■ 午前零時の狩人 ■
■ 1 狩りの始まり ■
お前のせいだ。
お前のせいで俺は死ぬハメになったんだ。
お前のせい。お前のせい。お前が俺を殺したんだ。
お前がお前がお前がお前が
「やめてくれ――――!!!!」
☆
「なにシン、お前近頃……寝不足なの?」
虚ろな表情で窓の外を見つめる海野慎に、クラスメイトの鳩羽深波渡が声をかけた。慎の席は窓際の一番後ろ。深波渡の席はその右隣だ。
慎は「あぁ……」と言ったきり、また外に視線を戻した。
時折差し込む光に瞳を細める彼は、数日前より明らかにやつれている。そう、深波渡は思い、親切心からまた声をかける。
「ねぇ、シン。睡眠は大事だよ。ちゃんと眠らないと、遅刻するぜ?」
目の下にクマができているその親友は一言「あぁ……」とだけ、ため息をついたまま窓を見つめる。それを聞いていた他の男子が
「ミナトの方が年中寝不足のクセに」
「あー、それ言えてる」
「毎日寝坊して遅刻だもんな」
「授業中も寝てるし」
「お前テスト大丈夫なのかよー」
などと言葉を紡ぎ、深波渡は慌てて弁解した。
「ちゃんと授業は聞いてるってば。今時は睡眠学習が常識なンだよー…ふあぁ、ねむ」
弁解になっていない。
深波渡の大あくびと女子のウルサイ雑音で、ここ、緒乃岬商業高校の休み時間が流れていった。予鈴が響く。
「おぅい。お前ら席につけー」
今日の四時間目は現代社会。生徒指導も兼ねている長土先生の授業だ。授業中に化粧している女子も、見つかれば即指導室行きなので、この時間ばかりは真面目に受けている。
「んん! あーあー、よし」
長土先生の、いつもの発声練習から授業は始まった。
しかし、授業が始まっても慎はボケッとしたままで。時折、眼鏡の縁を指で持ち上げる以外は授業のノートもとらずに、外を、見ている。
絶対、いつもの慎らしくない。
不審に思った深波渡は、まさかと思い小声で慎に尋ねた。
「お前さ、近頃……悪い夢でも、見た?」
「!?」
慎は一瞬ギクっとした表情で、その後困ったような顔で首を横に振る。
「なんでそんなコト聞くの? ミナト」
「……いや、別に、なんとな」
「おい! そこ、授業中だぞ!!」
長土先生の怒号が教室を震わせた。が、深波渡は顔色一つ変えずに
「あーハイハイ。授業続けちゃって下さい先生」
と、おどけた調子で言った。しばし張り詰めた空気が漂うが
「せんせー、ミナトは寝てばっかりなので授業の内容が理解できないと思いまーす」
と、誰かが言い、ドッと笑いがおきた。慎だけは、笑わずに外を眺めている。その様子を見て、深波渡はボソっと呟いた。
「……今夜も“狩り”か……」
「え? 何か言った、ミナト」
慎が横目で深波渡を見ると、彼はいつものようにペンシルを顎に当てながら、
「ううん、何にも。今日の昼飯のメニューを考えてたダケ」
屈託なく笑った。
☆
時計は、あと十分で午前零時を指そうとしていた。
「ヤバ……急がなきゃ」
彼は独り言を言いつつ、屋根の上を軽々と飛び跳ねていた。
今宵は満月―…と言いたい所だが、月はまだ少しだけ欠けている。少し雲が多いが、月をすっぽり隠すワケでもなく、漂うクラゲのようにゆらゆらと光っていた。
タンッ、タッタッタンッ。
足音は軽快なリズムを響かせ、夜の街に長く長く続く。
彼は、紺色のランニングシャツに青のGパンをはき、その上から茶色のロングコートを羽織っている。少しだけ底の厚いブーツは、重そうだが実際はそうでもなく、彼は、このほどよい軽さが気に入っていた。
むしろ重いのはロングコートの方で。しかし、何でも入るポケットの多さが、彼にこのコートを選ばせた。
彼の行く先は、とある一軒の家。
そこには、悪夢にうなされる少年が寝ているハズだ。
「よっと」
タンッ。タットット。
「……ふぅ、やっと着いた」
止まったトコロは質素な一軒家。
足場は危ういが、彼は相当慣れているらしい。トントンと、足でトタンを叩くと、彼はしばし月を見上げ、
「あーかったるいなー…ま・折角来たんだし」
またもや独り言を言った。
「さーてと、やるとしますか」
彼はそっと瞳を閉じて、耳を澄ませた。
……や…て……。
「聞こえる」
―…誰か、助け……!
「僕を呼んでるその声が……」
助けて!!
「聞こえた、“そこ”で待ってて」
パン!
彼が両手を叩くと、第四チャネルから物質転移した大鎌が現れた。
パン!
次に手を叩くと、瞬時に空間が捻じ曲げられ“そこ”へと通じる道が開かれた。
「いち・に・さん・しのごっと。コレだけあればイイかな」
右ポケットのビー玉の数を数え、左ポケットの懐中時計を取り出す。
時計の針は、午前零時丁度を指した。
「さぁー…“狩り”の始まりだ」
■ 2 狩りの終わり ■
「はっ……はぁ……っ!」
慎は走っていた。
濃い霧の中で、目印もなく、あてもなく、慎は声から逃げていた。
――お前のせいだ。
声は慎を責める。
「違う! 俺のせいじゃない」
慎は必死に否定して、走る。しかし、声はまるで影法師のように、慎がドコへ逃げようとも同じ大きさで響いてくる。
――お前のせいで俺は死ぬハメになったんだ。
「嘘だ! そんなの言いがかりだ!!」
身に覚えのない言いがかりだ。
――お前のせい。お前のせい。
「やめろ! やめてくれ!!」
毎晩毎晩、どぉしてそんなに俺を責めるの? 何もしてないのに。
――お前が俺を殺したんだ。
何もしてないのに!
「誰か……」
――お前がお前がお前がお前が
「誰か助けて――――!!!!」
……ブゥゥゥ…―ッザン!!
「助けに来たよ」
「!?!」
いきなり慎の前に、ロングコートの男が現れた。彼の手に携えられたその大鎌を見て、慎は一瞬「死神」が来たのかと思った。しかし「死神」というよりは「裁判官」のようにも見え、慎は困惑する。
「……だ…れ?」
おそるおそる尋ねる慎に、彼は
「誰だってイイじゃん。通りすがりの狩人さ」
と言って笑ったが、慎にはその顔がよく見えない。
霧のせいだろうか? こんなに近くに居るのにー…。
――お前のせいだ。お前のせいだ!
第三者の登場にも動じずに、声はまだ慎を責め続けている。その声に向かって、彼は大声で叫んだ。
「チャネル・イン・トゥエルブ!!」
ザッ! ザザザザザ!! ――ゥン。
声は途切れた。
と、同時に霧は晴れ、辺りは海となった。慎と誰かは、海の上に立っていたのだ。
「あの…貴方は…?」
慎が聞くと、彼はにこやかに笑い、そして言った。
「コレでもぉ大丈夫! ゆっくり夜を満喫しろよ」
「……はぁ?」
こんなに太陽が照っているのに、どうして「夜」なのだろう?
彼を見つめる。が、やはり顔は見えない。なんだか意図的にピントをずらされた感じのその顔は、
「じゃーね、佳い夢見てねー!!」
その顔は。
誰かは、どこかに向かって走り、消えた。
「……ミナトに……似てる」
慎はしばらく立ち尽くしたままだったが、気をとり直して遊ぶことにした。太陽は眩しかったが、とても晴れ晴れとした気持ちだった。
☆
――お前のせいだ! お前のせいだ!!
「ふーん。あっそ」
先刻まで慎を責め続けていた声と、彼は、第十二チャネルのほぼ中央軸、セントラルコアのサウスポートにて対峙していた。
慎の夢の中から、ココへ強制転移させたおおかげで、声は益々大きくなっている。
「お前の考えは良く解った」
彼は「うんうん」とうなづいた。が、実際解っているハズもなく。時間を稼ぎながら一瞬の隙を狙っていた。
――お前が俺を殺したんだ!!
声が大きくなる程、その実態像が闇の中に現れる。
もぉ少し。
あと、少しだけ凝縮すれば、斬れる。
「多少なりとも、相手が悪かったようだね」
彼はわざと挑発するような言葉を選んだ。
「お前はココで消えるンだ」
――お前がお前がお前が――――!!!
彼は大鎌をゆっくりとかまえた。
「最期に、言いたいコトは?」
―お前が―――!!!!
「消えろ」
ザンンッッ!!
勢いよく振り下ろされた大鎌は、声の正体を真っ二つに斬り裂いた。
―お…ま………。……。
「ふん」
彼は拗ねた子供のように、呟いた。
「僕じゃないよ。いや、あるいは……君を産み出したのは、本当は、僕なのかも知れないけれど……ちぇっ」
声が完全に途絶えると、彼はポケットから透明なビー玉を二個取り出して、神妙な面持ちでいつものセリフをボソボソと口にした。
「×××××に墓場はないから、ココでせめて……せめてゆっくりおやすみ……僕だけは君を覚えている、僕だけは君を忘れない……×××××イントランスペアレントマーブル」
キィィィー…ン。
闇の正体は、二個のビー玉に吸い込まれ消え、同時に透明だったビー玉は、闇の色に染まった。
彼はそのビー玉を右斜め後ろのポケットにしまいこんで、
「お疲れ」
パン!
手を叩いた。大鎌は、元あるべき場所へと転移した。
パン!
彼は瞬時に、元あるべき場所へと転移した。
懐中時計は午前四時を指している。あそことココでは、時間の速さが大分違うのだ。
「帰らなきゃ……眠ッ!」
彼はまた屋根の上を飛びはじめた。
■ 3 そしてまた始まる ■
「ただいまー…」
控えめにドアノブを回し、深波渡は玄関の扉を開けた。
時刻は、あと二十分で午前五時。
みんな寝てるかな……。
そう思って、そろそろと廊下を進むと、静音さんの部屋から少しだけ明かりが漏れていた。
あぁ、やっぱり起きてるんだ。
彼女の部屋の前で、深波渡はしばらく耳を澄ませた。
――何も聞こえない。
彼女は「眠る」という行為を忘れた狂人だ。
行動や思考回路は、常人のソレと全く変わりない。ただ、ずっと覚醒しているトコロだけが、彼女と一般人の世界を分け隔てている。
眠らない=夢を見ない。
彼女の存在が、どれだけ深波渡を救っていることだろう。
彼女がそうなってしまったのは、全て深波渡のせいだというのに……。
後悔と罪の意識は、誰かの夢に入り込み、黒いビー玉を集めるコトを彼に強要した。
“彼女を救いたいのなら「世界の夢」を探せ”
そう言ったのは、誰だっけ?
「世界の夢」はまだ見つかっていない。
一度だけ垣間見た静音さんの夢は、そうなんだ。彼女の夢こそが「世界の夢」なのだ。
あんなに美しく荘厳で残酷な夢を、僕は彼女から奪ってしまった。
「ごめん……って言っても変わらないよね」
小声で呟く声は、か細く、震えた。このままこうして懺悔を続けていけば、いつかは彼女も救われるのだろうか。僕は……赦してもらえるのだろうか……。
深波渡はしばらく黙ったままで、やがて気をとり直して、
「シズネさん、ただいま」
と明るい声を出した。
扉の向こう側からは、小声で返事が戻ってきた。
「ミナトさん、お帰りなさい」
この澄んだ声、好きだな。深波渡はそう思ったが、静音さんの次の言葉で前言撤回した。
「今日も朝帰りですか。本当、貴方って人はご精が出ますね。」
「……シズネさん、まさか僕が望んで朝帰りしてるとは、思ってないですよね?」
「………」
静音さんは、答えなかった。
「まぁ、いいや。今日の朝食は、梅粥にしてもらえませんか? なんかあっさりしたモノが食べたくなった」
「わかりました、ご用意させて頂きます」
「うん。じゃぁ、僕寝るから。ヤバいと思ったら起こしてね。多分、今日も爆睡だと思うから」
「わかりました」
「うわー。シズネさんがわかってくれて、僕、感激だな」
わざとおどけた調子で言うと、扉の向こうからは、笑ったような、呆れたような、どっちつかずのため息が聞こえた。
「感激しなくて結構です。オヤスミナサイ、ミナトさん」
「おやすみなさい、シズネさん」
自分の部屋に戻った深波渡は、すぐさまベッドに倒れこみ、静音さんに起こされるまで、夢も見なかった。
☆
「ふぁー…」
「ミナト、また寝不足?」
慎が聞くと、深波渡は一層大きなあくびをして、寝る体勢にはいった。
「誰のせいだと思ってんの……もぉチョット寝かせてー…なんていっても睡眠は大事だから……」
「誰のせいって、ミナトが夜更かしするからじゃないの?」
「あー、うーん……そぉなんだけどね……」
五時間目が終了した休み時間。
クラスの中はいつも通り雑音で満たされている。
深波渡が学校に来たのは、三時間目が半分過ぎたあたりで。彼は、ほぼ毎日こうして遅刻してきているワケで。
その辺の原因は、深波渡の単なる寝坊だというコトは、慎も承知している事実で。というか深波渡自身がそう吹聴しているワケなのだが。
「それにしても、ミナトは寝すぎだよ」
「は? 夜更かししすぎじゃなくて?言っておくけど、俺、今日まだ七時間しか寝てないんだよ?」
「十分じゃん」
「ドコが十分なの? 睡眠は大事だよ……って、何回言わせんのお前は」
「大事だけどさ、授業はチャント受けなきゃ」
「だーかーらー、テストでイイ点取ってンじゃんかよー…」
「じゃなくて……えーと、何て言ったらイイのかな……」
慎は的確な言葉を探せずに困った。
と。
「あっ、」
「え?」
「そーだミナト、この前、夢の中に変な人が出てきたんだ。大きい鎌を持った、自称「通りすがりの狩人」って人が」
「ふーん……あっそ」
「ミナトに似てたよ」
「それはドーモ……って、話題変わってるし」
「あれ?」
予鈴が鳴り、それでも教室のざわめきはおさまらない。この音がまた耳に心地よく、深波渡の眠気を誘う。
「あー…シン。次の授業って何だったっけ」
「現社」
「長土ぃー…?! おやすみっ!」
がばっと机に伏せた深波渡に、慎は
「叩かれそうになっても、起こしてやんないからな」
と言い、いそいそと教科書を準備し始めた。その顔は爽やかで、いつもの親友の笑顔だった。
「別に起こさなくていいよーん……」
また今夜も、誰かが僕を呼ぶかも知れないからね。今のうちに眠っとかなきゃ。
深波渡はそう思いつつ、短い眠りについた。
助けを呼ぶ声はやまない。「世界の夢」を見つけるまでは。
■ 4 真夜中の発見 ■
――人?
その影に気づいて島崎メイが上を見上げると、屋根の上には男……いや、男の子が立っていた。月が眩しすぎて、顔はよく見えなかったが、その全体的な雰囲気は酷く静かな悲しみに満ちていた。
……泣いてる。
そう、丁度、メイが今やろうとしたコトを、彼がしているのだ。屋根の上で、月の影で。
しばらく彼はそのままで、それから緩慢な動作で隣の屋根へと跳んだ。
ダンッ。タタン、タンッ。タッタッタ……。
走ってゆく彼の音が聞こえなくなるまで、メイはその場に立ち尽くしたままだった。今しがた先輩にフラれたコトも、すっかり忘れていた。
☆
「あはははは。宿題忘れてたぁ〜」
声の主は手を頭の後ろにあてて、笑う。
「あはは〜じゃないだろ! ……ったく、ミナトはもうチョット早起きしなきゃダメだよ?」
慎は怒りながらも、深波渡にノートを渡した。
「なるべく早く写せよ」
「ごめ〜ん。シン、愛してるぅ〜」
「気色わるっ!!」
毎度のコトながら、休み時間はこんな風に流れていく。宿題を忘れている深波渡に、慎はノートを見せ、そのかわりに放課後は、深波渡が慎のお遊びに付き合うのだ。
相変わらず寝不足な深波渡は、ボケー…っとしながら、宿題を写し始めた。手元が危うい。字もへにゃへにゃになる。
「ケシゴムどこだっけ。ま、いいやそのままで」
そんな深波渡を微笑ましく見ていた慎は、ふと視線を感じて斜め前方をに頭を動かした。視線の主は、島崎メイ。まともに瞳が合っても、彼女は視線をそらさず、逆に慎がドギマギしてしまった。
「? どうしたの、シン。顔赤いよ」
宿題を写し終えた深波渡が顔をあげると、そこには、タコのように茹であがった親友が。
「……なんかしたの?」
「え?! なんでもない!」
「……ふうん。あやしいなぁ。もしか、僕になにか隠し事してるの? チェッ。シンのいじわる」
「そんなんじゃ……!」
「じゃぁなにさ」
「何だっていいって。ほら、準備準備」
そんな二人のやりとりに耳をすませながら、メイは考えていた。
……やっぱり、鳩羽に似ている。
そう、昨日の十二時前に見た、彼。顔は見えなかったのだが、でも、なんだか深波渡に似ている気がしたのだ。もし、昨日の彼が深波渡だったら、いつも遅刻していて万年寝不足のワケも説明がつく。
が。
彼が屋根の上で泣く理由が、いまいちつかめない。どうして屋根の上なのだろうか。あんな所、普通の人間ではまず上れないだろう。
そして、何に対して涙をながしていたのか。
不思議な雰囲気だった彼のコトを考えていると、昨日までの先輩はどこか遠くの箱に入ってしまう。メイはまた深波渡を見た。
先輩のことなど、すぐに忘れられそうな気がしたのだ。
☆
「ただいまー…」
眠そうな声で玄関の戸を開けると、犬や猫、それに鳩やインコ、果てはカメやトカゲまで騒ぎ出した。
深波渡の家は、ペットショップなのだ。毎回毎回のハデな出迎えに、深波渡は「静かにしてねー、皆」と言い、静音さんの部屋に向かった。
彼女の部屋の奥にある、本棚の三段目。
そこには、蝋燭と線香のほかに、一枚の写真が立てかけてある。
「こんにちは、ヒロム。久々に顔が見たかったんだ」
写真に写っているのは、一人の青年。カメラに向かって、知的な笑みをうかべている。その隣に誰か立っているらしいが、生憎、顔の部分が破れていて見えない。
深波渡は、写真に話しかける。
「今日も宿題を忘れちゃって、あわてて友達に見せてもらったんだ。あーぁ。ヒロムは頭良かったの? 僕はムリだよ。毎日毎日寝てなくて勉強に追いついていけないや……」
鳩羽霏露霧。享年20才。死因は突然死。
当時、静音さんは霏露霧と付き合っていて、彼が死んだトキ、お腹に深波渡が居たらしい。だから静音さんはキレェだ。とても。
「僕は、ヒロムの死に際にさ、同じ空気を吸ってたってコトだよね……。皮肉だよ。助けてあげられなかったなんて」
深波渡は「アハハ……」と乾いた笑いを吐きだして、父親だという青年の顔を見続けた。彼は写真の中で永遠に笑い続ける。
「眠いや。本当はこの後、シンと遊ぶ予定だったんだけど、眠いから寝るコトにするよ。おやすみ、ヒロム。――今夜も“狩り”だよ」
☆
ただいまと言いつつ、メイは玄関の戸を開けた。
お帰りと、言葉を発したのは、彼女の妹、アイだ。メイの髪は明るいブラウンだが、アイの髪の毛は黒く、真っ直ぐに切りそろえられている。
「ねぇねぇお姉ちゃん、この漢字何て読むの?」
アイは「天才と分裂病の進化論」という名の、なにやら難しそうな本を読んでいた。メイと違い、理系である。姉妹というには、何もかもが反対だ。
「自分で調べて。あたし今忙しいの」
メイは、妹に辞典を手渡すと、自分の部屋に行き、ベッドに入った。今夜も同じ場所に行けば、彼が居るかもしれない。……そんな期待をしているのだ。
その後、メイが目を覚ますと、時刻は十一時近くになっていた。
居間に行くと、まだアイが起きている。
「アイ、夜更かしはダメだよ。ちゃんと寝な」
「いいよ。寝ても、どうせロクな夢見ないもん。それよりお姉ちゃん、どっか行くの?」
「うん。チョットね。月を見に」
メイはそう言って玄関の戸を開けた。
■ 5 遅刻魔追跡 ■
雨の雫たちが空中で止まっている。
その雫を、誰かの声がさらっと撫でた。
「ねェ、なにを泣いているの?」
うずくまって泣いているアイの前には、茶色のコートを着た、知らない男の子が立っていた。
アイは一瞬顔をあげ、彼の顔を見ようとしたが、涙のせいだろうか……その顔はボヤけてよく見えない。
「ねェ、ねェ、できれば君の泣いている理由を、僕に教えてくれないかい?」
「……泣いてる理由なんて、ない」
「それは困ったな……」
男の子は、本当に困ったような声を出して、それから
「今回は必要ないね」
とつぶやき、持っていた大鎌を宙に放り投げた。
――パン!
やけに響く音を出して男の子が手を叩くと、大鎌は消えてしまったらしく、もう地面に落ちてくることはなかった。
彼はゆっくりと、アイの隣に腰をおろした。
「ねェ、どうして泣いているの?」
「……知らない。あたしに聞かないで。お姉ちゃんに聞いて」
アイがそう言うと、男の子はポケットから、透明なビー玉をひとつ取り出した。
「君にはお姉ちゃんが居るの?」
「うん。居る。でも、近頃遊んでくれない。今日もどこかに出かけちゃった。本、読んじゃったら、お姉ちゃんとゲームしようと思ってたのに」
「ふうん。それは悲しいね。だから泣いているの?」
「違う。それは別に悲しくなんかない」
「じゃぁ、どうして?」
「……知らない」
しばらく沈黙が続く。
アイは少し顔をあげて、彼が弄んでいるビー玉を見た。
「あたしから質問していい?」
「どうぞ」
「どうしてビー玉を持ってるの?」
彼はふっと笑った。
「さぁ、どうしてかな……。君の泣いている理由を、この中に閉じ込めるためかな。別にビー玉じゃなくてもイイんだケド、僕、結構ビー玉が好きなんだよ。ホラ、こうやって見ると、もうひとりの自分が、丸くて透明な世界の住人になってる」
ビー玉をアイの目の前に差し出すと、彼は「見てごらん」と言い、アイが涙を手でこすって覗き込むと、奇妙にゆがんだ像が形成された。
ビー玉の中の「もうひとりのアイ」は、この世の終わりが来たような、とてもとても悲しそうな顔をしている。
「あたし、こんな情けない顔してないよ」
それを聞いた彼は、すぐさまアイにも聞こえないような小さな声で、ボソッとつぶやいた。
「×××××イントランスペアレントマーブル」
☆
結局「彼」は見つからなかった。
メイは今、学校からの帰り道を歩いている。
商店街の裏路地。
夜になると酒や煙草の匂いが充満するが、昼は閑散としていて、まるで祭りの後の広場を彷彿とさせるような哀愁が漂っている。
この前までは、いつも商店街の表通りを歩いていた。隣に先輩が居て二人で色々な話をして、楽しく笑っていた。
しかし。
先輩がなくなった今、先輩と付き合う前まで通っていた裏路地を歩いて家に帰ることができる。
今のところ、先輩と別れて良かったと思える事はコレだ。
メイは、この裏路地が密かに好きだった。誰も居ない狭い道の、ほぼ真ん中を、一人でゆっくり歩く。シャッターの閉まった店が続いている。
こうしていると、気が晴れるのだ。
が。
今日は気が晴れるどころか、気が重い。
なぜなら目の前を、何故か深波渡が一人で歩いているからだ。
――彼の家は反対の方角のはずなのに。
そして、この裏路地を抜けた先は、何もない閑静な住宅街のはずで。
メイは極力離れて歩こうと思ったが、深波渡の足が遅すぎてそれも叶わない。
一体ドコへ行くのだろう?
メイがそう思った瞬間、彼は吸い込まれるように脇道へそれた。
「……あ、」
それがあまりにも唐突だったため、メイはしばらくその場に立ち尽くした。
本当に、ドコに??
好奇心にかられて、彼女は今まで踏み込んだコトのなかった脇道へと入っていった。
彼の後姿が消えたのは、とある一軒の長屋……と思いきや、文房具店。
ツタの絡まった看板が出ている。
……こんなトコロに文房具屋なんて……。
メイは看板の陰から、そっと店内を覗いてみた。
みすぼらしい外観とは違い、店内はキレェな棚と文房具たちが並んでいる。
深波渡は慣れた足取りで店の奥へと入っていったようだった。
ぐもった男の人の「三百円ね」という声が聞こえてくる。
その後しばらく、世間話とおぼしき会話が続き、メイがこっそり店内の棚の影に入ったと同時に、深波渡はフラフラと外へ出て行った。
メイはゆっくりと、店内の奥へと歩を進める。
そこには太ったオジサンが座っていて、計算機片手に帳簿をつけていた。
「あの、えっと……すみません」
「ハイ?」
ぐもった声が返ってきた。
「さっきの男の子、何を買っていったんですか?」
オジサンは怪訝そうに顔をしかめ、それから帳簿に視線を戻し、言った。
「あぁ、ビー玉だよ。いつも買いに来るんだ」
……ビー玉?
その夜、メイの夢の中に「彼」が出てきた。
■ 6 夢と夢の行方 ■
「今日は仕事じゃないんだけど」
こう前置きしたアトで、彼は叫んだ。
「チャネル・イン・トゥエルブ!!」
ザザザザザザッッツ!
一瞬のうちに、辺りは真っ暗闇になった。
「心配しなくていいよ、トゥエルブ・チャネルは僕の管轄内だから。暗いのがたまにキズだけど、僕は暗闇が結構好きなんだよ」
彼は「適当に座って」と、黒い椅子を差し出した。
「僕の名前はワケあって教えられないけれど、狩人って呼んでくれればイイ。僕はいつも、トゥ・チャネルで言うトコロの「午前零時」から仕事を始めるから、午前零時の狩人、と、人は呼ぶ」
……といっても、自分で自分の事をそう呼んでいるダケなんだケドね、と、彼は「アハハ」と笑った。
茶色のコートからビー玉を取り出して、彼は続けた。
「僕のしているコトは、一般人には理解できないコトだと思う。あまり言いたくナイんだケド、僕は×××××を封じ込めて「世界の夢」を探す、いや……取り戻すと言った方がイイのかな……という目的のために、みんなの夢の中、まぁ、チャネルで言うトコロの第六チャネルなんだけど……を渡り歩いてる」
そこまで言って、彼は「コーヒーでも飲む?」と聞いた。
「特に要らない」と答えると、彼はうなづいて手を叩いた。
パン!
瞬間、上から黒いコーヒーカップがひとつ、降ってきた。
彼は慣れた手つきでカップをキャッチすると、一口飲んで黒いテーブルの上に置いた。
コッ、と音がする。
そして説明を続ける。
「僕の扱えるチャネルは、俗に言う現実世界:第二チャネル、自分のアストラル体や精神武具を精錬できる精神世界:第四チャネル、先刻まで居た夢世界(深層無意識世界とも言う):第六チャネル、そして夢の中でも意識が保てる幻想世界(深層意識世界とも言う):第十二チャネル……つまりココね、の四つ。僕は、手を叩くか叫ぶかでチャネル交換をしてるんだ。だからたまに、手、叩くけど、気にしないでネ」
彼の弄ぶビー玉は、澄んだ黒色だった。
闇そのものを切り取ってきたような色だと、そう思ったが口には出さなかった。
「僕には聞こえるんだ。夢の中で助けを呼ぶ、みんなの、色んな叫び声が。だから僕は、多少億劫ではあるけれど、助けに行く。なぜならソレが「世界の夢」を探す一番簡単で、明確で、手っ取り早い方法だからだ。……僕は午前零時になると、街灯と、時折眩しくなる月光をたよりに声を探して飛び回る。この前は不覚だったなぁ。僕、いつも人に見つからないように細心の注意を払ってるんだぜ? まさか見られるなんて思ってもみなかったよ、アハハ」
ここまでで質問、ある? と、彼は聞いた。
「どうして泣いていたのか」と、聞いてみた。
「泣いてた? ふーん。そんな風に見えたんだ、見間違いじゃないの?」
彼は急に声のトーンを下げた。
「とにかく、もぉコレ以上、僕に関わろうとか思わないでね。僕、忙しいし、どんなに探しても、無駄だよ。今度は絶対に見つからないから。君の夢に関与するのもコレで終わり。×××××が出てこない限りはね。OK?」
しばしの沈黙。
そして、しぶしぶ「わかった」と言うと、彼は
「ハイ、じゃぁ、用件はコレで終わりだから」
と立ち上がり、闇に向かって大声で叫んだ。
「チャネル・オン・シックス!!」
ザッツ! ザザザッツ!!
暗闇は一転し、明るく、光溢れる緑の公園が出現した。
「君の夢は、とても澄んだ空気だね」
彼は「う〜ん」と、ゆっくり伸びをした。
「僕、暗闇も好きだけど、こういうのも結構好きなんだよ」
最後だから、と、彼の顔を覗こうと思ったが、曇り硝子をはさんだ様に、その顔はボヤけて見えない。
しかし、その喋り方。仕草。全体的な雰囲気。どうとってもー…。
「ね、鳩羽くんでしょ?」
メイがそう言った瞬間、公園は消え失せ、瞳が反射的に開いた。
いつもの部屋の天井。
「……惜しいトコで覚めちゃった……」
メイは、しばらくベッドの中で、それから夢の中のコトを、できるだけ思い出して紙に書き写そうと思った。
☆
「お早う、シズネさん」
深波渡が台所に行くと、静音さんは数時間前の深波渡のリクエストである「きんぴらゴボウ」を皿に盛っていた。
いつもの台所、いつものエプロン。深波渡は冷蔵庫からマヨネーズを取り出して、キャップを回しはじめた。
「お早うございます、ミナトさん。朝食、今できたトコロです」
静音さんはテーブルの上に、きんぴらゴボウを盛った皿と、小皿と、ご飯を一杯盛った茶碗を順番に出す。
「あ。コーヒーも貰えますか? 僕、眠くて眠くてカラダ持ちそうにないんで」
「どうぞ」
――コトリ。
黒いマグカップに入った、ブラックコーヒーが差し出された。立ち上る白い湯気。深波渡はそれを一気に胃の中へ流し込むと
「熱っ。うえ〜っ。苦い……もう一杯」
と、静音さんにカップを渡した。彼女は優雅な動作で、コーヒーを注ぐ。
「ねェ、シズネさん、シズネさんの夢は、一体、ドコへ行っちゃったの?」
「さぁ……ドコへ行ったんでしょうね……」
彼女は微笑んで「無理はしないでくださいね」と言った。彼女なりの優しさが見えて、深波渡は悲しくなってしまう。
わざとおどけた声をだして
「ヒロムなら! ドコへ行ったか分かるかな」
深波渡は彼女からマグカップを受け取る。いただきます、と言って箸をとると、少し間をおいて、静音さんは言った。
「……きっと、たちどころに分かるでしょうね」
「夕飯は、オムライスが食べたいかも」
きんぴらゴボウは相変わらず美味しかった。
■ 7 ビー玉と「世界の夢」 ■
ココは一階にある普通科職員室。
深波渡は、長土先生の机の前で、彼の長々とした説教を聞かされていた。
「大体にしてだな、毎日のように遅刻してくる余裕があったら、宿題の一つや二つ、やってこれるハズだ」
そう、また宿題を忘れたのだ。
就職に関しての自分の意見をまとめてくる、という宿題。
今回ばかりは慎の文章をそのまま借りるワケにもいかず、正直に
「忘れてきました〜、アハハ」
と言ってみたのが運の尽き。
とたんに教室内が、彼の怒号で揺れたのは言うまでもない。
そして今、長土先生の説教はいよいよ佳境をむかえ、それに引き換え深波渡の睡眠時間(昼休み)が、刻一刻と失われているのも、言うまでもない。
「まったく、明日の宿題はキチンとやってくるんだぞ」
「……ハーイ」
あぁ、早く終わってくれ……という気持が丸出しの声で、深波渡は返事をした。
それを聞いた長土先生は、更に言葉を紡ぎ始める。
「なんだ、そのやる気のナイ返事は」
「あのー、先生、そろそろ昼休みが終わっちゃうんで、僕、教室に戻らなきゃ。次の時間は体育だカラ、着替えなきゃいけないんです」
「まだあと二十分もあるだろう」
「あぁ、僕、人より着替えるの遅いんで……」
「言い訳にしか聞こえんッ!!」
ドン!
長土先生が机を叩くと、職員室の中は一瞬静まりかえり、それからまた「ザワザワ」と動き始めた。
見た目よりはるかに年をとっている長土先生は、来年で定年である。
先生方の中には「早く辞めてくれればイイのに」と、彼の大声と説教について非難する人も少なくなかった。
本人は、そんな気なぞちっともなく「まだまだ現役」とばかりに校内を闊歩しているのだが。
「ふぅ……。お前という奴は、宿題を忘れてきたと思ったら、授業の時間を気にするし。まったく、真面目なんだか真面目じゃないんだか」
「アハハ、よく言われます」
長土先生は、感慨深げに遠くを見やると、ため息をついて言った。
「お前の親父さんは、よくできた人だったぞ」
「はぁ、よく言われます」
またか、と、深波渡は心の中で舌打ちした。
霏露霧も、ココ緒乃岬商業の出身なのである。
二十五年も前からこの高校で教鞭をふるっている長土先生は、もちろん霏露霧にも社会科を教えていた。
普通科目の先生が十年以上同じ高校に留まるのは、結構珍しい。
まぁ、それが実際にあるから、こうして知らない父親の話題をふられるワケなのだが。
「あれは卒業式の前日だった……」
――いつもと話が違う。
深波渡は反射的に耳を澄ませた。
霏露霧についての長土先生の話といえば、三年間トップの成績だったコトと、いつもクラスのまとめ役だったコト。そして生徒会選挙としては異例の、満場一致で生徒会長になったコトの三つを、いつも順繰りにしか話さない。
「お前も、あと何ヶ月かしたら卒業か。鳩羽と同じ運命を辿らねばいいが……未来はどう転ぶかわかったもんじゃない」
深波渡は、相づちもうたずに黙って聞いていた。
これは深波渡の直感だが、この話、とんでもなく重要な気がするー…。
☆
「長土先生、一緒に写真撮りましょう」
鳩羽霏露霧は、その年齢にしては少し高めの声で、長土剛三に話しかけた。その時代にしては珍しく、ここは私服で通える高校だったが、霏露霧は好んで黒い学生服を着ていた。
春の光は、黒をそっと柔らかくし、霏露霧の声もどことなく浮き足立った様子で。
卒業式の前日。
紅白幕や日の丸、パイプ椅子、予行練習などの準備が一段落した、暖かい昼のことだった。答辞の練習も終わり、そろそろ帰ろうかという雰囲気になった矢先の一声。
霏露霧は長土先生の返答を待たずに、パン! と大きく手を叩き、バックの中からカメラを取り出した。黒いカメラは、バックの中から出てくるには不自然な代物だった。
「あぁ、僕、カメラ扱うの初めてなんですよね。今まで写真なんて、撮ったコトなかったから。使い方、よくワカラナイな……」
彼はそう言いながらも、卒業証書を置く台の上にカメラをセットし、手早くピントを合わせ始めた。
「せっかくもらったものだから、一度撮ってみたいと思ってて……でも誰と撮ろうか、ずっと悩んでたんですよー……っあ、」
――コンッ。コッ、コココ……。
小さな何かが、霏露霧の学生服のポケットから落ち、小さな音をたてて転がった。
彼はすばやくソレを拾い、なんでもなかったかのように、長土先生の隣に立つ。にっこりと笑い見上げた瞳は、澄んだ黒だった。
「これって、確か音がするんでしたよね」
霏露霧がそういうと同時に、カメラが機械的な音を鳴らし始める。
ピッピッピッピピピピー…カシャッ。
「先生、ありがとうございます」
笑顔でそう言った彼は、カメラをバックの中に戻し「帰りましょうか」と、歩きはじめた。
誰も居ない廊下を歩きながら、霏露霧は唐突に、妙な事を喋り始めた。
「もしも、この世に「この世じゃない世界」があったとしたら、それってなんか素敵な秘密ですよね。幽霊とか、よくこの世のものじゃないって言いますけど、だったらどこの住人なんでしょうか」
長土先生、と、霏露霧は笑った。
「多分、世界は醒めない夢を見ているんだと思います。もしそんな世界を見つけたら、僕は……その境界線に、ビー玉を敷き詰めてあげたいっていつも思ってるんですよ」
そのとき撮った写真は、いつまでたっても長土の元へは届かなかった。
二年後、彼は「この世のもの」ではなくなった。
■ 8 因果応報の涙 ■
人が涙を流すとき。
その一番の原因は、自分にある。と、深波渡は思うのだ。
ココは深波渡の夢の中。“狩り”を始めてからは滅多に見なくなった、自分自身の深層無意識世界。
深波渡は、静音さんの部屋の中に居た。奥の本棚の前で、静音さんは深波渡に背を向けていた。彼女が手にしているのは、霏露霧の写真だろう。本棚の、いつも写真が立てかけてあるスペースが、ぽっかりと空いていた。
彼女が泣いているように思え、深波渡は声をかける。しかし、声は出ない。ぼんやりと空気が揺らぐだけだった。
……ねェ、シズネさん。こっち向いてくれる?
彼女は返事をしなかった。
かわりに、誰かが、本棚の陰から声をかけてきた。
「世界の夢、探してるのかい?」
声の主は、霏露霧だった。
スルリと静音さんの前に立った彼は、写真と同じ、黒い学生服を着ている。
……あぁ、ヒロム。久しぶり。探してるよ、見つからない。
「大変だね」
さして大変でもないように笑い、霏露霧は言った。
深波渡は小さくため息をつき、彼を見つめる。
……ねェ、ヒロム。
「なに?」
……先生から聞いたんだケド、それとあと、コレは僕の推測なんだけど、ヒロム、黒いビー玉持ってるでしょ。
「どうしてそう思うの?」
深波渡は声に答えず、推測を続けた。
……突然死というのは妥当じゃない言い方だよ、ヒロム。君は、こっちの世界の住人になったんじゃないのかい? そして、僕にわざと「世界の夢」を見せて、黒いビー玉を集めるように言ったんだ。今まで、誰がそう僕に言ったのか、すっかり忘れてた。でも、思い出した。
霏露霧の瞳が、ピクリと動く。
……僕にそう言ったのは、ヒロム。君だよ。
「ふうん……それは結構面白い推測だね」
霏露霧は「アハハ」と笑った。
「じゃぁ、なぜ僕が黒いビー玉を集めなきゃならないの?」
……わからない。境界線に敷き詰めるビー玉は、全部黒くなきゃいけないのかも知れない。ただのヒロムのお遊びかも知れない。もしかしたら、本当に、シズネさんの夢を取り戻すために、必要なのかも知れない。
「ワカラナイの? それじゃぁ、マジックの仕方を説明して、肝心のトリックを教えないのと同じだね」
……じゃぁ、なぜ僕が集めなきゃならないの? 誰だってイイじゃん。何故僕なの。
「さぁ……どうしてかな……」
霏露霧は微笑んだ。深波渡は覚えている。彼はいつでもこうやって笑っていた。写真の中で、夢の中で。
……ヒロムと話してると、まるでもう一人の僕と話をしているみたいだよ。ドッペルゲンガーか、もしくは鏡…ビー玉の中の僕か、本物かもしれない僕。
「みんな、どれが本当の僕かなんて判りはしないしね」
深波渡の次のセリフは、霏露霧が続けた。
「本当は忘れてほしくなんかない。一生、覚えていてもらいたい。僕は、ココに、何十年たっても変わらずに居る、とね。あぁ、そうなんだ、僕は静音さんに僕のコト忘れないでいてほしいんだよ」
……ずっとね。
「ずっとだよ。死ぬまで」
……死ぬまでね。
「あぁ、死ぬまでさ」
……ヒロム、君は本当に性格が悪いね。そんなに覚えていてほしいなら、いっそのことシズネさんを殺しちゃえばイイのに。
「深波渡、あぁ、君の名前は静音さんがつけたんだってね。彼女から聞いたよ。君は本当に性格が悪いね。そんなに彼女が好きなら、犯してでも僕から奪っちゃえばイイのに」
……それはできない。
「そう、僕もできない」
深波渡は右ポケットから透明なビー玉を取り出した。
霏露霧は左ポケットから黒いビー玉を取り出した。
……やっぱり持ってたんだ。
「コレが世界の夢だよ。どんなに探し回っても見つからないのは、僕が持ってたからなんだよね。ご苦労様、深波渡」
……そんなの、予想範囲内だから、特に驚かない。
「つまんないなぁ。もぉチョット反応してよ」
……それ、返して。
「いやだね」
深波渡は思い切り息を吸い込み、叫んだ。
……×××××イントランスペアレントマーブル!!
☆
救急車は驚くほど早く来た。
瞳を閉じたままの静音さんを見ながら、深波渡は医者の驚きぶりを回想する。彼は一言
「過労としか言いようがないですね……」
と、困惑しきった表情を浮かべ、深波渡を見たのだった。
「心配しなくとも大丈夫ですよ。お母さんはじきに目を覚ますでしょう」
「知ってます。わざわざ説明ありがとうございます」
深波渡がそう言うと、医者は一層困った顔をして、そそくさと病室を出て行った。
ネームプレートには、北岡と書かれていた。まぁ、医者の名前なんてどぉでもイイ事なのだが。
「シズネさん……ごめんなさい」
深波渡は、静音さんの細い手を握って、シーツに顔をうずめた。
「ねェ、シズネさん。僕は報われたんですか。それとも、またひとつ、罪を犯してしまったんですか。それとも……あぁ、もぉイイや。僕、少し疲れちゃったみたい……」
カーテンを通して、やさしい光が深波渡の涙をつつむ。
「シズネさん、ごめんなさい……僕はもぉ何もしなくてもイイんですか。それとも、ヒロムの遺志をついで、また貴方の夢を奪えばイイんですか。それとも……」
静音さんが目を覚ましたのは、それから三日たった夕方のことだった。
彼女はいつもと変わらぬ声で「お早うございます、ミナトさん」と言った。
■ 9 午前零時の狩人 ■
「あー、ココまで来るの、本当疲れた。でも時間的には丁度イイかな」
独り言を言いながら、彼は民家の屋根の上に立っていた。
今宵は新月。月が消えるかわりに、星たちが輝きだす時期。
彼はいつものロングコートに、今日は黒のズボンで、片手には、切れ味の良さそうな大鎌。もう片方の手で、右ポケットの中のビー玉の数を数えた。
「あれ? もぉ四個? ……仕方ないなぁ。また買いに行かなきゃ」
またもや独り言である。
懐中時計は、午前零時丁度を指した。
……く……はやく!
「ふーぅ……」
耳を澄ますと女の子の声。
――っ早く……!!
「声が移動してる……サウスポートからイーストポート……。ん、一度飛んで待つしかないか」
彼は、手を叩いた。
パン!
ブゥゥゥ…―ッザン!!
瞬間、彼の存在はチャネル交換により「民家の屋根の上」から「誰かの夢の中」へと移動する。
そこは狭い路地だった。
レンガの壁が高く、高く。人が一人通れるぐらいの狭さだ。上を見上げると、空には丸い月が六つも浮かんでいる。少し歩いてみたが、路地は複雑に入り組んでいて、どちらに曲がっても同じにしか見えない。時折足音が聞こえてくる。
「迷子の子猫を探す……か」
彼はとりあえずボーっとすることにした。
と。
――ドンッ!
「わっ!?」
誰かが彼にぶつかる。彼は押し倒され、思い切り地面に腰をぶつけた。
「いたたたたー…なんだよ急に……」
腰をさする彼に、ぶつかってきた女の子は
「チョット! あんた邪魔! 早く逃げないと捕まっちゃうんだから!!」
すごい剣幕で怒鳴った。
「あぁ、君、逃げてるの?」
「そうよ! だからどいて、早く!!」
「どかないよ」
彼は笑顔で言った。
「君を助けに来たんだ。もぉ大丈夫ー…」
☆
「で、また寝不足なの?」
慎は、椅子にもたれかかっている深波渡を見て、ため息をついた。
「それだけじゃないんだよ」
深波渡は慎よりも深いため息をついた。
「腰、痛くしちゃってさ……あーっ、たたた」
「どうしたの?」
「部屋で滑って転んだ」
「ご愁傷様」
「あー! もぉ痛い! 保健の先生って今日居たっけ」
腰をさすりながら席を立った深波渡に、慎は
「居るよ、ついでに寝てきなよ」
と、笑った。
静音さんはあの日から「眠る」という行為を思い出したようだった。
深波渡が“狩り”から帰ってきても、もぉ静音さんの部屋から明かりが漏れることはなくなった。
しかし。
深波渡は相変わらず“狩り”を続けていて、空が白み始める頃、クタクタになって家に戻るのだった。「世界の夢」は、探さなくてもそこにあるのに。
自分が“狩った”証である黒いビー玉を、深波渡は部屋の床に敷き詰めていた。自分の部屋といっても、あの暗闇が支配する「第十二チャネル」のコトだ。
あの心地よい暗闇は、そのまま自分の心の闇なんだと、深波渡は思う。
夢の中に現れた霏露霧は、自分の中に潜む×××××なんだとも。だから透明なビー玉に閉じ込めることができたんだと、信じたい。
もし彼が本当に「むこうの世界の住人」になっていて、夢の中で確かに存在していたとしたら、深波渡が彼を殺してしまったコトになるのだ。
あぁ、でも。
それでもイイかな。と、深波渡は時々感じる。
罪ならとうに犯してる。
「そうだ、シン」
「なに? ミナト」
償えるなら、償いたい。償えないなら、なんとしてでも償いたい。
「今日は、イイ夢、見た?」
たとえばそれが、人の中に潜む闇を取り除くコトとか
「イイ夢? うん、見たよ」
淡い記憶としか残らない、はかない夢を、ハッピーにしてあげるコトとか
「どんな? 教えてよ。保健室行ったら、シンの見た夢、見てやるからさ」
黒いビー玉を永遠に集め続けるコトとか
「なにそれ」
万年寝不足になるコトとか?
「いいから」
慎は照れくさそうに、深波渡の耳に口を近づけ、小声で言った。
「島崎さん居るでしょ」
「へ? そこで本読んでる?」
「うん」
「なに、彼女が出てきたの?」
「う……ん、まぁ……」
そこまで聞いてピーンときた深波渡は、慎にニヤリとした笑みを向け、言った。
「好きなの?」
「ば……ッ! ……誰にも言うなよ」
「言わねーよ。せいぜい頑張って。僕、寝に行くから」
深波渡は笑って親友の肩を叩いた。
たまには“狩り”以外で人の夢に現れるのも面白いかも知れない。頭に浮かんだ見事な名案に、深波渡は腰の痛みも忘れていた。