■ うさぎさんと一緒に暮らす ■

 うさぎさんが、じくりと湿った僕の陰鬱な書斎に訪れたのは雨があがった3時半のことだった。
「やあ! 相変わらずインキな場所だねここは!」
 うさぎさんの巨体が扉をくぐる。雨跡の匂いが、同時に部屋を満たし始めてひどく、まぶしい味がした。
「おはよう、うさぎさん。インキって何」
 まぶたをこすりながら、本を閉じる。どうやら昨日、本を読みながら僕は眠ってしまったようだった。肩にかけた上着が本の上に落ちて、そうでなくても、どこをとっても、ワンルームの僕の部屋は本で埋まってしまっている。部屋ごと書斎だ。
「インキとは陰の気と書くね。君とこの部屋の様を表すのに最も適した言葉だ! うんうん」
 うさぎさんが一歩ふみだすたびに、詰まれた本がばさばさと落ち、乱雑に紙は折れた。この元気すぎる巨漢は、世間一般的に僕の命の恩人に相当する。けれどこんな男に助けられたがために、僕は最近、騒音に頭を悩ませている。
「……ごめんうさぎさん、うるさい」
「おや、それはすまなかったね!」
 ちっとも音量が低くなっていない。何度も注意するとそれでも少しは低めに、うさぎさんは僕の腕をつかんだ。
「出かけよう森君」
「どこへ、」
「ついてくればわかるさ。さ、君、こんな格好していないで着替えたまえ。今日は少し涼しいから薄い長袖が良いだろう」
「…そんなもの……」
 ここにはないよ。安心して生活できるものなんて。ここには。
 しかし強引に着替えさせられた僕は、季節はずれにも程がある冬用の、厚い黒パーカーの袖をゆらすはめになった。快活に歩くうさぎさんに引っ張られるカタチで電車に乗る。
 電車なんて久しぶりに乗った。思ったよりも遠いようで、電車は混んでいて、僕らは二人で先頭車両のいちばん前に立った。ゆれ、各駅にとまるたびに、何か霞がかった引っ掛かりを覚えた。
 僕はまえにも、うさぎさんとこの電車に、こうして、先頭車両に、乗ったことがあるんじゃないか?
「うさ……、どこいくの、」
「楽しみというのはとっておいた方が後々楽しいと思うんだがね、森君」
 僕はまえにも、うさぎさんにこう言われたような、違う、こう言ったのはうさぎさんじゃない、誰か、違う、言ったのは、誰だ?
「ここだ! 森君、降りよう」
「え? あ、うん」
 あわてて電車からおりる。改札を抜けて地下道から出る。ここは、ここ、は、見覚えのある風景。
「いやだ……」
 つぶやきは無視され、急にそでを引っ張られる。うさぎさんの背中は大きくて、雲の切れ間からのぞく太陽が、肩にちらちらとかかった。何も考えたくなくて、そればかりを眺めているとあっという間に路地に入り、うす暗い細道を何度か曲がってぬけると、突然クリーム色をした、三階立てのマンションが現れた。階段をのぼった、三階の角部屋。
 うさぎさんは鍵をあけ、僕に、中に入るように促した。クリーム色の壁と、木のフローリングで慎ましやかに統一された室内。まだ引越し前とみえて、何も置かれていない。まっさらな空間。
「どうだい? いいところだろう――南向きだから暖かいな! 実はね、4月からここに住もうと思うんだよ、君、どうだい」
「へえ、」
 いいんじゃないかな、と僕は感想をのべた。路地は裏道だろう? 駅から結構近いじゃないか、そこの向かいにコンビにがあったね、使いやすそうなシンクだね、でも、
「うさぎさんは大きいからなの? なんだか、部屋が広いね……」
 3部屋もあるのだ。僕はぶらぶらと戸口に向かって歩く。
「森君、」
 ふりかえると、リビングの、光がたまっているところから、うさぎさんは言った。
「君、ここに一緒に住まないか」
 ぞくっとした。後ろがひえる。何だ? 後ろ? 戸口だ。ここは、だって、ここは、外に出ると
「いやだ……」
 殺される
「森君。僕のことは嫌いかい?」
「違う! うさぎさん、ばかじゃないか、どうしてこんな……」
 殺される。
「やだ……、いやだ!!」
「森君!!」
 ぎちりと左腕を握られた。ハ、息が上がる。うさぎさんが見ている。の、は。浮かんでいるのは、袖の下に左に走る赤は、バツの形にくっきりとつけられた傷。それはうさぎさんがつけた刃物の傷だ。刺青を消そうとしたのだ。僕につけられた標的の証を。
「逃げてばかりだと悪化するだろう。陰気な部屋は、君には似合わない」
「陰気で十分だようさぎさん……、とにかくいやだ。僕は帰る」
 どんな本を読んでも書かれていなかった。
 恐怖を溶かす方法、なんて。ものは。
「僕のことは嫌いかい?」
「違う、そんなんじゃない」
「なら大丈夫だ」
「何が!」
「いやぁ、君が僕と暮らさないなんて、僕はよっぽど森君に嫌われたものだなぁ!」
「だから違うって言ってるだろ!」
「じゃあ暮らそう」
 おおきな手が、僕を諭すように両肩に置かれた。
「アリスに言われているんだよ森君。わかってくれるね?」
 ――なみだがでそうだよ、アリス。どんな本にも書いていないんだ。
 君を取り戻す方法、なんて。ものは。
「名前……その名前は出さない約束だろ、わかったよ。うさぎさん。暮らすよ……ここで」
「本当かい?!!」
 うさぎさんは大声で喜びをがなりたて、こうして、4月からうさぎさんと一緒に暮らすことになった。もう夕日で、明日は晴れるらしい。僕は駅前でうさぎさんと別れた。
 どれもこれも過去で全然悲しくないはずなのに、書斎に帰ったあと僕は、本に、埋もれて一人で泣いた。