■ 月にひたる砂 ■
■ 1 邂逅 ■
重い砂の感触。
そう早くなく、それでいてせかす鼓動。
空は薄い。
浮かぶ月。
月にひたった砂。
すな。
青い砂。
そう、たっぷりと光を吸い込んだ。
それでいて冷たい砂。
それ。
それはすべる。
さらさらと滑る。
滑って、僕は、砂の上にくずれた。
あぁ。
吐息がもれる。
誰か。
僕は叫ぶ。
砂をにぎる。
誰か。
刺してくれ。
ナイフで。
僕を。
殺してくれ。
月の、ナイフで。
★
砂漠の上で過ごす一夜は、スリリングで、子供のころの冒険ごっこを思い出す。私はそのことをクリスに話したくて、いてもたってもいられずテントの外へ出た。
「クリス……、クリス!」
クリスの控えめなテントは、キャラバンの一番後ろにある。
当然だ。
彼は駱駝使いであり、駱駝使いの人生は、常に駱駝とともにある。
「どうしたんだい? マチコ」
私のお気に入りである、ギリシア人のクリスは、日に焼けた肌で私を迎え、蜂蜜をたっぷり塗ったパンをご馳走してくれた。
「また日本の面白い話かい?」
「えぇ、ちがうわ」
このパン固いけれど、意外と美味しい。
私はクリスに、アメリカのアニメである「アラジン」の話をした。
そう、あの話には砂漠が出てくる。砂漠と、猿と、悪者と、黄金と、それに空を飛ぶ絨毯……。
クリスは、私のつたないギリシア語をなんとか理解して、笑い、就寝の挨拶をかわした私たちは、テントの天蓋をつついて外の砂埃をはらった。
なぜ私がこんな駱駝商人たちのキャラバンに居るのかというと、それはまぁ、大した理由ではない。
ただの、研究者としての好奇心だ。
私はサボテンの研究者。サボテンの生態とその進化について研究している。
しかし、この砂漠は砂ばかりで、サボテンの「サ」の字すら、使う機会がない。
地図の名前だけで旅行地を決めてしまった私が悪いのだが、一人旅なので文句を言う人は誰もいない。
駱駝の瞳をのぞきこんでから、私はキャラバンを離れ歩き始めた。
砂がくぼんだ足跡で、私は、昔テレビでやっていた滑稽なコント集団を思い出した。
一人が砂の上を歩いていて、足跡をつけると、もう一人がその後を付いていって足跡をぐちゃぐちゃにする。するともう一人がその後からやってきて、箒で二人の足跡をならし、更にもう一人がやってきて、全員の足跡を、引っ張ったローラーでコロコロするのだ。
砂の上には結局、誰の足跡も残らない。
ここ数日旅をしていて、私は砂嵐の恐ろしさと、キャラバンが見える範囲なら何処でも歩いて良いのだということを学んだ。
そう、歩いても良いのだ。
砂漠に道はないけれど、彼らと一緒に行動しているうち、私にも「道」が見えてきたし、それに、方位磁針も持っている。
いざという時のために、固形食糧と水も携帯しているし……、いざ?
私は月を見てすこし笑った。
まさか。
遭難するほど離れるなんて、ありえないわ。
私は空をあおぎ、それからふり返り、キャラバンの細長い影を確認した。
静かな夜。
月は高らかに自分の世界を宣言していた。
「あ、」
蠍だ。
まぬけな声を出してしまったが、蠍は私を無視して砂の山に消える。
少し笑って、しばらく見送る。
砂に潜った蠍は、あっという間に消えてしまう。探すこともできない。蠍ってすごいわ。どうやって生きているのかしら。
しゃがんで、また月を見ようと頭を天に向ける。
と。
ずうっと向こうの砂の山に、黒い影がふらりと見えた。
……何…?
とてもとても遠く、ゆらゆらと、ゆれている。
ガゼル? いえ、あれはー…。
私は、地動説を考えてからすぐに天動説へと切り替えた学者のように、その黒い影の正体を、確信を。
人だわ!
私は走り始める。
どんなに遠くてもかまわない。
子供に悪戯されているみたいに、足が砂でもったり引っ張られる。
黒い影はふっと消えた。
倒れたのだと確信する。
月が笑っている。
どうにか砂の山を登り、その影のもとへとたどり着くと、私は息切れでその場に座り込んだ。
目の前で仰向けに倒れているのは、まだ年端もいかない、黒髪の少年だった。顔立ちはどう見ても日本人で、私は、少し、困惑する。
死んだように眠るまぶたを、月が控えめに照らしている……。
■ 2 追憶 ■
……ュ………レ。ミューレ。
あなたは何故旅を続けるんだい? 何故ここを去るんだい?
何故? それは愚問と言う奴さ。蠍にどうして人を殺すのか訊いたことはあるかい?
それは……ないけれど…なぁ、ミューレ。このままここに残らないか?
……え?
このままここに……。
っははははは! あー、笑った笑った。君がそんな事を言うなんて、どうしたんだい?
今日は何か、人を騙す日なのかい?
ん……ミューレ、まったく、本気で言っているのに、どうして信じてくれないかなぁ。
はは。わかっているよ、親友。
――だが、許してくれ。
私にはどうしてもやらなければならない事があるんだ。
そんなの!
……そんなの、放り出せばいいじゃないか。行くなよ。な?
このまま一緒にー…。
それはできない相談だよ君。君はそうやって軽々と、君の人生……いや、人ではないけれど、課せられたお役目を、辞退できるのかな? ひょいと、今スグに。
…………。
答えられないかな?
はは。少々意地悪だったかな。
…………ミューレ…。
カイ、訊いてごらん。何をって? はは。
これから君が出逢う全ての人に、訊いてごらんよ。
きっとわかる。
私と同じ問いをー……。
★
「っ!!」
「わっ!!」
少年がいきなり瞳をあけて、ガバッと起き上がった。
私はびっくりして、食べていた固形食糧を砂の上に落としてしまった。
もったいない。
拾って、でも食べたくなくて、ポシェットの中へ入れてから私は、少年をまじまじと見つめた。
少年も、私をじっと見つめている。
金の瞳。
頭に巻いたターバンがとれて、だらしなく首に巻きついている。
黒い髪は、よく見るとキラキラ輝いている。
……砂が、月で反射しているんだわ。
私は見とれて、それから気づいて視線を落とし、私の下にたくさん眠るキラキラに向かって、笑った。
ついつい眺めてしまったわ。
サボテンじゃないんだから。
と。
少年の影が、すぅっと軽くなった。
立ち上がったのだ。私は顔をあげて、それから月の光に目を細めー…。
……幻覚…?
透けている。
向きをかえて歩き始めた、後姿の向こうに、月が見える。
月。
黒髪……あぁ。
私は唐突に、今日、キャラバンの人から聞いた唄を、思い出した。
宝物の唄。
闇の色の髪と、月の色の瞳。そして、蠍。
誰かの手記から、詩をとって、それを、唄にしたのだとクリスから聞いた。
誰だったかしら。
誰の詩だったかしら。
そう、あれは……。
「……ミューレ…」
立ち去ろうとしていた少年は、私の言葉に反応し、振り向いた。
私はとっさに口元をおさえる。
言ってはいけないことを、言ってしまったのだと思ったのだ。
彼は口をひらきかけ、閉じ、手を私に向けてあげようとし、さげて、しばらく瞳を閉じて。
風に吹かれた生温かい、砂が、口に入ろうとする。
しばらくそのままだったけれど、少年はひとつ息をつくと、ずんずんと私に近づき、そうしてしゃがんだ。
私はみとれる。
切実な、悲しげな、表情に。
きんいろの瞳に。
「お前……ミューレを知っているのか?」
声は透き通り、頭に直接響いてくる。
私は、この少年をずっと前から知っているように思えた。
なぜだかわからないけれど、そんな気がしたのだ。
「し……知らないわ…」
小声で私がそう言うと、少年はただ一言
「そうか」
と言い、諦めたように立ち去ろうとした。
やっぱり月が透けて見える。
私はとっさに声をはりあげた。
「待って!!」
少年は立ち止まる。
とたんに、何を言い出せばいいのかわからなくなる。
「あ…あのー…、あなたは日本人?」
「………」
「日本語喋ってるみたいだから…えっと……どうしてここに居るの? 迷子?」
「………」
少年は答えない。
その黒髪にターバンを巻きなおし、彼は足元に居た蠍のしっぽを、ひょいと持ちあげた。
「……お前…ミューレを知っているのか?」
先刻と同じ問いが、頭に響く。
私はゆっくり口をひらいた。
■ 3 慟哭 ■
ミューレの手記 第5章13節
短い髪は 闇の色 見透かす瞳は 月の色
砂の山を 歩く蠍と 彼がつぐむ 声だけが
宝の 道標となるだろう
ベドウィン族の唄には
こういった宝のありかを示す唄が数多く残されている
しかし それはぼやけて宝など見えやしない
それでも人々は 唄をたよりに砂漠を歩き回る
見つかるのは
蜃気楼のオアシスと 月にひたる砂と 無くならない地平線
なぜ探そうとするのか 身近な幸せは要らないのか
ベドウィンの長は言う
「探すのは本能に勝てない愚かな欲望たちだ」
「我々は唄を考えた者が何を言いたいのか良く解っている」
「だから唄うだけなのだ」
この唄は 独りの時にしか唄うまい
★
「……知ってるわ」
月が真横に移動する。
それはほんの少しの錯覚。
雲のいたずら。
私は。
あぁ……私、なんてバカなことを。
かまをかけてみたのだ。
この少年と、キャラバンの人が言っていた詩人は、もしかしたら遠い時間の奥の、知り合いなんじゃないかと思って。
少年はそれを真に受けたらしく、そうかとつぶやいて砂の上に座った。しっぽをつかまれて窮屈そうに腹筋をする蠍を持ち上げ、首をかたむけた少年は、その静かな夜色の毒を肩に乗せた。
「……お前…」
「え?」
「お前には、何か、やり遂げなければいけない事は、あるか?」
「……え?」
風がふく。
透けている月が、なびく。
外国でヒッチハイクが成功するように、日本では考えられない出来事が、どこかの国に行くと簡単に起こることを私は知っている。続く砂漠にときたま雨が降るように、そしてふとした瞬間、海辺の写真に妖精がうっかり写ってしまうように。
だてに何年も外国でサボテンを探し回っているわけではないのだ。私は一旦、この少年はなんなのかという疑問を頭の隅によせた。今この瞬間の真夜中も、私も、蠍も、月にひたりきったこの砂さえも、目の前の少年のために存在すると、そう思って目の前の質問に誠意を、そして私の中の真実を答えようと。
――やり遂げるべき、事。
まぁ、あれかしら。死んだ家族の遺志を継いで、サボテンの研究をすること位かしら。夫も息子も、私がそれを好きだと知っていて、続けることを望んだ。自分の道は自分で決めて、決めたら真っ直ぐ進めと。そう、死の、間際まで言っていた。
「あるわ」
私は少し考えてから、首をかたむけて少年の瞳をのぞいた。
少年は、ひるまない。
髪の毛以外、ゆらがない。
「そうか」
「えぇ、」
私はニコリと笑い、そして視線をずらした。懐かしいなにかが、私をそうさせるのだわ。少年はしばらく無言で、それから顔をあげ、言う。
「……ならそれを、簡単に放棄することができるか? もちろん、タダとはいわない。そのかわりに沢山の……利益を手に入れることができる」
利益?
「そうだ、利益だ」
彼は私の頭の中をのぞいているように答える。
やっぱりあの唄は、
「それがあなたの守る宝物なのね?」
「………」
私は瞬間的に、アラジンの話を思い出していた。けれど少年は、砂嵐を起こすような素振りは見せなかった。
「あなたの名前は何?」
「標に名前などない」
「ミューレさんがつけてくれた名前よ。きっとあるわ」
私は確信をもって言った。
この少年に名前をつけた唯一の友、それがミューレという詩人。そして彼は、ミューレを引き止められなかった。宝物を、見せても。
「名前などない!」
吐き捨てるように叫んだ少年を、私は抱きしめようとした。
けれど、立ち上がって彼を包もうした腕は、すぐ胸の中に戻ってきて、バランスをくずした私は砂の上に足跡をいくつも刻んだ。
幻影。
少年は、この事実にまだ気づいていないのだ。だから詩人も、彼といつまでも一緒に居ることができなかった。
「私、もう行くわ。やらなければいけない事があるもの」
急に涙が、私の瞳を濡らした。
彼は。
月の少年は、鏡のような宝物なのだ。その人の、一番の宝物を映す夜のような鏡。だから日本語を喋っているのだ。だから……、だから私の息子の姿で、もういない、夫の瞳で私に問いかけるのだ。
いくな、と少年の唇が動いた気がした。
私はかまわず背を向けた。
全力で走って、砂の山をくだる。キャラバンの影は薄く、それは月が移動している証でもあった。もう少しでテント、というところで、私は砂丘を振り返る。あなたは、愛されているわとつぶやくと、獣のようなうなり声が地平線の奥から響いた。
それは風で、少年のたったひとつの泣き声のように、砂に、消えた。