■ かずら屋回廊消灯係 ■

■ 1 夜の研修 ■

 夜の帳に覆われ緑が濃く濃く静まる山間に、コカロンコカロンと土鈴の音が響き渡る。
「ショートーぅ」
 コカロン……コカロン……カチッ。
 深い森の渓谷に位置する、老舗温泉旅館かずら屋。地区の文化財にも指定され、創業120年を数える。2階建ての古い木造建築は、中央に巨大な吹き抜け回廊を持つ特殊な構造をしており、回廊を中心に幾度となく増改築が繰り返されている。
「ショートーぅ」
 コカロン……コカロン……カチッ。
 ぐるりと歩くごとに明治・大正・昭和・平成と建築様式の変遷を見ることができるのも、かずら屋の魅力のひとつだ。
 コカロン……コカロン……コ……、
「ショートーぅ」
 カチッ。
 吹き抜け構造の回廊を照らすのは、大正時代に作られた吊り下げ電球である。ホオズキ形のガラスカバーごと、2階部分の屋根組み柱から下げられ、オレンジの光をふりまいている。
 今日はもう、消灯の時刻。宿泊客はみな部屋へとひきあげ、廊下はしんと静まりかえっている。そこへ、かずら屋の仲居着物に身を包んだ小柄な女性が、腰の土鈴をコカロンコカロンと鳴らしながら現れた。
「ショートーぅ」
 手に持っているのは先端が鉤状に曲がっている銀の棒だ。ホオズキ電灯からのびる紐の小さな輪に、器用に通してカチリと消した。そうして歩く。ぼうやり照らす、回廊の灯りを、ひとつひとつ消していく。
 コカロン……コカロン……。
 彼女、夜高(よだか)伊津香が回廊消灯係として採用されたのはつい1週間前のことである。今なお連動スイッチを作らずに手作業で消し歩く土鈴の音もまた、旅館の風情として客に歓迎されていた。
 カチッ。
 全て消し終えた夜高が回廊の入り口に戻ると、玄関ロビーへ繋がる廊下に、うずくまっている影がひとつ。ゆらゆらと動きだした。
「……お疲れさま……」
 やっとのことで頭をもたげたのは、この旅館の支配人・栗田である。端正な顔立ちだが、その目は開いているのかどうか判らないほど細い。
 夜高が土鈴と棒を柱のフックにかけ、また寝ていたのだろうかと訝しんだとたん、今夜のダメ出しが始まった。
「15番目の紐は……そんなに取りづらい?」
「いえっ、そんなことないです。たぶん、その辺で1回集中力が切れちゃうんだと思います……すみません」
「回廊曲がるときに……若干早足になるのやめて。土鈴がうるさすぎる」
「すみません、気をつけます」
「あと……中央……ここから正反対の所ね……立ち止まったのは何?」
「えーっと……」
 ――知りすぎている。
 夜高は思う。そう感じる人間は少なくない。単に耳や勘が鋭いだけではないと、皆に思わせる。仲居たちの噂になるほどには、この青年支配人は、色々なことを知りすぎていた。
「あの……戸が、なんだろうって……」
 おずおずと理由を差し出すと、栗田は「あぁ」と頷いた。おそらくは頷いたのだ。首に力が入っておらず、実際には頭がガクンとおちた。
「あれ、物置。おれと長谷さんしか開けれないから……開け方がカラクリで……、あ、中は電球のストックとか……何の話だっけ? あれ、あそこ……開かずの間って言われたらあそこだから……覚えといて」
 夜高がハイと返事をすると、栗田は親指で真上を示した。壁には白い電話が取り付けてある。誘導灯の緑に照らされ、今は腐った灰色に見えた。
「内線……ロビーの番号は?」
「61番です」
「うん、かけて。水倉と藤城呼んで……」
 受話器を取り、6、1、シャープと押すと、数秒もたたずに『はい、フロントです』と男性の声が応答した。夜高が所属を言おうとしたとたん、両足に、ドサリと重みが
「えっ、あ、え、えーっ、栗田さんっ? 栗田さんっ」
『あー…、支配人寝ちゃった? 回廊前ですね、今行きます』
 すぐにやってきた深夜ロビー係の男二人。水倉と藤城が栗田を持ち上げると、夜高の足に、ようやくジンジンとしびれが訪れた。
 こりゃあ爆睡だ、と水倉勇太。ありえねえ、と藤城孝。
「ごめんね夜高さん。いつもはロビーまで歩けるんだけど、最近調子悪いらしくて」
「いや、カウンターの下で寝られた方が絶対困る」
「うーん、まぁ、本当はね」
「今度間違えたフリして蹴っとくか」
「やめやめフジ。夜高さん、浴場に行って。長谷さんいると思うから、指示あおいでください」
 運ばれ運んでいく背中を見送ったあと、夜高は浴場へと向かった。
 夜シフトの女性従業員を仕切る、夜女将こと長谷マキは、数人の女性たちと大浴場のブラシがけをしていた。指示により掃除服に着替えた夜高に、デッキブラシを渡しながら彼女は
「栗ちゃんは寝た?」
 笑いを噛み殺したような声できいてきた。
「はい、寝ました。えっと、水倉さんたちが運んで……」
「そう」
 栗田の話題を察知した噂好きの女性たちが、サッと夜高のまわりに集まった。いかに彼が寝たまま仕事をこなしているかを、楽しげに夜高に披露しはじめる。
 過去の宿泊客名簿を全部覚えているらしい、広大な館のどこどこをいつ掃除したか覚えていて指示できる、回廊に落ちていたハンカチの落とし主を当てたことがあるらしい、従業員の採用理由は声、栗田が安心して寝られる声かどうかが採用基準、男性従業員の面接では寝ている栗田を持ち上げられないと落とされるらしい、指示だと思って聞いていたら全部寝言だったことがある、栗田によく似た男を支配人に仕立て上げて上客へ挨拶させ、自分はカウンター下で寝ていた、などなど。
 潮時を見極め、長谷はこうしめた。
「かずら屋の支配人は、“かずら”に支配されている人って意味だから」
「――えっ? それってどういう……」
「聞かない? 古い建物が意思を持つって話。アタシには……、あいつがそう見えるよ。ま、これも、ココだけの話ね」
 さあ散った散った、と長谷が手を叩くと、女性たちはめいめいの掃除場に戻っていった。

■ 2 昼の疑問 ■

 寮住み込みでも、もちろん休日はある。
 夜高は消灯係のため絶対的に夜シフトだ。そのため普段は19時に起き翌朝6時に寝るという昼夜逆転生活だが、休日くらいは日の光をあびようと、彼女は15時に起床した。
 普段着に着替え、宿泊客にまぎれながらまわる午後の回廊。中央の巨大な日本庭園をぐるりと取り囲むように、シンプルな木の廊下と硝子戸が続く。しばらく進むと回廊の雰囲気がガラリと変わった。壁の色が少しだけ黄味がかり、硝子戸上部の欄間に大正時代の木彫り細工が現れた。ここから先はしばらく西館が続く。
 ふと見上げると、ホオズキ形のガラスが吊り下がっていた。昨夜、夜高が消灯したものだ……、湧きあがる疑問。点灯は誰が?
 夜高はこの心のもやもやを、庭園を横切って西館出入り口にやってきた人物へとぶつけることにした。
「あっ、あの、おはようございます!」
「お早う。夜高さん、今日休み?」
 水倉勇太である。庭師用のハッピを着込み、右手には脚立、左手にはバケツと鋏をかかえている。隔日で夜はロビー、昼は庭師という変則シフトの従業員は、夜高の疑問にアッサリ答えをだした。
「いるよ。点灯係」
「やっぱり……!」
「というか、今は支配人が点灯してる」
「そうなんですか?」
 水倉の説明によると、以前点灯係をつとめていた白花という女性は、夜高が採用される直前に突然辞めてしまった。そのため現在は、栗田が兼任しているのだという。
「調子悪いみたいだから、あんまり無理してほしくないんだけどね。次の人が見つかるまでは仕方ないよ。穴埋めもさ、支配人の仕事だから。今日も見れるよ。いつも17時半点灯だから」
 その言葉通り、17時半に回廊の入り口で待っていると、栗田がおぼつかない足取りで現れた。開いているのかいないのかよく判らない細い目は、夜高をとらえるとピクリと動いた。ように見えた。
「……丁度いいか……おれの後ろ、ついてくるんだろ」
「えっと、あの、はい。そのつもりで……」
「この土鈴……もっと軽く鳴らせるから。英語のゼットを意識して……」
 栗田は右足から斜め前に移動し、すぐさま真横に体をずらした。
「テントー…」
 カラコロカコン……カコロン……コン……カチッ。
 自然な仕草で掲げられた銀の棒の先端は、いとも簡単に輪にかけられホオズキガラスが点灯した。また斜めに進み、真横に移動する。
 カラコロカコン……カコロン……コン、
「テントー…」
 カチッ。
 歌うように響く土鈴と、一定のリズムで繰り返される点灯の声。カチリと鳴り浮き上がるオレンジの梁。ゆらゆらと歩く青年の影――…庭園の、向こうの空が紫に沈むころ、回廊の全ての電灯がともされるまで栗田のリズムが乱れることはなかった。
 点灯を終了した証に土鈴と棒を柱のフックにかけると、手慣れた職人技に感動しつくしている夜高に向け栗田は言った。
「もう長谷さんに何か言われた顔だな……。スルーしておいて……前の点灯係も……、あぁ、まぁ……とにかくあのひと、噂好きだから話半分にしておきなさい……」

     ☆

 夜高がこの老舗旅館、かずら屋に勤めはじめて1ヶ月が経った。
 支配人である栗田の体調が、ますます悪くなっているらしいと聞いたのは、やはり夜の浴場掃除の場である。男性に邪魔されず、噂話に花をさかせられる場所はここしかないのだ。
 そして発信源は夜女将こと、長谷マキ。
「そっか、夜高ちゃんはもう研修期間終わってるから、栗ちゃんに会わないんだね」
「はい……」
 斜めに横にゆれながらの歩行も慣れ、消灯係が板についてきた頃、研修期間は終わった。栗田が教えていたのも、単に教育するはずの点灯係がいなかっただけの話であり、それさえなければシフトも仕事内容も、夜高とは全くかぶらない。
 たまに遠くに細長い体が見えても明らかに寝ているため、話すのはためらわれた。だいいち、話す話題などひとつもない……。そんな夜高のため息には気づかず、皆、栗田の話で盛り上がりはじめた。
「それにさぁ、なんか、夢遊病っぽくなってるらしいよ」
「マジで? ヤバーイ」
「深夜にフラフラ徘徊してるとか……」
「怖ッ! てか、普通の状態でもフラフラなのに、見分けつかないよね? 誰が診断したの、夢遊病って」
「あ、そういえば昨日私見たよ、庭で寝てるとこ」
「どこでも寝るの勘弁してほしいよねぇー…一応支配人なんだからさ」
「それでそれで?」
「ほっといた。そしたら夕飯、食堂で『起こしてくれても……良かったのに』って言われちゃったー! 気付いてたんかい! みたいな?!」
「あははは!」
「今のモノマネ超似てたー! すっごい激似!」
 聞かないように背を向けても、声は広い浴場に反響して届く。
 と、かたくなに下を向いていた夜高の顔を、長谷がのぞきこんだ。
「元気ないねぇ、大丈夫?」
「あっ、いえ! えっと、あの、はい……」
「じゃあ夜高ちゃんに、秘密の開け方教えてあげる」
 ――秘密の?
 顔をあげた夜高の耳に、長谷はささやいた。
「くるんとして、ひょいっとして、カッ、だよ」
 何のことか分からない夜高の肩をポンポンと叩き、長谷は掃除に戻っていった。
 夜の業務を全て終えた、午前4時。夜高は暗い回廊にいた。月は雲に覆われ、廊下は闇にとけている。勇気を出して回廊反対側中央の「開かずの扉」に行くつもりだった。どこかをくるんとして、ひょいとして、カッとすると開くに違いない。支配人と夜女将しか知らない、秘密の開け方。音をたてず、慎重に、そろそろ歩く。何かが出てきそうな雰囲気……幽霊か……妖怪か……どうか出遭いませんように……。
 ドン、と背中に何かが当たった。
「――ッ!」
 夜高の背筋が凍る。後ろを見るとそこにいたのはー…。

■ 3 夜のこたえ ■

「く、栗田さん……?」
 かずら屋の支配人、その人である。しかし、挨拶もなにもなく、フラリと夜高をよけると、彼は回廊の奥へと進んでいった。
「あのっ、栗田さん? 栗田さん……?!」
 浴場での噂話が脳裏をかけめぐる。
 ……夢遊病っぽく……。
 ……深夜にフラフラ徘徊……。
 走って栗田の前にまわり、夜高は「支配人……! 栗田さん……!」と小声で連呼した。手を顔の前でパラパラと振ってみる。反応がない。彼の目は何も見ていない。何も見えてはいない――…。
 そのうちに回廊の曲がり角まで来てしまった。フラフラと歩く青年が、止まる気配は微塵もない。
 ……誰かに連絡を……水倉さん……藤城さん……それとも長谷さんだったら確実に起きてるだろうし……。
 夜高がひたすら焦っていると、栗田は急にピタリと止まった。
 開かずの間の前である。
 そして、見えない糸をつかむようにスルスルと両手をあげ、上下にちいさく動かした。
 夜高はハッとする。
 その仕草、は。
 あれは。
「………、……夜高さん……?」
 栗田はまるで、今起きたという具合に目をこすり、そのままくったりと座り込んだ。額に手をあて、首をふる。
「……あ、ぁ、……夜高さん。おれは……動いていたね……?」
「えっと、あの……。はい」
 あたりを見回し、夜高の後ろの闇を確認した栗田は目をふせた。
「おれは……、深く眠れればそれでいい。勝手に“繋がる”のも……。けど白花さんが辞めてから深い……ところに、違和感ばかり積もっ……」
 ――このひとは泣いている。
 夜高は。
 姿勢を正した。
「わたし、色んなことに意味があるって思ってます。今、ここにいて、栗田さんとここに、あの、色々、ぜんぶ、わたし、考えます。えっと、だから教えてください。白花さんのこと」
 栗田は困惑したように首をふった。
「……教えるもなにも、1週間で辞めた子だよ……、いつも通り長谷さんに何か言われた位で……夜高さんもそうだよね……?」
 その時。夜高の記憶が逆流しはじめた。
 何か?
 そう、何かささやかれた。秘密の開け方。
 同じように長谷さんに言われたのだとしたら?
 彼女も、同じようにここへ来たのでは?
 辞める前に。
 好奇心にかられて。
 この開かずの扉に。試してみたくて。
 建物の意思。
 支配人の不調。
 建物は、かずら屋は、“かずら”はなにか不調なのでは?
 不調を、彼を通して知らせているのでは??
 なにを?
 急に。
 遠く。
 面接で、机に伏していた青年がいきなり立ち上がったことを思い出す。
 フラフラと動く体をそのままに、彼は、うっすら微笑んでこう言ったのだ。
『……いい……この声、ねれる……』
 また、記憶はひゅっと飛び、先ほどの場面が浮かぶ。
 あの仕草。
 あれは。
 前に点灯の様子を後ろから見たときとは違う。
 あれは。
 あれはわたしだ。わたしの。
 消灯の仕草――!
「栗田さん、扉、開けれますか? 開けてください、ここ。くるっとしてひょいっとしてカッとするんですよね?」
「……そんな事まで教えてるの……あいつ……」
「お願いです、早く!」
 栗田は疲れた体をゆっくり持ち上げ、開かずの扉の前に立った。
 木製の扉には取っ手がない。ただ、2本の細い木の棒が、のっぺりとした扉を3分割するように横たわるのみである。
 彼は上の棒をくるっとまわして縦にした。そして下の棒をひょいと持ち上げ、縦の棒のはじにつける。カツリと左にずらすと、扉は容易に動いた。そのまま押し開けるー…。
 ふたりは。言葉もなく。
 煌々とあふれる光を眺め続けた。電球の箱に、工具箱に、折られた脚立に物置に降り注ぐオレンジ。おそらく彼女が辞めてから、ずうっと付きっぱなしであった、開かずの間の電灯……。これが。これこそが。
「よしっ。栗田さん、待っててください。わたし、棒取ってきます」
「……この部屋の紐は……おれが届くくらいには長いよ……?」
「いいえ。やらせてください。わたし、」
 細長い睫毛にひそむ栗田の目をさがし、まっすぐ、夜高は見つめた。
「消灯係ですから」

     ☆

 鮮やかな緑に囲まれた山間の渓谷に、地区の文化財にも指定されている古い古い旅館がある。
「ショートーぅ」
 カラコロカコン……カコロン……コン……カチッ。
 巨大な回廊を軸に増改築をくり返し、めぐるたびに明治・大正・昭和・平成と建築様式の変遷を見物できるのがこの宿の魅力だ。そして吹き抜け構造の回廊には、ホオズキ形の吊り下げ電灯が、オレンジの光をひっそり放つ。土鈴の音に合わせ、今宵もひとつ、またひとつ消されていく。
「ショートーぅ」
 カラコロカコン……カコロン……コン……カチッ。
 ある青年と、彼に繋がるこの建物が心地よく、深く眠る吐息と夜を。
 カラコロカコン……カコロン……コ……、
「ショートーぅ」
 カチッ。