■ Io cado. ■

■ 1 緑色の辞令、紳士の髪型 ■

 太陽に向かってエレベータアップ。空へ墜ちてゆく感覚。
 雲の下には、アシヤハルヒトの機体を抱いた海が、灰色の叫び声をあげているだろう。
 ……気がつくと、雨。
 ベッドの上で僕は、手を広げて何かを求めている。

     ★

 息をつく。
 ゆっくりと、墜ちてしまわないように。
 広げて上にあげた手。それを静かにとじ、また、ひらいてゆく。
 僕の手はそのまま、ベッドのふちを数十秒さまよい、頭上の雨戸へヒタリと到着する。湿った隙間に指を入れると、肩の骨がキシリと鳴った。
 雨だと思ったのは、雨戸が少し開いていたからのようで。縦長の光が丁度、僕の顔をまたいで毛布の端に差し込んでいる。さあさあと、霧のような、細い。
 辺りはしんと静まっていて、僕以外この世に誰も、居ないのかと、錯覚させる。
 雨。眩しい光。明け方の兆候。
 あぁ、ベッドに倒れこんでから、まだ数時間しか経っていない計算だ。なんてったってこんな、と、思ってみても、たぶん開けたまま寝たのは、数時間前の僕。
 仕方が無いと割り切って、そろそろと雨戸を閉めようとした時、クシャリと何かが間に詰まって、そのまま動かなくなった。手にあてた感触から、どうやらそれは紙のようで。
 ――辞令。
 そうだ、あの緑色の紙。
 数時間前の僕は、どうやら、約束の時間に遅れまいと、苦肉の策を施したらしい。なるほど、僕の行動パターンだ。
 フィルターのかかった脳、その斜め上で、彼が、行かなければと僕に警告する、下手な歌とともに。
 雨戸からおろした手をまぶたに乗せ、ひんやりとした秋の気配の中、僕はまたしばらく、あと5分、晴れた雲の上へと向かった。

     ★

「……名前は?」
 部屋に入ってきたとたん、クサナギオルナラはそう言い、小さなシンクの前の椅子に座り、両手を合わせ、その上に顎を置いた。僕は上半身だけ起こしたまま、草薙織楢の髪を見つめる。ベッドのふちをはさんで。
 最初に驚いたのは、寝坊したことよりも、上官が部屋を訪ねてきたことよりも、あの雨で無事に着陸できたのかという事だった。
 夜専門のパイロットは、この基地には居ないと聞いていた。当然、昨夜は、信号すらなかっただろうし、霧雨は特にたちが悪い。数時間前の僕は、どれだけ頭が冴えていたのだろうか。おかげで今、そのとばっちりを受け、僕の脳は渇いている。
 草薙織楢はため息をついて足を組み替えた。早く質問に答えろということだろう。
 僕はまだ呆然と、その髪を眺めていた。
 短く切りそろえた新緑の色、透き通った白い肌は少女よりも青白く、眼鏡の奥の瞳は、床に向いて細くきらめいている。それが深い緑の軍服に、似合っていた。とても。
 女か男か判らないまま、僕は、早く答えようと唇に手をあてる。唇も渇いている。
「前のチームではカンテンと呼ばれていました」
「寒天?」
 草薙は頭をあげると、ひっそり眉をよせ、僕の顔をじっと見つめた。
 意味を履き違えていた事に気づき、僕が「カナルです、失礼いたしました」と言っても、草薙は笑わなかった。笑わずに
「寒天」
 表情のない声でもう一度言う。
 遠くから金属音が聞こえてくる。
 雨戸を閉めていても、部屋の中は十分に明るかった。
 ベッドの向かい側には、小さなシンクと棚がある。僕の足元にはクロゼットの扉が見える。壁づたいに視線を移すと、中央に部屋の扉が見えた。今は開け放たれている。そして、僕の頭と対角線上にある棺桶のような四角い空間が、どうやらシャワールームのようだった。
 草薙がこの部屋に入ってくるまで、僕は、ここがまだ前の基地だと勘違いしていた。頭上に窓をもってきている、この配置のせいだ。僕は前の基地でもこうやって、窓に頭を向けていた。
 それが僕の特権だと、思っていたのに。
 寒天は食べ物ですよ、と言うと、草薙は立ち上がり、
「部屋を出たら右へ、少し歩けば右側に、ガレージへ繋がる扉がある。行けばわかる。今日はゆっくり休みたまえ」
 矛盾を言い残して部屋を去った。
 僕は枕に頭を預け、でも、思い直して跳ね起きた。本当にゆっくり休むなら、僕は、ガレージへは行かない。
 ベッドから降り立ち、あらためて部屋を見渡す。
 クロゼットを開けるまでもなく、僕の足下にはフライトジャンパーが落ちていて、それを拾い羽織ると、袖口から、雨の匂いがこぼれた。
 少し、寒い。
 それは電気信号。ただの妄想にすぎない。
 なぜだろう、僕はまだ夢を見ているのだろうか。
 頭を、ゆっくり左右へふる。
 部屋を出て、廊下を、右へ。
 天井が高い。思わず上を見上げる。床は白く磨かれていて、僕の影がぼんやりとゆれた。一定の間隔をあけて、上から光が差し込んでいる。高すぎて、ライトなのか日光なのか、よくわからないけれど、とにかくどうしようもなく、明るかった。人の気配は、相変わらず無く、草薙織楢がどちらへ行ったのかさえ、検討がつかない。
 コツリと一歩を踏み出すと、響いた残響が僕の耳を、低く、支配した。
 いやに不安を誘う、白い空間。
 これなら、前の基地の方がまだマシだろうと、僕はため息をついた。
 前の基地にはもう戻れない。僕はあそこに、沢山のなにかを置いてきてしまっていたような、そんな、行き場のない悲しさを持ち始めていた。
 僕は、――僕らは。
 灰色の廃墟でボロボロだった。
 何もなかった。
 いや、なかったというよりは、失くしていったと言ったほうが、的確なような気がする。何もかも全て、まるで、それ自体が夢だったかのように。

■ 2 高い白、笑顔の行方 ■

 しばらく進むと、突然壁がなくなった。玄関ホールのような、広い空間。
 当然のように天井は高く、目の前には、真っ赤なソファと低い机が置かれている。談話室というわけではなさそうで。かといって、食堂でもないだろう。指で机をなぞる。白い埃が、指を少し、汚す。
 ふいに、金属音が大きくはねた。
 右を見ると、ホールの右側には、トンネルのような形をした、シャッターがあって。故意に、誰かが、壁をえぐり取って、そこへ無理やり取り付けたのだろう。そう、容易に想像できるような、そんなシャッターが。下半分、開いている。
 僕は吸い寄せられるように歩き、その頃には、ジャンパーの雨はすっかり上がっていた。誰かがそこに居れば、その事実だけで安心できる気がした。一時しのぎには、慣れている。
 いつだって、そうしてきたから。
 かがんで闇に入ると、すぐ目の前に、冷えた鉄骨の脚が、ぐん、と視界を埋めて、心臓がドキリと跳ねた。
 僕はとっさに、右手で、左腕をつかむ。
 つまり、誰かを墜とすとき、いつも、そうするように。
 ……落ち着け。僕が昨夜ここに降りたというのなら、それは味方の基地だからだ。昨日もおとといも、今日も明日も、僕はそれほど馬鹿ではないだろう。生き残って、いるのなら。
 紫電か、赤雁あたりを連想させる、大きな脚を指で、なぞり、ため息をついても闇はかわらなかった。行けばわかる、という数分前の声が、頭の溝で再生される。
 草薙の言う「わかる」は、どこまでの「わかる」なのだろうか。
 僕は金属音と、それにともなって明るくなる白をたよりに、ゆっくりと、ガレージの奥へと進んでいった。途中、プロペラの破片や、端に置かれたエンジンが、僕の行く手をひっそりと阻んだ。音はいつのまにか、尖った針の音から、ナットやボルトのざわめきに変わっている。
 闇の向こうに居る誰かは、一人のようだ。そんな気配がする。
 あぁ、どう、声をかけよう。
 ――突然。
 空気がオレンジになった。照らされる。全てが。
 見つかった。誰に。
 ガレージの奥。笑っている。音。
 僕は身を隠す。いつものクセ。笑い声はやまない。足下。つなぎ。
 顔をあげる。近づいてくる。オレンジ色が眩しい。
「銀河、整備してたの。あなたの」
 彼女は笑って、僕にそう言った。
 僕が隠れた機体は、やっぱり赤雁で、彼女が指をさした銀河からは、なぜか、懐かしい匂いがした。

     ★

 彼女、コンノルイは整備士だった。
 そんな筈はない、と、僕は思ってしまったけれど、つなぎを着て、ドライバーを持ち、油まみれの黒い手を差し出されると、信じないわけにはいかなかった。
 僕のことを待っていたという。
「来なかったからどうしようかと思った」
 また笑う。僕は何も言えなかった。
 彼女が案内してくれたおかげで、この基地の構造を大体つかむことができた。空襲を恐れて、ここには二階や三階という階層がないらしい。そのかわり、見せかけの壁だけが、縦に伸びているのだ。食堂や談話室は、地下にあるということだったけれど、その説明を受けている最中に、目的の場所についてしまった。近野瑠ヰに礼を言い、白で塗られたドアを、そっと、恋人のように引く。
 僕が無言で部屋に入ると草薙織楢は、窓際のデスクに座っていた。
 司令室、という名目なのに、書類もなにもなく、僕の部屋と大してかわらなかった。違うと言えば、ベッドが机に替わっていることだけだった。ここもダミーというわけだ。本当の部屋は、地下にあるらしい。
「彼ならきっとここよ」という、さっきの彼女の言葉で、僕は草薙織楢が男だという事実を知った。けれど、こうして目の前にすると、どうしても、男なのか女なのか、区別がつかない。
 彼は、静かな声で言う。
「……寒天か…苦い思い出しかないな」
「あの、」
「ノックしてから、もう一度入ってきたまえ。ワタシは特に構わないが、形式上は大事なことだ。ここは棺桶ではない。そしてワタシは、死人でもない」
 見透かされたような気がして、その証拠に僕は、今、右手で左腕をつかんでいることに、気づいた。
 部屋を出、ノックをし、もう一度入る。草薙はさっきと変わらぬ姿勢で、僕を迎えた。単刀直入に、極光はどこで寝ているのですか、と、固い声で訊いた。草薙は面倒そうに、唇だけを動かす。
「君の仕事は昼だ」
「……昼?」
 かすかに、雨の音がする。まだ降っているのか。
「そう、昼だ。早速だが明日のヒトマルマルゴ、南南西に飛んでもらう」
「銀河で、」
「そう、銀河で」
 極光は、と、もう一度聞いた。彼は、あのガレージにあっただろう、と答えた。なかったから訊いているのに、なんてことだろう。
 僕は自分の足が氷になっていく気がした。
 半身をひきはがされて、僕のカラダから血がでてくる。それを止めるために、僕は、氷になりたいと、草薙に言った。彼は、そうか、と、僕に背を向けて雨の音を聴いた。
 部屋を出、僕は重い足を引きずりはじめる。
 氷は、重くもなく軽くもなかったけれど、重い方が良かった。自分のベッドに倒れ込むつもりが、いつの間にか、ホールの赤いソファに身を投げ出している。
 なんてことだ。
 ひどい、雨だ。
 金属音が隣から、空気を鳴らして僕に居場所を教える。近野瑠ヰは、まだ、ガレージに居るらしかった。
「ね、乗ってみて、銀河」
 そう、言われた気がする。
 僕の名前は銀河じゃない。そして、僕の居場所は、棺桶でもない。なら、どこだ。
 ……歌が聞こえる。
 葦野春人の、下手な歌が。

■ 3 彼女の上手な手、彼の下手な歌 ■

 崖の上に置かれた基地で、僕らはただ、生きていた。弾丸は底をつきはじめ、毎日の食事も、薄くて堅い保存用レイションを、水でおしこんだだけのものだった。そうして、あろうことか、チームリーダーとして一緒に飛んでいた整備士は、敵に撃たれ、海に墜ちた。だから僕は極光に、彼は紫電に、それぞれ油を差さなければならなかった。
 僕はいつも夜に飛び、レバーを強く握りしめ、彼はいつも昼に飛び、下手な歌を歌っていた。通過儀礼のように、会えばお互いの拳をぶつけ合った。
 窓という名の、穴の開いた壁がある部屋で、気づくと僕一人だけ、ベッドの上で明日を待っていて、また紙が、クシャリと鳴った。

     ★

 瞳を開けると草薙織楢が、僕を無表情で見下ろしていた。その隣にもう一人、男が立っている。長く伸ばした金の髪に、一瞬敵かと思ったけれど、顔は、どこにでもありふれた男のものだった。
 黒いフライトジャンパー。銀色の勲章。
 どうして誰も何も言わない。無声映画は去年見た光景で、十分だった。
「……カナル。ウミカワカナル」
 草薙が口を動かす前に、僕は、かすれた声をあげて天井の光を見上げた。名前なんて、どうだっていい。眩しい。
 まぶたを閉じる。誰も見たくない。
 足音が、ひとつ、遠ざかってゆく。誰が隣にいるのだろうか。僕の隣は、誰のものでもない筈なのに。
 ――急に腕をつかまれた。
 ッキっと、心臓が鳴って、どうしようもなかった。
 要するに、僕は、宙ぶらりんの状態で息をしている。霞から出てくるのはいつも、春人の幻影だけだというのに、誰も、死なせてくれない。
 だから殺す。
 殺していけば、巡って、僕が、殺されるだろう。その巡ってくる時間が、とてつもなく遅かったとしても、いつか。だから、とても。

     ★

 空がいつまでも青かった。そんな、夢を見た。
 夢はその時点で夢でもなんでもなく、僕はただぼんやりしていた。コクピットの中には、水が満ちていた。そう思えるほどガラスは濡れ、あぁそうだ、今浮上したのだと、思い当たった。
 長波に乗って、春人の歌が聞こえてくる。僕は彼の斜め下を、飛んでいた。空は青いばかりで、昼でも夜でもなかった。ただ、下は雲で、その下は雨、それだけ判っていれば、正解だった。
 ――なぁ。
 春人が話しかけてくる。
 なぁ、……れ…い……言ったらー…………ね、ね。海川樺鳴だってー…ん、そうそう、あたしも名前、初めてきいた。
「………?」
 声がかぶる。
 頭が痛い。
 心臓に余韻はないけれど、遠のいた鼓動が、少し、恋しい。まぶたを閉じたまま立ち上がると、何かがキシキシと鳴った。いつもならとっくに寝ている筈だったのに、意識だけが、あの青い空から戻ってくる。
 見ると、キシキシしていたのはソファのスプリングで、僕の腕をつかんでいたのは近野瑠ヰだった。あぁ、道理で二度寝できない。油くさい。
 立ち去ったのは草薙だけだったようで、金色の男はまだその場に立っていた。必然的に、僕はこの男と対峙しなければならなかった。
 背が高い……後悔は先にたたない。階位もわからないのに、座るわけにはいかない。見上げようとすると、首が悲鳴をあげた。変な体勢で寝ていたらしい。彼の黒いジャンパーは今にも破れそうだった。横も広い。どう見ても、遠くから敵と間違われそうな「なり」をしている。僕ならまず間違いなく、間違えるだろう。
 彼女は断りもなく僕の腕に少し力を入れて「彼はカタワケレンルよ」と言った。
「赤雁に乗ってるの」
「……へぇ」
 ガレージにある、鉄の脚を思い浮かべた。パイロットは、いくらでも居る。生き残るのが、誤算なくらいに。
 肩涌練流は無言で手を差し出し、僕はのろのろと右手をあげた。
 歩いてガレージへ移っても、僕は、夢も何も言わなかった。そんな「なんでもない」なんて主張をしなくとも、近野瑠ヰは全てわかっているようだった。半身も、氷も。そういう説明を受けた。
 彼女は、整備士にしてはパイロットの乗り心地を重視している。
 それが、今の僕に必要だと、云わんばかりに。
「ハルミトンは前、っと、そういっても、こっち。丁度中間辺りだけど。極光に似せてみたの。乗ってみて」
 彼女はコツコツと機体を叩き、僕は、側面のくぼみに足をかけた。勢いをつけて跳び、ガラスの棺桶に乗り込む。慣れてしまった動作だったけれど、ちょっと、バランスを崩した。何か、妙な感覚に襲われる。
 初めての機体なのに、もう、既に乗っていたような気がする。
「ラダー、ちょっと壊れてるの、明日には直るけど」
 シートに座ると、僕の心は、これを「懐かしい」と言った。
 懐かしい。どれが?
「実はエンジンもまだなの。これも明日にはー……」
「……前の人は、」
 僕は近野瑠ヰに訊いた。前の人は誰? 僕が座る前に、ここに座っていた、パイロットは。
 酷い予感がした。
 次の言葉に、僕はきっと「あぁ、やっぱり」と思うだろう。そんな、予感がした。彼女はそれに気づかず、僕を傷つけるのだ。それが女の役目だから。そうして僕は知らないフリをして、話を流さなければいけない。それが一番、自分を傷付ける方法だから。
 近野瑠ヰは笑って言った。
「あぁ、それ、違うの。わかんないの。草薙さんが持ってきたの、紫電と一緒に」
 ――紫電。
 あぁ、やっぱり。
「銀河っていうか、ほとんど紫電改造したようなもんだけど」
 春人の歌だ。
「銀河じゃ変だよね、いっそのこと、紫電改って名前にしよっか」
 無表情で飛ばなければいけなかった。いっそのこと、空ではなく、海に墜ちたかった。海の方が、たぶん、冷たい。

■ 4 僕の右手の重さ、彼の左手の軽さ ■

 精密なチェックをくぐりぬけ、今か今かと出番を待ち受けている機体。それを彼らはトンボと呼んでいた。
 僕は、わざとはぐらかしてそれを歌と呼び、彼は、あえて鳥と呼んだ。
 操縦席のコックは、慣れた野球ボウルのように僕の手に吸い付き、急に、歌が聞こえるような気がした。だから飛び立つ前に、僕は一度ヘルメットを外さなければならず、こんな時ばかり煙草を吸いたくなる自分に、少し、イライラした。
 ガラス越しに見えるのは遠い山で、そこだけが落ち着く場所のように思える。ただ、潮風がキツい。離陸を慎重に、などと叱咤する、教官の声。昔の、記憶。
 ――右に旋回して南南西に向かう。後ろについてくれば、それでいい。
 肩涌練流の声が、頭の中で注意する。
 朝、寝過ごそうとした僕の部屋に入ってきたのは肩涌一人で、彼は、司令官から言いつかってきたであろう今日の作戦の説明を、淡々と口にした。僕はうなずいたままフライトジャンパーを羽織り、廊下に飛び出して走った。
 そうして、今に至る。
 前からそうだったように、何も身につける物はなかった。
 準備はすこぶる早かったけれど、ただ、今は、太陽が眩しい。
 ……ザリ。
 ノイズの奥、肩涌練流の声が飛び込んでくる。
『紫電改、コードどうぞ』
「コード寒天。赤雁、コードどうぞ」
 向こうも準備を終えたらしい。応えながらヘルメットをかぶり直し、ベルトで身体を固定した。
 エンジンはもう温まっている。あとは、どこかへ向かって、飛ぶだけだった。
『……コード魔笛。小隊、準備完了。ヒトマルマルゴ、出撃』
 エンジンの振動が、胸を軽く叩く。僕は右手で、機関銃の発射レバーを握った。
 右手は、重い。とても。
 前だけを見つめてレバーを押し上げた。加速していく風景に閉じこめられたら、終りは一生来ない。浮遊感。すぐさまスロットルを閉じ、開く。
 視界が、空だけになってゆく。
 僕はつい、陸のことなど忘れてしまって、生まれたときから空に抱かれている錯覚に、乾いた脳を侵される。
 ゆさぶられる。犯される。
 浸る。
 心は叫んでいる。とても。 強く。高く。
 青の濃度がゆったりと増し、だんだんと、白い糸が機体にからんでゆく。ジリジリと、耳の裏が痛くなる。
 その糸が雲だと気づいたとき、ノイズが僕の耳を「キン」と打った。
『……寒天、遅れている、どうぞ』
 違う。遅れているのは僕じゃあない。新しいエンジンに慣れていない、この機体だ。それでも定石通り、僕は肩涌の斜め下につき、長波に声を乗せた。
「高度固定、このまま下に居ます、どうぞ」
『……了解……ザッ…』
 通常は三機で一小隊となる筈なのに、なぜ僕と肩涌練流だけなのか。少し考えれば自ずと答えが出るだろう。
 ――試されている。
 僕は、赤雁の機体裏を眺めながら、彼のコードの由来について考えていた。彼を見ればわかる。遊びで付けた名前ではない。
 ……魔笛。
 そういえば草薙も、僕のコードの由来について考えていた。彼にとっては、謎のコードだろうと思うと、少し、笑みがこぼれた。僕は肩涌に「寒天」を拝ませるつもりはない。あんなことを繰り返すのは馬鹿と、彼だけだろう。
 ……ふいに、右手が震えはじめた。
 僕は息を吐き出さないよう、二秒ずつ、数えなければならなかった。 陸も、海も、山も、どれもこれも必要ない。あるのは声と、歌と、音と、そして空の青と、二秒間の賭け。
 思い切り力をこめてレバーを握る。瞬間、空気が変わる。違和感。それも圧倒的な。
 何が違うのか確かめるには、チラリと操作盤を見ればいいことだった。
 レーダーの円盤の端に、光が映り込む。点滅している……敵。
「……四機?」
『五機だ。左右展開、二機頼む』
 長波は開いたままのようで、肩涌の声が聞こえた。しかしそれも、ブツリという音と共に途絶える。
 お前の能力はおおよそ見当が付く、データを見させてもらった。そんな声がどこからか聞こえてきて、あれはいつの話だったかと思い起こす前に、視界に黒い物がちらついた。あとはおまかせ、という訳だ。
 そうだ、あれは朝、ベッドの上で聞いた。
 すぐさまフルスロットルで、空に、墜ちてゆく。そのまま、左に旋回。向こうも、こちらに気づいたようで、高度をかえて突っ込んできた。連続して光の弾が見える。
 五秒。
 よほど物資が豊富なのだろうか。あんなに打ち込んだら、二機は墜とさないと。そうでもしなければ、空中戦はおしまいだ。
 ……狙いを三寸先へ。
 無意識のうちに発射レバーを押した右手は、二秒で一息つく。
 一。
 二。
 誰かの翼に当たる。
 煙を突き抜け、高い位置からロールに入った。あの誰かは、どこかへ墜ちているのだろうか。そう思いながら、次に狙うべき機体を定める。
 一番近い。誰でもいい。
 乾いている。
 渇いている。
 誰かにとっての死神になる。それが、てっとり早く生きる方法。
 ――あいつだ。
 右手は賢い。翻った向こうの機体に向け、俺は二秒間、ボタンを押した。
『……クリア。旋回して帰還する』
 長波から声が聞こえてきた。
「了解」
 なぜだろう。彼の名前を忘れてしまった。コードだけは覚えている。打ち込みがとてつもなく早い、赤雁。魔笛。たぶん、一秒もかかっていない。

■ 5 ガラスの棺、青の残像 ■

 降り立ち、乗っていた機体を眺めた。すうと息を巻き込み、風をはむ。俺は立っている。ここに、この場所に。
 新しい機体に波長を合わせるのは、たぶん、一番重要なことだろう。相性と命令。機体とのバランスを考えれば、よく整備されていると思った。誰が整備したのかわからないけれど、とにかくしばらく眺め、基地の中へと入る。
 カツカツと、靴音が響く廊下は、晩に来たときと変わらず、白くて細長かった。早く部屋へ戻りたい。夜は近く、俺は眠い。
 ふと、廊下を横切る人影……草薙織楢だった。声をかけ、片手をあげると彼女は無言で近づいてきた。数メートル先で、彼女は急に立ち止まり、仁王立ち、という言葉が脳裏を横切ったあとで、頭が、ひどく痺れて、俺は、笑う。視線の先の唇が、静かに、開く。
「……今の、名前は、」
 今? ……何の話だろう。人の名前を忘れたのだろうか。俺も赤雁の名前は忘れてしまったけれど、上官として、それはどうかと思った。
「アシヤハルヒト」
 俺はハハ、と、渇きを声に出す。頭が痛い。眠い。早く、一人になりたい。けれど。草薙の後姿を見送って思う。最近、夢見が悪い。あの青空の中で、俺は、またあいつを殺すのだろうか……カナル。
 部屋に戻ってどっかりと座り、ベッドのふちに背をあずけると、体が痺れたように動かなくなった。……そうだ、このまま、ただの人形になってしまえばいい。
 ずいぶんと長い時間、そうしていた。思い浮かぶのは黒い月と、樺鳴の、あのひっそりとした笑い声だけだった。
 あいつは、夜に飛ばせば最高のパートナーだった。夜目が利き、レーダーに映らない何かを感じ取れていた。端正な顔立ちは、この土地の血筋を思わせ、普段はそう顔色を変えることはなかったが、俺に会うといつも、会話のたびにはにかんで笑った。
 樺鳴の辞令の紙やら、ネームプレートは、いつまでたっても窓に挟まったままだった。あいつのクセだった。いつの間にか俺もそれを真似て、上官に怒られたことがあった。俺たちは似ている。会えばお互い、拳をぶつけあって無事を確認した。
 ――ふいに物音がして、部屋の中、扉の方向から人の気配がする。
 顔をあげることができず、誰だかわからない。靴だけが、闇をさえぎって、黒い光となった。
「……目を閉じろ、楽になる」
 その声。草薙か。応えようとしない俺にしびれを切らしたのか、草薙織楢はため息をつき、かがんで、俺の顎をつかんだ。上を向かせようとしているらしい。彼を通り越して、俺の視界は天井に移った。
 彼? ……そうだ、かれは。まぶたを、手のひらでふさがれる。
「眠れ。これは命令だ、海川樺鳴」
 声を聞いた瞬間、僕のカラダの力が抜けた。ストンと。まるで、糸の切れた道化人形のように。気づくと頭の裏に、シーツの感触。唇を、ふさがれた。それが夢だと思った理由ー…。
 気づいたときには天井。僕はベッドの上でつぶやく。寒い、と。
 毛布からはみ出ている肩や手、右半身が、少し、冷えているようだった。唇に手をあてても、状況は何も変わらない。ゆっくりと、起き上がる。
 どうやらここは、僕の部屋のようで。夜明け前を思わせる薄暗さ。
 雨戸は開け放たれている。少しだけ伸びをして、体に異常がないかひとつずつ確かめていった。息をつけるということは、数時間前の僕は、どうやら無事に作戦を終えたらしい。
 キュウと、腹が音を立てた。舌打ちをして廊下に出る。明かりがついておらず、壁に手を当てながら動かなければならなかった。ホールに向かおうとしている。空気が重い。
 ――良かったじゃないか。そう自分を褒めてみても、やはり状況は変わらなかった。なにも。僕はまたこうして、時間の断片を誰かに食べられたというわけだ。頭が、鈍い音をたてて痛んだ。夢が、唇が瞳の奥で、再生される。
 ホールに着くと、誰かの寝息が聞こえてきた。ソファからだろう。けれど、ソファに近づいてのぞきこんでも、そこには誰も居なかった。てっきり、近野瑠ヰあたりが、仮眠をとっているかと思ったのに。
 よく耳を澄ますと、寝息と思ったのは、ざわめき。数人の、誰かの声。
 ――下から。
「だれ?」
 振り向くと、ライトに照らされた。
 眩しい。眉を寄せ、瞳を細めると、声の主は「そうか、あなたが」と言った。ライトは壁に当てられ、ぼんやりと取っ手が浮かび上がった。扉を開けるとそこは、地下へ降りる階段のようで、ざわめきがハッキリと聞こえてくる。どうやらここが、談話室のようだ。
「こっちからだよ、食堂なら」
 ライトがふっと消えてからも、僕はまだ、そこに立ち尽くしている。
 春人なら、迷わず入っていくのだろうけれど、僕はそろそろと足を踏み入れた。だんだんと、奥から橙色が浸食しはじめる。最初は目。次に手。そして、足。慣れてくると、ぼんやりとした光の中、ソファに数人が座っている映像が、うっすら浮かんできた。真上のホールと同じソファのようだけれど、橙のカンテラに照らされ、今は、笑っているように思える。
 天井は低く、室内は狭かった。その狭い空間の、真ん中に机。
 そしてソファ。壁際には古びた本棚と鉱石ラヂエイト。空き瓶の山。零戦の空中写真。奥へと続く木の扉が、なぜか二つ。
 ソファには、近野と肩涌が肩をならべていた。そして、ソファの向かいの椅子には、少年が一人。首をかしげて、笑った。
「アヤカキクラゲ、よろしくどうぞ」
 状況から言って、先刻のライトの主に間違いなかった。前髪は一文字に切られていたが、それももう目にかかるまで伸びている。寒くないのだろうか、上はシャツしか着ていない。高い声。あどけなさが残る笑顔。
 綾垣海月は立ち上がり、奥の扉へと入っていった。座りなよ、と、近野瑠ヰが言う。僕が座るかどうか考えていると、綾垣海月が、手にレイションを持って戻ってきた。左手で受け取って、右手で握手をすると、彼は「強いね、痛い」と顔をしかめた。
「朝になれば開くから、明日の食堂」
 どうして、と、訊くと彼は「お腹おさえてるから、さっきから」と言い、また、笑った。近野と同じ人種のようだ。
 ――次の作戦はあさってだよ、今度は疾風含めての編成だから。
 物事を整理することは簡単だけれど、新しい情報に戸惑うなら、それはまだ、整理しきれていないということ。つまり、この少年も飛ぶ、ということ。つまり、この少年も誰かを墜とす、ということ。
「ねぇ、明日、遊ばない?」
 僕はうなづくばかりで、あとは全部綾垣が決めた。僕は寝坊すると思うよ、と、付け足して、橙の海から浮上しようと試みた。

■ 6 笑えば曇る空、少年の夢 ■

 橙色の夢を見た。
 カンテラに照らされていたのは、草薙織楢のヘルメットだった。談話室の机の上に、置いてあった。誰も居ないようだけれど、彼は、どちらかの扉の奥には必ず居るだろう。僕はそのどちらの扉も開けず、コツリと一歩、零戦の空中写真が入った、古びた、木の額を裏返した。
 カタンと小さく音がして、零戦は写真から飛び出る。音もなく、談話室の中を旋回してゆく。
「――なぜ君がここに居る、」
 声に振り返ると、草薙がソファに座ってこちらを見ていた。腕と足を組み、彼はもう一度「なぜここに居る」と言った。
「なぜここに居る、君は誰だ、名を名乗れ」
 零戦はマワル。燃料はとうに切れているというのに。
 僕は、持っていた額を草薙に投げつけた。鈍い音がして、彼はソファから落ちる。ごとりと。まるで機械のように。
 その時、奥の扉が開いた。綾垣海月が入っていったのとは別の、扉から。出てきたのは、草薙織楢で、彼は彼を見下ろしながら、言う。
「何故君がここに居る?」
 零戦はいつの間にか、空から消えている。墜ちた。そうか。草薙織楢は、零戦乗りなのか。僕は妙に納得して言った。
「なぜって、これが、夢だから。そうだろ……春人」

     ★

 基地は山の入り口に建っている。ここから街へ行くには、この一本道を下るだけだと近野は言った。そうして門の近くにある、小さなガレージのシャッターを開けると、そこから見えたのは黒い、レクサシオン。彼女は笑って「ナイショ」と、人差し指を唇につけた。
 運転席には近野瑠ヰが、助手席には綾垣海月が、後部座席には僕が、それぞれ乗り込み、車は動き出した。
 僕は当然の事ながら寝坊したわけで、綾垣が部屋に入ってこなかったら、そのまま、春人と長い会話をかわしていただろうし。綾垣は綾垣で、どうやら近野に叩き起こされたらしかった。子供の特権というわけだね、と、僕が言うと、彼は
「子供じゃない、れっきとした疾風乗りだ、自分は」
 少し、機嫌を悪くしたようだった。
 道幅は狭く、砂利が雨で流れ、いびつな獣道と化していた。それでも、しばらく進むと開けた場所に出、木造の建物がひとつ、またひとつ増えては消えた。
「ねぇ、降りないの、」
 窓から、綾垣が覗き込んでいた。寝てしまったらしく、どこに着いたのか検討もつかなかった。大げさな音を立ててドアは閉まり、綾垣は笑った。
「ルヒは行ってるって、先に」
 機嫌は元に戻ったらしい。
 そこは、工場だった。もっと詳しく言うと、戦闘機の、製造工場。基地のガレージと同じような、尖った音が聞こえてくる。幾度もハンマーに叩かれ、エアフロウが悲鳴をあげている。ベルトコンベアの連続したうなり。油の臭い。
 少年は、油の海をすいすいと泳ぎ、振り返って手招きをした。聞けば、近野に連れられていつも遊びにきているらしい。……なるほど。遊び、とは、クリケットやビリヤードではなく、この灰色の海で泳ぐことだったのか。
 綾垣に案内され、各部署をまわる。設計専門のガレージでは、どうやら、新しい戦闘機を開発しているらしく、エンジンの部署では、スロットル調整に余念がない。作業員達は、僕らとすれ違うたびに丁寧な挨拶を。その仕草に僕はなぜか、肩涌の握手を何度も思い出した。組み立て専門のガレージに着いたとき、目に飛び込んだのはいつものつなぎを着た、近野。予想はしていたけれど、少なくとも近野は、遊びでここへ来ているわけではない。
 少年は手を振りながら駆け寄っていき、僕は、煙草を吸うためにガレージの外へ出た。急に、時間が、早く進みはじめた気がして、戸惑っている。
 少年の時間。僕の、時間。
 取り出したガルベは、談話室で肩涌練流に貰ったものだった。近野瑠ヰはまだ作業を続けているのだろうか。丁度よく、ゴロリと転がった大きな石を見つけ、そこに腰掛けた。周辺にはやはり、誰かが落とした吸殻が、散乱している。隣も工場のようで、機械が蠢く鈍い音が、土を通して伝わってくる。太陽が雲に隠れ、冷たい風が吹き付けた。
「……ねぇ、行かないの、ルヒの所」
 視線を移さなくとも、声の主は綾垣で。僕は煙草の煙を吐き出して、何か言おうとして、やめた。少年は僕の言葉がないと悟ると、早足で工場の中へと入っていく。
 何を言っても、何にもならない気がする。考えもしなかったことが、僕の中に流れ込んでくる。今まで僕はこんな人間だったのだろうか。
 進化と退化の違いは何なのだろうか。誰かに殺されたくてサミシイ?
 ロールの重力。長波の雑音。エンジンと一体になる、あの感覚。早く空の、あの青の中に、墜ちて、解けて、瞳をつむればいい。
 ――俺は今、何をしている?
「……ねぇ!」
 駆け足で戻ってきた少年が、高い声で叫び、僕は、びっくりして立ち上がった。
「カナルって、呼んで良い、」
 誰のことを言っているのかよくわからない。タイミング良く近野瑠ヰが出てこなければ、僕はそのまま、混乱して倒れていたかも知れなかった。……カナル?
 そのまま僕の心は、半ば放心状態にあって、紫電改の話を半分近く聞き逃した。近野は眉をひどくよせて「まぁ乗ればわかるから」と言った。
 しばらくしてから、そうだ、と思った。そうだ、あれは僕の名前だ。
 軽い昼食を工場の食堂でとり、車はまた、走り出した。太陽は雲に隠れたまま、一向に姿を現さなかった。
 どうやって部屋に戻ったのか、よく覚えていなくてため息をつく。最近そればかりで、もう、驚きもなにもない。彼女の言う台詞はとうに知っている。なぜ知っているのかよく思い出せなかったが、飛べ、と、言った。いつかカナルを殺すときがくるだろう。あいつは斜め下から、俺を殺しにくる。それまで、死ねなかった。
 紫電のそのくたびれた尾翼に、俺はよく鳥のペイントをした。たいしたものじゃない。ただ、黒のペンキでベッシャリと、棒線を二本描くだけだった。それを鳥だと言ったのはカナルだったのに、覚えていないという。俺は軽いショックを受け、それでも飛んだ。
 二度と一緒には飛ばなかった。飛ぶ日がくるのなら、どちらかが死を覚悟した晴れた午後、そう、決めていたからだ。

■ 7 斜め上の影、少し耳障りな音 ■

 ……幻覚を見ているような気になった。
 僕は自分の部屋のベッドの、その、細いふちに腰をかけていて、草薙織楢が近くに立っている。この間は台所近くの椅子に座っていたけれど、今日は目の前に立っていて、顔をあげなければ草薙とわからなかった。
 彼は、言った。
「ワタシは死人ではないが、棺桶に一回入ったことがある。あれは、とても、狭い」
 彼は彼のひとさしゆびを、自分の口にあてたようだった。そして、その手が、僕のくちびるに触れた。部屋はとても薄暗くて、なぜか、僕の目が夢を見るのは、いつでもこんな薄暗い夜か夜明けかの、どちらかだった。僕は訊きたかったことを、口にする。今しかない気がした。
 あの、オレンジの。
「……零戦の、写真」
 あぁ、と、草薙は思い当たったような顔をした。……いや、顔は全く表情を変えていないだろう。変わったのはその声のトーンだけだった。
「あれか。昔乗っていたが、あの写真は、ワタシのではない」
 ――ウソだ。そう思って僕は、立ち上がろうとした。けれど、動けない。何かの塊で頭を押さえられている。この冷たさは拳銃だろうか……僕の思考を見透かしたように草薙は「左翼の欠片だ」と言った。
「頭の中を覗いても、脳だけが散らばる。なら、骨を砕いてその隙間を覗いてみようか、」
「……僕は、結核持ちじゃない」
 瞳をつむっていても、うなずくのがわかる。
「そうか。……なら、飛べ」
「僕は殺されたいんだ!」
 いつもの、ガレージから響く金属音も、今日はない。静まりかえった夜に、僕は、やっぱり幻覚を見ているのだろうか。
「……葦野春人にか?」
 そうだ。幻覚だ。その証拠に草薙は、左翼の破片を窓際に置いた。朝には消えてなくなる、その証拠を。
「死ぬ方法を決めているのは、悪いことなんですか」
 朝になっても消えないということ、僕は、それを、知っていて否定する。
「ワタシも一度、思ったことがある。気休めは間違いだろうかと」

     ★

「……もう一度、どうぞ?」
『コード百舌目! モ、ズ、メ、だよ覚えてちゃんと』
 百舌目の甲高い声に、中継器がガガリという音を立てる。魔笛は、関係ないといった声で『小隊、準備完了。フタマルイチゴウ、出撃』そう宣言し、一足先に空へと昇った。
 前の基地での行いが悪かったのか、頭がクリアになる時間帯は、決まって、夕方か、さもなくば、夜。薄暗い部屋の中でだけだった。
 俺はヘルメットから、深く深く、深海魚になる。濃い紺へ、墜ちていく。
 錯覚でもなんでもなく、やはり、覚えていない時間がある。けれど、それらは、着実に進んでいた。まるで、俺一人が、立ち止まってうずくまって、泣いているかのように。そして、断片の隅々で彼女は言うのだ「飛べ」と。彼女の言葉しか記憶していないように思える。
 戦闘機の乗り方は、記憶じゃあない。体だ。
 ――この機体になにか、ペイントでもしようか。
 そこまで砂が運んだときには、俺は、とうに空の深海に足を踏み入れていた。エルロンを固定させ、しばらくそのまま、漂う。そういえば夜に飛ぶのは、今の基地に着いたとき以来だった。あの日は雨で、視界が悪く、手探りで飛ぶなんて芸当を知らない俺は、ただ検討をつけた方角に向かって進んでいた。
 光が見えたのは本当に偶然で、その偶然を意図的に起こしたのは草薙だった。この間会ったとき、彼女に名前を覚えられていないという事実に気づき、やっぱり軽くショックを受けた。俺が好きになる相手は、いつでも俺に、電気ショックを贈ってくる。
 法則というのは、どんなときでもささやかだ。普段は、気づかない。
『――ガ……フェイス二機、団八機。大丈夫? 多いよちょっと』
 綾垣からの偵察報告。中継器には続けてノイズが入った。向こう側が妨害電波を発している。五分先を飛んでいる綾垣には、もう何も、届かない。魔笛の判断に任せるとマイクに向かって言うと、すぐに返答が入った。
『……何機いける』
「三は余裕、」
『上下展開、五機たのむ』
 何を護りたいのかハッキリしている奴ほど、判断が速い。俺は彼女を護りたいわけじゃなかった。カナルを殺したからと言って、護る理由にはならないだろう?
 下降している最中に星が映ったレーダー。すぐさまレバーを引きフルスロットル。エレベータアップ。右手にチカラを入れた瞬間、何かとすれ違う気配。二秒数えると視界の右を花火が走った。煙? 気にするな。とうに俺らは深海の中で、瞳をフサガレテイル。
 まだだ。まだ上昇する。ブラックアウトすると思うだろう? そのまま翻して誰かを撃った。
『後方右十五度に黒翼二機!』
 キンキンと耳が鳴る。ロックされているというわけか。重力。左に下降しつつ星。もう六つに減っている。ロール。撃つ。右手。
 俺はいつまでも泳いでいる……深い。

     ★

 僕は海岸沿いで、砂の上に頭をのせていた。つまり、寝ているわけで、でも波の音は一向に聞こえなかった。砂は、じっとりと頭の奥まで吸い付き、このままこうして寝ているように、命令されている気がした。
 視界の左側は崖だった。そりたった岩の影から、草がのぞいている。岩は日にあてられ、乾燥して色が薄くなっていた。
 時々、黒く細い鳥が飛ぶ。それ以外、空を遮るモノはなかった。ふいに、空のはしに見覚えのある髪がのぞいた。僕は気づき、起きあがって、春人と並ぶ。僕らは空の上以外、なにも接点がなかったのに、どうして、こうして、並んでいるのだろう。春人の顔を見ずに、僕は海の中へ入ろうと、立ち上がった。
「なぁ、」
 ざぶざぶと、音の中、春人が話しかけてくる。
「なぁ、カナル。お前が……くれ。いいな、長波で……言ったら、お前の……」
 ――叫んで、目が覚めた。夜。ベッドの上で。頬が冷たい。落ち着け。
 ……作戦は。僕は、寝過ごしたのだろうか?

■ 8 停滞の裏、鍵のかかった上 ■

 しばらくそのまま、右手で左腕をつかみ、唇を噛んで息をとめた。寒い、凛とした空気だけが、ベッドの上に横たわる。チカラをこめると、右手が震えだした。いつだってそうだった。生きているかぎり、避けることなど出来ない事実。
 僕の右手は、重い。
 頭の奥に鍵がかかっていて、動かせなかった。なにが時間を途切れさせるのか。記憶は、たぐりよせようとするとまるで、蜘蛛の糸のようにたやすく、ホラリ、そんな音で消えていく。
 僕はひっしになって頭の鍵をまわそうと、鍵穴をのぞきこんだ。
 見えたのは、青。いつでも影は、斜めにかげって、白い雲は走っていた。春人がそれを歌にのせ、あの廃墟の中、永遠に飛べるものだと信じていた。そこには彼のほかに、もう一人、彼がいた。
 静かな声はどうしてだろう、懐かしいとも思えないー…、あの、整備士の名前はなんだった? 黒須……鴫…浅葱…違う。あれは。
「……くさなぎ…」
 声が枯れていた。黒い雨。冬の気配。そうだ、彼女が居た。三人で。
 あれはいつの話だったか、もう思い出せないけれど。草薙、いや、そんな名前じゃない。そんな筈はない。笑いあってた時間なんて、どこにもない。そう、思いこもうとした回廊。死んだ人。墜ちた機体。棺桶。
『あれは、とても、狭い』
 コクピットの水。死に水。コツリ。音がする。足音。小さく、それでいて低い。撃ったのは、誰だった?
 ――カナル。
 俺はそう言った。つとめて、冷静に。
 そうして次の日も、その次の日も、俺が作戦に呼び出されることはなかった。暇をもてあまして、俺は、談話室で肩涌とキースに興じた。興じる、といっても、肩涌は「ルカ三枚」「ペール五枚」「ダウト」くらいしか言葉を発しない。楽しんでいるのか、いないのか、俺にはわからない。
 ただそういう時には決まって近野瑠ヰか綾垣海月が居て、室内をうろうろしながら俺と肩涌の手札を確認した。
 いやこっちでしょそこは、あたしなら絶対こっちかななどと横から口を出し、的はずれな意見ばかりでしびれを切らした頃、肩涌がボソリと
「ルールを知らないんだ」
 とつぶやく。あぁ、と、納得して通り過ぎる毎日。
 談話室には他にも何人かの男たちが立ち寄ったが、誰も、俺に挨拶をしてこなかった。新入りから挨拶するのが普通なんだろう。俺が声を出さないから、いつまでたっても進展しない。この静止した毎日に、それでも俺は、ほっとしていた。気分だけが続いている。記憶も、このまま良い気分で、途絶えるなんてことの、ないように。
 数日後、俺はまた肩涌と二人で南南西に飛んだ。久々のエンジンを押さえ込むような飛行だった。目視で確認できるほどに銀の点が近づいたと思うと、敵はそのまま旋回し、遠ざかっていった。……牽制。
 逆に、こちらが出向いていき、そのまま旋回して帰還することもあった。
 牽制。硬直。そんな単語は悩みの種にもならない。
 時々、コクピットの中で眠ることもあった。近野は気をきかせて、大声でおやすみ、と言った後でオレンジを黒く塗りつぶした。パックリと開いた闇の隙間。沈んでいく。寒かった。
 俺は確認している。空から墜ちるなら、陸ではなく海に、という、その、人生最後の項目を。そして撃つのは、いつだってカナルで、すれ違った高度二千五百から、瞬間、あいつは空に、俺は、海に墜ちていく。
 そんな夢を見たがっても、起きたら俺は、陸に足をつけなければならない。
 果てしなく幸運で、不運。
 コインを放っても、表しかでない指のように。

     ★

「するんだって、離脱」
 綾垣がかがんで、俺の瞳をのぞきこんだ。
 談話室には他数人が、俺と綾垣が座っているソファを囲みこむように、狭苦しく、何かを話し込んでいる。司令室に全員を呼び寄せたが、入りきらず、談話室にあふれてきたのだ。後ろにいた俺には声すら届かなかいが、重大な事柄を伝えられたのは間違いなかった。
 司令室はその扉の向こうで、そこから出てきた足の数に、俺は、正直戸惑った。あの静かな廊下の中に、これだけの男達が詰まっていたのか疑問だ。久しぶりに聞く雑多な音に、俺は少し、耳を、ふさぐ。
 敗戦の色が濃く……。
 そんな声がどこからか聞こえたが、ラジオを振り返ると、音量は、ゼロだった。現実感のわかない言葉は低く、あぁそうか、こいつらが喋っているのかと思い当たった。
「どうするの、ねぇ?」
 綾垣がささやく。
 聞くところによると、ひとつ向こうの基地では、まだ人員を募集しているらしい。後退して戦うか、向こう側に寝返るか、それとも、飛ぶことをやめて陸に残るかー…最後の選択肢は、誰も、選ばないだろう。
「ボクは守るんだ、ルヒを。思いつかないしね、それしか」
 綾垣は笑ってそう言い、勢い良く立ち上がると、そのままどこかへ消えてしまった。
 しばらく時間が経ち、男達はゆるりと地上に上がっていく。一人、また一人。そこにゆらめく影とオレンジの瓶を見て、俺は立ち上がった。
 談話室の端に積まれた、空き瓶の山に近づいてゆく。四角いギネリが殆どだった。消毒に使っていたのか、飲んだのかは知らないが、ゆっくり持ち上げると、ゴ、と少しだけ抵抗した。
 底にかすかに残った、透明な液体。振っても、ツツリと消えるだけだ。
「――なぜ君がここにいる?」
 振り向くと、ソファに草薙織楢が座っていた。両手をあわせ、そこに顎を置き、背はゆるく曲がってなだらかな丘のように。
 いつもの挨拶をしようと、手をあげようとした瞬間、何かが重なって、気づく。手をおろす。息をつく。
 この手、挙げようとしたこの手は、左手だ。目の前が急に鮮やかに、そうだ、彼女は彼で、彼は、夢、だ。緑色の辞令は、俺のモノじゃあない。すっかり解けてしまった脳を、また、冷やすように、僕は口をひらく。ゆっくり。そう思えば全てがうまくいくような気がした。
 ……いや、実際にそうなのだ。渇いた、深い深い海の底のように、事実はいつだってそこに転がっていた。
「……春人…」
 誰も僕の名前を呼ばなかったこと。違和感。思い出せなかった時間。
 脳。海。空。夢。幻想のパラドックス。声。歌。青い空に墜ちたのは、本当はー…。
「君の推測を聞かせてもらおうか、海川樺鳴」

■ 9 墜ちてゆく青い空、墜ちてゆく青い海 ■

「……春人」
 確かめるようにもう一度言った、名前。空気が止まっている。
 ダレもイナイ。
 僕らの他には、誰も。
 そうして僕が言った名前に、草薙織楢は静かに、満足げに、唇をつりあげた。
 汚い。
 彼に会ってはじめてそう思った。
 彼女は彼で、彼は、夢。
 彼女だった草薙織楢は本当は春人で、もう、彼であった草薙織楢は居ない。
 当然だ。演技だったのだから。
 確信はまだ、余韻をもって僕の胸に響いている。
 僕らが生きている間確認しあおうとした拳は、左手だった。僕は右利きだけれど、春人が左利きで、だから、左手をあげてー…。
 体は記憶している。
 こいつには左手をあげなければならない、と、細胞が、叫ぶ。今まで何をしてきたんだ。
 僕はソファまでゆっくり歩き、おろした左手で、春人を殴った。
 否定しようとした。
 僕が、撃った、あの紫電は確かに春人のものだった。
 ――なぁ、カナル。
 お前が殺してくれ。いいな、長波で歌いながら、撃てって言ったら、お前の右手は一息つくんだ。
 いつも通りだろ。だって、なぁ、お前の右手は
「重い、だから撃った」
「……それが恋人だったとしてもか」
 墜ちたのは紫電、乗っていたのは、整備士の、彼女、草薙織楢。でも僕には、春人が死んだように……僕が殺したように、見えたというわけだ。
 彼はそのまま、のうのうと草薙織楢の緑の辞令をつかみ、ここへ来た。
 僕をベッドに縛りつけたまま。
 僕は狂ってしまっていて。記憶は曖昧で、僕の心も、体も、春人がまるで生きているかのように振舞った。目の前に、居たというのに。
 春人は立ち上がり、腰の拳銃を抜いた。僕の額にカチリとあてると、また、笑った。
「……カナル。好きだ。おかしいくらい、愛してる」
 僕の右手にはギネリの瓶が握られている。振り上げると、はずみで銃口がそれ、小さな破裂音は零戦の写真に当たった。
 ゴ。
 鈍い音がする。
「……僕も、過去形だよ」
 僕はもう殺してしまったんだ。
 そして、殺されることは、二度とない。
 誰も彼も嘘つきだった。僕は、ただ殺されたいだけの、ただの、弱いだけのただの。
 ……ただの、少女だったというわけか。
 橙色の足で、ガレージへと向かった。
 そこには近野瑠ヰが居て、相変わらず油臭いつなぎを着たまま、まさか今から乗るのか、と、訊いてきた。
 外は雨で、暗い。乗れる状態とは思えない。
 けれど僕にはひとつ、どうしてもやりたいことがあって、許可を貰ったと嘘をついた。
 彼女はそう、と笑った。
「あたしも時々乗るの、試験搭乗だけどね。コードは「ニライ」っていうのよ」
 紫電改を見上げると、垂直尾翼が黒く汚れていた。
 後ろに回って見上げると、それは、春人の鳥だった。
「ヘルメットー!」
 近野が大声で、僕のヘルメットを頭上にかざしている。声を無視してハッチを閉め、エンジンをかけると、彼女は観念したように後ろに下がった。ヘルメットを工具箱の上に置き、外へ通じるシャッターを開けに走る。
 雨。
 どしゃぶりの。
 予想通り、強風と雷でうまく離陸することができなかった。無理やりレバーを押し上げると、エンジンが悲痛な叫び声をあげた。やはり、ありあわせの材料で作られた機体は、脆い。
 けれど。
 けれど僕はこの上の、極彩色の青を知っている。
 頑張れ、と、ボソリとつぶやくと、見違えるように黒の雲を突き抜けた。
 エレベータアップ。
 そのうち耳鳴りが大量の幕を張り、僕はまぶたで光を受け止めた。
 太陽はまぶしくて、空は、いつまでも青い。
 どこでもなかった。
 ただ下は雲で、その下は雨。
 それだけわかっていれば正解で。
 僕は春人に殺されたくて、だから今、飛んでいる。
 斜め上には黒い影が見える。それがただの幻想であることを、今はもう、知っている筈なのに。
 垂直に、エルロンロール。狂ったままでいい。レッドアウトもブラックアウトもしない僕のことを、皆、寒天のようだと言った。
 僕は寒天じゃない。銀河でもない。
 誰でもない。
 あれは草薙織楢だった。
 あれも草薙織楢だった。
 俺は本当に、本当に何人もの人を殺してきた。
 僕は本当に、本当に何人もの人を墜としてきた。
 だから。
 もう。
 いいだろう?
 そう訊いても、目の前には、青だけが広がっている。境界線は反転していて、穏やかな気分が広がる。
 ここは空で、そして、海。
 何も持たずに来たと思ったのに、僕のフライトジャンパーのポケットから、キースの9がのぞいた。
 ふっと、笑いがこみあげてきて、右手のレバーを、強く、押した。
 さぁ、いこう。
 海に。
 空に。
 ――僕は、墜ちる。