■ Bar joker ■

 歓楽街の奥、薄暗い路地を左に曲がった地下一階。
 ハインリッヒが黒く重い扉を押しあけると、カウンターのみの狭いバーが現れた。カウンターは無垢の一枚板、スツールは5つほど置かれている。客は誰もおらず、有線からジャスが流れる中、バーテンダーが一人シャンパングラスを磨いていた。
 照明がちらちらと、棚に置かれた酒やグラスを反射する。ハインリッヒは目を細め、男をしばらく眺めた。
 バーテンダーはグラスから視線をそらさず、
「ハイリ先生じゃないですか、お久しぶりです」
 口角をあげた。シャンパングラスの脚をついと持ち上げ、照明にあてる。慣れた手つきで棚に戻し、男はようやくハインリッヒと視線を合わせた。右手でカウンターの三番目を示す。
「いつもの席、空けてありますよ」
 右手の袖が持ち上がり、手首に刻まれたダイヤモンドの刺青がちらりとのぞく――。
「クラブ……」
 ハインリッヒは喉から、絞り出すように尋ねた。
「君の娘はまだー……」
「えぇ。見つかっていません」
 倉部と呼ばれたバーテンダーの顔から笑顔が消え、同時に店内も静まり返った。数秒ののち、有線からジャズが流れ始める。
「先生、」
 ふっと表情をゆるめ、倉部は言った。
「今日は貸し切りにして、二人で飲みませんか?」
 ハインリッヒの返答を待たずに倉部は出入り口まで走り、扉を開けてクローズの看板を出し、店頭の灯りを消した。ハインリッヒが「いつもの席」に着くと、彼はナッツを深皿に盛り、ジョニー・ウォーカーの赤をトンとカウンターに置いた。
「先生は確か、ロックでしたよね」
 倉部は言いながらグラスに氷を入れる。ハインリッヒの横に座ると、倉部は乾杯もなく飲み始めた。ナッツを数粒飲みこんでは、グラスをかたむける。
 ジャズが流れている。
「……警察は、あてになりません。出ていったのも妻と一緒で、しかも置き手紙があったなら事件性はないだろう……って。失踪届を受理して、ただ、それだけです」
 カラン、と氷が鳴った。
「私にも生活がありますから、時間は限られているけれど……。家族で一緒に行った場所とか、妻の実家のほうとか……色々まわったんです。でも、居なくて……」
 倉部はそこまで言うと、グイっとグラスをあおった。
 その様子を見たハインリッヒは「落ち込む事はない」と言おうとしたが、言葉は口の中に留まり、分解された空気がもごもごと消えていった。まったく酔えない時間をハインリッヒは過ごし、倉部は少し赤くなった顔で「また来てください、先生」と肩をすくめた。
 重い扉を押し開け地上に出ると、それでも――、笑いがこみあげてきた。
 ――このまま秘密を続けよう。
 ハインリッヒは自宅への道すがら、優秀な生徒であったダイヤの過去を回想し続けた。
 倉部がダイヤを殺したあの日を、ハインリッヒはまだ許していない。