■ 夜明けのための弱音 ■
■ 1 夜明け前 ■
インターホンがブギイと壊れたように叫び徳次郎が扉をあけると、ちいさな初枝がにらみつけるように拳をにぎっていた。
初枝に怒られるような事はついぞした覚えはないがなぁと考え、徳次郎が次に気付いたのは、その初枝の背の小さいこと。小さいこと。
そうか、こいつは初枝じゃない。
初枝の孫のー……えー、なんつうたか。
「おじいちゃん!」
甲高い声が、長屋の路地いっぱいに響く。古び、しけった、薄暗い路地でのことだ。徳次郎は孫の来訪を喜ぶでもなく
「おれはお前のじいちゃんじゃねえんだよ」
よっこらしょとステテコ姿のまましゃがみ、背中の羽をバサリと上げた。懸命にこの孫の名前を思い出そうとしたが、どうにもうまく出てこない。賢い孫は唇をとがらせたまま、二つに結った髪のかたほうを梳いた。
「おじいちゃん、サキはサキコだよ」
「知ってらぁ」
「うっそだー! おじいちゃんサキのこと忘れてはにゅむッ」
徳次郎は咲子の口をおさえ、隣の苦学生が怒鳴りこんでこないうちに扉を静かに閉めた。
徳次郎が初枝と恋におちたのは、まだ二人が年若き16と18の夏であった。
生まれながらにして背中に羽を背負った徳次郎はその年で既にトビ屋の有望株であり、進学などせずスグにでもトビ屋の一番手を務める夢を持っていた。夜明け前の一番屋根を軽やかな音で飛び、手紙配達が終わったあとの空が白む時刻には、よく初枝の邸宅の屋根でトントン・トトンと合図を送ったものだった。
ベランダに降り窓をそっと開けると、そこには初枝の咲くような笑顔とお早うの声があった。
初枝はというとその成績たるや学内随一で、茶道においても誉れ高く、美しく、まさに才色兼備といった風であった。悪学生で通っている徳次郎との関係は、必死に隠していたものの周囲には完全に知れわたっており、教頭からの忠告も再三あったらしいがそれでも徳次郎に輝かしい視線を送りつづけていた。
徳次郎が右羽を骨折し初枝の前から消えた時、いったい初枝の腹の中には、既に、子供が宿っていたのであった。
「おじいちゃん! これママからなの! 読んで!」
「ママぁ?」
ハイカラな響きにいささか喧嘩腰の徳次郎であったが、咲子から手紙をひったくるとビリリ豪快に封筒を裂いた。
中の手紙を読んでいる間、咲子はいつもの事ながら徳次郎の左羽をベタベタとさわる。
くすんだ白灰に所々傷跡が混じった、もう飛ぶことはない薄汚い羽を。
三つ折りにされた手紙の中身は、もうもう年だと言いたくなるような酷な内容であった。
ボケ。
病気。
末期。
退行現象。
入院をかたくなに拒んだ老婆は、邸宅のあの部屋で、18に戻った老婆は邸宅の、あのベランダの、二階のはしで徳次郎を待っているのだという。
右羽にキリリと痛みが走った。
肩甲骨で上下させることはできるが、自分の意思で広げ畳むことができなくなってしまった部分。夏。階段から突き落とされた。飛ぶと考える間もなく段差に激しく打ち付けた、右羽の激痛。涙がにじむ徳次郎の目に映ったのは、あぁ。
その階段の上には、茫然と立ちすくんでいる初枝のシルエットー……。
「おじいちゃん?」
「帰りな。どら、飴っこをやろう。ママにはなぁ、ゴメンだっつうとくれや」
次の日も、その次の日も孫はやってきた。
徳次郎が新聞に広告をはさむ仕事を終え帰宅すると、長屋の影からひょっこり現れるのだった。
次の日も、次の日も、次も次も、また次の日も。
そうして次の日。
徳次郎が仕事から帰ってくると、隣の苦学生が咲子に話しかけていた。どうやら部屋に招きいれようと、ニヤつきながら誘っている様子である。
「おいサキコぉ!」
「あっ、おじいちゃんだ! おじいちゃんこんにちはとおかえりーっ!」
苦学生と目が合うと同時に、左羽を思い切り広げてやった。
路地の影とさしこむ少しの光も相まって、バサリ、それはまるで、巨大な純白の鎌のようで。
やせ細った青年は舌打ちをして隣の部屋に退散する。
咲子は手をふって見送った。
「おじいちゃん、飛ばないの?」
「……飛ぶかぁ」
「ほんと!? とぶの!」
「あァ、おめえも心配だしな。特訓だぁな」
「とっくん! サキもやる!」
「ハハ、」
右羽を動かさないまま飛ぶことは、想像以上に大変な作業であった。近所の空き地で咲子に手伝ってもらい、広げたまま棒とガムテープで固定する。
助走をつけ、等間隔に置いたブロックの上を、トーントーンと跳ねるように飛んでいく。しかしスピードに乗っても乗らなくても、動かない右羽が邪魔をし簡単にバランスは崩れた。
上下には動かせる。屋根の上まであがるのは、筋肉がつけば簡単だ。
そこから先、屋根の上をリズミカルに蹴って道路を飛び越え、初枝の邸宅まで行く所が問題だった。
苦戦しているうちに近所の老人たちが声をかけ、皆、なつかしいねぇと言っては通り過ぎて行く。
バイクや電線の普及にともない、各地のトビ屋は次々と廃業になった。各家の郵便受けも徐々に、二階の雨どいから一階の玄関先へと移っていった。
背中に羽をもった人々は、今では巨大な背中のお飾りだと言い聞かせ過ごしている。動いて飛ぶ人間を見るのは、もはやくだらないバラエティー番組のワンコーナーか、海外の科学番組しかない。
翌々日の筋肉痛をおし、サロンパスを貼りながら徳次郎はブロックの間を飛び続ける。