■ シュレ ■

■ 1 マチコとマリルと黒い猫 ■

 ふれ、という口の開き方で、マリルはシュレを手招きする。
「シュレ、シュレおいで! コーヒー淹れるよ」
 なんて、嬉しそうに。
 わたしはテーブルに置かれたクラッカーをつまんで、コーヒーなんて苦いだけじゃない、と、思う。シュレは猫なんだから、コーヒーなんて飲めないじゃない、とも。
 一週間前にマリルが拾ってきた、黒い猫。シュレ。
 マリルは「ニア」と低めの声で鳴くシュレを、ことのほか気に入っている。
 最初は遠慮がちに部屋の隅にたたずんでいたシュレも、警戒をといて今ではそこかしこに抜け毛を残すようになった。わたしはというと、毎日交代の掃除に余計時間がかかっていることを、うっすら感じはじめている。
 マリルは鼻歌をうたいながら上機嫌でネルドリップし、わたしはテーブルのクラッカーを、もうほとんど食べてしまっていた。
「Oh,マチコ、もう食べちゃったの?!」
「いいじゃない。マリルにはこっちのラスクをあげるわ」
「ふふ、本当?」
「本当よ」
 休日の風景。ため息が出る。
 マリルは、いつも着ているフリルのワンピースをゆらして、自分のためのコーヒーと、わたしのためのオレンジジュースと、そしてシュレのためのミルクをそれぞれテーブルに置いた。
 イスに座り、彼女はうやうやしくうつむく。長い睫毛が光をはじいてまぶしい。長くカールしている金色の髪は、首のかたむきに合わせて音をたててゆれた。
「主よ、わたくしどもにこのような朝食をお恵みくださったことを、そして心優しきコーヒー園の主人と格安で提供してくれたパン屋の店員さんに、わたくしたちは感謝いたします、アーメン」
「……アーメン」
「ニア」
 日本人が無宗教で良かったと、わたしは最近よく思う。マリルの風変わりな、キリスト様へのお祈りは、今のところセリフがかぶったことはない。
 わたしはマリルと同居している。
 今風に言えば、二人で部屋をシェアしているということ。
 ここは、最近のそういったブームに乗って建てられた、ルームシェア目的の人にしか貸さない広めのマンションで。半額だけの負担ならその辺のアパートよりも安くすむので、最初からここに住むつもりで大学を決めた。
 ベランダから、小さな街が一望できる。
 高台に建っているのだ。
 彼女との同居生活は、もうそろそろ半年が経とうとしていた。
 お互いどこの大学に行っているかとか、生活リズムとか、趣味やら友人やらなにもわからないまま始めた同居ではあった。けれど、わたしはわたしで忙しかったし、マリルは自分の友人を一度も部屋に連れてきたことはなく、それはそれで上手く生活できているとわたしは思っている。
 洗濯は各自、部屋も別々。共同で使う部分の掃除やゴミ出しは当番制。冷蔵庫のとなりにはいつでも、食材に自分の名前を書くためのペンが用意されていた。
 まぁ、服の趣味くらいなら、いつも見てるからわかっている。
 マリルはその可愛い顔に似合うフリフリのワンピースを、好んで着ている。スカートはふっくらと弧をえがき、鉛筆でなぞると地面に正円が描けそうなくらい完璧だ。たまにストレートパーマをかけて、ツーピースを穿くこともあるけれど、あまり似合わないことを本人も知っている。
 パニエはどう洗うのだろうか、一回きいてみたけれど
「お互い、余計な詮索はナシ、っていう約束ですよね」
 と笑顔で言われ、引き下がった。
 それは、ただ同じ部屋の間取りを眺めていたというだけで同居を決めてしまったお互いの、なんというか、砦……境界線のような決め事だった。
 余計な詮索をせず、ただ、朝食だけは一緒に食べ、あとは各々の部屋で過ごす。出かけるときの声がけは要らない。部屋には入らない。用事がある時には必ずノックをすること……。
 あのつかず離れずな距離感が心地よかったのに、シュレを拾ってきてからというもの、マリルはよく休日に、中間地点のリビングでテレビを見るようになった。
 わたしは、二人で家具を見に行った際、唯一自分で選んだこのソファをとても気に入っているので、必然的にマリルはわたしの隣に座る。落ち着いたペールグリーンの上に、マリルの長い髪がまた、音をたてて流れ、そしてシュレはマリルの膝の上に乗る。
 今日もそう。
 朝食後、友人から借りてきた日本のビデオを観たいのだとマリルは言いだした。ジャパニーズ・ホラーは、マチコ、見飽きてるかしら? と一応遠慮のようなものを見せたマリルだったけれど、さして見たい番組もなかったわたしは「どうぞ」とビデオデッキのリモコンを渡し、彼女は嬉々としてビデオのカバーを外した。
 十分後。シュレを抱きながら、マリルは上目遣いでわたしを見て、
「この映画、怖そう……。やっぱり観るのやめていいかしら?」
「どうぞ」
 わたしは、肩を、オーバーにすくめた。
 やっぱりマリルは怖いものが嫌いなのね、と、自分の部屋に引きかえそうと立ち上がる。
 瞬間、わたしはハッとしてマリルを見た。
「マチコ?」
 マリルは“やっぱり”怖い映画が嫌いで、猫が好きで、コーヒーをよく飲む……。
「あ……えぇ、何でもないわ」
 マリルは曲がりなりにも主に感謝していて、たまにパスタに塩を入れ忘れて、右の耳に大きなホクロがあってー……。
「大丈夫? マチコも怖くなったの?」
 大きな青い瞳が、わたしをまるごと覗き込む。わたしは無言で踵を返し、部屋に戻った。
 どんどんどんどん蓄積されてゆく、マリルの情報。
 こんなもの、わたしの中には要らないのに。勉強のことだけ考えていれば、それで、いいのに。
 シュレのせいだわ。頭の中で思い切り睨んでも、記憶の中のシュレはいつでもマリルの腕の中で、こちらを、見ようともしない。

■ 2 マリルとマチコと白い箱 ■

 それから数週間が過ぎた。
 意識してマリルと顔を合わせないように、アルバイトの日数を多くした。部屋に帰らず大学に泊まったり、知り合いの家に泊めてもらったりもした。博士号には必要のない、サボテンの講義にまで出席するようになった。
 勉強をしていると安らいだ。マリルに対してのわたしの色々な感情も、仕様がないという諦めに変わってきた。どんな他人でも、半年以上一緒に暮らしていれば、少しくらいは、愛着のようなものがわくということなんだわ。ボーダーラインさえこえなければ、許せることだってあるわ。
 最近ではマリルも忙しいのか、出かけることが多くなり、黒猫はそんな時、どこへともなく消えているのだった。シュレが来る前の生活へ、ゆるやかに戻ろうとしていた――表面上は。
 初雪が降った夜。
 わたしがアルバイトから帰ってくると、リビングの中は荒らされていた。
 泥棒……?
 驚きすぎて、ボトリとバッグを床に落とした。
 倒れた観葉植物たち、なぜかテーブルに散乱しているキッチンの道具。ひっくりかえった気に入りのソファ、吐き出されたビデオテーブの束。暗闇に目が慣れてくるにつれ、部屋の凄惨さがわたしの眉を不安でおしあげる。
 泥棒、だとしたら貴重品が危ない。けれど、視線だけうつしたリビングの角。貴重品入れの小さなボックスには手がつけられていなかった。
 つぎに考えたのはマリルのことだ。
 犯人とはち合わせたのだろうか。その前に、無事なのだろうか。警察に電話したい。けれど、足が動かない。口をあけ、立ち尽くしていると突然。パチリと電気がついた。
 瞬間、わたしの心臓はドキリとはねたけれど、廊下の奥から出てきたのは青白い顔をしたマリルだった。
 鎖がはずれたように傾いたわたしの身体は、そのまま走るような体勢でマリルの肩をつかまえた。ひんやりとしたマリルの肌。そういえば、この寒い中エアコンがついていない。
「大丈夫なの?!」
「マチコ……シュレが居ない…ねぇ、どうしよう……!」
 シュレ?
 黒猫の安否は一旦おいておき、マリルの無事を確かめるように視線を動かす。ふと気づいたのはマリルが、布を持っているということだった。ギンガムチェックは、わたしの部屋のカーテン。
 まさか。
 マリルを押しのけて廊下を進むと、わたしの部屋の扉は開いていて部屋は、散乱とまではいかないものの、ありとあらゆる引き出しは開けられ、ベッドカバーはめくられ、本棚は移動してー…!
「――マリル!!」
 わたしはマリルの頬を平手で打った。
 わたしは、
「だって、だってシュレが…マチコの部屋にいるかもって……」
 わたしは、
「約束は約束ですから。もう、あなたとは暮らせません」
 わたしは、もう、限界だった。
 詮索しないと約束した筈なのに!
 あの猫が来てからというもの共有する時間が多くなりマリルはいつのまにか敬語すら忘れて、ソファに一緒に座って、テレビやビデオを観て、朝食のみならず昼食も夕食も一緒に食べて、まるで、そう、まるで家族のようにー……。
 そこまで思い至って、わたしは気が付いた。
「マリル。きいていなかったけれどあなた、そういえば、いくつなの?」
「……16」
 わたしは日本人で、マリルはイギリス人。
 勝手に大人だと思いこんでいた、わたしの方が、バカだったのだ。

     ☆

「シュレティンガーの猫、って、知ってる? ……えっと、知ってますか?」
 ソファを起こして、わたしとマリルは一緒に座っている。かろうじて無事だったテレビの電源をいれると、街の様子が静かに映っていた。
 わたしは溜息をついて、
「いいわよ、もう。わかったから」
 苦い顔で、マリルは、少し、照れているようで。
「外から見えない箱に入った猫は、生きているか、死んでいるかっていう、パラドックスの本を読んでね、それで、それがシュレティンガーの猫っていう題で、そしたらその日、白い箱に入ってるシュレを見て、拾って……」
 わたしは想像した。
 白い、四角い箱に、シュレがするりと入るところを。そしてひとりでに浮き上がったフタは、箱の上にすっぽりとおさまり、物音ひとつ、しないのだ。
「……っ、マチコ!」
 マリルはいきなり大声で、わたしの名前を呼んだ。
「なに?」
 次の言葉をわかっているのに、わたしは白々しく、訊く。
「部屋に入ったこと、ごめんなさい。でもワタシ、マチコとー…」
「ニア」
 その時、後ろから聞き慣れた声がして、黒くトロリとしたかたまりが、マリルの肩に乗った。
「シュレ!!」
 マリルが嬉しそうにシュレの頭をなでたとき、わたしの中の白い箱は、折りたたまれた。スルリと、その白い箱からシュレがすり抜け、箱は、玄関に仕舞われる。それはわたしとマリルを仕切っていた境界線。
「片付けは、あなたが全部やるのよ。マリル」
「え……、じゃぁ……」
「明日の掃除当番もね」
 ぴっと人差し指をたてて言うと、
「もうっ、ひどい! 手伝ってよマチコ」
 マリルが笑いながら立ち上がり、クルリと一回転した。ソファに置き去りにされたシュレと、目が合う。
 ――白い箱の中でも、生きるときは生きてるものよ。
 光った瞳が笑いながら、そう言っているような気がした。