■ ETERNAL LOVE ■

「草薙さん……?」
 その声に、信号を待っていた女性が振り向く。
「やっぱり草薙さんだ」
 スーツ姿の男性が、眼鏡に手をあてながら顔をほころばせた。
 スクランブル交差点の信号は青になり、二人以外の通行人はバラバラな方向へ、早足で渡りきろうとしている。
「僕、ほら、多岐だよ。覚えてる? 同じ図書委員だった多岐祐介! うわぁ、草薙さん全然変わってない。懐かしいなぁ……っと、あ、」
 ブザー音とともに、青だった歩行者信号が点滅をはじめた。
「良かったらあとでメール頂戴。アドレス変わってないから。じゃ!」
 男性は走りだし、スクランブルを渡りきると人ごみに消えた。
 声をかけられた女性……瀬野彌織は立ちつくしたまま、空を見上げた。
 多岐佑介は高校と変わらず「草薙」と呼んだが、今の苗字は瀬野である。結婚したことは、誰にも聞いていないとみえる。
 彌織は左手の薬指を触った。結婚指輪のなめらかな質感が、彌織の心に伝わり続ける。
 ――…眼鏡、変わってなかったな……。
『――シオリって名前、本を読むために生まれてきたみたいだね』
 図書委員長だった多岐祐介にあこがれていたあの頃。草薙彌織は内気な一人の女の子であった。記憶の中の彼女は、作りかけの栞を持ったまま頬を赤らめている……。
 高校時代の思い出をふりきるように、彌織は早足でマンションに帰った。オートロックのキーを差し込み、パンプスを脱ぎ、鞄をテーブルに置くとソファに腰掛けた。
 しばらく、ぼんやりテレビを眺めたあと、意を決して携帯電話を取り出した。アドレス帳を探すと、多岐祐介の連絡先は容易に現れた。
 と、ドアが開閉する音。
 彌織はビクリと立ちあがり、携帯電話の画面を待ち受けに戻した。
 リビングに現れたのは娘の瞳だった。彌織によく似たストレートの黒髪、夫の瀬野俊人によく似たキレ長の目。
「ただいま。晩ご飯、今から? なにか手伝う事ある?」
 学生服のリボンを外しながら問いかける娘は、声が妙に弾んでいる。 何かあったのかと尋ねるまでもなく、娘は彌織に言った。
「お母さん、私あさって出かけるから。映画」
 娘はサッと自室にひきあげ、リビングにはまた彌織一人となった。
 彌織は、瀬野との出会いを思い浮かべた。やさしい言葉、静かな物腰、最初はそれらに多岐を重ねていたが、徐々に瀬野本人に惹かれていった。結婚しようと決めたのは自分で、それはもう、多岐佑介が過去の人になったからに他ならない。
 それを覆すことは、自分を裏切るという行為だ。
 多岐が、たとえ、彌織に対して何の感情も抱かずただ懐かしんでいただけだとしても、自分にとってはそうなのだ。
 娘の部屋をそっと覗くと、娘は、開け放ったクローゼットの前で服を選んでいた。鼻歌をうたいながら、手にとっては戻していく。
 先週から、やけに熱心に映画情報を調べていた事を思い出し、デートなのだと結論付ける。
 娘には、叶う恋をさせてやりたい。
 こんな事を願うのは、親心だろうか。
 彌織はキッチンに立ちエプロンをしめると、携帯電話を棚の上に置いた。瀬野が帰ってきてからも、携帯電話を手に取ることはなかった。