■ 吉川センセと神の手 ■

 ――トゥルルルル、トゥルルル。
 ブッ。
 はい、吉川です。ただ今留守にしております。
 ご用件の方はー…。
 ガチャン!
「吉川センセは何やってんだ!」
 荒々しく公衆電話の受話器を置いた刑事を見て、鑑識の中田隆行は
「やれやれ、まーた吉川のじいさんか……」
 鑑識用のわた棒で耳をほじくった。
 足下に転がっている、無数の羽根とあずき。
 血で染まったこたつ。
 乱れた衣類。
 ゴチャゴチャの室内と泥の足跡。
 どう考えても強盗殺人事件だ。
 だが、一応、死体を見て貰おうと、刑事はまた電話をかけ始めた。
 ――トゥルルル、チン、
『はい、佐野辺です』
「本庁の草津と申します。そちらに吉川センセはいらっしゃいますか?」
『あぁ、居ます居ます。出しましょうか?』
「現場の方へお越し頂きたいのだが…」
『えー…っと……、ん、はい。わかりました。今からで大丈夫ですか?』
「出来る限り早めにお願いします」
 ガチャ……。
「はぁー……」
 草津はため息をつき、佐野辺さんに今度何か驕らねばなるまい、と思った。
 センセの義理の息子ということだけで、毎回毎回ぐでんぐでんの老人を引きずって来てくれるのだ。
 経費で驕ってもバチは当たるまい。
 空を仰ぐと、曇り空の隙間からひとつ、光がさしていた。

     ☆

「あー、二日酔い。いつまでも現役じゃぁ、いられないわなぁ……」
 吉川はフラフラと室内に入り、死体をチラッと一瞥した後、中田を呼んだ。
「凶器の刃物、見つかった?」
 死体は両手を振り上げた状態で、うつぶせに倒れており、その手首には無数の切り傷がついている。
 その中のひとつ、パックリと開いた傷が致命傷だろう。
「はいよ、」
 ビニール袋に収められた刃物を受け取らず、吉川は
「指紋は」
 と言った。
「これが、指紋はまったくついていないんですよ」
「ふぅん……」
 吉川は、死体の首に縄の跡を見受け
「ちょっと転がしていい?」
 草津に了承を求めた。草津は振り返って
「どうぞ」
 と冷たい一言を放つと、佐野辺に向き直ってまた世間話を開始する。
 パン!
 と大きく両手をあわせ、
「なんまんだ」
 と呟きながら、死体をゴロンと転がした。
 縄の跡は、顎の付近で途切れ途切れになっている。
 しかも、顔面にチアノーゼがない。
 第一、脱糞していない。
「ふぅむ……」
 手首のキズを調べる。
 左手首には横に17本、大きなキズはそのうちの一本。
 右手首には小さいキズだけ13本。これはどのキズも斜めに細かく入っている。
 手帳を取り出して念入りに書き込む。
「これは……自殺ですなぁ」
 つぶやきが、やけに大きく響いた。
「まさか」
 草津はいつのまにか吉川の隣に立っている。
「ここまで乱れておいて、それはないでしょう」
 もう、捜査本部を立てる準備まで整っているのに、と、草津は続けた。
 吉川は何も言わず、雨が降り出した。
「……ためらったんだなぁ……」
「は?」
 草津の「は?」には、かなりの破壊力がこめられているが、吉川には効かない。
 老人は帰り支度をしつつ、言葉を続けた。
「手首の浅い傷は、どれも致命にならないものばかりなんだなぁ……。スパッと切れないんだよ、人間ってのはさぁ」
「なら、この室内はどうご説明なさるのですか!」
 草津が声を荒げると、吉川はキョトンとした顔になった。
「それを調べるのが、あんたの役目でしょうが、草津警部補」
「警部です!」
「あ、そうだったっけ?」
 吉川は、からからと笑う。
「まぁ、いくらこの辺りで殺人事件が多いからって、そんなのアテにしちゃあいけないよ。死体が言ってることなんだからさぁ」
 雨は上がった。
 どうやらただの通り雨のようだった。
 うだうだ説明するのを嫌がる吉川だったが、この日ばかりは気が向いたらしく、どうして自殺なのか、死体から証拠を次々にあげ、更には泥の足跡や飛び散ったあずきの訳もスラスラと回答してみせた。
 草津はまた公衆電話に駆け寄って、捜査本部設置を取りやめにするよう本庁に電話をかけるハメになった。
「防御創も、ないからねぇ……首吊りにしようと思って、やめたんでしょう。ほれ、こんなところにズタズタに裂かれた彼氏との写真が」
 吉川はそれに向かい、また手を合わせた。
 なんまんだ、と呟く声は、どこかしわがれて憂いを帯びる。
 その後、手首のためらい傷を、「変死体専門家」「検視の神」などと呼ばれた吉川センセの名にちなんで「吉川線」と名付けられたことは、有名なエピソードではあるがまた別のお話である。