■ 田端仁志と飲みに行く話 ■

■ 1 チャーハンの香り ■

 マスターブック事件が、解決とはいえない終焉をむかえた後の事。土曜の夕方。
 ベッドサイドに放りっぱなしの携帯電話が、めずらしく大きな音をたてた。
 僕はその時チャーハンに醤油をひとまわりたらした所だったので、電話には出られずコールは7回で切れた。
 まぁ仕方がない。
 なぜなら僕は、醤油をたらしたチャーハンを焦がさないタイミング、というのが未だにわからなかったし――ここで弱火にするとか、火をいったん止めるとかいう選択をするのは、僕にとって「チャーハンの神様に負けたこと」と同意義だ――なにより、僕はかなりお腹が空いていた。
 たいへん残念なことに、僕の住んでいるこの桂木ハイツ2階右角1Kロフト付き(家賃4万5千円)には、お菓子やつまみといった類が全くない。
 いや。
 なくなってしまった。
 あの一件で成り行き上かくまった「自称・神の末裔」こと田端仁志に、全て食いつくされてしまったのだ。
 荒らされた部屋は大分片付いたけれどね。
 お菓子を買うに至らなかったのは、そこまで部屋が……まるで大掃除と模様替えが一気にきたかのように……メチャクチャにされたと考えてくれてかまわない。
 できあがったレタスと鮭フレークのチャーハンは、自分にしてはかなり良い出来栄えだった。
 レタスはほんのすこしシャキリとした歯ごたえを残していたし、鮭フレークの元来の塩加減と風味付けの醤油がうまくマッチして、香ばしい仕上がり。
 料理は好きだ。
 実は進学するとき、大学か料理の専門学校か迷ったほどなのだ。
 結局は両親が「就職氷河期」なんていうメディアの言葉に踊らされ大学に進学せざるおえなくなったけれど……、いや、そんな事言っても機械いじりは無条件に楽しい。
 僕にとっては、どちらに転んでも良かったのだ。
 半分ほど食べるとまた、携帯電話が鳴り始めた。
 大きな電子音。
 携帯電話といっても、僕のは今時珍しいプリペイド式PHSで、インターネットもできなければ、音量調節も最小にしてこれが限界だ。鳴り続ける音。画面には知らない番号。
 ……田端、ではないだろう。あいつの番号は既に、着信拒否設定にしてある。
 しぶしぶ出てみるとそれは、同じ准教授についている一才上の蛭間マコトで、今から飲みに行かないかとのお誘いだった。
 普段お世話になりっぱなしの先輩。
 予定がない僕。
 断る理由はない。
「どこですか?」
『グッドペイジ。あ、今は駅前のスタバ。ニイルは? 今家?』
「30分しないで行けます」
『おー、待ってる』
 プツリと音がして通話は切れた。
 朝から着っぱなしのTシャツを脱ぎ、黒に緑ラインが入ったYシャツを選んだ。気に入りの、紺のジャケットを羽織る。
 財布、鍵、携帯っと。
 半分残っているチャーハンは、少し迷ってからラップをかけて冷蔵庫に入れた。もしかしたら、飲んだ後にチャーハンが食べたくなるかも知れない。
 いや、たぶんなる。
 僕はチャーハンが好きだ。
 だから僕はたいていの人に、博愛主義者だと思われている。どうしてかって、好きなものしか好きだと声に出さないから。
 そんな僕の前に田端仁志は現れ、そして一週間前、僕を存分に巻き込んだあと姿を消した。
 僕は誰にも喋っていない。
 田端が、僕にとって声に出せない存在だからだ、つまり。
 好きじゃないってこと。

     ☆

 道中。
 スタバについたらまっさきに、どこで僕の携帯番号を入手したのか聞こうと思っていた。今時と思われるかもしれないけれど、僕は簡単に人に連絡先を教えたりしない。誰から洩れたのだろうか、とても気になった。
 が。
 たどり着いた瞬間、全てを理解した。
 同時に、大きなため息が出る。
 あれだ。
 あそこの、入口付近の電柱に身体をあずけている蛭間先輩の隣で、談笑している胡散臭い眼鏡男は――、
「あー! あー、あのー、僕、ちょっと腹具合が悪くて今日は……」
「ずいぶんな腹具合だなあニールセン。チャッキョしといて」
 田端の腕がにゅっとのび、逃げる間もなくガシッと肩を組まれた。
 おいおいおい。僕はこいつを友人だと認識した覚えは一切ないぞ。
 かくまったのは成り行き上だけの話で、だいいち僕は工学、田端は法学だ。あの奇妙な数日間、単に巻き込まれただけでおまけに肘ケガしてかっぱえびせんやとんがりコーン、母さんが送ってくれたバタピーなんかをことごとく食い荒らされた僕が、その後もお前と関係を持ちたいと思うかよ! するに決まってんじゃん! マジ直後だよ!! 前回お前と別れてから道端ですぐ着信拒否したよ!
 と、ぶちまけたい衝動をこらえている間に、蛭間先輩は
「じゃ、俺はこれで〜」
 なんて手をあげて、さっさと駅に向かって歩いて行ってしまった。
 なんてことだ。
 ハメられた。
 あぁ、きっと先輩は今、一日一善な俺カッコイイとかなんとか思っているのだろう……もうダメだ。
 八つ当たりもいいところだけど、僕は当分、先輩にシャーペンの芯をあげない事にした。
 0.3のHも、もちろん0.5のBもだ。

■ 2 ベイリーズの香り ■

「前回のお詫びに奢ろうと思ってさ」
 という田端の言葉にしぶしぶ付いていく。
 グッドペイジを選ぶくらいだから、信じてもいいだろう。
 時刻はまだ6時過ぎ、開店したばかりの店内はがらんとしていて、テーブル席に座ることもできたけれど、田端はカウンターの端に腰を落ち着けた。
 クリーム色の、石でできたカウンターだ。バーテンの背後は多種多様な酒がずらりと並んでいる。カウンターの右は通路になっていて、そこを進むと薄暗い空間にビリヤード台がいくつか。ダーツもある。
 椅子を半回転させて後ろをうかがう。申し訳程度に低い木の柵があり、そこから先は全てテーブル席となっていた。誰もいない。向こうの窓からは、大通りがぐるりと見渡せる。
「スカイダイビングふたつ」
「へっ? いや、僕は軽くジントニックくらいでー…」
「ふうん? 俺は仲間内で飲む時は、いつもコレで始めるけど」
 僕はこいつのこんな所もいやなのだ。
 なんというか、押し付けがましいというか、そのうえ、なぜか僕の方が――間違っているような錯覚におちいる。
「すみません、やっぱりスカイダイビングと、あとチャイナブルーで」
 学科はもとより、キャンパスも違うから話すことなんてないと思っていたけれど、注文したピザが届く頃にはすっかり田端の話にはまりこんでいた。
 大学は、単位もそうだけれど全てが自分次第だ。
 友達を作ろうと思えば何百人でも作れるし、逆に、一人がいいと決め込めば、教授とゼミの仲間内十人くらいで4年間事足りてしまう。
 田端は前者だった。
 僕の知り合いは全員、当然のように田端も知っていたし――もちろん蛭間マコトも田端の友人枠に入っていた――そのうえ、僕が趣味で取っていた講義で、いつも最前列に居る女の子の容姿を言うと、あっという間にどこの誰かを言い当てた。
「ニールセンの趣味は変わってるな、あんな子がいいんだ?」
 変わってるお前に言われたくはない。
「別に。気になってただけだよ。話しかけるまではいかないけど、名前ぐらいはわかっておきたいとか、そんな感じ」
「あの子の家、宗教やってて色々ヤバいって話しだぜ」
「マジで」
 道理で。いつも一人きりだと思った。
 ほかにも、通学の電車で痴漢に遭った子や、ハゲと噂される法学部の浪人生、最近できたスイーツバイキングに出没する、男だらけのグループなどなど。話題はつきない。
 2杯目を飲み終わる頃は、田端に対して始終感じていた胡散臭さはほぼなくなっていた。腰を落ち着けて話してみると、意外と筋が通っているし、同い年とは思えないくらい飲み方がスマートだ。
「甘いのばっか飲むんだな。じゃあさ……、すいませーん」
 バーテンと田端が話しこんで出てきたのは、少し泡の立った、クリーム色に近いベージュの何かだった。
「ベイリーズのミルク割り。悪くないぜ、俺にはちょい甘すぎるけど」
 匂いをかいでみる。
 本当に悪くない匂いだ。
「お詫びだよ。マスターブックは、遅かれ早かれ焼く予定だったんだ」
「あぁ……」
 一週間経っても鮮明に思い出せる。
 焼けていく本の音、まっしろな煙と肘の痛み。神の末裔だというこの男は、人であって人ではないモノと戦っていた。
「マスターブックがなくても、もう人間は検索方法を得ている。図書館の蔵書検索システムだったり、議事録ログであったり、インターネットのSNSだったり。巨大なアーカイブの端末としての携帯電話は、更に進化したネットワークを生み出した……だからもう、マスターブックの時代は終わっていた。知ってたんだ。手放さなかったのは俺のエゴで、ニールセンを巻き込んだ事は反省してる。ただ、行方をくらますためには、どのカテゴリにも属していない人間との新しいコネクションが必要だった」
「……やっぱお前、胡散臭いよ」
 田端はニヤリと笑って、それ、美味いだろと言った。
「ニールセン、どうして電子書籍が言うほど流行らないか知ってるか?」
「いや、」
「匂いだよ。匂いが足りないんだ」
 僕は虚をつかれて、田端の顔をじっと見た。
 それからコースターに視線をもどして、古かびた昔の本の匂いや、新品の本の匂いを思い出そうとしたけれど、無理だった。
 酔いがまわってきたらしい。
 かわりに浮かんできたのは、冷蔵庫にとっておいてあるチャーハンの皿で。
 たぶん今ごろ、ラップに水滴がいくつかついてることだろう。
「醤油のこげた匂いが、チャーハンの中で一番好きだな……」
「……料理下手なのか?」
 ちげーよ!!
 風味付けの話だよ!
 言い返すついでに田端が食い荒らしたお菓子代を請求しようと思ったけれど、よくよく考えてみると、圧倒的にここの料金の方が高かった。
 気付かないうちに店はずいぶんと込んでいて、ざわめきは心地よく耳を通り過ぎていく。
 田端が注文していたマティーニが届いた。
 すくいあげるように脚を持つと、田端は僕のグラスにカツンと合わせ美味そうにあおった。
 僕はというと、着信拒否にしていた田端の番号設定を、解除する気になっていた。
 意味がない。
 着信拒否したところでこの男は、自分の用事さえあれば平気で人をハメるし、おそらく家まで押しかけてくるだろう……。
 やっとのことで
「別に料理が下手なわけじゃない」
 と返すと、田端はクククと、人を小馬鹿にしたように笑いはじめた。
「ああ。百も承知だよニールセン。だって君、俺にチャーハン作ってくれたじゃん」
 僕は、こいつのこんな所もいやなのだ。
 けど、前よりはマシに感じている。慣れてきたのが良いことなのか、まだ答えは保留にしておきたい。
 無視して、甘いグラスをかたむける。隣で、ざわめきに溶け込ませるように小声で、田端仁志はしばらく笑い続けた。