■ 夏至七日 ■

■ 1 月45° ■

 高崎先輩が死んでからというもの、わたしは、図書館にすら出かけず家でゴロゴロするようになった。
 こういう晴れた朝。先輩はよく電話をくれて、十時に待ち合わせして図書館に行って、お昼はたこ焼き屋さん。夕方まで楽しくお喋りという、先輩が男だったらデートと勘違いされても仕方ないような休日をすごしていた。
 それがどうだろう。
 つけっぱなしのテレビからは、今年の暑さは記録的とリポーターがだらだら愚痴り、緑のカーテンと称してお母さんが買ってきたヘチマは、あまり成長しないまま窓の下半分を占拠している。
 この時点ですでに詰まらない一日になりそうだ。いくら夏至七日の連休初日とはいえ、誰からも誘いがこないなんて、わたし、なんかもうダメだな。
「ほら、良子! 休みだからって朝からダラダラしないの」
「はぁーい」
「お母さん今から掃除機かけるから、アンタ朝ご飯まだでしょ。とっとと食べちゃいなさい。もうお兄ちゃん達来るでしょ」
「わかってるよもぉー…」
 この町にはそういう習慣がある。
 時期のズレたお盆、と言ったほうが早いかも知れない。
 夏至当日と、夏至前後の三日間、つまり七日間。学校が休みになる。
 お盆だと帰ってこない家族や親戚たちも、夏至七日の間に続々と挨拶しにくる。迎えるほうは大変だ。この大きすぎる純日本風家屋にまず、ちい兄とあき兄が帰ってくるし、それから竹おじさんに文子さん、耕太郎おじさん一家も来るし、ユウちゃんとアイカちゃんでしょ、あと……数えるの面倒くさくなっちゃった。
 唯一お盆と違うのは、夜のお祭りがないこと。この期間、夜は出歩いちゃいけないのだ。
 どうしてかは知らない。
「お母さんオードブル取りに行くけど、アンタも一緒に来るでしょ!」
「わたしいいー。誰か来たときお茶出す係やるから〜…」
「あらそう。じゃ、もう行っちゃうから」
「んー…、いってらっしゃーい」
 お茶係り?
 建前だ。
 だってスーパーの手前には図書館があるし、なによりたこ焼き屋さんはスーパーの中の、お惣菜コーナーのとなりにある。
 行ったら泣いちゃう、なんてモノじゃあない。たぶん、わたしは高崎先輩のことを、まだ「いる人」として想像しておきたいだけなのだ。
 先輩はここじゃなくてあそこにいる。
 先輩はここにもいなくてたぶんあそこにいる。
 先輩はここにもいなくてきっとどこかに……お墓に…。
 存在を、範囲を、徐々に狭めていく作業の、苦痛といったらない。わたしは春いっぱいかけて、ようやく学校周辺の範囲を終えたばかりだった。少しは休憩時間がほしいよ。先輩。

     ☆

 一番はじめに来たのはちい兄だった。
 ガラガラと大げさな音をたてる引き戸が、途中でピタッととまるクセはちい兄に決まっている。
 土間へと歩いてみると案の定、小麦色に焼けた肌、どでかいリュックをかついだ筋肉男(二十六才・彼女募集中)が、下駄箱の上でちまちまとショッキングピンク色のクマを座らせようとしていた。
「おかえり」
「おう! これ、お土産。ミカイさん」
「……ごめん。クマに名前つけるようなファンシーなお兄ちゃん、ウチにはいないんだけど」
「いーる! いるいる!!」
 あわて両手をブンブンさせているこの兄は、なんというか自由人でうーん、説明がうまくできない。人類の宗教観? を大学で研究した後各地をわたり歩いては、こういう胡散臭いモノを持ってくる。
 とにかく、そのピンクのミカイさんとやらは、玄関に置いておけば役に立つらしい。わたしの部屋から持ってきた、麻布と竹でできたカゴに入れ、それらしく飾ってさしあげた。
 ちい兄に麦茶を出していると、次にやってきたのはあき兄だった。
 カラ……カララ…、カラララ。三回に分けて戸を開けるのは、絶対にあき兄。
 土間まで迎えに出ると、暑すぎてYシャツをはだけさせました的なスーツの細身な新社会人(二十三才・遠距離恋愛中)が、見知らぬ銀髪美少年(推定十才)の靴をぬがせているところだった。
 誰?
 隠し子? しかもハーフ?
「おっ、おかえり……」
 やっとのことで声に出すと、わたしに気づいた少年が
「こんにちは、初めまして。お邪魔します」
 礼儀正しくペコリ。
「あ、いえいえこちらこそ……」
 って、挨拶してる場合じゃないよわたし! とにかくちい兄を呼ぼうと後ろを振り返ったら、既にこっちまでノシノシ歩いてきた野生児も、さすがに驚いたようだった。
「秋斗!」
「ひさしぶり」
「お前……覚えてたのか」
 え、なに?
「まあね。十年目だろ、ちゃんと血筋の子だよ」
「そうか……」
 なんのコト?
「兄貴も用意してると思ったんだけど、ほら、念には念を入れてさ」
 ごめん、わたし、なんか蚊帳の外っぽい?
 オードブルを両手に抱えて帰ってきたお母さんは、あき兄にどこの子供かと聞いた後
「まぁー! なんとか森のコトのなんとかなんとか! 懐かしいわぁ、お母さん元気? あらそぉー、何にも無いけどゆっくりしていってネあとでスイカ切ってあげるわねェー、小ぶりだけど甘いのよぉ」
 と上機嫌。どうやら夏至七日のあいだ、ウチに泊まるみたい。
 ひとまずあき兄の隠し子疑惑がとけたので名前をきくと、美少年は小首をかしげて微笑んだ。
「ボクは榊森水蜜桃といいます、よろしくお願いします」
 うわ、どこのキラキラネームだよ。

■ 2 月90° ■

 おじさんやおばさん達も続々とやってきて、昼からえんえんと酒盛り。お酒が飲めないわたしは、もっぱらジュースでオードブルをがっつき、お茶係り改め、ビールを台所から持ってくる係りに就任していた。
 メールはくるものの、遊ぶまでには至らない。高崎先輩と図書館に入り浸っている間に、皆の遊び相手枠から外れてしまったのだ。仕方ない。
 何往復目かで、銀髪美少年がいないことに気づいて探すと、そろそろ夕闇迫るほのかな玄関の前で、じっと引き戸を見つめていた。
 こちらに気づくとニッコリ笑顔。まぶしい。こりゃ芸能人もメじゃないよ。
「なっ……、何してるの?」
「入り口を見ています」
 おおう、電波。
 あーそーじゃあねと引き返すタイミングを失い、わたしはしばらく少年の横で一緒に玄関の戸を見ていた。
 ウチの玄関の上には、大げさなお札が何枚も貼り付けてある。お札っていうんだっけ? なんか、赤とか黒の四角枠に、ぶっとい字で名前を書いたシールみたいなやつ。
 あれはお父さんの趣味だったらしい。大五郎っていうお酒みたいな名前の、いい顔をしたオヤジだった。十年前に死んだ。
 けれど、わたしはどちらかというと先輩の死のほうがショックだった。
 お父さんは心臓病で、死ぬ兆候は多分にあったし、わたしはその時まだ六才で、お父さんが死んだという事をよく理解していなかったし。
 先輩は、轢き逃げされたのだ。
 誰がやったんだか、サイアク。突然で、ココロの準備もできてなくて、犯人もまだつかまっていなくて、やっぱりまだ、先輩は、
「ダメですよ」
「えっ?」
 榊森くん(言いづらいな!)はわたしを見上げて小首をかしげた。
「夜、外に出ちゃダメですよ」
「あー、うん。そういう話だよね、なんでかよく分かんないけど、そうなってるよねー。よく知ってるねー」
 子ども扱いしたのがいけなかったのか、少年はプイッと玄関に向きなおり、良子! ビール! と聞こえたのでわたしはその場をあとにした。

     ☆

 夜。パッと目が覚めた。
 自他ともにみとめる「地震がきても起きない熟睡派」のわたしが、こんな真夜中に起きちゃうなんてどうかしてる。
 トイレに行こうと部屋を出た。
 皆を起こさないよう縁側を静かに歩き、玄関までいったところで夕べの声を思い出した……外に出ちゃダメですよ…。
 玄関の引き戸に目がいく。立ち止まり、しばらく眺めていた。
 と。
 すりガラスに人影。
 カラカラと戸を引いて現れたのは、その制服は、その黒髪は、その瞳は、わたしの声をやさしく聞いてくれる笑顔は――
「高崎先輩!?」
 ハッと目が覚めた。
 悪い夢だ。そのままベッドに横になっても、頭がキンキンと冴えてきちゃって、仕方なぁーく起きあがった。
 台所に行こう。ちょっと水を飲めばまたすぐ眠れる。
 縁側を静かに歩き、玄関までいったところで夢を思い出した。もしかしたら、戸を開けたら、高崎先輩がいるかもしれない。
 ゴクリ、のどが鳴る。
 夜に出ちゃいけないのは十分にわかってる。けど、ちょっとくらいなら、さ。戸を開けて、ちらっと見るだけ。そうだよ、ちょっとだけ……。
 サンダルをつっかけて戸に手をかけたその時。
「あーた、バカな事してんじゃないワよ!」
「うわッ!?」
 ビックリして目が覚めた。
 ク、クマが喋った! ミカイさん、オカマ!! ……って、夢か。
 わたしはベッドから出て、半袖の上着を羽織った。
 縁側を静かに歩く。窓から見る外はいつもと変わらない。月がよく出ている、気持ちいいくらい晴れた、夏至近い夜。
 土間にころがっている自分の靴をはいて、わたしは玄関の戸に手をかけた。
 ちらっと、下駄箱の上のクマに目をやる。
 喋りもしなければ、動きもしない。
 なんとなくカゴごと持って、わたしは玄関の戸を開けた。カラララ。
「………」
 期待していたものはなにもなかった。
 梨とりんごの木が左右に茂り、大きく平らな飛び石がいくつか置かれ、ウザイくらいギュウギュウに車が置かれた隙間の奥に、道路が見えるいつもの風景。
 なんだ、ガッカリ。
 わたしは敷居をこえて一歩ふみ出した。するととたんに目眩がして、フラッと外によろけてしまった。
「っとと、」
 ミカイさんが落ちないようにカゴを持ち直す。地面と飛び石だけのわたしの視界に、コツリと、ローファーが。
 まさか。
 ゆっくりとあげる。
 黒のニーソ。濃紺のスカート。ブレザー。金のボタンの前で組まれた白い手。ワイシャツ。リボンの前で踊る、細い黒髪。まさか。
「先輩……?」
「良子ちゃん、」
「――高崎先輩!」
 あまりのことで全身がふるえた。がくがくと片手で口をおさえると、壊れたように涙が出てきた。
 顔はすりきれ歪み、紫と赤と茶に染まって、頭の一部が剥げたようになっている。それでも先輩は、潰れたようになっている目と無事なもう片方の目で、まっすぐに、優しく、わたしを見つめていた。
 先輩、先輩! こんなになって、絶対犯人ゆるせない!
 泣いているわたしの肩に、そっと、先輩の両手がかけられた。
「良子ちゃんありがとう。会えて嬉しい。本当よ。でもー…今すぐ帰って。早くしないと、月が、」

■ 3 月135° ■

 帰って、なんて。
 いやです。先輩。わたし、先輩を尊敬していたんです。なんでも知ってて、けど静かで控えめで、いつも優しくて、わたしのバカな悩みもちゃんと聞いてくれて、美人で、モテて、わたしにないものをいっぱいもっていて、本当に、ほんとうに尊敬してたんです。なのに! どうして先輩が……っ、こんなのってないです。こんなのって、
「こんなのって……」
「いいのよ、私。楽しかったわ。お別れを言いにきたの。でも、」
 先輩は辺りを見回す。深い色の森が一面に広がっていた。月が真上から煌々と照らす。雲が早い。風が吹く。あれ?
 ここ、ウチの玄関じゃない。
「走って」
 先輩の白い手にひかれ、走った。ザザザ、ちょっと息切れしてきた頃に立ち止まっても森。また走っても森。方向変えて走っても森。
 同じ濃い緑が延々と続く。
「せ……先ぱ…ちょっとタンマ……」
 カゴを小脇にかかえてゼーゼーしながら、これはなんだろうと考えた。
 夢? にしてはリアルすぎる。
 先輩は死んだはずなのに、足、あるし。わたしより速いし。
「榊の森よ。あの世とこの世の境目。夏至七日の夜だけ繋がるの。でも良子ちゃん、良子ちゃんは生きているのに……。あの月が落ちるまでに帰らないと、良子ちゃんもここから出られなくなるわ」
「なんかちょっとよくわからないです、先輩」
「このままだと死ぬってことね」
 夢にしてはファンタジーすぎる! あの世の境目が河じゃなくて森なら、石を積むかわりにきっとずっと、薪なんか割っちゃうに違いない。
「わたし、別に」
 帰らなくていい。薪割り楽しそう。
 って言おうとした。けど、先輩は指を、血のついた白いひとさし指を、わたしの口の前にピッと立てて。ゆっくり、首をふる。
「良子ちゃんが、私に会いたいと思ってくれた分だけ、私は良子ちゃんに生きていてほしいの。ね、私のワガママ。行きましょう」
「――やめときな、あーた達じゃア、いくらやってもダメだわ」
「ミカイさん!」
 高崎先輩の前にカゴを掲げると、ショッキングピンク色のクマが、アラぁ、水したたってないけどイイ女じゃナイの、ま、アタシの守備範囲じゃアないけどネ、ウフフ、なんて、やっぱオカマだ、オカマのクマだ!
「どうすれば良いのですか? 教えてください、クマさん」
 先輩……、こんなオカマにも敬語なんて、人間の鑑すぎる。
 ミカイさんはピンクの腕を持ち上げ、森の奥を指した。何かがゆらっと動く気配。現れたのは白い猫だった。月の光で銀色にも見える――、ん? 銀色? 猫はわたしたちのまわりと何周かぐるぐると歩き、それからまた森の奥へ向かった。立ち止まってふり返る。
「ついていきなサイ。アンタが先頭。彼女は後ろ。でも、いいコト? 歩きだしたら後ろをふり返っちゃダメよ」
「何で?」
「死んでるカラよ。ほら、キビキビ歩く!」
 死。
「先輩……」
「大丈夫。森を抜けるまで、後ろにいるわ」
 先輩に背中をおされ、わたしは歩きだした。月がどんどん傾く。
 歩いている間、前と同じような調子で先輩と色々話した。けれど、話題はずっと、先輩が死んだ後のことだった。わたしは春いっぱいの成果と、犯人はまだ捕まっていないこと、先輩のかわりに新しい生徒会長が決まったことなんかを。先輩は、あの世の生活はそんなに普段と変わらないこと、傷はもう治らないけれど周りが皆同じような感じで慣れてしまったこと、あと、わたしのお父さんに会ったことを。
「夏至七日に、私は会えないんです。娘には、母さんにスイカ仏壇にあげるなとそれとなく伝えてほしい。って、伝言預かってきたわ」
 オヤジ……、もっと娘のこの先を心配しろよ。
 先輩の手はずっとわたしの肩にあって、わたしは時々、ふってわいたようにつきつけられた。冷たい。もう死んでいる手。
 と。猫が立ち止まり、ミカイさんが「ストップ!」と大声を出した。
「ココまでよ。お別れ言っときなサイ」
「せんぱ……」
「振り向くんじゃナイわよバカ!」
 先輩の手がわたしのほっぺをはさんで、ゆっくり、前を向かされた。
「紺の軽自動車で、ナンバーは、確か最後が28だったと思うの」
「わたしが言ったら、おかしくなったって思われそう」
「公衆電話から匿名で電話すればいいのよ」
 手が。
「高崎先輩、」
「なに?」
 冷たい手が、
「わたし、先輩はいるんだって、ずっと思ってていいですか。あの世に……あの…、あの世にっ! 引っ越しちゃったんだって!!」
 あとからあとから涙がでてきて嗚咽がとまらなくて、先輩の手はどうしたって冷たくて、曇った視界の先で、猫が心配そうに首をかしげた。
「私、良子ちゃんを森に入れてしまったからもう会えないのよ。決まりなの。それでも良子ちゃんは前を向けるかしら」
「がんばります……」
 ドン! と背中を押され、わたしはよろけて何歩か前に出た。靴の先は飛び石。辺りを見回すと玄関。空は、雲ひとつない朝焼け。
 引き戸は薄く開いていて、銀の猫がスルリと入っていった。続いて入ると土間には榊森くんが立っていて、わたしを見てニッコリ。
 居間ではちい兄とあき兄がゴロリと寝たまま、片手をあげた。
「お帰り。ミカイさんもお帰り、役に立ったろ」
「お帰り。水蜜桃、サンキューな。母さん! 帰ってきたよ!」
 お父さんが死んだ年の夏至七日にも、わたしはいなくなったらしい。全然覚えてない。その時は榊森くんの本家のなんちゃらという人が連れ帰ってくれて、十年目も危ないと言い残したとかなんとか……いや、実際こうなっちゃったし、もう何も言うまい。
 夏至七日は終わり(というか、帰ってきたら夏至七日最終日だった)ちい兄とあき兄はわたしの頭をクシャクシャして帰っていった。
 わたしは夏の、終わりを待たず、高崎先輩がいる範囲をこの世から締め出す事に成功した。友達もぐんと増えて、彼氏もできた。デートはもっぱら図書館で、お昼にたこ焼きを食べて、お喋りも楽しい。
 そんな昨日。
 先輩をひき逃げした犯人が捕まった。
 わたしはベッドに伏したまま、夏至七日以来、久々に大声で泣いた。