■ を、した後。 ■

 一回目をした後、目を覚ました私が見たのは天国でも地獄でもなく薄汚い段ボールの天井だった。
 右に視線を移すとガムテープで固定されているブルーシートが。左に視線を移すとその辺から拾ってきたような木の棒と土手をかためるコンクリートが見える。
 ――河川敷の掘っ立て小屋。
 そう気づいて起き上がると同時に、一人の男がブルーシートをばさりと持ち上げて入ってきた。何日も洗ってなさそうな長い髪、何日も洗ってなさそうな薄汚いスカジャン、何日も洗ってなさそうでもう元の色も留めていない真っ黒なジーンズ。
 まごうことなきホームレスだ。
 認識したとたん、私の鼻腔に、じめっとした下水のような臭いが襲い掛かってきて私は吐いた。
 びしゃびしゃと、先ほど飲み込んだであろう泥水の次に昨日の残骸が吐き出され、茶色いシミをつくった。床も段ボールでできている……。
 私はたまらなく惨めな気持ちになって、男が口を開きかけたのを見て勢いよく立ち上がった。ボスっと頭が段ボールにぶつかる。バッとお辞儀をしてブルーシートから逃げ出した。
 はぁはぁと息を吐く。
 まだ生きてる。
 ドキドキしている心臓。
 どうして生きてるの。あの人が助けたの? 頼んでもいないのに。なんで!!!
 ……借家に帰っても誰もいない。
 ちいさなちゃぶ台に、あいつらからの封筒が乗っていた。
 お小遣いなんかじゃない。
 私のバイト代をあてにした、飲み屋の請求書。

     ★

 二回目をしようとした途端、作業服を着た男に呼び止められた。
「おい! そっちは遊歩道じゃー……、ん?」
 男が首をかしげる。
 私も首をかしげた。
 その時、鼻腔に腐った卵のような臭いが漂い、ハッとした。
 ホームレスのおじさんだ、この前の。
 向こうも気づいたようで、つばのついた帽子をギュギュッとかぶりなおしてから、ぐるりと私の前に回り込んだ。そして別れ道というか、林道というか、獣道といったほうがいいそこの部分を、手前の草で丁寧にふさいだ。
 男が今度こそ口を開く。
「おれは宮坂っちゅーもんだ。お前さんは?」
「………」
「会ったの二回目だろ? 知らねーオッサンじゃあねぇんだがら」
「……中村…」
「山っちゅーのは怖ぇもんだがらな。下のキャンプ場まで案内してやるがら、着いて来ぃ」
 そこから先の会話はなかった。
 でも着いていくしかなくて、失敗の二文字が頭のなかをグルグルまわっているうちにキャンプ場に出た。
 和気あいあいと遊んでいる家族連れたち。小さい頃はずっとああいう事をしたかった。憧れてた。でも、あいつらは私のこと、そういう風には見ていなかった。
 ずっと邪魔だったって、いつ言われたんだっけ。
 青空に響く子供の笑い声をぼんやり聞いているうちに、宮坂さんは居なくなっていた。

     ★

 三回目に失敗した後、私は河川敷に行った。
 粗末な段ボールとブルーシートの小屋はやっぱりそこにあって、めくってみると、宮坂さんがあぐらをしたまま寝ていた。
 ガーガーといびきをかいていて、時々フガッと大きい音を出す。そのたびに、生乾きの服を凝縮したような臭いが私の鼻腔に押し込まれた。
 たまらずセキをすると、宮坂さんが「うぉ!?」と声を上げて目を開け、私を見てもう一度「うぉ!!」と声をあげて後ずさりした。
 ちょっと面白い。
 笑いそうになって口に手をあてた。
 宮坂さんは私の手首の傷をじっと見て、次に眉毛をぐおっと寄せてしかめっ面をした。それから大きく鼻で息を吸って後ろを向き、ごそごそと何かを取り出す――薬局でよく見る消毒液だった。
 右手でそれを持ちながら、左の手の平をこちらに向けてきた。
 べったりと顔にはりついている何日も洗ってなさそうな髪のあいだから、真っすぐな目が光っている。
 私は直視できなくて、横を向いたまま左手首を宮坂さんにまかせた。
 染みて、痛くて、でも。
 涙はでない。
 あいつらのために流しきってしまった。なんて愚かだったの。過去の私。
「……また、」
「あん?」
「また来ていいですか」
「ああ?? なら手土産持って来いや! いいが、こういう時はな、手土産持ってくんのが常識なんだよ。なってねぇなー、中村は」
 宮坂さんはホレと言って私の手首をバシリと叩いた。

   ★

 家と学校とバイトの生活を一か月続けたあと。
 私は誤魔化してため込んでいたバイト代で、ミニ七輪と練炭を購入した。スーパーで買った秋刀魚を持って河川敷に行くと、宮坂さんはニカッと黄色い歯をみせて笑った。
 ブルーシートと段ボールでできた小屋の中央に七輪を置いて、練炭を入れる。宮坂さんから借りたライターで火をつけて、フーフーと息をかけると炭の破片が舞い上がった。小屋の中は、泥と炭でとても臭い。
 宮坂さんはしばらく私の奮闘ぶりを眺めていたけれど、突然
「うちはスキマ風あっから、練炭自殺すんならもっとマシな場所でしな」
 と真面目なトーンで呟いた。
「……知ってます」
 四回目の秋刀魚は、美味しく焼けた。