている。
 私は貴方ともう一度会う。そしてそこで、何かが起きる。

■ T−3 宴の始まり ■

 貴方はもう飴を舐め終わっていて、飲み会の準備だろうか、机をガタガタと寄せ集めている。イスもおかまいなしに引きずるので、余計に音が響いた。
「……手伝う?」
 遠慮がちに聞くと、
「いい。山本も一応女の子だからなっ!」
 という明るい返事が返ってきた。
 なにこのテンションの高さ。いつもながら、困る。
 私は手伝うのを諦めて、窓の外を見た。
「え、」
 またあの灯りだ。
 一体、何なのだろう?
 私の居る建物群、つまりJ・K・Lと名前のついた三棟なのだけれど、上空から見ると三の字になっていて、真ん中の空間は、二箇所どちらも簡素な中庭になっている。鈴木ゼミの部屋は固定で、三階建てのL棟のうち、二階の右端を使っている。見えるのはK棟だけ。
 そう、やっぱりK棟に灯がついているとしか思えない。
 だから立ち入り禁止なのに、どこのバカが居るのか。
「……もと…」
 暗すぎてどの階に灯りが灯っているのかよくわからないけれど、
「山本ってば!」
「えっ?! あ、なに、」
 貴方はふれくされた様子で「もりもりに無視されたー」と、紙コップに粉を入れている。
「インスタントコーヒー、飲む?」
「ん、いいわ。私、もうカリン湯三杯も飲んでるし」
 窓の外を見ると、灯りは消えていた。
 なんでもないことなのに、気になるのは何故かしら。

     ★

「いっちばんのりーっ!」
 と、軽快なステップで部屋に到着したのは、小岩井春悦だった。
 長めに伸ばした茶色の髪と、唇に付いている銀色のリングピアスが特徴的な三年生。といっても留年してるから、年齢で言えば私たちと同じ。小太りなのは自分が酒豪だから、らしい。
 私は、この人のつりあがった眉毛が苦手で、どうも仲良くなれない。
「どうっすか、松島大先輩!」
 小岩井はこのタイムに相当の自信を持っているようで、 肩で息をしながら貴方に何度も聞いている。
 大方、坂のふもとから皆で競争でもしたのだろう。
「えらいえらい」
 貴方が興味なさそうに、でも顔面だけの笑顔で言う。そんなつれない態度でも、小岩井は褒め言葉と受け取ったらしく
「へへー、あんな坂、どうってコトないっすよ」
 と、酒屋の袋を机に置き、椅子に座った。
 瞬間。
「うわっ?! ってー!!」
「にばーん!!」
 二人の声が重なって部屋に響く。
「………」
「………」
 浅見は、足を一歩部屋に踏み出したまま、小岩井の奇声に瞳を丸くしている。
「ど、どぉしたの…?」
 浅見の声は、グルグルと巻いたマフラーの間で、ぐもっていた。
 小岩井は黙って険しい顔で、やがて立ち上がり、キラキラしている椅子の何かを払った。
 音もなく、空気の中にキラキラが飛ぶ。
 ――ガラスの破片…?
「何でもねぇよ。それより、やっぱりオレが一番だったな」
 と、小岩井は浅見に言い、袋からビールを取り出してプルトップに手をかけた。どうやら本気で痛かったらしい。教室内はしばらく微妙な空気に包まれた。
 私はちらっと貴方を見る。
 貴方は、私や浅見や小岩井など眼中にないようで、コーヒーを一気飲みして
「うげーっ!」
 顔をしかめた。
 浅見の次は、かなり時間を置いて津田博文。ほぼ同時に佐倉雄大。そして普通に歩いてきたチェ・シノンと共に我らが鈴木健一助教授の登場となった。
 ゼミを受けている人は、本当はもっと居るのだが、今回のこのお祝いには、助教授を足して八人のメンバーが集まった。全員三年か四年生で、津田さんだけ五年生だ。
 青いふちの眼鏡をかけた津田さんは、三年の時の進級試験で落ちてしまい、結局五年になったのだ。
 受験も難しいが、三年から四年への進級試験が一番難しい。大学の全人口の6割は落ちてしまう。私も危ういところだった。
 小岩井も落ちて今年四年目だけれど、三年の浅見とは親しい仲で、一瞬、彼も普通に三年なのだと錯覚してしまう。たぶん、精神的に子供なのだ。
「それじゃぁ、袋、あけようか」
 小岩井よりも縦横に大きい佐倉がのっそりと言い、皆、めいめい上着を脱ぎ始めた。シノン君が、両手に持っていた袋たちを大げさに机に置いた。
 椅子と机は、先刻貴方がセッティングしたおかげで、高校の昼休みといった具合になっている。五つほどくっつけた大きい机の周りを、椅子がぐるりとかこんでいる、あの形だ。
 誰かが置いていたラジオの音量を下げて、BGMに。
 肴は、各自が買った好物ばかり。
 紙コップには砕いた氷。
 佐倉が家から持ってきた色とりどりの原酒は、各自好きなものを混ぜ合わせ、カクテルまがいに使って良いらしい。
 私は浅見の買ってきてくれたプリンの銘柄に満足し、コップにはシンルチュウを入れた。
 甘い、杏の香り。
 さて。
 私は笑う。
 楽しい宴の始まり始まり。

■ T−4 暖かい部屋 ■

 席順でしばらくモメるのは、ゼミの常識。
 女の子が多いときにはなおさら、貴方の隣を狙っている女性同士が、熾烈なジャンケン争いをくりかえす。今日はそうでもないけれど、やはり皆、ある程度損得を計算しているようで。
 私と、その隣の助教授は固定位置で、あとは彼らが納得ゆくまで席を交換した。
「ボク、やまもり先輩のとーなり!」
 ストン、と、浅見が私の隣に腰をおろす。
「………」
「先輩、そんなイヤな顔しないでくださいよ」
「別に…イヤではありませんけれど……」
「じゃあ決まり。あ、その唐揚げボクの」
 津田さんが無言で唐揚げを渡す。飲み会になるといつもそうだが、今回も助教授の隣だ。これで助教授の左右は埋まった。
 貴方は、堂々と助教授の真正面に座った。
「健ちゃん、OR事典、しばらく借りてくから」
 なぜか助教授にタメ口。
 しかし、今日は助教授もご機嫌だ。いつもなら頭をひとつ叩くのに「そのうち返しにきてくださいね」
 と軽く一言。
 貴方と浅見の間に小岩井。貴方の反対隣にはシノン君で、丁度津田さんとシノン君の間に、佐倉がおさまった。
「乾杯は貴方くんだねえ」
 と佐倉が言い、ゆっくりとした動作でコップを掲げる。それにならい、皆もそれぞれチューハイの缶やビール瓶を掲げた。
「貴方くんの成長に」
「お祝いに」
「大先輩の留学に」
「貴方さんに」
「おめでとうねえ」
「祝杯を、」
「オメデトウゴザリマス」
「―……っ…」
 貴方は柄にもなく照れて、なかなか乾杯を言えないでいる。
 見かねたシノン君が韓国語で
「ゴンベ!!」
 と、乾杯を叫び、皆それぞれコップをやんわりくっつけあった。
 二杯目のチャイナブルーを飲み終えるころには、待っている間に感じた悪い予感などどこかに消えていて、ラジオの内容など、誰も気にしていなかった。
 和やかムードで進む中、津田さんが少し席を外した以外は順調に皆酔っていった。
 私?
 私は酔っていない。
 正確には「体は酔っているけれども頭は酔っていない」。
 そんな普通のテンションからこの飲み会を見ると、結構面白い。
 小岩井は大声で笑ったり泣いたりしているし、浅見は気持ち悪そうに時々口をおさえ「うぷ」と言いつつそれでも飲んでいる。
 シノン君は津田さんと英語で何かを話していて、佐倉は解っているのかいないのか、しきりに
「うんうん、いいねえ」
 などとうなづいている。
 貴方は、コンビーフの缶を開けている助教授と、お酒の話をしていた。
「健ちゃん健ちゃん、ジンと、ラムとかそういう果実酒系、どっちが好き?」
「ん、ワタシは割と白ワインが好きだね」
「えー、微妙ー」
「何、ギネス(ビールの名前だ)とでも言えば良かったかね」
「別に。あのね」
 貴方は机に肘をついて、ボテチをほおばる。
「ジンとか好きな人は、薬品系の匂いが好きな人なんだってさ。だから、理系科の奴らが多いって話」
 へぇ。
 なるほど。
 普段バカっぽいけど、マメな知識ばっかりあるのよね、こいつ。
「ちなみにオレはスピリタス一杯飲めますけど」
「あぁ、命の水ね。ワタシも一回だけ飲んだ事ありますよ。もう死にそうで」
「そうそう、死にそうになる」
 会話に入っていけそうにもないので、私は無言で席を立った。
 すかさず貴方がちゃちを入れる。
「どうしたぁーもりもり。トイレか?」
「私はそういう名前ではありません。ちょっと家に電話してきます」
「一人で大丈夫か?」
「………」
 返答するのが面倒になったので、無視して部屋を出た。
 廊下の終りで一息つく。
 冷たい。
 もうこんな季節なんだ。
 家に電話? 嘘に決まってる。
 もう誰も居ない昔の私の家は、とっくに売り払われていた。父も、母も、そしてお爺様も死んでしまった。なにもかも。
 こんな悲しい気分になるなんて、私ってもしかして泣き上戸かしら。
 先刻の変な灯りの事がふっと頭に浮かんだが、私は頭をふって皆の居る暖かい部屋へと走った。
「ひゃー、コワっ!」
 席をはずしたのは少しなのに、いつの間にか私の知らない話題になっている。
 と。
「やまもり先輩、コワいっ!!」
「はぁ……?」
 浅見が私を見つけてしがみついた。よく話がわからない。
 私の頭の上に浮かぶクエスチョンマークを見つけた、心優しき巨漢佐倉が、助け舟を出してくれた。
「向かいの棟に幽霊が出るって言う噂」
「あぁ、」
 納得。
 ここ最近、向かいの棟に幽霊が出るという馬鹿げた噂がたっているのだ。大学生にもなって、と、私は白い目でみていたが、なにやら相応の目撃者が何人も居るらしい。

■ T−5 宴の終わり ■

 皆、好き勝手に幽霊の正体を考えている。
「月がガラスに反射したとか、こっちの灯りが映っただけだろぉー?」
 小岩井が、浅見をホッとさせるために、ワザとちゃかして言う。ピアスが蛍光灯に反射して痛い。
「いやぁ、それじゃあ、見た人が動かないと光も動かないよねえ」
 佐倉が体をゆらしながら、やんわりと反論する。小岩井が言葉に詰まったところでシノン君が「あ、」と言い、
「UFO説は、どうデスか?」
 ちょっと真面目に人差し指をたてた。ワタシの国では稀に目撃されマスよ、と。「イギリスでは有名ですがねぇ」なんて、また佐倉が茶々を入れる。
「UFOは、神出鬼没デス!」
 覚えたての日本語をここぞとばかりに使ったシノン君に、貴方は「バーカ、宇宙人が居るわけねぇだろ」
 チンザノの入ったコップを向けた。
 氷がカランと鳴る。
「おっと貴方君、宇宙人が居ないことの方が、証明としては難しいんですから、簡単に切り捨てられませんよ」
 今度は助教授が参戦。確かにそりゃそうだけど、と貴方はボソボソ口ごもる。今回は一本とられたらしい。
 そのやりとりをじっと見ていた津田さんが、
「……そういえば、先ほど席を立ったときに、見えましたね」
 わざとらしく思い出したように言った。浅見にニヤリとした笑みを向ける。
「何がっ!」
「白い、ぼやっとした灯りが。ゆらゆら、ゆらゆら」
「ッわぁーっ!!」
 人一倍怖がりの浅見が、実は一番幽霊を信じている。というか、
「そろそろ離れないと、私の鉄拳が飛ぶわよ」
「あ、」
 浅見はパッと私から離れ、ほんのり赤くなった自分の頬を、手でこすった。それが照れからきているものか酒がまわってきているのか、私は酒なら大歓迎だと思う。
「灯りなら、皆が買出しに行ってる間、私も見たわよ」
「ほう、」
 助教授が声をあげる。
「点いたり消えたりしていて……丁度あっちの方にー…」
 私が指をさす方向へ、皆、一斉に視線を向ける。
 と。
 誰もが硬直して動かなくなった。
 灯りが動いている。が、それは私が先刻見たような、やわい光ではなかった。それは、何重にも折り重なる、力強い蝋燭の炎のような。
 物珍しさに、皆は席を立ち窓辺へ。やはり光源は、さきほど灯りを見た場所でー…奥に。
 誰かが居る。
 一人。いや、二人……?
 よく見ると一人は、窓から身を乗り出すように倒れていて、微動だにしない。頭には何かが突き刺さっているように変形している。
 くらげのように浮いている手も、やはり動かない。そしてもう一人は、その奥に足だけしか見えないが、床に倒れているようで。
 床には、血のような赤。赤。赤。
 背筋の冷たい針金が、心臓をッキ、と動かなくする。
 瞬間。
 私の頭に響いたのは。
 コン、コン、コンコンコンコン―カンッ!!
 木魚の音。
 ――お爺様!!
「助けなきゃ……」
 浅見の一言に、全員がハッとする。
 小岩井が走りだす。
 私と貴方以外の皆が、その後に続く。
 バタバタと足音が遠ざかる。
 行かなきゃ。
 助けなきゃ。
 でも、私はまだ動けない。
 目だけをゆっくり動かし、貴方を見る。
 人を殺しそうな瞳で、窓の外を刺す。冷たい唇。
 貴方は笑っていた。
 あのときとおなじだ。
 いつのまにか灯りは消えている。
 私の頭はひどくぼんやりしている。
 貴方が私に気づいて、こっちに来る。
「山本、大丈夫か?」
 いやだ。
 こないで。
 差し出された手を払いのけようとした瞬間、世界がゆらいでまわっておちた。
 私は貴方の腕の中で叫ぶ。
 来ないでよ、人殺し。
 貴方がお爺様を殺したんだわ!!
 貴方がー…! ―……。

     ★

 私は白い空間に立っていた。白いのに、そうだ。ここはゼミの教室だと、わかった。
 なぜだか、わかってしまった。
 皆はどこかに消えてしまい、そこには私と貴方が残された。
 端正な横顔が、気づいたようにふり向く。
 私はゆっくりと歩き、貴方の首に、指をからめた。
 とたん、彼はガクンと膝から折れて、上を向いた瞳が、私を捉えてはなさない。ぐっと、手に力が入った。
『人殺し……』
 その視線に恐怖しながら、何か言わなければと私は思う。
 貴方の唇は徐々に青くつりあがっていった。
 笑っている。
『なんでお爺様を殺したの、』
 小刻みにふるえるカラダ。血管の動きが手に伝わる。
 貴方は口を動かし、それが私にはこう聞こえた。
『……殺されたかったからー…』

■ T−6 冷たい部屋 ■

「……いっ…ちゃん?」
 寝返りをうって、そのごわごわしたシーツの質感にまぶたをあける。このシーツは、いつもの私の部屋じゃない。
 起き上がってみると、やはりここは知らないベッドの上で、隣を見ると海川鯉津が、ささやかな寝息をたてていた。
 ――なんだ。保健室か。
 彼はこの学院の中では結構な有名人で、彼が保健室のベッドでしか眠れないのは、ここのキャンパスに通っている人なら誰でも知っている。
 私と彼は、母方のいとこ同士なのだ。
 もっとも、その事実を知る人は、誰もいない。
 さっきは起き抜けで、うっかり昔の名前で呼んでしまったが、普段は話すことも会うこともない。
 その青みがかった黒髪を見ることさえ、お爺様の葬式以来……。
 少し、胸が痛んだ。
 とりあえず何があったのか知るために、私は彼を起こそうとする。誰も居ないし、昔呼んでいた名前の方が起きるだろう。
「いっちゃん、ちょっと、」
 私は呼びながら、昔よくしていたように彼の鼻の頭をつまむ。何秒かそうしていると、彼は不機嫌そうに瞳を開いた。景色をさぐって、私をみつける。
「あぇー…、りんちゃん…ひさしぶりー…」
 海川は起き上がると「んー、」とのびをした。
「髪のびたねー…、一瞬誰だかわかんなかったよー…」
「うん」
 私は昔に戻ったような気分で、ちょっと笑った。海川も笑う。
「あぁ、そっか聞きたいんだ。そっかぁー、そっかぁー…ふぁー…」
 彼は何でも知っている。
 情報収集に特化した頭脳。
 それは、貴方と同じ種類の天才的な雰囲気を感じさせる。同時に、そういう類の人材を欲している、この学院の意図も。まぁ、その屈折した性格を野放しにしているダケ、まだマシなのだろうけど。
 海川は頭をふって眠気をとばした。
 やっと普段の口調に戻る。
「大変だったな。せっかくの飲みがパーになっちまって。ま、ゼミの人たちが裏口あわせて、りんちゃん現場にいなかった事にしたらしいから、もうアレは忘れなよ」
「えっ、」
「だって、たおれたんだろ? それで今まで寝てたから。ほら、事情聴取っつーの? それが面倒だからって」
 優しさだとわかっていても、正直、仲間外れにされた気分だ。
 私だって、ゼミの一員なのに。
「聞く? もう倒れない?」
「ん、大丈夫。聞かせて」
 壁にかけられてあった自分の上着を羽織る。昼でも寒くなってきたのね。もう冬。
「建築科の雨ノ宮和実って人が、倒れてた。窓のふちから上半身だけぶらさがっている。部屋の中には蝋燭が大量に置かれている。どれも大きさはマチマチだけれど、蝋の減りから推測して、30分は点いていた感じ」
「……ふうん、」
 と、私は言った。
 あのクラゲのような白い手。今思い出すと、恐怖というより、綺麗だったという印象の方が強かった。スラリとのびている。細い。
 顔は暗くてよく見えなかったけれど、きっと美人に違いない。
 と。血のイメージが突然焼きついて、ブルッと震えた。本当なら、そんな映像、一生思い出したくないのだと体が叫んでいるように。
「第一発見者は、ゼミの皆というコトになってて、最初に現場に到着したのは浅見っていう人。知ってる?」
「知ってる。次は?」
「中国人の人」
 シノン君のことか。あれ、小岩井は?
 一番最初に部屋を出て行ったと思ったのだけれど、気が動転していて、間違えて覚えているのかも知れない。
「順番ってわかる?」
「……りんちゃん、オレ、そこまで何でも知ってるワケじゃないんだから、皆に聞けばいいじゃん」
 それはそう。
「ごめん、続けて」
「ん、」
 海川は立ち上がって、慣れた手つきで戸棚の中からお菓子を取り出し、その一つを私に差し出した。
「トルストイ」
「ありがと」
 たぶん、今の人名は「あげる」という意味なのだろう。彼は昔から少々オカシイ。何を指しているのかさえ相手にわかれば、言う単語なんて何でもいいと思っているのだ。
「教室にはカギはかかっていない。当然窓も開いている。凶器はカナヅチだろうと思われてるけど、現場にない。だから警察は、外部犯の可能性が大きいって方向で今調べてる」
「へぇ。で、もう一人は?」
「もう一人……?」
 海川はけげんな顔でこちらを見て、しばらく考え込むようにして視線を天井にずらした。ゆっくり左右に動いていた瞳は、次に私の横の枕にうつり、薬品棚を数秒さまよってから、
「一人だけだよ」
「え、」
「え?」
 しばらく室内には時計の音だけが響く。
 私も海川も、思案している時は無言がベストスタイルだ。いとこらしい類似点はそれくらいしかない。
 貴方や小岩井は声に出すタイプだし、浅見や佐倉は鼻歌を歌うタイプ。津田さんやシノン君はタイムラグを出さずに答える秀才タイプ。
 なんて、見当はずれなことを考えていても、記憶の中に苦しげに入っていっても、やはりあれは、二人。
「だって、私、見たもの。もう一人。足だけしか見えなかったけれど」
「それ、犯人じゃねぇの?」
「まさか。動いてなかったわ。その死体って、何かこう……」
「バラバラに切られてはいない」
 私の考えを見透かしたように海川は断言した。
 またしばらく沈黙が続く。

■ T−7 白く彷徨う足 ■

「……じゃなかったら、アレかな。今朝の新聞でー…、」
 と海川がつぶやいた瞬間。新聞という単語で私の頭はパッと回転しはじめた。
「まって、今何時?」
「11時半」
「11時半!?」
 そういえばさっき、自分で昼だと見当つけてたんだ!
「授業っ!」
「諦めなよ」
 なんでもなさそうに海川は言う。まったくイマドキの大学生だ。
「私は優等生ですから」
「優等生! その単語久々に聞いた」
 海川は屈託なく笑った。昔と変わらない笑みを見て、私は私が変わってしまったのだと思い知らされる。
 貴方の笑った顔。彼もまた、あのときと変わらない冷たい笑みを、窓の外の死体に向けていた。
「新聞の地方欄なんだけど、梨木川の佐々江橋で水死体が見つかったって。ウチの学生なんだけど」
「梨木川?」
 すぐおとなりの川だ。けれど、ゼミのあるL棟からだと講堂を迂回してから小道を十分歩いてやっと見える場所。少し、遠い。
「水死なら違うかも……血が…なんだか沢山出てたみたいだし……」
 これは、世に言うミステリー?
 もしくは、私の単なる見間違いか。
「りんちゃん、」
 海川が諭すような声で言う。
「犯人捜しなんて、やめなよ? 外部犯でほぼ決定なんだから」
「しないしない」
 私は苦笑して、側の棚に置かれてあった自分のバッグを持った。
 しないわ。
 犯人なら、もうわかっているから。
 といっても憶測でしかない。
 やめなよ? という海川の口調からいって、彼の中では既に解決済みの問題らしかった。
 そして、たぶん、これから会うであろう人物の中でも。

     ★

「え、貴方クン? あぁ、先刻来ましたね。図書館へ行くと言って出て行きましたよ」
 助教授は、綺麗に整頓されたデスクにトランプを広げていた。
 ジョーカーが一枚しかないところを見ると、どうやら一人でババ抜きをしているようで。淹れたてだったであろうコーヒーは、既に冷たく鈍く、黒い光を放っている。
「貴方クンに会いたいなんて、まさか恋……プ、すみませんねワタシの勝手な妄想が、あ、凛クン。コレどう?」
 ドランプを軽く持ち上げる。
 私は、どうやらこの暇つぶしのお誘いを受けているみたい。
 当然の断りと一緒に、
「今度の発表、期待しててください」
 と添えてみた。仲間外れにされたのは、私の力不足なのかと思って。
 でも、助教授はまばたきひとつして、隣のトランプの束からカードを一枚ひいただけで。
「あらあら、ババでしたね」
「助教授、」
「健ちゃんで良いですよ」
 くっ、ああ言えばこう言う!
「健ちゃん! どうして私ー…」
「けーんちゃーん!!」
 ――ボンッ! チリリン。
 小岩井は半開きの引き戸にわざと突撃し、備え付けのベルを鳴らした。可愛らしい音とともに、短めの足がひょっこり室内に侵入する。
「きいた?! 今朝のニュースでアラビックヤマトがー…! …!!」
 もう、いい。
 私はあんまりな気持ちのまま、図書館へ向かうことにした。やはり小岩井は苦手だ。
 ……ここの図書館の特別展示室には、夏目漱石直筆の原稿が飾ってある。私がその重厚な扉を押すと、貴方は、その原稿ではなく、隣に置かれた万年筆(これも夏目漱石のもの)を熱心に眺めていた。
 部屋の中は、ほかにも文学的宝物が綺麗に飾られてある。
 森鴎外の使っていた椅子とか、太宰治がまだ無名だった頃に出していた自費出版の小説雑誌とか、色々。
「ん、もりりんじゃーん。一日ぶりぃ。元気になった?」
 私に気づいた貴方は「私がついて来ること前提」の背中を見せて、中二階のカフェへと足を運んだ。広めの椅子に腰掛けたとたん、私たちの前に、コーヒーカップがひとつ置かれた。
 貴方はここの常連なのだ。しかも、コーヒーしか頼まない。
「もりりん答えてよーぅ。元気ィ?」
「……まぁ、元気…、です」
「ふーん。なんか、気落ちしてるみたいに見えっからさ」
「そうですか、」
「あーもうあーもう、ほら、リラックスしなよコレでも飲んで」
 ――コッ。
「それは貴方のコーヒーでしょう」
「間接キッスはイヤ?」
「イヤです」
「んもう、もりりんったらツレないっ」
「……はぁ…。つれなくて結構です」
 貴方との会話ほど、神経を使う機会はないと思う。しかも自分から足を運んだとはいえ二人きり。いつもなら、周りがはやしたてて会話はスグに終わってしまうのだ。
 どんなに短くても、疲れる。長いと、たぶん、もっと疲れるだろう。
 それは思い出すから? それとも、仮面を取られたくないから??
「あの、聞きたいのですが」
「うん」
「どうしてあのー…」
「楽しいから」
「――な、」
 貴方は私の質問を遮って、笑った。
「山本の質問に先に答えてみた」

■ T−8 赤く戸惑う手 ■

 彼は笑いながら、視線を窓の外に移す。
 ……人が死ぬのさぁ、楽しくねぇ? オレ変人だから、ついつい笑っちゃうんだよねー。
 ゾクゾクするよ。
 オレが殺してやったんだーなんて。
 いや、ウソだよ? ウソだけど、もうさ、そう思うと背中が疼いて……うーん、なんっつーのかな。快感ともチョット違うけど、そんな感じになる。
 だからさ。ガキだった頃は、よく他人の家の葬式に顔出して叱られてた。黒い服着て、何喰わない顔で偽名を書いて、スルッと入り込む。
 いっつも失敗して、でも成功した時も何回かあった。
 そういう貴重な時はさ、どんな死に方したか聞く。聞いて、同じ方法でオレが殺したんだと思うことにして。
 そいつがどんな表情してたのか、どんな殺され方をしたのか、誰がそうしたのか、そうさせたのか、全部、オレがやったんだなって。
 わかるんだ。
 そういうのが。
「だから、山本」
 貴方はもう笑っていない。
 笑ってほしくもない。
「お前のじいさんは、オレが殺したんだ」
 窓の外は雨。
 雪だと思ったら細い雨。
 私は今この瞬間、雨がとてつもなく嫌いになった。きっと、目の前のコーヒーカップですら、なんなく憎めるだろう。
「……そんんなコトを…わざわざ聞きに来たんじゃありません…っ」
 やっとのことで絞り出した言葉に、貴方は、ふっと動揺した瞳をちらつかせて、それから向日葵のようにパァっと笑った。
「あーぁあ! 言って損しちゃった」
 ゴキュゴキュと喉を鳴らしてコーヒーを一気にあおる。私は、その手がいくぶん震えているのに気づく。そして思う。
 なーんだ、と。
 貴方も、正真正銘の人間なんだわ。
 私がそうであるように。
「ぶはーっ、じゃ、なに?」
 コーヒーを飲み干すと、挑戦的な目つき。やけにドキリとしてしまい
「……見ましたか?」
 と、ひそひそ声で尋ねた。
「ん、何を?」
「窓から見たとき、もう一人、部屋の奥に倒れている所を、です」
「は? もう一人?」
 貴方も、海川と同じような反応をする。やはり、私の見間違いだったのだろうか。
「オレが見たのはー……、ん?」
 貴方は視線を漂わせる。
 そのまま、しばらく待っていると、彼は声を区切りながら言った。
「やまもりが倒れてから、スグに叫んで、そう、向こうにむかってさ。お前ら、誰か戻って来いって。山本が倒れたー! って。したら、小岩井が戻ってきて、だから、かついで保健室に行ったから、現場は……よく見てない。蝋燭は、なんだか突然消えたんだよな。よく分かんねえけど……ま、そんな感じ」
「ふぅん、」
 海川の言葉が頭を過ぎる。最初に現場に到着したのは浅見。次いでシノン君だったという。小岩井は、スグにUターンして教室に戻ってきたのだ。だから、あの時一番に走り出したのに、現場に到着していなかった、という事。
「小岩井だけ?」
「へ?」
「戻ってきたの」
「あぁー、けっこうあとから浅見が来たなー。あいつが警察に電話したんだ」
 へぇ、怖がりなクセに。浅見もあれでいて妙にかっこいいトコあるのね。少し見直した。私の尻を追いかけてるダケじゃぁないのね。
「ところでさぁ、山本」
 貴方は急に真面目な顔になった。
 こんな時ばかり名字で呼ぶの、ずるい。私はまた気づく。貴方、髪の毛に綿ゴミがついてるわよ。取ってあげないけど。
「聞きたくねーの?」
「何を、」
「殺され方を」
 お前のじいさんの、蔵の密室を。
「――…あ…」
 いいえ、と。そう言うことができたらどんなにいいか。魔術師は笑う。魔法が見えたとしても、誰も彼も、ただの人間でしかない。
「…とで……」
「山本?」
「あとで…に、します!」
 ――ガタン!
 勢いよく立つと、椅子が後ろに大きくゆれた。
 貴方は呆然として私を見る。それはそう。
 だって、泣きそう。こぼれそう。
 私だけがわかっていない。頭が悪くて、仲間はずれで、いつだってそう、気遣われて、誰も本当のコトを教えてくれない。
 嘘だ。
 思いこもうとする。
 嘘だ。お爺様のことがわかってるなんて、嘘だ。
 嘘つきだ。
 私は走ってその場から逃げて、息がきれてきたから早歩きで、鈴木ゼミの教室へ行こうとする。皆で飲み会をひらいた場所。あそこなら、誰も居ないハズ。次の授業まで隠れていよう。
 最短距離にしようと、芝生をつっきる。
 と。
「山本さん」
 声をかけられた。
 視線をずらすと声の主は津田さんで、枯れ木によりかかり、手には小さな本が開かれている。
「何をしているんですか」
 興味本位で聞く。私の足はもう止まっている。津田さんは本を閉じてまばたきし、それからうっすらと笑みをうかべた。
「別に……文学青年を装っているだけですけど」

■ T−9 青く微笑む目 ■

 ……文学青年って…。
 突っ込むべきなのか、そうでないのか、私が寒空の下で固まっていると、彼は芝生の上に置いてあった鞄を持ってこちらに歩いてきた。
「ウソですよそんな、少女漫画でも滅多にないことを……。ところでお急ぎのようですが、これからどちらへ?」
「あ……、ゼミの教室に行こうと思ってー…」
「そうですか、呼び止めて良かった。教室は今、立ち入り禁止ですよ」
「え?」
 立ち入り禁止?!
「どうしー…」
「見えますからね、ブルーシートが。運営側の配慮ですよ」
 津田さんはまたフフ、と笑った。
 この人は、話していると必ずどこかで何かしらの笑いを入れる。最近気づいた、彼の癖。私は負けじと、唇のはしっこをつりあげた。
「じゃあ、食堂にでも行く事にするわ」
 空元気とはいいものだ。
 どんよりと沈んだ気分の上澄みだけでも楽しげな形にしてくれる。
 けれど、次の津田さんの言葉で、私はビックリして唇のはしを元に戻してしまった。
「ご一緒しても、よろしいですかね」
 ――そうして今、私はカレーを食べている。
 この食堂の名物、具なしカレー。正確に言えば、小さな人参と豚肉だけは入っている。煮込みすぎて、ジャガイモや玉葱は溶けてしまっているのだ。
「津田さん、何か、食べないんですか」
 目の前の青年は、視線を横にずらしたあと、眼鏡をかけ直してまた本の世界へ。
 もう一度声をかけようかと、タイミングを見計らっていると
「お気遣い無く」
 かすれた声がボソリと届いた。
 反応が……遅い。
「津田さん、ちょっと聞いていいですか」
 私はそう言うって、しばらくカレーを食べ続けた。皿の中身が半分くらいなくなった所で、津田さんが「えぇ、なんでしょうか」と言葉を返す。眼鏡をかけているのに、本に顔をくっつけたまま。
 ちょっと迷ってから、そのまま話を続けることにした。
「あの、事件の時のー…」
「事故でしょう、」
 急に彼が顔をあげたので、私はまたビックリして、スプーンからカレーをこぼしてしまった。
 真っ直ぐに見つめ、諭すように、津田さんは言う。
「あれは事件ではなく、事故、ですからね」
 本を閉じて、もう一度、繰り返す。
「事故、ですよ。だからもうその話はやめましょう」
 事故?
 事故だから??
 ため息をついた津田さんの笑みは、自嘲的な空気を含んでいた。
 ……どうしてそんな顔をするんですか。
 言いたくても、言えない。
 津田さんが、クレオパトラを庇ってわざと自分を陥れたカエサルのようにしか見えなくて。
 何かがひっかかる。変な、違和感が。
「じゃぁ、もうやめます。でも、ひとつだけ質問させて下さい」
 一瞬キョトンとした津田さんは、クスリと笑ってどうぞと言った。
 意地悪そうな瞳は、もう、文学青年でもカエサルでもなく、いつもの鈴木ゼミの仲間。私はちょっとホっとする。
「あの、ゼミの向かいの棟の灯り、前にも見たって言ってましたよね?」
「えぇ、確かに」
「いつの話ですか?」
「灯りが?」
「はい」
「あぁ、あれはー…」
 少し横を向き、津田さんは、したたかに笑う。
「えぇ、飲み会の日の二日前くらいでしたか、ほら、丁度通路のある……分かりますか? あの、右手に例の棟が見える、講堂へ行く道の事ですね。あそこを通っていた時に見えたんですよ。灯りが。たまたま、プレゼンの資料作りで残っていましてね。夜七時は過ぎていたと思いますよ。でもー……」
「でも?」
「あの飲み会の日に比べると……えぇと、もっと、青白かったといいますか、それがスーッと右に動いて、それから左に動いて、パッと消えて、まぁ、それだけです」
 津田さんはそう言うと、席を立ち「そろそろ次の講義がありますから」と、出口へ向かって歩いていって。私は、結局残ってカレーを平らげた後、もう一度保健室へ行こうと思った。
 海川に合うために。
 正解をわかっている人が何人居ても、私は、貴方のところにだけは行きたくない。外に出ると、誰かと一緒に歩いている浅見を見かけた。津田さんと同じで、次の講義のために移動しているのだろう。
 声はかけなかった。これ以上、混乱させる話を聞きたくないもの。
 そうして保健室に戻った私は、なんだかゲームの中の主人公になったように思えてきた。
「……シノン君、」
「ヤマモトさん? オハヨウございます」
 どうしてことごとくゼミの仲間に会うのだろう。
 彼は昼だというのに時間ハズレの挨拶をして、薬品棚の中から勝手にビンを取りだしていた。
 いつものパーカーといつものリュック、いつものチェックフリース。古びたジーンズ。順番に眺めて私は、いつものシノン君だとしみじみ思った。彼はいつも、こんな感じの格好しかしない。
「どうしたの? カゼでもひいたの?」
「イエイエ、チョット」
 シノン君の手のひらがビンを優雅に包むと、ビンは、パッとなくなってしまった。ひらひらと、手をふる。
「手品のレンシュウでース」
 よくわからないうちに、彼は「じゃ、」と言って、保健室から出て行った。私は唇をとがらせる。そこに海川の姿はもうない。
 諦めなよ、という、笑いを含んだ声。
「ま、いっか」
 ポンッとつぶやいた言葉と一緒に、私は色々と諦めたのだった。