■ 目出塔来たりて笛を吹く ■
■ 1 依頼 ■
「――アンタなんかに、何がわかるのよ!!」
コンサートホールの舞台上。
ライトに照らされ女と男。
中央を、取り巻くように事件関係者が成り行きを見守っている。
初老に近いスーツの男は、手帳からひとつの紙切れを取り出した。
四つ折りにされたそれは、ずいぶんとくたびれており、長い年月を想像させる品であった。
「これを。……お姉さんのスケジュール帳に挟まっていたものです」
女性は受け取り、紙をひらく。
とたん。
あふれ出る大粒の涙。
「うっ、ウソ……これー…、ウソ!! レミ姉さんっ、アタシ――、何てことを!! ごめんなさい……ごめんなさい…!」
紙を握りしめ崩れ落ちた犯人。
しゃがみ、肩に手を置く井鱒刑事。
無言で見守る楽団員たち。
舞台の袖でその様子を眺めていた古都霜刑事は、携帯電話を取り出し、車の手配をはじめた。
梅雨。
ある楽団で起きた坂本麗美さん殺害の件は、双子の妹・坂本美空の逮捕をもって終了するだろうと、その場に居た全員が思った――…。
…――古都霜刑事を除いて。
☆
古都霜刑事は、歓楽街から右にそれ、狭い路地を歩いていた。
くの字に曲がった白い吸い殻たちを踏みつぶしながら、陰鬱な湿気をまとうゴミ箱を通り過ぎる。刑事の目的は、その路地の袋小路に建つ小さなビルであった。一階の店舗部分はシャッターで固く閉ざされ、褪せた色彩の不動産ポスターが貼り付けられている。その錆び色シャッターの右隣には、細長い空間がパックリとひらいている。
少し入ると案の定、二階へと続く階段が古都霜を待ち受けていた。
昇りきり、着いた先の薄暗い通路。すぐ先は行き止まりであり、左側の壁にひとつだけドアがあった。はめ込みのすりガラス部分には「朱益探偵事務所」と書かれている。
文字が緑色だったため、古都霜は心の中で「朱色じゃねーのかよ」とツッコミを入れた。
しばし躊躇したのちノックする。ぐもった声の返答。
ドアを開けて中に入った古都霜を、立ち上がった青年が迎えた。
人懐っこい丸い目。少し長めに整えた髪は明るい栗色。着ているスーツは淡いグリーン。中のネクタイは紫色である。一人しか居ない、ということは、この青年が目出塔の言っていた「朱益テオ」だろう……、そう古都霜は検討をつけ、心の中でもう一度言った。
「――朱色じゃねーのかよ!」
「えっ?」
グリーンスーツの青年は眉尻をさげ、ポリポリと頭を掻いた。
「えーっとぉ……、朱色じゃなくてすみません。挨拶のほう先によろしいですか?」
「あっ! 俺……声に出てました?!」
あわてて頭を下げる古都霜。
「ホンッッットウにすみませんッ! 今の、聞かなかった事にして下さい!!」
対して青年は、柔和な笑みをくずさずに古都霜を長椅子に促した。低いテーブルに、紅茶が入った朱色のカップを用意し、お茶うけにはエリーゼの赤いパッケージを置いた。おそらく気を使ったのだろう。
古都霜が自己嫌悪しながら対面を見上げると、青年は、先ほどと変わらぬ笑みを浮かべたまま名刺を取り出した。
「初めまして、朱益テオです。ゴっち……目出塔とは高校時代からの友人で……古都霜刑事、ですよね? ゴっ……目出塔から電話があって――、お待ちしてましたよ」
「加々美署捜査一課の古都霜です。先ほどは失礼しました、えぇ、なんというか、名前で想像していたのと違ったというか……なんと…いうか……」
言えば言う程、墓穴。
古都霜の声は縮んで消えた。
一課の若手ホープは軽く咳払いをし、気を取り直してテーブルの上に一枚の紙を出した。
点と棒線、いくつかの記号。
それだけが描かれた紙である。
朱益テオは身を乗り出し、その紙を見つめた。
「コピーですか?」
「もちろんです。手に取って見ていただいて」
古都霜の言葉に甘え、手に取りまじまじと眺める探偵。しばらく時間が流れた後、ポツリと朱益がつぶやいた。
「無線の……モールス信号かなにかでしょうか」
「さぁ……」
「点字……っぽくは見えないけれど」
「さぁ……」
「これは警察からの依頼なんでしょうか?」
「――いえ!」
刑事は即答した。
「これは私の個人的な依頼です。今日は休日で、事件捜査などでは決してありません。目出塔刑事も関係ありませんから。この紙に、何が書かれているのか知りたいのは……、なにか、なんというか、引っかかるというか。これはある楽団で起きたヤマのー…」
ボランティアの興行を主な活動としている、とある楽団は、集まる年齢も幅広ければ所属団員の本職もそれぞれ。
楽団内で殺人が起きた。被害者は坂本麗美。
事件当時、その場に居た団員の名前と職業は以下の通りである。
ヴァイオリン 烏丸 風亜(ヴァイオリン教室 教師)
チューバ 鳳鳴 志度(電気通信設備関係)
フルート 坂本 麗美(聾唖学校 臨時養護)※被害者
クラリネット 坂本 美空(県立大学 事務局員)
チェロ 結城 史楽(聾唖学校 教諭)
トロンボーン 館林 堂己(演武団体 所属)
結局犯人は自白した。
関係者が全員集まった舞台の上で泣き崩れたのは、被害者の双子の妹・坂本美空であった。
だが、自白がなされたきっかけは、ベテラン・井鱒刑事の追いつめではなかった。最後に刑事が渡した、点と線と記号だけが記された一枚の紙だったのだ。
■ 2 調査 ■
コンサートホールからの帰り道、古都霜刑事は井鱒刑事に紙のことを聞いた。
その会話が以下である。
「――あの紙、何だったんですか?」
「………」
「井鱒さん、聞いてます? 紙、一体なんて書いてあるんですか? 教えてくださいよ」
「………」
「教えてくれたってイイじゃないですか」
「……私は署に戻れば別なヤマがある。暇つぶしのお遊びは、目出塔とでも組んでやるんだな」
つまり、井鱒刑事は、単に姉の遺留品の中で一番年代が古いもの――妹との思い出がありそうなもの――を選んで渡しただけだったのだ。
犯人の感情をゆさぶる作戦、という点では間違っていない。
犯人は実際に泣き崩れ、自白したのだから間違ってはいない。
だが。
しかし。
「……――という訳なんです」
古都霜が話し終えると、朱益テオは紙のコピーを持ったまま立ち上がった。
「んー、じゃあ、まぁ、ちょろっと楽団にお邪魔して、聞いてみましょっか。音楽関係の何かかも知れないですから」
ニッコリ笑う青年の印象は、常時イライラオーラ全開の目出塔刑事とは正反対だな、と、古都霜は思った。
☆
団長の烏丸に連絡を取ると「楽団には事務所などない」という返答であった。
団員は常時携帯電話で連絡を取り合っており、貸しホールなどで不定期に集まって練習しているらしい。生憎、今日は練習日ではなく、ましてや例の事件があったため、次に団員が一堂に会する機会は未定とのこと。
粘ったあげく、団長が経営している烏丸バイオリン教室で数分間話をするだけなら……、という短いアポがとれた。
「――まだ事件のことで何か?」
フリルがついた絹のシャツ、カールさせたロングヘアー、シンブルな銀のリングネックレスが首もとでキラリと光る。ピンク色の、艶のある唇を見て、楽団の時とは気合いが違うと古都霜は感じた。
おそらくこの女性にとって、ヴァイオリン教室こそが本命。楽団は、趣味の範疇を超えていないのだ……。
などという古都霜の考察をよそに、朱益テオは紙を出し単刀直入に訊いた。
「この紙、なんて書かれてると思います? 奥さん」
烏丸は、例の紙のコピーを眺め「わからないですね」と答えた。
朱益は更に質問する。
「坂本姉妹は一卵性の双子だったんですよね、確か」
「えぇ……、それが何か?」
「双子といえば、言葉にしなくても通じ合えている、とか、好みがまったく一緒、みたいなイメージがあるんですが。そういったエピソードは思い出しませんか?」
「そうですわねぇ……、志度くんにきいた方が早いですわ」
「というと?」
「刑事さんも知ってる事ですわ。では、わたくしこれからレッスンですの。お引き取りくださいませ」
チューバ担当の鳳鳴志度に連絡が取れ、彼の働く工事現場に移動することとなった。
移動に使うのは古都霜の車である。
助手席の探偵は、飽きもせずコピー用紙をじっと見つめている。
と。古都霜は先ほどの会話を思い出し、ひとつ、疑問に感じた。
「あれ? 烏丸風亜が既婚者って情報、言いましたっけ?」
探偵は視線だけをちらりと古都霜に向け、また紙を眺める。
「リングのついたネックレスですよ。指先の感覚を大事にしたいから、指にはめないで首から下げてるんじゃないかなーって。婚約指輪だとしたらシンプルすぎるし、あの女性は経済的に潤っているみたいだし、もし、ただ恋人から貰っただけとか婚約指輪なら、自分がお金出してでもグレード高くしますよ。言い方もお嬢様だったし。で、シンプルすぎる指輪を首にかけるってことは、結婚してるんだろうなーって。あ、そういえばゴっち……目出塔って、署ではどんな感じなんですか?」
「どんな……」
万年窓際カッコ笑い、親の七光らない、イライラ王子、見た目だけ意識高い系、などなど、目出塔のイメージから良い部分をなんとか抽出しようと古都霜が頭をひねっていると、工事現場に到着した。
「――休憩入りまーす! すみません、今降りますので!」
ビルのへりに設置された、何本もの線が重なり合ったようなアンテナから手をはなし、男が叫んだ。
その様子を地上から見ていた古都霜刑事は、了承のかわりに手を軽く振った。隣に立っていた朱益テオは「いけそうですね」と呟く。
「えっ?」
「だって、無線技士でしょ、あの人。無線やってるなら、この紙の中身がモールス信号だった場合、解読できるかも知れないなーって」
「………」
古都霜の、そういう事を聞きたいわけではないという無言の要求に、朱益しテオはようやく気付いた。
「あぁ、えーっと、アンテナですよ。アンテナ。変な形でしょ、あのアンテナ。業務用の無線アンテナですよ。扱うには資格が要るし、首から下げてる社員証も、他の人とは色が違いますからね」
男が降りてくると、挨拶もなしに朱益テオは紙を取り出した。
単刀直入に訊く。
「すみません。これはモールス信号ですか?」
鳳鳴志度は怪訝な顔で古都霜を見た。古都霜が軽く頷くと、また紙に視線を戻す。数秒もたたず「違う」という答えが返ってきた。
朱益テオはたたみかけるように言った。
「坂本さん姉妹がこの紙をあなたに見せた事はないんですね? では、二人だけに通じる言葉をあなたの前で使ったことは? あなたは坂本麗美さんか美空さん、どちらかに恋愛感情を持ったことはありますか?」
返答は、すべて「NO」であった。
トロンボーンの館林堂己、チェロの結城史楽にも聞いたが、同様の返答であった。 楽団に所属している人間は全員、あの紙を見た事が無く、解読方法も知らず、また、過去に双子だけで通じるような特殊な伝達方法を目の前で見た事もなかったのである。
■ 3 落日 ■
結城史楽が勤めている聾唖学校の駐車場に出ると、学校のスピーカーから五時の音楽が流れた。
「アプローチを変えた方がいいですね、一旦事務所に戻りましょう」
車に乗り込んだ朱益テオがそう言うと、ポケットがうるさく振動した。携帯電話である。古都霜が車を動かし始めるのと同時に取り出し、ディスプレイを見ると「ゴっちん」の文字。
「あ、ゴっちんからだ」
「目出塔?!!」
キキィーッと急ブレーキがかけられた車体は斜めに傾き、ドシンと座席が動いた。
「どうしたんですか古都霜さん、」
「いっ……いえ…! 何でもないです、ホラっ、携帯まだ鳴ってますよ、どうぞどうぞ」
朱益テオは通話ボタンを押し携帯を耳にあてたが、すぐに通話終了ボタンを押しポケットに仕舞った。古都霜が驚いたように「早いですね、電話……」と言うと、柔和な青年は困ったように眉をひそめた。
「えぇ、いつもこんな感じですよ。ゴっちんは」
「どんなです?」
「事務所行く、待ってろ、ブツッ。って感じです」
「へぇ……」
車が発進する。数十分後には、朱益探偵事務所がある路地の手前の大通りに着いた。しかし、古都霜は車をパーキングに入れず、ハザードを点け路肩に駐車した。朱益テオをおろし、窓を下げて礼を言う。
「今日は付き合っていただいて、ありがとうございました。僕は遅番なので、これで失礼します。あ、目出塔によろしく言っておいてください」
「えっ? 今日は休みなんじゃー…」
「――では失礼します!」
足早に遠ざかっていく車の音。
ライトを目で見送りながら、そういえば署内での目出塔の様子を聞けずじまいだったと朱益はひとりごちた。
「まぁ、ゴっちんに直で聞いた方が早いか……、……ッ!?」
突然。
脳内に話声が鳴り響いた。
『―――そうですわねぇ……、志度くんにきいた方が早いですわ――――刑事さんも知ってる事ですわ―――』
朱益テオは後悔した。
もっと早くに気付くべきだった、と。
だが、既に面会は終わり、古都霜刑事は立ち去ってしまっている。
重い足取りで事務所に戻ると、扉はパックリ開いており、ついでに電気もついており、ソファには目出塔が足を組んで座っていた。四角い眼鏡をクイっとあげ、機嫌が悪そうに「よォ、」と呟く。
「ゴっちん」
「遅いッ!! ……古都霜は? 茶ァ出せ。それから情報」
大量の紙が、バサリと机に投げ出された。全てが楽団に所属している人間のデータであることを目で追った朱益テオは、目出塔のためにお茶を淹れはじめた。ティーポットに茶葉とお湯を入れ、蓋をする。
「……ゴっちんは捜査に参加しなかったの?」
「してない。それは全部インターネットから拾った情報」
「欲しかったんだ、ありがとう!」
「別に……」
注目すべきは鳳鳴志度・坂本麗美・坂本美空の関係性である。目出塔が持ってきた情報から、共通点はすぐに見つかった。
「三人とも同い年で出身地も同じだ! ……たぶん幼馴染か、中高が一緒だったとか、そういう関係だったんだ。だから志度くんに聞いたほうが早い……刑事さんも知ってる……」
だが。と、朱益テオの脳内が反論しはじめる。鳳鳴志度は何も知らないと言った。恋愛感情も持ったことがない。つまり、どちらか一人を優遇してはいなかった。「恋の三角関係」が動機ではない事は、データの一番下にしっかり書かれていた。
鳳鳴志度は他の女性と結婚していたのだ。
三人という可能性を消し、次に坂本姉妹のデータを見比べてみる。発見したのは、姉妹の経歴の一番上に『3才からフルートを始める』と書かれていた事であった。坂本美空の情報にだけ、『8才からクラリネット奏者・半沢麻里音に師事』と書かれている。
「一緒にフルートをはじめて、美空さんだけクラリネットに転向……」
古都霜との移動の最中、紙の表記が「何らかの暗号的リズム」なのではないかとも考えたが、事情を尋ねた音楽関係者が揃って否定している。
「テオ、お茶!!」
「え? あ、ごめん!」
目出塔に急かされてカップに紅茶を注ぐと、朱益テオはお茶うけにエリーゼの白を出した。目出塔は不機嫌に眉毛をいからせながらパッケージを開け、二本のエリーゼを縦に合体させて笛を吹くマネをした。
「ドレミファソラシド―、なんつって。指テキト―だけどな」
「………」
「何してんだよテオ。ここはツッコむとこだろ」
放心した旅人のように立ちつくす朱益テオが、ようやく、口を開いた。
「……ドウミ…、フーア…、シラ、ク、レイミ、ミソラ……シド……」
「は?」
「名前……だ。団員の。堂己、風亜、史楽、麗美…美空志度……」
笛を吹く。
フルートを。押さえる指。押さえない指。確認しながら拙く吹く。
古い紙。落書きのような記号。音階のような名前。
幼い頃の。
共通の楽器。三人の子供。彼への。
恋、は。
否定されたが、願っていたとしたら。
『――――レミ姉さんっ、アタシ――、何てことを――――!!』
彼女が。
願っていたとしたら。
大人になった今でも。憎まれていると知りながら。それでも願っていたとしたら。紙を。持ち続けていたとしたら。大切に持つことで、願っていたとしたら。
妹の幸福を。
押さえるフルートの音階記号で――…。
「――テ、オ!! ツッコミは!!」
「あッ! ああああ、ありがとゴっちん!!」
「はぁああ???!!」
不機嫌極まりない声で叫んだ目出塔は、二回咳払いしてソファに座りなおした。長い足を振り上げて組み、眼鏡と顎をクイっとあげた。
「……フン、当然だ。俺は警視総監の息子、目出塔ゴザ様だからな」