■ Hate.Eye love. ■
敷島がうっすらと意識をとりもどしたとき、彼は柱を背に、椅子に座らされ、その姿勢のままロープで体を固定されていた。
一番はじめに思ったことは、懲罰房に入っていたときと似ているなということだった。あそこに入ったあとは、鎖で固定されていた部位がうっ血し、何日も痣になる。
締め付けられる痛みは腕と足だけで、首と腹は、申し訳程度にゆるくロープが回されている。敷島は、重い瞼をどうにかあけて、辺りを見まわした。
薄暗い。
倉庫かなにかのようだ。
遠くに光が差し込んでいる場所があるが、その光も弱々しい。時間はどうやら、昼は確実に過ぎている。ただ夕方には、少し、早いだろう。微細な変化を勘ぐるようになったのは、自分が何年も檻の中で過ごしてきたからだ。
そこまで考えたところで敷島は、気のいい看守が言っていた話をふと思い出した。それはつい先日。やっと仮釈放が認められて書類にサインした夜。朝一番の出所にむけて、寝に戻った独房でのやり取りだ。
『問題児が。やっとのお別れだな、二度とここに戻ってくるなよ』
『ハハ、戻ってきたら何かあるのか。サプライズ・プレゼントとか』
『いや。別に。俺が居ねぇからさ』
『は?』
『お袋が倒れてな。ガンだと。実家に帰らねぇとなんねぇ』
『……ふうん』
『観察期間抜けたら、見舞い。来てもいいぜ。N県だがな』
『N県? やけに遠いな』
『来たら地酒でも奢ってやるよ』
それからの変化は、記憶に新しい。
数年ぶりの外の匂い。ガラにもなく泣いた。自分のことなど、何も知らない人々がすれ違っては遠ざかる。近づいて、追い越す。フラリと入った定食屋で出された、焦げ目のつきすぎた魚。テレビのノイズ。サラリーマンの、他愛もない会話たち。
財布の中には数万円入っていた。服役中、毎日地味な作業を淡々とこなした駄賃というわけだ。
いてもたってもいられず、夜は居酒屋に入った。やはり数年ぶりの酒。涙が出てきて一気にあおると、飛び出すように外へ出た。
走る。
人気のない公園を見つけたとたん、胸の奥からなにかが突き上げてきた。咽喉にからみつくそれが何なのか、理解する時間もないまま、後ろからの衝撃。よろける。後頭部をおさえて振り返った瞬間、布で顔をふさがれたー……。
ズキリ。後頭部がうずくような気がする。思い出したとたんにコレか、と、身体の生理現象に舌打ちをした。
たしか仮釈放の初日は、私服の保護観察員が覚られないよう観察している筈ではなかったか。公務員というヤツが、ここまで使えないとは。敷島は再度舌を打ち鳴らした。
相変わらず薄い闇が漂っていたが、よく耳をこらすと遠くからエンジンの音が聞こえてきた。それは近づくにつれて空間全体に反響し、ここが、どこかの倉庫だということを理解させた。
エンジン音がとまる。
ドアを開ける音。物音。ドアを閉める音。足音。
椅子の前に現われたのは、女だった。
遠くもなく近くもなく、微妙な距離だ。顔はよく見えないが、その物腰から年齢はいっている方だと敷島は思った。だが、誰なのか。
その答えは、女の第一声にあった。
「……アンタが死刑になっても、あの人はかえってこない」
そうか。
そうか、と、敷島はつぶやく。
「鳴沢の、」
「忘れてなかったのね」
女は蔑むように嫌悪を放った。
記憶を辿る。裁判のとき、一切目線を合わせようとせず、始終震えていた白い顔だ。その白以外、顔の造詣は思い出せない。
パチリと音がしてハッとする。敷島の眼にバタフライナイフのきらめきが飛び込んできた。しかしそれも一瞬のことで、あとは黒に沈む。光の加減でそうなることを、ここ数年、すっかり忘れていた。
再び足音。女はゆっくりと近づいてくる。ナイフを振り上げるビジョンが敷島の脳内をめぐり、心臓はうねったが、女は手前まで来ると横にそれ、スッと通り過ぎた。
なんだ?
拍子抜けしたとたんグッと首のロープが絞まり、敷島は柱に頭を打ちつけた。思わず口を開け、うめく。天井を見上げる格好となった。
この体勢は。
眩暈がした。
何度も思い出した光景。
敷島は椅子ではなく床へ、仰向けに倒れていて、顔だけ見上げると反転した視界に、鳴沢が、血が、激しく痙攣したあと、こちらをふり返った、やけに鮮やかに色のついた、その唇が、ふるえて最期の言葉を、
『しき……ま…、おまえは……』
「アンタは!!」
突然の大声に、ビクッと焦点を合わせる。顔がつきそうな程近い女の気配。濃い、化粧の臭い。
「アンタは私から一番をうばった……! 夫の最期を見たのもアンタ、最期の言葉を聞いたのも、夫の眼が最期に映した人も、どうして私じゃなかったの?!」
――残念だったな。最期に想われたのも、俺だ。
敷島は、泣きながら語る女に同情した。それが優越感からくるものだと、今は十分に理解している。
「なによ……その眼は…、その眼が悪いんだわ……!」
女がナイフを振り上げる。
尋問のときに嘘をついた。最期になんと言っていたか、でっちあげてつき通した。警察から聞かされたのか、女は嘘を信じている。とんだお笑い種だ。まぶたがこじ開けられる。
『敷島……、』
あぁ、
『お前は俺が好きなんだろ……?』
夜の、街で、たまらなくなった。
奥が抉られる感触。
『俺の居ない場所で……お前…生きれんの? バカだな……』
生きていくのが罰だ。
鳴沢の最期の心配が当たったのだと、敷島は思った。