■ ピアニシモ・トッカータ ■
「道路の真ん中、歩いたこと、ある?」
楠レミ子はそう言うと、また夕日に向かって瞳を細めた。道路は橙色に染まっていて、時々スピードを出しすぎた車が「ウン」という音だけを残して通り過ぎていく。
「交通量の多いココじゃ、できないカモね」
彼女の声は澄んだソプラノ。
ただし音量は、ピアニシモ。
ボクはというと、ダ・カーポ。
「――ねェ、啓太朗」
レミ子は美しく笑い、そうして、ボクを、真っ直ぐに見つめた。
いつも青白いレミ子の顔は、あたたかい光で彩られ、肩まで伸びた髪は、レミ子が息をする度にキラメいて……。
「レミ子、綺麗」
「バカ」
言葉に詰まった挙句、絞り出した感想を、彼女は、一言で蹴り落とす。頬の影が、少しだけ、ゆらめく。
ボクは彼女との別れを、比較的キレェに受け止めていた。
彼女の横顔がキレェなように。
……死に至る病。そんなものが本当にあるのかどうか、ボクには、わからない。けれどレミ子は死ぬという。彼女がそう言うのなら、きっと、もうすぐ、彼女は死んでしまうのだろう。
「すごいのよ」
レミ子は言葉を紡いだ。
「車がいつ来るか解らないカラ、私、その時泣いちゃったの。コワいよ、コワいよ、って。先に歩いてた友達がいくら「大丈夫」って言っても、私、全然信じられなかった」
「……ふぅん」
「啓太朗は、ない? そういうコト」
「さぁね」
ボクは、なるべく素っ気なく答えた。
「でね」
ボクの反応を気にせず、彼女は続ける。
「その時思ったの」
レミ子は綺麗だ。
言葉なんて、ただの手段にすぎない。けれど、ピアニシモからトッカータに変わるこの瞬間だけは、大好きで、いつも耳をそばだててしまう。
「私は、いえ、人間は、自分本位なんだ、ってね。解るでしょ?」
「え? 何が?」
ボクはとぼけて言った。無理もない。見とれていたんだ。レミ子に。
夕日が沈みかけている。
「……もぉ。人間は所詮、自分勝手な生き物なんだ、ってコト」
「自分勝手?」
ボクはその言葉を反芻した。
確かに自分勝手カモ知れない。でも、その「自分勝手」は、レミ子を離さないという、一点に絞られる。ボクは、レミ子が一番好きで、レミ子の為なら何だってできる。例え地球を裏切ろうと、レミ子が居ればボクは生かされる。それを離さないというのならー…、ん?
「レミ子は、自分勝手とワガママと執着心、全部同じに見える?」
「え? うぅん……そうね」
ボクの思いつきに、レミ子は少し悩んだ。眉がひそめられ、その顔も造られたかのようにキレェだった。
「同じ……」
しばらく沈黙が続き、その沈黙を破ったのは、レミ子の息が止まる音だった。
空気が。
ボクは顔をあげ、レミ子は笑って言った。
「道路。見てみて」
道路には、車の気配が無かった。ただの灰色の道。ボクは、察した。
レミ子の、次の言葉を。
「真ん中、歩いてみようよ」
「………」
答えないウチに、レミ子は道路へと飛び出した。小走りに、鞄をかかげて。
「啓太朗ー! 早く!」
「……あぁ、」
コレは、レミ子じゃない。さっきレミ子はひっそり死んだ。彼女は、レミ子は、こんなトコロではしゃがない。
しかし、ボクの足は、道路へと向かっていった。
好奇心?
真ん中。
立つ。
白線。
対象。
夕日。
綺麗。
レミ子。
心臓が「フワッ」と、わき立つ。
レミ子は踊るように、道路の真ん中でクルクルとマワル。これはコワい? そう、これがコワい。ボクの太ももは、無意識に震えだした。
と。
……ゥン。
「うわぁッ!!!!!」
ボクは反射的に歩道へと走った。車の気配。背中がゾゾリと凍る。
縁石を飛び越え息を整えると、ドン、という鈍い音が、辺りに、響いた。
――レミ子?
ボクは後ろを振り返った。
まるで、映画の、ワンシーンのように、彼女の身体は宙を舞う。
自分の瞳が、信じられない。……レミ子。レミ子!!
「自分勝手ね」
「ッ?!!」
小さな小さな声は、一つ一つの音を、区切りよくボクの鼓膜に伝えた。あんなに遠いハズなのに。ボクは、動けないハズなのに。
「啓太ロウ……だけハ…チガウっ…て……」
「レミ子―――――!!!!!」
ボクは叫んだ。自分勝手。自分勝手。ボクは!
……レミ子の息づかいが聞こえる。小さな、小さな、音。この世に、ボクは独りぼっちで、少しの距離さえ、近づけない。
――レミ子、死ぬなッ!!
ボクの叫び声は涙に掠れて、いつものレミ子みたいな、ピアニシモだった。