■ 寄る辺の森 ■

 扉は、隠された本棚の奥に存在する。
 隠された本棚が存在する部屋には、広大な三ノ宮家の西はじに位置する廊下を通らなくてはならない。そして西はじの廊下は、午前零時から四時の間しか通ってはいけない。そういう決まりなのだ。
 森にかこまれた誰もいない廊下を静かに進むたび、真夜中の鳥が一声うめく。
 ――剥がされる。
 今まで僕だと思っていた、なにもかもが剥がれおちていく。廊下は透明な嘘で埋められて、かつて自分だと思っていたはずの透明な目が、じっと背中を見つめてくる……。実際には振り向いても、塵ひとつ落ちていない。落ちているのは月光だけで、それも深い森の葉に区切られ、影は。……月のなみだのように点在している。
 隠された本棚が存在する部屋に着く。
 この部屋は使用人たちの間で「幽霊が出る」とたびたび話題となっている。けれど、三ノ宮家には、肝試しを敢行するような愚かな使用人など一人もいないし、もちろん鍵もかけられている。
 左のポケットから鍵を取り出し、扉を開いた。
 古びた主人の書斎、といった体の調度品がならんでいる。見慣れたそれらを無視し、本棚に向かう。重そうな背表紙の本は全てダミーで、中身はない。軽く右にずらすと、ガラガラと音をたてて古い木戸が現れた。
 これにも鍵がかけられている。右のポケットから鍵を取り出し、扉を開く――暗闇の中、気配が動いた。
「……こんばんは、ひしな」
 か細い青年の声。直後、青年は激しく咳き込んだ。私は急いで電気を点け、ベッドで苦しんでいる青年のもとへと駆け寄る。背中をさすり、水を探す。
「いいッ! ひしな…、っ大丈夫だから……、ッ…!」
 発作がおさまり息を整えた青年は「ごめん」と謝り、改めて今晩の挨拶を告げた。
「君がきてくれて嬉しいよ、いつもありがとう。……ここは退屈すぎるよ。見て、またあんなに」
 青年が指差したのは、この隠し部屋の壁だった。全ての壁が天井まで本棚になっている。本物の書籍が所狭しと並べられ、指差した先の床には、本棚からはみ出た書籍が山のように積まれている。
「あれ、要らない本。ひしなにあげるよ。あとで運んで。っと、時間がない、座って。ね、隣においで、ひしな」
 ベッドのふちに座り、私は今日あった出来事を話しはじめた。
 青年は静かに聴き続け、最後にいくつか質問をする。いつもの事だ。最後に、今後「僕」がとるべき行動を簡潔に指示して会話は終了した。
 本をダミーの書斎へと運びだしている間、青年はベッドから立ち上がり「うーん」と伸びをした。本運びを手伝いたい素振りをみせたけれど無視した。彼は書斎に出ることさえ禁じられている。
 最後に扉を閉める時、青年は私の手を取りこう言った。
「おやすみ、ひしな……」
 もう、私を、その名前で呼ぶ人間はこの世界に一人もいない。
 そして彼を、この名前で呼ぶ人間は三ノ宮家に一人もいない。
「おやすみ……、森くん」
 本を数冊持ち、廊下を静かに歩く。
 置き去りにされていた透明な嘘がまとわりつき、自分の部屋へと戻るころには、僕が「僕」になる。予定されている行動を反芻しながらベッドに倒れ込み、明け方まで眠った。