■ 手紙(ビルマより) ■

■ 1 箕島上等兵の終わり ■

 前略 箕島幸枝 様
 その日、ビルマは雨が降っておりました。
 私と箕島上等兵は第15師団歩兵第51連隊に属し、私は分隊長で階級は伍長と上でしたが、同郷という事も手伝い兄弟の盃を交わす仲となっておりました。
 ご存知の通りかと思われますが、1942年、日本軍のビルマ侵攻は一応の成功をとげ、かの地制圧も夢ではないという所まできておりました。しかし、翌年にはイギリス軍による大規模な作戦が行われ戦線は一進一退の攻防となっていきます。更に翌年にはじわじわと敗北の色が濃くなっていきー…。
 1944年の事です。
 あの悪夢の「ウ号」――インパール作戦が決行されたのは。

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 そろそろ3時のおやつを食べようかという頃合いに、バイクの音が玄関を通り過ぎる。郵便ポストから手紙をとってくるのはわたしの役目だ。といっても、いつも、お父さん宛てのハガキくらいしかない。今日はめずらしくおばあちゃんに手紙が届いていた。宛名は丸文字で、裏をかえすと知らない女の人の名前。なにこれ……すっごく分厚い。
 この時間、自分の寝室で韓国ドラマを見るのがおばあちゃんの日課だ。わたしは寝室のドアを開け、韓流スターが大音量でアイゴーなんとかかんとかと喋っている間をぬって、おばあちゃんに封筒を手渡した。

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 そもそも第15師団は、山内師団長がウ号作戦決行に反対し、最初の編成には入っておらなかったのであります。
 私の所属している51連隊は、はじめ、中国の鎮江にて警備にあたっておりましたが、急遽ビルマへ向けて出立の運びとなったのであります。
 今思うと、あの時ビルマへ向かっていなければ……否、我々は徴兵された時から、遺書を書き、家族に別れを告げた時から自我は死にました。この身と骨はお国のためにささげたのです。
 それでも。
 数少ない貴重品である酒を、キャップに一杯だけ、ちびちびと交互に飲みながら、私達はよく日本へ残してきた妻子の思い出や、あの桜舞う河川敷の景色を語り合ったものでした。
 中でも多く語ったのは、無事日本に戻った時の事でした。お互いの家族を紹介しあい、桜と隅田川を眺めながら盛大に飲み食いしようと。
 この劣勢にまわりはじめた状況下ですら、平和を、帰還をひたすらに、信じていないわけではありませんでした。
 希望というものは、信じていたいものではありませんか。
 ……ウ号作戦は、イギリス軍の補給重点地域であるインパールを多方面から攻撃し補給元に壊滅的な打撃を与える事で、一気に形勢を逆転させるというものでした。
 しかし51連隊は、これが実践を知らぬ上層部の、机上のみの計画であることを思い知らされることとなったのであります。
 机に乗せた地図という紙に線を引けば150キロの直線が、熱帯の葉がしげる山々を、登り下り、また登っては下りの繰り返し。我々は計300キロを越える行軍を強いられました。
 疲労と栄養不足から、マラリアや赤痢にかかる者も少なくありません。
 幸い、私と箕島上等兵は他の者より運が良かったのでありましょう。アラカン山脈を越えインパールまであと少しという所まで無事に進む事ができました。
 雨季の知らせは空気です。
 暑さの中に、じっとりと重く湿気が横たわります。そう、地獄のような行軍でさえ、ほんの序章にすぎませんでした。例年より早い雨季、河川の増水。河を越えなければならないわが軍の補給部隊は立ち行かなくなりついに完全に断たれ――51連隊は孤立しました。

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 あんドーナツを食べ終わって指をなめながら麦茶を飲んでたとき、急にバンって、戸が開く音がした。ビックリして台所にいくと、おばあちゃんがふるえながら歩き回っていた。ヤバ、ついにボケがはじまったのかな、なんて思った。おばあ、どうしたのと声をかけた。そしたらおばあちゃんは窓を見上げて、ウチの裏は、となりん家の桜の木が丁度よく見える。すっごい緑の葉っぱが、ガラス越しにざわざわ鳴った。
 リビングに戻ってテレビをつける。終戦記念日のことばっかりだ。
 黒い服を着た老人たちが、過去ばっかりみてさ、つまんないよね。
 この間、世界史で第二次世界大戦の章に入ったんだけど、思ったのはそれだけ。だって実感ないし。たまに不発弾見つかったってニュースくらい? ううん、それもリアルには程遠いかな。そもそも日本が悪いんじゃん。なんて、皆思ってる。第一、負けそうって思ったらさっさと白旗あげればよくない? お国のためとか高尚なコト言ってないで、捕虜になっちゃえば良かったんだよ。

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 最初に気付いたのは箕島上等兵でした。
  「これは雨季の合図だ、早すぎる」
 私にそう耳打ちしたのです。
  「にぎりめしは、多めに残した方がいい」
 51連隊の中でも私が率いる分隊は、小銃のスペシャリストが集まるいわば斥候・威嚇の役割を果たす隊でありました。
 前線にいると、聞きたくもない噂も耳に入ってきます。イギリス軍に捕虜となった者は、人としての扱いなどされぬ、と。それは暴力に訴えるようなものではありません。もっと精神的な部分での屈辱であります。
 人として認識されない、彼らの目には、降伏軍人としてではなく自動で動く機械のように映っているというのです。
 そこには関心も憎悪もなく、耐えかね、気が狂うと。
 ペットでさえ、尻尾をふれば可愛がられるでしょう。
 暴力を振るわれる方がよっぽど健全でありましょう。
 そんな犬畜生以下の扱いを受けるより、抵抗し、自決した方がましだと、私はもとより連隊の大部分がそう思っておりました。
 我々は、もちろん箕島上等兵も、手りゅう弾を一つだけ持っておりました。
 捕まるよりは潔い、のではありません。潔くなどありません、生きていたいのです。ただ、生きて捕虜となる恐怖と比べて、このピンを抜けば簡単に逃げられる。そういう事だったのであります。

■ 2 箕島真智子の始まり ■

 雑誌読んでたら、またおばあちゃんが寝室から出てきた。今度は洗面所にいくみたい。しばらく耳をすませたら水の音。顔洗ってんの? いよいよヤバくない? まさかとは思うけど一応行ってみようかな。
 おばあちゃん、朝もう顔洗ったでしょ? って、いやいやいや、言えるわけないし。と、丁度洗面所から出てきたおばあちゃんとぶつかった。
 顔をあげたおばあちゃんは、目を真っ赤にしてて、ぎょっとした。
 おばあ、泣いてる。そのままおばあちゃんは寝室に向かい、あの封筒と重ねた手紙を持ってきて言った。
「まちちゃん、これね……」
「なにこれ、筆? 達筆すぎて読めないかもよ」
 うつむいたまま目をぬぐうおばあちゃんに、わたしは降参した。
「いいよ。読むの、遅いかもだけど」

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 葉を集め、雨を飲み、空腹が限界に達し痛くなるまで待ち、乾ききっている堅いにぎりめしを一口だけほおばる。木の実は既に食いつくされ、あとは毒のような色をした花と土を歩く小さな虫しかありませんでした。
 飢えた中でも、前線の緊張は保ち続けなければならない。
 一人、また一人と倒れていき――ようやく撤退命令が出た時、私の分隊は残り数人にまで減っていました。
 箕島上等兵にしんがりをまかせ、我々はどしゃぶりの中を撤退し始めました。気付いたイギリス軍が動き出します。銃の応酬。
 極限にまで張りつめ、研ぎ澄まされた感覚は数弾で次々とイギリス兵を撃ちとっていきました。このまま他の連隊が待機する設営地までいけるかと思ったその時。手入れもろくにできず血で錆びた軍靴が泥で滑り箕島上等兵は敵の凶弾を胸と肩に受けてしまったのであります。私は倒れ込んだ箕島の前に立ち応戦し、ひきずるように木の陰へ運びました。
  「おれはもう助かるまい、一発で、お願いします」
 私は今でもあの光景を、その場にいるかのように思い出せます。
 箕島は息を切らし、雨とも涙ともとれぬほど濡れた目を、私に。
  「腕もあがらん、一発で」
  「言うな! 幸枝さんが待っているのだろう」
 しかし、暗くなった軍服の胸からは濃い黒が――血が――広がり続け、私は森の向こうへ威嚇射撃を数回したのち、箕島上等兵に小銃を向けたのであります。
  「約束を、お願いします」
  「箕島……」
  「おれは先に、心だけ帰ります。伍長は生きて約束を……桜は、」
  「言うな、やめろ……ッ」
  「あぁ、もう散っているだろうか……」
  「箕島あぁぁぁーッ!!」
                         ――タンッ!
 以上が箕島上等兵の最期であります。
 私が無事後方設営に撤退を完了した時には、箕島上等兵はもとより、私の分隊に所属する人間は誰も……。その後、天皇様がただびととなられたのはご承知のことと存じます。
 私は日本に帰還したと同時に、箕島幸枝さんを探し始めました。箕島上等兵の最期を幸枝さんに伝え、謝罪するためでありました。
 しかし、町の記録から富山に疎開されていた所までは調べがつきましたが、その後の足取りはまったくといっていいほど分からず、戦後の混沌の中、私は次第に、自分たちが生き延びるための当座の生活に力を注がねばならなくなりました。
 なにもかもを詫びなければならないでしょう。
 すまない。本当にすまない。
 私の頭の中は、まだあのどしゃぶりのまま、箕島をはじめ、私をかばって死んだ部下たちがそこに生きて永遠に戦い続けている……。
 あなたがこの手紙を読んだ時、私の戦争はようやく終わると、信じて。

     ★

 めくった最期の一枚は宛名と同じ丸い文字で、わたしは、手で顔を覆ったままのおばあちゃんをちらっと見て、続けた。
「箕島幸枝さま。祖父は先月の3日に亡くなりました。金庫からこの手紙を見つけ、私はなんとしてでも送らねばならないと、興信所を使い調べました。まずは謝罪させてください。祖父は晩年、ずっと悪夢にうなされていました。こんな事を言っても、許してはいただけないでしょう。自己満足の罪滅ぼしと御笑いになられても構いません。ただ、祖父がこの手紙をずっと金庫に入れて持ち続けていたという事だけは、伝えたかったのです。私が言っても仕方ないと思われるかも知れませんが、本当に、ほんとうに申し訳ございませんでした」
 手紙を読み終わっても、おばあちゃんは顔をあげなかった。短い嗚咽がおばあちゃんの手の隙間から、ヒッ、ヒッ、って、長い間続いてた。
 窓の外は春風が吹いて、わたしがそろそろ洗濯物取り込まなきゃと思った時、おばあちゃんがやっと顔を上げた。シワだらけの顔を、涙でさらにぐしゃぐしゃにして、
「まちちゃん……、ありがとうね」
「ううん。いいよ、別に。なんか、おじいちゃん? の事だったんでしょ、コレ……。なんか、うん、わかって良かったね。あたし、おじいちゃんが戦争行ってたとか初めて聞いたし、なんかチョーお得? みたいな? あは」
 達筆の紙の束をおばあちゃんに差し出すと、おばあちゃんはふるえる細い手で、手紙をしっかりと握った。
 ……ざわざわする。どんな気持ちか、ちょっと説明できないけど。
 わたしは急いで庭に出て、ハンガーから落ちそうになってる洗濯物を取り込んだ。むせるような夏の熱気が微風に乗って、
 『桜は……あぁ、もう散っているだろうか……』
 洗濯物を畳むと車の音。ママが帰ってきた。大量の買い物袋を車からおろして、わたしはそのまま夕飯の手伝いをしようと台所に向かった。
 通り過ぎようとした廊下で、足を止める。仏間のふすまが、ちょっとだけ、空いていた。
「……私の戦争も、これでようやく終わりました……」
 ふすまの向こうから、おばあちゃんの呟く声が聞こえて、わたしはまたざわざわした。わたしの知らない所で、今、ものすごいスピードで世界がまわっている。それは過去や、未来っていう名前になる前に一瞬で散って、手の届かない空に飛んでいくような。
 そうだ。
 わたしは、何もできない一人の女の子だ。
 台所の窓からさしこむ夕日が赤みを増してきて、早く大人になりたい、って、なんだか無性に思った。