■ 秋のオリオン ■
■ 1 夏の終わる気配 ■
体がきしんで顔をそむけると、まぶたの奥に光がさしこんだ。気力で目をあけると、敷島はカーテンを開け、窓を全開にしていた。月の光がここまでのびている。
そのまま。首が痛くなるまで見ていたいと思う。
無表情で、どこか別の国に行ってしまう色をしている、危ういその横顔を。
けれどそうはならなかった。
床に不様に転がっている俺に気づいた敷島が、これはお前の夢だろうから遠慮なく言うが、と前置きして妖艶に笑ったからだ。
「いっそお前を殺してしまいたいって、いつも思うよ……」
夏が終わろうとしている。
フローリングに響いた独白を聞いたまま、明日は二日酔いで立てないだろうと思った。
☆
ようやく気温も下がり、スーツで出勤しなければならない身には過ごし易い季節になった。
商品部の会議に出席した帰りに立ち寄るいつもの甘味処には、相変わらず氷と描かれた旗がゆらめいているが、どうやら、カキ氷を頼む客もこの一週間で現われなくなったようだった。
行き先を告げながら乗り込んだタクシーでは、ラジオが、ついこの間までやっていた甲子園野球中継のかわりに台風情報を呟く。今回も西の方で進路を変えるらしい。こちらまでやってくるほどの大型台風は、もっと秋が深まった頃に襲うのが定例だ。
尻のポケットに入れていた携帯電話が震えだした。
取り出した画面には「敷島」の文字。通話ボタンを押すと
『――鳴沢ぁ、今日俺の家に来ないか? 暇なんだよ』
電話の相手は、俺の応答も待たずに喋り始めた。
暇に格好つけて、どうやら俺に新しく買った冷蔵庫のセッティングをしろと言いたいらしい。説明書を見てやれば、コンセントを差し込むだけで動くだろうと言うと、電話の向こうからいつもの、俺の頼みが聞けねーのかコールが始まった。
こうなればもう手遅れだ。ふたつ返事で請け負い電話を切ると、俺は自宅に電話をかけ、留守電に「今夜は飲み会で朝帰りになる」と伝言を入れた。
……妻の。
珠子の様子がおかしくなったのは、今年の春からだった。
妙にふさぎこむ日が続いたり、かと思うと上機嫌でテレビの話をしたりする。しかし、どちらにしても極力部屋から出ようとしないし、家にかかってくる電話も取らない。
会社の産業医に相談してみると、それは心の病ではないかという返答だった。
しかし、部屋から出ない事をのぞくといつも通りの妻だったため、前は、休日ゴルフはおろか会社の宴会ですら断ったものだったが、最近ではこうして、仲の良い同僚の誘いに乗ることもある。
結局、敷島が住んでいるマンションに着いたのは、夜九時をまわったあたりだった。
インターフォンを押さずとも、戸口に立った瞬間にドアが開く。足音でわかるらしい。なるほど、いつ来ても通路内がしんとしていると思ったら、そういうこともあるのか。
「遅ェよ。お前、部長の雑務背負いすぎなんだよ」
紺のワイシャツを着くずした細身の男は開口一番に俺への不満をぶちまけ、内部が冷えなくて困っているんだとリビングに通した。
いつもながら簡素な部屋だ。リビングもキッチンも洗面所も、ほぼ色付けされないまま、密やかな空気だけがエアコンから流れている。溜まった洗濯物はクリーニングに出すのが、一人暮らしの特権らしい。これもこの間買ったばかりの洗濯機だ。排水の取り付けをやらされたのは記憶に新しいが、一度も使っていないと見える。
案の定、冷蔵庫はただの温度設定ミスで、冷風が出てくると、敷島は待ってましたとばかりに傍にあった買い物袋からビールを取り出した。
「冷凍庫に入れた方が早く冷えるか?」
「だろうな」
「お前も飲むだろう」
「…―だろうな」
「ハ、自分を客観視すんなよ。この前ワインで二日酔いしたのがそんなに嫌だったか」
からかい笑う敷島を出て、やけにリアルな夢を思い出した。
俺はこの部屋のフローリングに頭をつけていて、まだ夏の月が出ていて敷島が何かを言う、そんな夢だ。
「番組は何がいい? この時間帯はどこもニュースしかやってねえか」
買い物袋をあさると、つまみのつもりで買ってきたのかチョコレート菓子がいくつか出てきた。これで全部かと聞くと全部だというので、なら電話で岩崎でも呼んで、ついでにもっとマシなものを買ってきてもらうかという話になった。だが、あいにく電話は繋がらず、しばらくはくだらないお笑い番組を見ながらああでもないこうでもないと菓子をつまんでいた。
突然、敷島の携帯電話がでかい音をたてる。岩崎からだ。
「……で? …あぁ、お大事に……」
内容を聞くと、一歳の娘が熱を出したため、看病で行けそうにないという事だった。大げさに音をたてて通話を切ると、敷島は立ち上がり、窓をあけはじめた。きしむ音。夢がちらつく。
けれど、俺の口から出たのは、夢の話ではなかった。
「お前もそろそろ結婚を考える時期だな」
驚いたようにこちらを凝視する敷島を不審に思い、俺は笑い声をあげた。
「だってそうだろう? 俺も結婚してるし、岩崎だって子供が居る」
事実そうだった。俺たち三人は同期であり、つまるところ同い年だ。だが目の前の色男は、女と遊ぶ噂もないときている。その惑わせるような雰囲気から社内の女性陣にファンも多いが、皆逆に気後れしてしまい声をかけることすらままならない有様なのだ。
しばらく窓の外を見ていた敷島が、ふいに、言った。
「鳴沢、」
「ん?」
「オリオン座が見えるぞ」
あすこだ、と白い指が空に点線をつくる。
まずどれがオリオンだかわからん、と俺が座ったまま言うと、手をおろした敷島は夜を眺めながら「そうか、わからねえか」と微笑んだ。
「俺はわかる。俺ならー…」
ワッという歓声がテレビから飛び出した。ゲームにチャレンジして成功すると百万円もらえる、という内容の番組だ。俺たちはそのままテレビを見続ける。画面内では芸能人が、派手な健闘をみせている……。