■ 草津刑事と紅茶 ■
■ 1 ホシ ■
――死刑判決。
それがいちばんはじめに脳裏に浮かんだ言葉。
次に視界のはしに、映ったのは彼の指。
「あぁっ!」
動いた、っ今! 殺した筈の彼の指がたしかにピクリと動いた。
背筋に伝わる冷たい、汗。
私は握っていた包丁を、迷わず彼の手のひらに突き刺した。
ブツ、細胞がちぎれる音なのか鈍い床の反響なのか。
息があらくなる。
生きてたのね、なんて、冗談! ウソ、ウソよ! 生きてるはずないだって、私、だって、もう、もう、本当に!
……落ち着いてよく考えて。
さっきあれほど刺した筈が、どうして生き返るの。
おかしいのは私のほう。
体をおこして、首をゆっくりかたむける。見回す、部屋。
あたりに散らばった大学ノート。鉛筆。消しゴム。それらにはまるで映画のセットのように、べっとりと血がついている。テーブルにはまだ淹れたばかりの紅茶が、かすかに湯気をたゆわせ残っている。
ひとつ、ひとつ、確認していく。
まだ火もつけられていない煙草が絨毯の上にころがっている。彼は血をたくさん流してあおむけに倒れている。血がこびりついた首。穴のあいた緑のシャツは、血がにじんで黒くなっている。開かれた手のひらに、さっき刺した包丁がななめに、今にも倒れこんでしまうといった風情でゆらめいている。あぁ。
死んでいる。
彼は、死んでいるんだ――…。
ありきたりな別れ話だった。
薄々感じていた予感、それが現実になっただけだったのに私は今、世界中で私しか生きていない錯覚に、おそわれている。心臓の音が耳にうるさく、彼の見開いたままの目に触る余裕もない。
けれど。
このままでは、ダメ。
一体なにがダメなのかわからないけれど、とにかく、ダメ。ゆっくり息を吸って、吐いた。
いくつもの記憶に残っているニュースを頭の中で流す。猫の首を切った少年、自殺に偽装させたヤクザ、スーツケースに入れて樹海に棄てられた体、海にただよう手足、子宮の中身を生ゴミに出した医者、必死になって考えた。
何を?
決まってる。
捕まらない方法を!
リビングから浴室まで引きずっていくのは無謀なように思える。警察が調べる様を想像した。浴室に、うっかりついてしまった私の指紋を誰かが発見するところ。男女関係の聞き込みから、私がうっかり変な事を喋って露呈してしまう場面。
自殺偽装ができないなら、やっぱりここでバラバラにするしかー…。
――ピリリリリリリリ!
とつぜん。
「……っあ! ……はっ、はぁっ…」
ピリリリリリリリ!
心臓がはねる。彼の携帯電話だ。画面に、映っている名前は、あぁ、私と彼の、共通の、友人。意を決して、ふるえをおさえる。机の上の、それを慎重に持ち上げて電話に出た。
「……もしもしタック?」
『――あれ、え、ユミカ? ユージは?』
「あ、ごめーん! ユーちゃんさぁ、私の家にケータイ忘れたみたいでぇー」
『あっそう』
これなら、着信に私が出た理由もできるし、彼の携帯に私の指紋が残っていても説明がつく。自首にも心の準備が必要だという弁解を今、私は心の中でしている。ごめんタック。
けれど、しばらく沈黙したあとでタックは予想外の応答をした。
『じゃあ直接ユージん家行くわ』
「えっ?!」
ここは、彼の部屋だ。今来られたらー……!
『どーした? 変な声出して』
「――あ、ううん! あたしもさ、実は今、ユーちゃんの部屋の前に居るんだよね。携帯届けようと思って。でもぉ、なんか居ないみたいでー、鍵かかってんの。たぶんどっかに出かけてるんだと思う」
『なんだ。じゃあまたにするわ。ユージ捕まえたら電話ちょーだい』
「わかった。じゃーね」
通話を切る。慎重に、今度こそ息を殺して、私は携帯を上着のポケットに入れた。
すると、ストン、と。急に「強盗殺人」という言葉が頭に浮かんだ。
そうだ、隠せないなら堂々と放置しておけばいい。
私は、自分の足の裏に血が付いていないことを確認すると、トイレに駆け込んで、バケツの中からビニール製の手袋を抜き取った。
裏返して手にはめる。まぶしさに気づいて、カーテンを閉める。
薄暗い部屋の中、とにかくクロゼットの中から開け、衣類をまずあらゆるところに放り投げる作業に没頭した。
血の臭いが鼻につく。
ううん、今は何も考えず、やる事を素早く。
机の引き出しを全部開け、順番に床にばら撒いた。財布や時計、アクセなんかは全て自分のバッグの中に入れた。途中でバッグがパンパンになったので、壁にかかっていたリュックを拝借して自分のバッグごと入れ、ベッドカバーをめくり、テレビを倒して、棚の本を全て落とした。
彼の顔が衣服や小物に隠れたおかげで、私は冷静さをだいぶ取り戻すことができた。
もし私が強盗だったら? キッチンや浴室も同じように荒らす?
答えはイエス。
とにかく目につく所を全て荒し終えてから、血が付いた自分の服を着替えた。彼の部屋には、私の服が数着置いてある。そんな半同棲といってもよかった私たちの関係も、死別という思ってもみない形で終わった……。
と。テーブルの上にあった紅茶に気付いた。カップがふたつ。これを最後に洗って、タオルで水滴をふき取り元の場所に置いた。
彼の手に刺さったままの包丁の柄をタオルで拭き、ドアノブも拭き、誰にも会わずに裏口から表に出ることができた。
彼のマンションの廊下はいつ来ても人の気配がなく、今日ほどそれを感謝したことは、ない。