■ 旅館の朝 ■
突然に風が通り過ぎ、あたしは夢だと理解した。
これは夢だ。わかる。あたしは旅館の制服に身を包み、風は正門の前で落ち葉をクルクルさせている。そしてあたしはつぶやいた。あたしの意思ではないように。
「神が来る……」
ハッと目が覚めると従業員寮の二段ベッドで、あたしの心臓はドクドクと早鐘を打っている。ゆっくり深呼吸していくと、やがて元通りのリズムに変わっていった。防水の小さな腕時計を目の前にかざす。午前四時キッカリ。窓は紫をすこし明るくしたような色合いに染まっている。
伸びをして、起き上がる。
旅館の制服は中居着物だけれど、早朝と深夜の外仕事はTシャツの上にハッピを羽織るだけの簡単なものが許可されている。軽く髪を整え、上段で寝ている同僚を起こさないように部屋を出た。
裸足のまま進む。寮のカーペットの感触。従業員下駄箱の安っぽいすのこの感触。そして古い旅館の、使い込まれた木のツルツルした感触。
ロビーを横切り、玄関先の従業員用サンダルをつっかける。竹ぼうきを持ち外に出た瞬間、風が目の前を通り過ぎた。
ドキリとするほど力強く、冷たい秋の風。
夢の情景と重なり、けれど続きはそうじゃなかった。風はひるがえし、目の前の山の稜線をかけあがり遠くからざわざわと葉が鳴る。正門は閉まっているし、枯れ葉の枚数もそう多くはない。あたしは中居着物ではないし、神なんて謎のモノはやってこない。
あたしはホッと息をつくと、掃除をはじめた。
この旅館は深い山の奥にあり、従業員は全員寮に住み込んで働いている。一部文化財にも指定されていて、明治時代の建造から幾度も増改築をくり返しているらしい。
寮は奥まった明治時代の古いところから繋がっているから、だからきっとあんな夢をみたんだ。あたしはそう結論付けて、昭和時代につくられたコンクリートの雨避け屋根を見上げた。柱を掃きとおして、大正時代からあるという巨大な石オブジェの裏にほうきを通す。平成にリフォームされたという石畳の隙間から砂を取り除き、コロナの補助金で新しく造り直した正門まできた。
まだまだ新しい木の匂いがする、ような気がする。数枚の落ち葉をわきに寄せて掃除は終わりだ。
ひとしきり満足していると、カラカラと下駄の音が鳴った。
ふり返ると、旅館支配人の栗田さんだった。スーツに下駄という奇妙な取り合わせで眠そうにこちらに歩いてくる。あたしは頭をペコリと下げ「おはようございます」と挨拶をした。
栗田さんは「……ん」と手をあげ、慣れた手つきで正門の閂を外す。いつもは五時なのに、こんなに早くどうしたのだろう。
けれど栗田さんは、あたしの疑問などひとつも見ずに正門を開いた。少しの隙間から新鮮で冷たい空気が流れてくる。栗田さんは半分を開け放ち、こちらに戻ってきてもう半分も開けた。そうして戻り、ジェスチャーであたしを石畳のはじに移動させると、栗田さんは隣に立ち正面を向いた。
突然。どうっと風が吹いた。
一瞬目をつぶり薄目をあけると、隣の栗田さんはお辞儀をしていた。
「……いらっしゃいませ…」
くるりと向きをかえ、栗田さんは旅館の中に戻っていく。
あたしは棒立ちのままそれを眺め、思い出したように鳥が一声、鳴いた。