■ X.It’s dry up ■
■ 1 どうやらそれは胎児のようだ ■
「……センセイ…?」
死の匂いがする。
僕はその目の前に立ち尽くし、恐る恐る先生の顔を仰ぎ見る。
先生は、笑っている。
その美しい金色の髪と、透き通った翡翠の瞳をきらめかせ、笑っている。
――やっぱり。
僕はうつむいて死体ー…これは死体と言うのだろうか…。骨と皮だけの胎児と鳥の剥製を眺めた。
「宮内クン、」
先生と目が合う。
「一旦保健室に戻ろうか」
この空気に不釣合いなほど鮮やかに、先生は言った。
「センセイ…」
先生はかまわず僕の背中を押す。
僕は、なぜだか振り返りたかった。
死の匂いを漂わせる「それ」が、なんだか、芸術品のような気がしたのだ。
★
この学院の中には、いくつかの棟と共に、いくつかの保健室も備わっている。僕のメイン教室のある、隆星キャンパス北C棟にも、もちろん保健室がある。
風鳴ハヤテ。それがこの先生の名前だ。
実際には、彼は保健教諭ではなく、ただ保健室が空いていたのでそこを自室にしてくつろいでいる助教授なのだけれど。
「宮内クン、お茶はどう?」
先生はにこやかに言い、薔薇をあしらったティーカップを僕に手渡す。
「ありがとうございます」
僕はお茶をカラダに流し込み、さっきの死の匂いを消そうとする。
先生は、そんな気弱な僕を、笑っているようだった。
「知り合いに借りたのだよ。君には一度見せておきたいと思ってね。あ、そうそう、こんなのもあるけど」
先生はデスク脇のポリバケツをひきずり、フタを開けようとした。
不吉な予感。
衝動的に「待った!」と大声。
「……なんですか? その中身……」
「特殊な溶液でふくらませた、サリドマイドの胎児標本」
「……うぇ…」
思わず声が出る。
げんなりだ。
こんなげんなりな気持ち、授業だけで十分だ。
「宮内クン、いい加減慣れないとダメですよー。カエルの解剖程度で気絶されたら、この先授業が進まないでしょ」
「そんなコト言われても」
正直、入りたくて入った学科じゃないし……。
そう言いかけて、僕は口をつぐんだ。
外では新緑が、その存在を世界に知らしめようともがいている。
僕だって、同じようなものだ。世界は広すぎて、こんなちっぽけな存在なんて、見つけてすらくれない。
「……そろそろ東大にも顔を出さなきゃねぇ…」
先生は自分のカップを手に、ぼんやりとひとりごちた。
今のところの毎日、授業時間以外は、こんな日々が続いている。
★
「宮内クン、」
いつもの声のようだが、慣れきった僕にはその声色が何を意味するかよくわかる。
しかし、そんな声に関係なく、授業終了と同時に押し寄せた人だかりに、僕は呑まれ、そして押し出された。彼の授業は、その特異性とは裏腹に、非常に人気なのだ。
仕方なく保健室で先生を待とうとする。
廊下。古いキャンパスにありがちな、コンクリートの冷たい鼓動。
僕はふと、昨日のあの標本に会ってみたいと思った。そう、昨日の。
茶色く変色した胎児の頭の下に、鳥の、おそらくは海烏であろうか、鳥の胴体がくっついている、あの標本。
標本?
標本だって? 冗談じゃない。
僕は足を速めた。冗談じゃない、。本当に冗談じゃない。
そのうち、どこかの法人団体から人権侵害で訴えられるコトは間違いないだろう。
狂ってる。
人間の、しかも胎児と、鳥。
まるで人面鳥だ。
きっと差し押さえられて、挙句、処分される。そうに決まってる。
……その前に、もう一度だけー…。
――え?
自分の考えにドキリとした。
なんだろう。
連日の解剖授業やら人体構造の授業で、とうとう、オカシクなっちゃったの?
もう一度? バカだろ自分。
吐きそうだったのに。絶対、やめておいた方がいい。
やめとけって!
そんな心の声とは裏腹に、僕の足はもう勝手にあの部屋の前。
ドクン、と、カラダがうなる。
ゆるい風が通り過ぎる。
ここまで来た道順が思い出せない。ドアが、やけに高く僕の前にそびえ、ゴクリと喉が鳴った。震える手で、ドアノブを握る。
――ギィ……。
良かった、鍵はかかっていない。
少し押したら、あとはドアが勝手に開いてくれた。
埃の中を、一歩、進む。
「―…………」
そこには、昨日と同じ光景が広がっていた。
狭く、細長い室内には、山積みのダンボール。
その奥に、一つのテーブルと、天窓。
胎児、そして、その下の鳥が、透明な円形のケースに収まっている。
これを作った人は、何を考えていたんだろう。