■ ツキク ■
「キミはボクとキスをしたって、なにひとつ変わっちゃいない」
そーだねツキイチ? と魔王は言った。
放課後の教室でのことだった。
放課後といえば聞こえがいいかも知れない。学校中の生徒がオルカニアホールに移動し、さして面白くもない演劇を観るという学校の行事の帰りだった。
呉校の、暇すぎる伝統的な行事。年一回ある。
一般高校生であるツキイチと魔王は、その行事が終わった後帰っても良いのだと先生に言われたにもかかわらず、わざわざ自転車でひきかえしてきたのだ。
この教室に。
そこが帰り道だという保障はどこにもなかった。
だが、ツキイチは魔王に逆らうことができない。いつだって、彼は大事な親友としてツキイチを遊びに誘う。
なんの変哲もなく昨日と同じ位置をした机に、魔王は腰掛けた。
その体重を、きしみもなく机は受け入れる。
「キミの手にはとっくに気づいてた」
魔王は言う。
「キミはその手で色んなものを視ることができるんだろう? 消しゴムから佐々木さんの未来を、花から言葉を、遺留品から戦争の記憶を、ボクの手から、」
眉間にシワをよせる。
魔王は、隣に立ったままのツキイチの頬に、手をすべらせた。
瞬間、ツキイチの中に、紫色の髪をなびかせた、小さな親友の正体が視えた。
彼は魔王だ。
彼は他人をいちばん不幸にする術を知っていた。
そのためには人間の姿になることが第一条件だった。
べつに天空からでも指をひねれば戦争を起こせた。けれど、彼はそれに満足しなかった。目の前で、目の前の不幸に巻き添えになることに彼はこのうえない幸福を感じている。彼は今、ひとりの女性を不幸にしようとしている。彼女は数ヵ月後に死ぬだろう。そのあいだ、彼は高らかに笑うのだ。おかしくて、腹がよじれるほど。
絶え間なく流れてくるビジョンは、ツキイチの瞳をつむらせた。
闇のすぐ先で、魔王は嘆く。
「親友を、辞めないか。 こんなのは、フェアぢゃない」
ツキイチは首をふるが、瞳を開けても魔王が居ないことは、もう視えている。
「ここでボクが居なくなっても、キミはひとつも変わっちゃいないだろう。いつも通り、なんの感情もなく毎日を過ごすんだ。シアワセもフシアワセも、何とも思わないキミにボクがどれだけ救われているか、わからないんだ。そんなの、フェアぢゃない。ボクが居なくなって、キミが悲しんだら初めてフェアになるんだ。ボクの言ってるコト、解るよねツキイチなら。だって、ボクの、ただ一人の親友なんだから――」
翌日の教室には、机が一つ欠けていた。
魔王などはじめから居なかったかのようにクラスメイトたちはツキイチに挨拶をする。
いつも通りの一日が、始まろうとしている。
僕が何かを思えば、君は戻ってきてくれるのだろうかと、黒板を眺めながらツキイチはぼんやり思った。