■ 国境の旅人 ■

「そこで何している!?」
「あ、わ! に、にゃー」
 ……猫のマネか?
 彼が、兵器用のガスマスクの奥で口をあんぐり開けている間、青年は曲げた両手を頭の上において、ずいぶんと長い間瞳をつむっていた。
 この土地のものではない、ぶかぶかの麻ズボンが風にはためく。
 黒く、長い髪。十年以上使い古されたのであろう灰色のチュニックは、色がそげ落ちてなんともみすぼらしい雰囲気を出している。
 人畜無害そうな様子に呆れて銃口を下ろすと、縮み上がっていた青年は薄目をあけ、ほっとしたように立ち上がった。
 瞬間。
 ドサドサドサッという音と共に砂埃が舞い上がり、ゴホゴホと口に手をあてながらまた青年がしゃがんだ国境の金網。
 森から砂漠への境目だった事が不運だ。
 この辺りの砂は、銀毒を含んでいる。
 わたわたと、背中のリュックから落ち散らばった道具をかき集める青年をうさんくさそうに眺めながら、彼、ナチリ国境警備隊第3班22番ケビン=マルケノ=グラノウスは、ふうっとため息をついた。装備していたナビゲートスコープとガスマスク、そして迷彩のヘルメットを順番に外してボトリと砂上に落とす。
 朝方ぶりに、生暖かい、乾燥した風がケビンの髪の毛をなでつけた。勤務中に装備を解くなど滅多にないことだったが、まさかこの青年が敵国側の人間だとはどうにも思えない。
「穴開いたリュックにもう一度詰めて、どうする気だよアンタ」
「え、」
 突然のケビンの声に彼はあわてて拾っていた物を放り投げ、ケビンはハッと身構えたがー……。
「にゃ、にゃーぁ?」
 また頭に両手をあてて、裏声で鳴いた青年。ケビンの顔がひきつる。
 あくまで猫を装いたいらしい。
 バカか、こいつ。
「ったーく……」
 ケビンは視線を外して肩をすくめ、銃の安全装置を確かめると背中にまわした。かがんで、青年の荷物を拾い始める。
「支部のゴミ袋ぐらいならくれてやるよ。ココぁナチリの国境だ。撃たれたくなかったらとっとと街に戻りな」
 砂漠に明確な線は引けないが、ココだけは、金網が、どこまでもどこまでも続いている。
 隣国コプリとは、元々ひとつの国であった。しかし、死んだ国王の長男と次男がケンカをし、去年決別。均等分配遺産であった土地の権利争いは、金網を作るまでに至った。
 国境に関しては、どちらもピリピリしている最中なのだ。
 こんなひょろひょろの青年、向こうの警備員なら即刻バン、だろう。
「街ぁあっちだ。わかったか? オレだって暇じゃねぇんだよ」
「はぁ……でも…」
 西東を指したケビンに対して、青年は煮え切らない表情で、かき集めた品の砂ぼこりを掃う。上下左右に手を動かし、どこも故障していないかどうか確認すると、青年はコンコンと品物を二・三度叩き、丁寧に丁寧にリュックの中に押し入れた。
 やかん、コップ、寝袋、ペン、カサ、固形食料、封筒、インク、服、厚めの布、鍋、スプーン……。
「なんだ? アンタ、旅人か」
「え、」
 青年は目を丸くし、どうしてわかったんですか、とケビンに聞いた。
 猫のマネはもうしないらしい。
「わかるもなにも、第一、こっちの顔じゃねぇしな。東洋人か?」
「えぇ、まぁ、そんなところです」
「どっから来たんだ?」
「あ……西の、チェンガルの方からまわってきました」
「ギズ湖は通ったか? 叔母が住んでんだ。……ここより平和だろ?」
 そうケビンが聞いたとたんに、風が砂を舞い上げて青年は咳き込み、彼はあわてて移動し青年を風下にした。汚染が進んでいる乾いた地とはいえ、銀毒だけでこの咳き込みようはおかしい。
「おい、大丈夫か?」
 青年の背中をさすり、ケビンは言った。
「身体が弱ぇんなら、旅なんかすんなよ」
「……い…え……」
「街に戻れ」
「……たし…」
 ゴホゴホと咳き込んだ青年の口から、苦い音程で聞こえてきたのは、
「国境しか歩かないんです、ワタシ」
 ひとつの覚悟。
 ケビンは舌打ちをし、片手でスコープとマスクを引っかけた。
 警備隊の支部は、隣国に襲撃される危険を考慮し国境には建っていない。しかし、ここからなら、別の支部が近いはずだ。
 走れば五分で着く。
 パンパンに張ったリュックと病弱な旅人を低木の陰にすわらせ、ケビンは走り出した。
「おい! お前、待ってろよ!」
 振り返ってそう叫んだとき、青年はかすかに笑った。
 確かに、見えた。
 ――待ってろよ、だって? ハハ。オレも大層丸くなったもんだ。
 しかし、ケビンがゴミ袋を持ってそこに戻ったとき。青年の姿はどこにもなく、ご丁寧にも低木の枝には、ケビンの迷彩ヘルメットが。金網に腕をぶつける。ガシャリと、鉄の音。
「ッチ!」
 足跡は!
 舌打ちをしながら思わず見渡す。
「……ハッ、バカなんだよな、旅人って奴ぁ…」
 金網の向こう側に、砂の足跡が延々と続いていた。
 ケビンは砂を蹴り上げ、咳き込み、支部に戻ってマリアンヌの足でも拝むか、と、涙目に思う。
 ガスマスクの奥から、かすかに砂の匂いがした。
 今夜の食事はレンルの当番だろう。マリアンヌは休憩室のオレンジソファで、きっと足を組んで雑誌を眺めているハズだ。
「チッ、」
 彼はもう一度舌打ちをして「バカが」と呟き、歩き始めた。
 言葉は風へ、青年に届くように。
 頑張りな、バカが。
 今度ココに戻ってきたら、頭ァ一発叩いてやっからよ。