■ 君の瞳 DEEP KISS ■
■ 1 指先の小さな黒薔薇 ■
その微笑みは、暗幕を張った実験室の試験管にゆるりと咲く黒薔薇のようで。
でも、タダの薔薇じゃあない。
黒い、ドス黒い、本物の黒薔薇。
そう感じたのはオレだけじゃなかった……と思う。
事実、オレの隣の棚橋は、先刻までもて遊んでいた人形(名前はアベルン)をかたく握りしめたまま動かなくなっちまったし、その斜め後ろに居る新岡も、顔面蒼白で…って、アイツはいつもの事だな。
後方掩護の菊地と竹中も、多分固まってる。気配でわかる。
一番後ろの竹中の妹は、緊張が混じった震える声で、亜空間結界を張る呪文を唱えている。
かくいうオレも、膝の震えを隠すのダケで精一杯だ。
こいつがー……魔王。
「かかってこないんですか?」
瀬野はゆったりと笑ったまま、左手でその美しい黒髪を梳いだ。
瀬野瞳。
オレの、彼女。
……この学校の中で「魔王」という存在が囁かれ始めたのは数年前。
学校の中には、全校生徒が最強だと認めた「NTH88」という称号のチームが存在し、そいつらがこの学校の秩序を決めるという、古くからのルールがある。
チームってのは、自分たちが仲のいい友達数人を集めて作った戦闘グループの事で、それぞれ、己がチームを「最強」と名乗り、日夜戦闘に明け暮れている。
NTH88は、普通の学校でいう「生徒会」の強いバージョンみたいなもので、先生方ですらNTH88の決定には逆らえない。
気に入らないからってリストラ。……それも、アリだ。
けれど、皆、そんな権利が欲しいから戦うわけじゃあない。
――最強の称号が欲しいから戦うんだ!!
大人になる為の、つまらない勉強なんて誰もしない。
先生方も諦めたのか、普通の授業のかわりに「戦闘における攻撃体系の定石」とか「魔方陣の描き方と呪文の関係について」なんていう事を平気で教える始末。
図書館には、実践的な武術書や魔術書などが揃っていて、食堂は大盛況。廊下は傷だらけでも、戦闘の舞台となる各教室の中は亜空間結界のおかげでキレェで。トレーニングルームは充実してるし、購買部には各種戦闘武器が格安で置いてある。
そんな変テコな学校の中で、ある日「魔王」と名乗る一人の生徒に、「ベノッサ」が敗れた、という噂がたったのは、4年前。
オレが中等部二年の時、剣道の交流試合で優勝した夏、その頃だったと思う。
ベノッサはその当時のNTH88チームだった。
圧倒的な強さで、あっという間に頂点に上り詰めたカリスマ達。
敗れた?
負けたのか??
けれどチーム「ベノッサ」のメンバーたちは何も語らず、結局、「魔王に負けた」という噂のほうが忘れ去られた。
実際問題として、彼らが敗れれば「魔王」がNTH88の座につくハズなのに、魔王が誰なのか、誰も知らないし。ベノッサの連中も黙秘をつき通して最後まで口を割らなかったし。
噂は噂のまま、チーム「ベノッサ」は「アヌビス」というチームに負けて、NTH88の称号を譲ることとなる。
そしてそのまま三ヶ月ほど経ったとき。
……まただ。
NTH88の前に、魔王が現れたという噂が出た。
今度もアビヌスは敗れたらしく、その内容などは一切口に出さなかった。
二度も「NTH88」を倒したという、その強さ。
噂なんかじゃなく、本当に「魔王」が居るとしたらー…?!
生徒たち、もちろんオレ達も、称号の為じゃなく「魔王」を倒すために「NTH88」を目指すようになった。
そして、数年の月日の流れで、称号チームの交代がある度に「魔王」は現れ、そのチームを無残に屠ったという噂がたった。
NTH88が倒される場所は、いつも旧東棟の化学室。
辛気臭い校舎の片隅だ。
倒されたチームの奴らは黙秘を貫いていたが、これはもう噂じゃない。
「魔王」は、実在する!
前々から「魔王」を探そうとしていたオレや、親友の棚橋以外の皆も、徐々にそう言い始めた。
それじゃぁ、「魔王」って奴は、一体、何者なんだ?
学校に巣食う魔物だという奴もいれば、任期を早く終わらせたい口実に「NTH88」の奴らが作った幻想だと、笑う奴もいる。
実は数学の小野先生や化学の佐野先生が「魔王」だとか、学食のおばちゃんが実は、とか、校長先生がとか、とか、とか。
疑い始めたらキリがない。
なんてったって、出現してからもう4年も経っている。チームとして戦えるのは高等部のみだから、ずっと学校に留まる役職じゃないと「魔王」なんて到底無理だ。
どこを探してもなにを聞いても、誰も知らない。
オレらが「幻想説」を信じ始めようか、と、眉をひそめた頃、学校イチの秀才・北岡が、最も有力な説を発表した。
それは「魔王」が、代々引き継がれる、という話だった。
ひとつのチームを倒すと、その時の「魔王」の役目はオシマイで、次の「NTH88」チームが現れるまでの間に、その「魔王」は生徒の中から新しい「魔王」を選び、継承する。
もしかしたら、チームひとつ倒すごとじゃなくて、卒業ごとかも知れないけれど、継承は確実にあるハズだと。
そして継承の証は、普段開かずの間となっている旧東棟の化学室、の、鍵。
それらの行動は秘密裏に行われていて、先代の「魔王」が誰なのか、今の「魔王」が誰なのか、全く判らないという。
そんなこんなで色々な憶測が飛び交っているうちに、オレと棚橋が作ったチーム「アラウンド・ラビリンス」が、校内でも2番の強さを持つと皆に認められた。
そして三日前、NTH88チーム「ラグナロク」を、オレらが、倒したんだ。
案外あっけなかったのを覚えている。
オレは、そのチームリーダーから、NTH88の称号バッチと、ひとつの箱を譲り受けた。
箱は、開かなかった。
■ 2 沈む夕日に染まる瞳 ■
「かかってこないんですか?」
瀬野はもう一度、ハッキリとした声で俺たちに言った。
化学室に入る前の憂鬱そうな表情から打って変わって、別人のように笑顔と殺気をふりまいている彼女。
冷酷な笑い。
これが本当の彼女なのか?
本当に、彼女が「魔王」?
夕陽が街の中に沈んでしまった。チームの皆も無言のまま、しばらくそのまま時間が過ぎ、瀬野の言葉からは、何の表情も読みとれない。
「……結界も完璧ですね、かかってこないならこちらからいきます」
オレ達のチーム「アラウンド・ラビリンス」は、均整のとれた良いチームだと思う。
まず一番前に居るオレと棚橋が、剣と銃で物理攻撃をかます。
オレの後ろに居る瀬野は、女の子でありながら、かなりの高等魔法が使えるので、魔法攻撃担当。
棚橋の後ろに居る新岡は魔法防御をし、その後ろに居る菊地は参謀だ。
チームの中では唯一、確定の攻撃戦手を持ってないが、ただ、奴は柔術に関しては全国レベルの強さを持っている。
菊地のすぐ隣に居る竹中は、瀬野への魔法補助や回復治療を行う。更に後ろに居る竹中の妹は、小さいながら結界師の能力を持つ。
亜空間結界を張ってないと、戦闘ばかりのこの学校が持たないんで、結界能力のある竹中の妹は、中等部から無理やり引っぱってきた。
魔法補助や回復、結界など、直接戦いに関わらない位置なら、中等部の人間を一人だけ入れてもいい。
実は、本当は竹中が瀬野の位置につくハズだったんだけれど、奴はシスコンで「妹と一緒じゃないとヤダ」ってダダをこねた。
仕方なく後方に下げ、配置が完成したわけだった。
このメンバーで、今までずうっとやってきた。
思ってみれば、チーム結成からずいぶんの月日が経っていて。
だからこそ、瀬野の抜けたチームで、チームを知り尽くしている彼女ー…「魔王」と戦うのは不安で。
オレが瀬野と初めて出会ったのは、学校の北棟にある図書館のカウンターだった。
丁度「森の雫」というチームが「魔王」に倒されたっていう、そんな噂がたっていた頃。オレも高等部入学にむけ、チームを作ろうと思っていた頃。
剣の稽古をつけてもらっていた先輩から、面白い本があると聞いて図書館に借りに行ったんだ。
で。
一目惚れ。
本当に一目ぼれだった。
地震が来てもビクともしないような、落ち着いた物腰。サラサラと音がする髪、水が流れるような、自然な手の動き。
この世の何も信じていないような、瞳が
「タキさん、どうしたんですか? 足、震えてますよ」
ハッとして顔を上げると、瀬野はオレの目の前で、っつ?!!
――ドッ!!
「タキ?!!」
竹中が叫んだ。
オレの視界には、化学室の白い天井しか映ってなくて、え? え??
「ひとふたみ世の、いつむゥ奈那矢に、ここのつ通りは来たれり木々の精霊ーッ!!」
「クシャナクシャラクカクカクカクナ、我ココに召喚す、嵐を呼ぶ破壊の王者セト!!」
新岡の上ずった声にかぶり、瀬野の澄んだ声が響いた。
瞬間、二つの巨大なチカラが交差し、鋭い風と轟音が舞い上がる。
「タキ! なにボーっとしてるんだよ!」
菊地が、オレの腕をつかんで、耳元に口を寄せた。
「いつものセノさんだと思うなよ。今この場に居るのは「魔王」なんだぜ。油断すんな」
「でも……」
オレは半分ムッとしながら言った。
「あいつはオレの彼女だ」
「……ふーん?」
菊地は眼鏡をクイッと持ち上げた。
「でも、これは戦いだ」
眼鏡を持ち上げるのは、作戦を伝言するトキの合図。
「いくら「魔王」だからっていっても、セノさんは元々魔法攻撃手だけでチームに参加してた。物理攻撃は多分、ナギと同じくらいの実力しかないハズだ。今も、攻撃は魔法のみでやってるしな。だからー…」
菊地は一瞬、苦い表情を浮かべた。
皆、瀬野が好きだから、本当は戦いたくなんてないのだ。
「だから、タキ。できるだけ魔法で攻防してると思わせて、お前が一瞬の隙を叩く。センの銃は遠すぎてダメだ。この前やった光の魔法剣なら、セノさんのリフレクトも一瞬で割れる」
瀬野に。
……そんなコト、
「できるわけないって?」
言おうとした言葉は、菊池の口から淀みなく流れた。眉間にシワをよせ、睨んでくる。
「お前がチームのリーダーだろ」
その言葉に、オレはハッと瀬野を見た。
――あぁ、一瞬。
オレたちは瞳が合った。
と。
「――……ッ?!」
瀬野が……笑っ…た?
いや、違う。
あれは笑いなんて代物じゃあない。
けれど、そういう以外に言葉が出てこない。
オレを見下したような、その笑顔が、オレに伝える。
『戦う気がなければ、この場から逃げてもいいんですよ』
「……っ、セノ!!!」
「「「??!!」」」
オレは、今出せる精一杯の大声で、彼女の名前を叫んだ。
一瞬、全員息を止めた。
召喚精霊たちも静まり返り、辺りは。
「……何でしょうか、タキさん」
■ 3 卑怯な唇の謎かけ ■
瀬野は魔方陣を描く手を止めて、オレに向き直った。
オレは、ひとつ深呼吸をする。
大丈夫、落ち着け。
「セノ……。オレも皆も、セノが「魔王」だなんて、認めたくない。もし本当に、セノが「魔王」だったとしても、無理して演技してるダケなら、その、許すから、」
「…タキさん……」
瀬野は驚いたように唇に手をあてて、それからフッと、笑った。
「冗談に、見えるんですか」
「………」
「それは困りましたね」
――ヒュッ。
しなやかな動作で彼女が手首を振ったと同時に、一番後方に居た竹中の妹が倒れた。
「ホノカ!!」
竹中が叫び、駆け寄り、すぐに回復呪文を唱えはじめる。
亜空間結界が解かれる。時間軸がずれ、教室の中に闇が姿を現した。
原則として、実践に参加していない中等部の人間には、攻撃してはいけない。瀬野はわざと攻撃したのだ。
オレが非難の瞳で瀬野を見ると、
「これが冗談に……見えますか?」
今まで笑っていた瀬野が、初めて真面目な顔を見せた。
それは憂いと悲しみと苦痛と、殺気とそして、コレが宿命なのだと云わんばかりの、諦めと覚悟の表情。
「………」
オレは何も言えなかった。
瀬野の、そういった感情むき出しの表情なんて、今まで見たことがなかったから。
「私はー…」
瀬野は、一瞬ためらってから、オレをじっと見つめた。唇が動く。
「私は、これまでずっと隠してきましたが、本当は、そんなに心の優しい人間じゃないんですよ、タキさん。裏切られるのに慣れたから、裏切るのだって平気でできる……」
「………」
「本当は、こんな女なんです」
「………」
「幻滅しましたか? ……私を倒さなきゃ、ダメですよ」
「………何が…」
オレはやっとのことで言葉を紡いだ。
「何がダメなんだよなんで……ッ…なんで戦わなきゃなんねーんだよ、セノ!」
知らなかったオレは、お前の何なんだ?
「……タキさ」
「意味わかんねーよ!!!」
行き場のない激情に、オレは剣を床に突き刺した。鈍い音がする。
「戦う意味って何だよ! 「魔王」って何なんだよ!! 仲間として戦ってきたのに、そんなのアリかよ!! 今さら……ッ…」
このまま喋っていると涙が出そうで、オレはあわてて目をこすった。
沈黙がしばらく流れる。
それを遮ったのは、菊池だった。オレの前に立ち、眼鏡をクイッと持ち上げる。
「セノさん」
「……何でしょうか」
「あなたの持っている、この化学室の鍵を、こちらに渡して下さい。それで戦いは終わる……そういうルールのハズだ」
瀬野は怪訝な顔をして、教室のドアを一瞥する。
「……鍵? 教室の鍵なんて持ってないわ。勝手に開いていただけよ。私が開けたワケじゃないー…」
「――ぇ?!」
その一瞬の隙をついて、瀬野は菊地の懐に入り込んだ。両手で右腕を素早くとると自分の体を回転させて、菊地を床に叩きつける。
骨の折れる音。
そして倒れた菊地の腕を、立ち上がった瀬野は、全体重をかけて何回も踏みつけた。
「……ッあ!! うぁっ…あぁぁッ!あぁあ……!! ………、……」
何も喋らなくなった菊地の腕に足を置いたまま、瀬野は新岡に笑いかけ、
「レイ!!」
普段無口な新岡が、大声で菊地の名前を叫んだ。気づく。そうか。
――わざと、個人戦に持ち込むつもりだ!
「待て、ヨウ!」
オレの叫びもむなしく、新岡は瀬野をギッと睨みつけ、二本の指を唇にあてた。
「ゆらとふるへ……ゆらゆらとふるへ…」
ぶつぶつとその言葉ばかり繰り返す新岡。しばらくすると、彼の周りの空気が渦をまきはじめた。言葉の先の彼女もまた、呪文を唱え始める。
けれど、それは今まで戦ってきて聞いたコトのない呪文で。オレは寒気をおぼえ、棚橋を見た。
奴は何も言わない。今は見守っているべきだということか。
「右手には花束を……左手には十字架を……両手には運命を…」
「ゆらとふるへ……ゆらゆらとふるへ、黄泉の坂より来たりし亡霊、釈迦の胎より舞いたりし蓮の花をもち、八十八夜の門を通りここに集い現れよ! 翁の涙と対つぐむ、般若の刃、幽玄の子!!」
新岡の前に、昔絵本で見た、牛若丸のような格好をした少年が現れた。
しかし、唯一違うのは、少年の持っているモノ。
笛じゃない。
キレェな日本刀が、瀬野に斬りかかるー…!
「瞳には真実を、唇には言霊を、四肢には疾風、髪には天かけ、万物創造の加護をしせん! ルルベブルルベブブルベブルベ我ココに召喚す、永遠に住まう神の化身メタトロン!!」
瞬間、ものすごい風が吹きぬけ、オレは思わず腕で顔をかくし瞳を閉じた。
そして瞳を開けると、新岡は倒れていて。そのそばには瀬野が立っていて。
「……私は一応、図書館の司書をしていますので、呪文に関する本は全て読みつくしています……。その呪文に対応する魔法も、その防ぎ方も攻撃方法も、全て頭に入っていますから……」
彼女は誰にともなくそう言って、それからオレの隣に居る、棚橋を見て。
――カチ。
今まで黙っていた奴が、人形を構えた。
■ 4 二人の迷宮の出口は ■
棚橋の持っているアベルン……人形の中身は、学校でもまだ売られていない最新型のハンドガンだ。
この事実を知っているのはオレしか居ない。瀬野は「へぇ、」と言い、棚橋とアベルンを交互に見た。
安全装置を外された銃は、いつ瀬野を貫いてもオカシクない。
「セノちゃん、動いたらヒキガネ引くよ。この銃に入ってる弾は、普通の弾じゃない。セノちゃんの白い盾も打ち砕ける、強力なエネルギー弾だよ」
瀬野は笑ったままで、それが棚橋をイラっとさせたらしい。
奴は瀬野の足元に一発撃った。
「ヨウから離れて」
床に大きな穴があき、太い鉄骨が見える。
「黒板の前に行って、こっち向いたままでいいから、両手を後ろで組んで。ボクはサカエみたいに甘くないよ。余計な動きをしたら、容赦なく撃つからね」
「知ってるわ」
瀬野は、やけに素直に黒板の前まで行き、手を後ろに組んだ。ゆっくりと。笑いながら。
「ナギ」
「え? は? 俺?」
棚橋は、今まで妹の傍にずっと座っていた竹中を呼び、瀬野の制服のポケットを調べるように言った。
竹中は「セノさんごめんね」と言い、制服のポケットに手を入れようとしー…その時。
――ドッ…!
「ッう!!」
瀬野は竹中の腹に蹴りを入れ、竹中はガードも間に合わず棚橋の目の前に吹っ飛んだ。
竹中は頭を強く打ったらしく、ぐったりと床に四肢を投げ出している。
「ッチ!」
左に移動した瀬野をとらえようと棚橋が向きを変えた瞬間、
「?!!」
瀬野は走ってオレの陰に入り込み、ポケットからナイフを取り出した。
オレは懐をとられた時の条件反射で天井につくぐらい高く跳び、ナイフを投げるモーションをとった瀬野に、棚橋のハンドガンが咆哮のごとく轟音をあげる。
ドゥッ!! カチッ、ドンッ!!
間髪入れずに二発。
直撃したかに見えたが、瀬野はー…居ない?!
「サカエ!!」
「!!」
棚橋の声に顔をあげると、オレと同じ高さまで跳んだ瀬野は、オレに三本のナイフを投げつけてー…!!
「……ッ!」
二の腕と足首に一本づつ刺さり、あと一本は瞼をかすめた。
カチ、ドォッツ!!
棚橋が撃った弾は、またもや瀬野に当たらず、着地した彼女は反対のポケットから水鉄砲のような小さな銃を棚橋に向けた。
――ピスッ。ピスッ。
小さな音。
殺傷能力はないようで、棚橋は平気な顔で着地体勢が作れないオレを片手でキャッチし更に、瀬野に向け銃を放とうとする。
が。
いきなり、奴はオレを抱えたままガクンと体勢を崩し、床に倒れこんだ。
「セン? おい、セン!!」
オレは自分のカラダからナイフを抜き、棚橋をゆすってみたが、奴は瞳を閉じたままで。
「……どうしたんだよ?! セン!!」
「心配要りませんよ、タキさん」
いつの間にか、瀬野がオレの隣に立っていた。その手には水鉄砲のような透明な銃が握られている。
「この銃で、麻酔弾を撃たせてもらいましたので……。麻酔が抜ければ起きます」
「………セノ」
彼女は銃をポケットにしまい、首から提げた鎖を出した。その鎖に繋がれていたのは、小さな小さな鍵。
「……コレが「魔王」継承の鍵……そして、箱を「NTH88」から取り戻すのが、本来の「魔王」の役割です」
箱?
箱ってもしかして、先代から譲り受けた、あの箱のコト?
オレはポケットの中から、箱を取り出した。
それは鍵が掛かって開かない、小さな小さな箱。振っても、何の音もしない。
瀬野は続けた。
「その箱の中には、初代「魔王」の、とても大切なものが入っています。代々の「魔王」は、あなたたち「NTH88」を倒して、箱の中を見てきました」
瀬野はふぅっとため息をつき、オレを見下ろした。
「私の勝ちです、タキさん。貴方は負けを認めて、その箱を私に渡すだけでいい」
「なんで……」
オレは、自分の声がやけにかすれていて出にくいコトに気が付いた。
出にくいのは、この気持ち。
「なんで、自分が「魔王」だって、言ってくれなかったんだよ……。そしたら……もっと早く言ってくれてたら…」
「何も変わりませんよ。貴方と戦うことも、私が勝つことも」
瀬野はオレの手のひらから、箱をとりあげ、カチリと鍵をあけた。
オレは箱の中身を見る気なんてなかったから、ただ床をじっと見ていて。
再びカチリと音がして、彼女はそっとオレの手のひらに箱をのせた。
「今日あったこのコトを、誰にも言わないで下さい。それが戦いに勝った「魔王」の唯一の命です」
彼女はドアに手をかけ、
「それから、私は今日限りでチームを抜けます。……今まで、ありがとうございました」
そう言ったあと音もなく立ち去り、
「……セノ……」
オレは教室の中で独り、呟いた。
穴が空いたような気がした。胸に、ひとつ、負けた事よりも。
■ 5 その手から洩れたもの ■
「ねぇサカエー、もう帰ろうよぉ」
「あー? んー……」
下校時間はもうとっくに過ぎている。
いつまでも机の上でゴロゴロしてるオレの横に、棚橋は自分のリュックを置いた。
窓の外は映画のように明るい青空で、そのぶん、オレ達の居る教室は暗い。動く雲は、オレ達だけをぽっかりととり残していた。
「いつまでもクヨクヨしてるとダメだよー」
既に心配を通り越して、呆れたカンジの棚橋の声。オレは緩慢な動作で机に突っ伏して、
「クヨクヨなんてしてねーよ……」
一応の反論を試みた。
「大体さぁ、瀬野がチームから消えてから、一番うなだれてんのは菊地だし」
「その次にうなだれてるのは?」
「………」
「なーんだ、やっぱりそうなんじゃーん、ねぇ、アベルン?」
棚橋はアベルンの頭を愛しそうに撫でた。
……あの戦いから、一週間。
オレは普段の習慣で、剣の稽古だけは欠かさずにしてたけれど、学校ではダラダラ。毎日こんな状態で、授業も上の空。食事もボーっとしながら、時々エビフライを落とす。
見かねた竹中が
「じゃーん! セノさんの隠し撮り写真!!」
とかなんとか言って、携帯で撮った瀬野の写真を見せてきたりするも、なんか、余計に自分が悲しくなるっていうか、もう
「あぁー…、あーあーあー…」
オレは唐突に声を出した。
「どしたの? サカエ」
「何でもねーよー…」
「……はぁ、まったく。セノちゃんが居ないとサカエはダメだねぇ」
棚橋は机に置いていたリュックを背負い、
「先に帰っちゃうからねぇー」
と、一人で教室を出て行こうとする。が、出て行ったあとにまたヒョイと出てきて
「本当に帰っちゃうよ?」
と言い、それからまた机に戻ってきた。
「ねぇー、サカエー…」
ほとほと困り果てている棚橋。
オレはまだ帰る気なんてない。
「先帰っていいぜ……どうせ、アベルンの服買いにでも行くんだろ、アラハバキに」
アラハバキとは、棚橋御用達のフィギュア服専門店だ。
それにしても、瀬野が抜けてから本当にチームの皆は意気消沈してしまった。
いや、オレのせいか……。皆をそんなにしているのはオレで、そのオレをこんなにしてるのは瀬野だという事まで繋いでから、オレは彼女の姿を思い描いた。
彼女の美しい黒髪は、まだあの香水をにじませているのだろうかー…。
「……―っ」
瞬間。
瀬野の、あの香りが鼻をかすめて、オレはガタッと机を立った。
「やっと帰るの?」
「いや、セノ!! セノのところ、いってくる!」
言い終わる前に駆け出した。
そうだ、彼女の居る図書館は六時に閉まるんだった。
今は六時十分。
スピードと一緒になって早くなる鼓動。
空は、教室で見るよりも紫だった。
★
図書館は学校の北。
そこだけ別館のようになっていて、渡り廊下で繋がっている。
オレは渡り廊下のつきあたりにある図書館の扉を開こうとし、思いっきり取っ手を押した。
が、扉は開かず、オレは前につんのめってコンクリートにガツンと膝を打ちつけた。
「ってぇ!!」
取っ手を握りしめ、ジンジンくる痛みに耐える。
いつもなら軽く開くハズの木の扉は、びくともしない。既に、図書館は閉められていた。
「……っセノ…」
勝手に吐き出された痛みと吐息。
自分の声に反応して、急に聞こえる風の音。誰も居ない。ここには、誰も居ない。オレは自嘲ぎみに笑った。
そうか、そうだよな。もう六時すぎだしな。閉まっててもおかしくは…。
夜の気配がせまってくる。
なにかが底からこみあげてくる。
痛いせいかどうかなんて、わからない。
苦しい。
心が苦しいんだ。
このまま、もう二度と逢えないような気がしてー…!
「セノ……っ」
もう一度彼女の名を呼んだとき、なにかが落ちる音がした。
オレの影で暗い、コンクリートの一点に黒いしみ。
――涙。そっか。オレ、泣いてんのか。ははっ、バーカ。
そのとき、
「タキさん?」
背中から、懐かしい声が聞こえた。
「何しているんですか? 図書館ならとっくに閉まりましたよ?」
「………」
「タキさん。タキさん……ですよね?」
応答しないオレを怪訝そうに眺める瀬野の、その表情や仕草が見なくてもわかった。
どういう顔で振り向けばいいのか、オレにわかるハズもなく、薄い月が光をおびて……。
しばしの沈黙。それから瀬野は、やっと思いあたった、というような顔を、気配を。
「もしかして、先代のNTH88からは、何も聞いていないのですか?」
■ 6 選ばれし者のトリカゴ ■
「魔王」という謎の存在が全校に知れ渡ったころ、私は図書館で本の貸出の仕事をしていました。
どこかのチームに入る気もないし、そんな存在なんて私に関係ない、と、自分で枠を作って、戦闘に関する本を借りてゆく人々を眺めていました。
唯一、私の興味をひいたのは、魔法に関する本だけで。
魔法陣、呪文、印、呪札、言霊、属性、精霊……飽きずに何回も読み返した本は、カウンターのはじにいつも置いてありました。
しかし、実際に使った事はなく、空想は空想のままで私の中に蓄積されていきます。
私にはそれで十分でした。
そう、そんな月曜日の昼休み、珍しく先輩が図書館に来たのです。
飛び級で卒業できる、と、先輩は嬉しそうに話しました。
それで、と、つなげます。
「な、セノ、今から外出れる?」
私は友人に図書委員の仕事をまかせて、とりあえず先輩の後をついていきました。
もしかして、もしかすると、特別な話なのかもしれない。
もしかして……もしかして……。
私は先輩を尊敬していました。そして、自分でもわからないうちに恋をしていたのです。
聡明な先輩。私と対等に「フェルマーの最終定理」について話し合えるのは先輩だけでした。なにせ、この学校では皆、戦闘にあけくれて学業の業の字すらかけない人が普通なのですから……。
ずうっと先輩と一緒に居たかった。長い長い話をしていたかった。できることなら、永遠に。
けれど、先輩にはもう彼女が居ます。
その事は、私の胸をチクリとさしました。
先輩と一緒に話をするのは、本当は彼女さんじゃなきゃいけないのに。
だいぶ外を歩いて、そのうち、人気のない裏のほうにでると、私のチクリはどんどん大きくなりました。
先輩と二人きり。
彼女さんに悪いな……。
そう思って先輩を見たその時、先輩は深刻そうな顔をしてふり返ったのです。
逆光が、先輩を影で隠します。
桜、いえ、桜のような白色の木が、先輩の後ろにー…。
「セノ」
――ザウ……。
木が、風で音が。
「はい?」
「君は今から「魔王」だ」
……え?
眉間にシワをよせた私に、渡されたのは小さな小さな鍵。
木は、異世界からの使者のようにふるえ続ける。ザウ、ザウザウ。
「NHT88が現れたら、君は彼らと戦わねばならない」
NTH88?
戦う??
まさか……まさか先輩がー!?
――ザウザウザザザザ。
「いやです」
私は即答した。
「どうして私がこんなー…!」
★
罪悪感でいっぱいだった。
私は、怪我をして動けない人々の間をすりぬけて、化学室をあとにした。
手紙がきたのだ。
家に、先輩から手紙が。次のNTH88が現れたら、そのチームのリーダーに手紙を書くんだ。そうして指定日時を決め、化学室に行くと見越したように扉は開いているハズだから。
と、手紙の中で先輩は言った。
そして、彼らが持っている箱の中身を確認してくれ、と。
既にNTH88は、先輩が居たときのチームではなく、倒されて、別のチームになっていた。
私はグズグズしていて、もう三ヶ月くらいそのチームの人たちを観察していた。
……どうしてこんな都合よく手紙が来るのだろう? 初めから決められていたように。
私は、この滑稽なゲームを楽しんでいる誰かの顔を想像しようとした。
私が「魔王」?
違う。私は「魔王」なんかじゃない!!
廊下で吐きそうになった私は、なんとか理性を繋げようとして指を噛んだ。
ただ、ただ化学室に来た人たちに向かって本で読んだ呪文をとなえたダケだったのだ。
自分に魔法が使えるなんて思ってもみななかったから。
降参して、それでこのゲームは終わり。
私は「魔王」として負けるつもりだった。
しかし。
轟音が響き、血が飛び、彼らは負けを認め私の足は震え、箱の事は忘れていた。
キモチワルイ。
また吐きそうになり、口をおさえてから私は、今日の昼休み図書館に来た男の子を思い出した。
「魔王」とNTH88に関する本を机に置き、私が先輩を思い出していると、
「お、「魔王」なんて信じない、って顔してるねー」
男の子は言った。
「図書館に居る人って、たいてい信じない人なんだよネ」
やけにニコニコした人だった。
「――でも「魔王」は居るよ」
私ですけど?
貸出カードから顔をあげた瞬間、
「居ないと困るしー」
真っ直ぐな瞳にぶつかった。
「オレがぶっ倒す予定だからね」
タキサカエ……変な人。
■ 7 仕組まれた決戦 ■
あまりの回復の早さに、保健室の先生は驚いていた。
もちろん、竹中が精力をふりしぼって水の精霊を呼んだおかげである。
呼びすぎてぜいぜいの彼に、菊地は
「お前、セノさんに蹴られて気絶したダケなんだろ? その分キッチリ働けよ」
と言葉のムチを打ち、竹中の妹に怖がられたのは言うまでもない。
菊地と新岡は先生に礼を言い、そろって出口へと歩く。
窓の外はもう、紺色に染まっていた。
と。
靴を履き、玄関へ歩こうとした新岡の横には、菊地の姿がない。新岡がふり返ると、菊地は、玄関ではなく正反対の旧東棟へ続く廊下を歩いていた。
新岡はその場でしばらく立ち止まっていたが、菊地がどんどん見えなくなっえり、止まらないのだとわかると、遠慮がちに声を出した。
「レイ! そっち……反対…」
「あー、いいのいいいの」
菊地は片手を振って、バイバイの合図。
お前は来るな、というニュアンスが、その手から伝わってくる。
このまま別れるのとどちらが良いか……。迷ったあげく、新岡はもう一度内履きにはきかえた。
菊地の後を追って、廊下の奥へ。
迷いそうになる校内を歩いていゆく。どこを見ても、刀キズや、何かがぶつかった痕ばかり。
それらは、この学校の存在意義を静かに語っていた。
頂点を目指すためには、努力を惜しまない人々。純粋な強さの中に潜む、様々な駆け引き。
その楽しさ。
その悔しさ。
それらを踏みしめながら二人は、今更ながら、この学校に来れた偶然に感謝していた。
――数十分後。
着いた所は旧東棟の化学室。
もちろん、ガタガタと戸を動かしてみたが教室は閉まっている。
廊下には、灯りひとつない。ひっそりとした精霊の気配だけがただよっている。
「レイ……どうしたの」
新岡は歩きつかれてグッタリとしている。息切れの声。病弱なのだ。
そんな疲れた声を聞き、菊地は
「だから来なきゃ良かったのに」
と、もう一度戸を開けようと試みた。
ガタガタ。ガタガタガタガタ。
大きな音だけが暗闇を支配し、
「無理だな」
菊池はその作業を簡単に放棄した。
調べよう、なんて、そうそう楽にはできまい。なんてったって、魔王は瀬野瞳。自分たちでさえ気がつかなかったのに、他の奴等が知っているわけがない。
そのまましばらく黙っていると、壁に背をあずけていた新岡が、ドサリと、床に体を投げ出した。
「ヨウ、何してんの?」
「……疲れた…」
「ったく、だから来なきゃー…」
「あ、」
「なに」
「……あれ、監視カメラ……」
「?!」
菊地が新岡の指先を追うと、そこには確かに監視カメラがあった。
旧東棟は木造だが、天井の一部分だけに違和感がある。監視カメラは明らかに最近のものだろう。黒光りする機械は、闇の中だと一層目につく。
前に来たときには気付かなかったが、確かにあれは……。
菊地は廊下を走って近くの天井を見回ったが、化学室以外には見当たらない。
これはー…。
彼女の言葉が、耳の奥で、再生される。
『……鍵?』
――そう、あの美しい黒髪を耳にかける仕草。
『教室の鍵なんて持ってないわ。勝手に開いていただけ』
彼女の言葉が本当だとすると、誰かが監視カメラで化学室の出入りをチェックしていた事になる。
いや、ただチェックしていたダケでは扉は開かない。その人物は多分今の「魔王」が誰なのかを知っている。
そして、NTH88のリーダーのみに送られる手紙。そうだ、あの中身を知っていればー…。
「いや、ダメだ」
菊地のつぶやきを聞いて、新岡は起き上がった。
「……なにか…わかったんだ?」
眼鏡をかけたこの友人には、考え込むとブツブツ言うクセがあるのだ。
そして、その眼鏡は割れない。
防弾ガラスの伊達眼鏡だから。
「ん、ちょっとねー…」
彼は眼鏡を、制服の袖で拭く。
「このゲーム、どうして毎回毎回「魔王」が勝つんだろう、ってね」
「……それは…」
「強いから? 違うね」
菊地は新岡のまわりをカツカツと歩きはじめた。
「いや、セノさんは強いよ? ただ、何か仕組まれている感じがするんだ。たとえばー…」
いったん言葉を区切り、菊池は窓の外に月の光を探す。
「……どうしてNTH88の称号をもらったチームは、半年以上、もたないんだ? そこには絶対「魔王」の存在がからんでー…」
「おうーい、誰だァー?」
ひとすじの人工光が、新岡の髪の毛を照らしだした。この場にそぐわない、伸びのある声。
「「………」」
二人が固まって黙っていると、光は近づき声の主は
「なァんだ…菊地と新岡だーなや」
ホっとしたように、光を自分の顔にあてた。浮かび上がる、男性の顔。
声の主は楠。
菊地と新岡の担任であり、古文を教えている先生その人であった。
■ 8 孤独……独白……白青の月 ■
「私はその戦いが終わってからも、鍵を持ち続けました。そして、新たなNTH88が現れると、真っ先に手紙を書きました」
瀬野はオレを真っ直ぐに見つめていた。
丁度、図書館で出逢ったときのオレのように。
「誰にもいえなくて、泣いたときもありましたけれど……図書館で貴方が言った言葉を信じて……」
瀬野の黒髪が月に照らされている。
「私を倒すまで、待とうと……思ったんです」
キレェだと、正直に思った。
「でも、」
風が通り抜ける。
「タキさん」
凛とした声。
「戦っていくうちにわかったんです」
しばらくの、沈黙。
オレは立ち上がっていて、正面には瀬野が居る。化学室で対峙したときと同じように、オレたちの間を精霊が通り過ぎる。
そこには殺気という二文字はなく、いくぶんのよそよそしさがある。
ザウ……。
どこかでなにかが、ざわめく。
「私……「魔王」に、負ける事は許されない」
ゆるぎない、その瞳。
オレは一歩一歩、何かを確かめるようにコンクリートの階段を降りた。それから、薔薇の花びらを摘むように、ゆっくり、そっと、瀬野を抱きしめた。
青く光った風が吹く。
★
「おにいちゃーん。どこー?」
下駄箱を背もたれにして本を読んでいた竹中は、妹の小さな声に即座に反応した。
「ホノカー! こっちこっち」
廊下から、パタパタと足音が聞こえてくる。それはだんだんと大きくなり、突然パッタリと聞こえなくなった。同時に、竹中の目の前には灯の姿が。
「おまたせっ! 稽古、長引いちゃって」
彼女は小さいながらも、剣道2段の腕前である。
同時に、高等魔術の亜空間結界を展開できるほどの魔力の持ち主であり、まさに文武両道を地でゆく中等部2年生だ。
と。
「あぁーっ!」
小さな妹は、竹中の手にある小さな本を見て、大声をあげた。
「まーた本読んでる。いい加減、暗い中で本読むのやめようよー。目、悪くなっちゃうんだから」
「ハイハイ」
竹中は、村上春樹の「像工場のハッピーエンド」をカバンの中に仕舞った。タイトルにひかれて買ってはみたが、今の自分には少々理解しづらい内容だ、と、竹中は思った。頭が疲れているせいかもしれない。
もしくは、瀬野さん……「魔王」のシステムについて考えすぎたせいかもしれないし、昼飯が不味かったからかも知れない。
「お兄ちゃん、無理しなくていいんだよ。あたし、そろそろ一人で帰れるから、疲れてるなら先にー…いたっ」
コツリと、灯の頭に、兄の拳がやさしく当たった。
「バーカ」
小さな妹は、これでもかというほど方向音痴なのである。
一人で歩かせると、必ず迷子になり、結果警察から電話がかかってくるのだ。
「警察から電話くるよりマシだろ」
「う……」
小さな妹に、反論の余地はない。
二人はそろって歩きだした。
中等部の校舎は、高等部と渡り廊下で繋がっている。
いや、正確に言えば、渡り廊下の先には図書館があり、そこを通り抜けると高等部の渡り廊下になっている。
図書館だけは、中高共用なのだ。
中等部の玄関は渡り廊下のスグ近くにあり、歩き出して数分で、二人の後ろに小ぢんまりとした図書館の全貌が見えた。
「あれー…?」
最初に声を発したのは、灯。
「そこにいるのって、タキしゃん?」
「え?」
竹中は妹の指す方向をふり返った。
丁度木々が邪魔をして見えない。
妹がさらに声をあげる。
「あれ……?? もうひとり」
もうひとり?
竹中は妹をおしのけて、木々の隙間のもっと奥へと視線を進めた。
目をこらして数秒。
瞳に映ったのは、高等部用の渡り廊下で向かい合う二人。―確かにタキだ。それに、あの黒髪は瀬野さー…。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「えっ、あ、あぁ、うん。行こうか」
竹中は、見てはいけないものを見た気分になり、ちょっと後悔しつつ妹を押しだした。
「まって……待ってよお兄ちゃん!」
灯はあわてて兄の腕をひっぱった。
「なに」
「なんだろう…」
「は? なんだろうって何」
小さな妹は答えず、あわてて結界を張る呪文を唱え始めた。
なんだろうって?
竹中は足を止めながらも、ふと、辺りに青白い光の束が何本も何本も集まっているのに気がついた。
この光は、風の精霊。異常に多い。
――まさか。
反射的に竹中は、あの二人の居る方向へ視線を動かす。
二人は、この異常事態に気づかない様子で、彼は彼女を抱きしめ、そして彼女は、彼の瞳にそっと唇を寄せー…。
世界は、青い光に呑まれた。
■ 9 割れない箱、折れた鍵 ■
卒業式を明日に控え、誰も居ないハズの剣道場の中に、ひとつの声があがった。
「はっ!!」
剣道場は静かで、汚い世の中から隔離されているような、清浄な空気が漂っている。
そこへ。
「だあぁぁっ!!」
声の主は雷の魔法剣まで使い、小さな小さな箱を割ろうとしている。
しかし、箱には強力な黒の盾の魔法陣が刻まれており、なかなか割れない。
むしろ、剣を叩き込むごとに、輝きを増しているようにも見える。
「はぁ……はっ…、くそっ……」
この箱を貰ってから、彼は箱の中身が知りたくて知りたくて、あれもこれもと色々な方法を試しているのだが、箱は一向に開かない。
予行練習まで休み時間だというので、彼はチームの皆に相談もせず、一人剣道場に赴いた。そして、先ほどから対決しているものの、開きそうな気配はついぞ見えてこない。
何百回と叩き込んでいるところで、彼は、戸口に立つ、一人の卒業生の気配に気付いた。
「あ、タキ先輩」
「……よっ」
照れくさく左手をあげた彼は、後輩をまぶしそうに見つめ、それから、割ろうとしている箱を見て、苦笑した。
――そう、自分達のチームが敗れたときに渡した、小さな小さな箱。
「何回やっても割れねぇっすよー」
そう愚痴をこぼす後輩に、
「まぁ、鍵も使い物になんねぇしな……」
と、ボソッとつぶやいて天井を仰いだ。
つぶやきは後輩にまで届いたらしく、
「えっ?! 先輩、この箱開けたことあるんですか?! その鍵ってドコ?! あ、誰か持ってるんスね?! 誰? 誰です?! 教えてくださいよー、水臭いじゃないですかぁ」
と、大声。多岐はあわてて弁解する。
「開けたことねぇって」
「なーんだぁ」
後輩は床に座り込み、多岐を見上げた。
「その箱、オレが先代のNTH88から受け取ったヤツなんだよ。一度も開かなかった」
「ふーん。じゃぁ、中身が入ってない可能性だってあるんですね」
「たぶんな」
「……先輩」
「ん」
「カギって、誰か持ってんすか?」
純粋な質問。多岐は、
「自力で開けるのが男ってモンだって」
と意味深な笑いを見せ、後輩を促した。
「そろそろ予行練習の時間だぜ」
★
卒業式を明日に控え、誰も居ないハズの図書館の中に、ひとつの声がとびあがった。
「えっ!」
声の主は、目の前の美しい先輩の言葉にただただ唖然とし、彼女が首から外した鍵を、惚けたまま受け取った。
図書館の中は静かで、本たちは、その持っている情報を、叫びはしない。ただ、見たものに静かに開示するだけだ。
本当に静かだ。まるで、これが儀式かなにかのようなー…。
「あなたが、今から「魔王」になるの」
先輩は、確かめるように言葉を選び、しかし、少女は自分の手のひらの鍵を見てとてつもない不安感に襲われた。
小さな鍵は、半分に折れているのだ。
「セノ先輩……」
先輩は鍵を一瞥し、瞳を伏せて微笑した。
鍵は、とても使い物にはならないだろう。といっても、少女には、いったい何の鍵なのか、さっぱり検討がつかない。
瀬野先輩は続けた。
「NTH88が現れても、もう、倒さなくていいんです。ただ、その鍵を、ずっと伝えていってほしいだけ……」
「で……でも…、でも先輩!」
少女は明らかに戸惑っていた。
この美しい先輩が、今まで数々のNTH88を屠ってきた「魔王」だったなんて!
少女の顔が蒼白色に染まる。
「あたし、嫌です! 「魔王」なんて……できるはずありません! あたし、チームに入る気も誰かと戦う気もないし、皆に隠し事をしながら学校生活を送るなんてー…」
「戦わなくてもいいんですよ」
瀬野は、悲しげな顔でふっと笑った。
「あんな思いは私一人で十分」
「……先輩…」
「それは、ただの思い出なの。ずっと身につけているのが苦しいからただここに置いていきたいだけ……。受け取って」
「……先輩…」
校内放送が遠くから流れる。
『予行練習が始まります。生徒の皆さんは速やかに体育館へ移動してください』
「行きましょう」
「え? あ……先輩!」
少女は瀬野の後を追いかけ、光の向こうへと走っていった。
★
そうして平和に一年が過ぎたとき、夜の校内に、青い光の幽霊が出るという噂がたつ。それと同時に、もうひとつの噂も。
そう、また「魔王」が現れたというのだ。
彼女はその話題を聞き、折れた鍵が入った筆箱をにぎり、彼は自分のふがいなさに、剣道場で竹刀を振る。
THE ZODIAC NOISE NTH88.
――また物語が始まる。