■ SMALL PROMISE ■
――例えばそれは、イカロスのような、さ。
そんな事を誰ともなくつぶやき、彼は瞳をかたく閉じた。
ここには何もない。
あるのは断崖の潮風と、彼と、彼女の姿だけで。絶壁にはくずれかけた建物が、かろうじて体裁を保っていた。だが、それが前線基地だとは誰が思うだろう。
「風邪をひくぞ。体調管理も仕事のうちだ」
彼女はそう言い、壁に背を預ける。
「飛びたくない」
彼はそう言い、ヘルメットを見ないようにうつむく。
戦争というその事実を、平和というその偽善を、誰がどうして決めつけたのだろうか。と、彼は深くため息をつき「最近カナルがおかしいんだ」と彼女に告げた。
「……カナルが?」
「そう、カナルが」
彼はうっすらと瞳をひらき、そして、雲間から急にとびだした太陽のまぶしさに勝てず、瞳を閉じる。
二人はこうして一緒に居ると、外見は恋人同士のようではあったが、内面は、カナルという一人の人物に依存する、ただの醜い男と女で。何も知らないカナルは今、夜の警戒飛行に備えて深い眠りについているところであった。
「昼に、飛びたくないんだとさ」
「……それは、」
お前のせいだろう、と言いかけ、彼女は、また、唇を噛んだ。
汚い迷彩布をかぶせられた戦闘機の状態は、限りなく良好だった。ただ、白い雑巾と弾数が、いくぶん足りない。
整備士である彼女は、試運転で乗りこそすれ、戦闘には参加していない。
誰かを墜として生活している彼やカナルの精神状態など、到底わかる筈もなかったが、だからこそ、ここまで何の問題もなくこれたのだ。
と。急に彼は立ち上がり、彼女の手を取った。彼女の手は潤滑油にまみれ、さらには潮と混じりきり、ざらりと鳴った。
「なんだったっけ……」
「え?」
「お前のコード、さ」
飛行機乗りには、それぞれコードがつけられている。
戦闘中は名前ではなく、そのコードで呼び合うのがルールとなっていた。
「カナイ、だ」
「ふうん」
太陽は雲にも隠れず、ぼんやりと漂っている。
海に浮かぶクラゲのように。
ゆらゆらと。
ただ、ゆらゆらと。
「オレはお前を殺すよ」
彼は彼女の手を見つめながら呟く。
「カナルは、オレのー…」
「あぁ、わかってる」
彼女は笑った。
「昨日も約束したじゃあないか」
「……そうだったな、」
遠くから爆撃の振動が、心地よく、彼女の胸をゆらした。