■ ワルシノアンと二人で地獄 ■

 気がつくと私は、男とふたりで乗り物に乗っていた。
 霧のせいでよく見えないけれど、時折前方に見える茶色の躯体……鳴り続ける蹄のような音…どうやら馬車のようで。
 ここが馬車だとして、どうして私は知らない男とふたりで移動しているのか……、思いだそうとしても、記憶すら霧の中へ溶け込んでしまったようだった。
 男をちらりと見る。茶色のスーツ。茶色の帽子。白と赤の、まだら模様のマフラーを首からさげている。スッキリした顔立ちの青年だったけれど、見覚えは……まるでない。
 と、目が合う。男はふんわりと微笑んだ。
「――可愛いエプロンですね」
 視線を下に移すと、たしかに私は白いエプロンをしていた。けれど所々になにか、赤い、シミのようなものがー…、
「ヒッ?!」
 思わず声が出る。
 今、はじめて気が付いた。私の右手は、ずっと包丁を握っていたのだ。そして血が、赤い血が、右腕にかけてベットリとこびりついている。同時に思いだす。私は。
 私は生肉の調理中に、この男に殺されたのだ、と――。
「あれっ、どうしましたか? 具合でも?」
 男が問いかけてくる。
 赤いマフラーが記憶と二重にゆらめいて、私は顔をそむけグッと身をよじった。
「あ、自己紹介まだでしたよね。オレの名前はワルシノアンです。奥さん、思いだしたんですね……」
 男、ワルシノアンはクツクツと笑ったあと、更に続けた。
「馬車の人に聞いたンですけど、ココ、地獄みたいですよ。もうすぐ裁判所に着くみたいなので、もうちょっとの辛抱ですから」
「じっ、地獄……?」
「あっ、なンか、ショーニンカンモンってヤツみたいですよ。殺した奴の、えーっと、ショーゲンのイッチ? みたいのを調べるとかって言ってました。あぁ、地獄の裁判所ってどんな所だろうなぁー…」
 私は更に思いだす。
 チャイムの音と、家に押し入ってきた男――ワルシノアン。見開かれた目に、憎しみが宿る。その形相。おろされた拳。衝撃。床の冷たさ。手が。首に、息が、あ、く、苦し……、彼を…残して逝くわけには……。
 ――ガタン!
 馬車が急に停まる。
 ワルシノアンが降りたあと、黒いフードを被った御者が私に手を差し伸べてくれた。包丁を持ったままの右手は使えないので、左手を出し、馬車から降りた。一瞬キラリと光ったのは、彼から貰った薬指のリング。一緒に地獄に持ってきてしまったみたい。あの、新居の、清潔なキッチンを思い出してすこし、涙ぐんだ。
 私が死んでしまって……彼は今頃どうなってしまったのだろう……。
 黒のフードをかぶった従者に案内されて数分、ようやく裁判の会場に着いた。白い空間。私は中央の台に立ち、ワルシノアンは横の席へ。黒い服の男たちが、ひどく高い席から私を見下ろしていた。
 カンッ、と、裁判長のハンマーが振り下ろされる。
 証言、といっても、あまり記憶もないし……。何を話そうか悩んでいると、横から「皆さん!」と声が飛んできた。
「この女は極悪人です! 殺人という罪を犯した、しかもそれは! 彼女を愛していた善良な一市民に対し行われた、残虐な! 非道な! とんでもない犯罪だったのです!!」
「なッ……!?」
 声の主はワルシノアン。
 なぜ??
 私を殺した犯人が、私に罪を押しつけようというの?!
「何を言っているの? 殺してきたのはそっちでしょ?! わ、私は、ただ料理してただけー…」
「聞きましたか皆さん!! 彼女には罪の意識というモノが全くありません、極刑を望みます!!」
 ぞわぞわと不安が押し寄せてくる。誤解なのに。誤解されて、私が犯罪者になりかねない。高い位置にいる裁判官たちを見上げるも、フードが邪魔で表情は窺えない。
「ちっ、違います! 私じゃありません!! 私は肉を切ってただけで、だから、包丁も違うんです! あの男のマフラーを見て下さい! きっと白のマフラーが、私を殺した時の血で赤くなったはずでー…」
 ワルシノアンの冷えた目が、私を射る。
「これはこういうブランドなんですよ、奥さん。それに、オレは首を絞めて殺したんだ。血なんて着くはずないんですよ。……訊きかたを変えましょうか。その指輪。どこのブランドです?」
「――えっ?」
 私は左手の薬指を見る。彼から貰った結婚指輪。幸せになろう、二人で一緒に、そう誓った指輪。これはー…。
「このマフラーのブランドと同じですよ、奥さん。オレがあいつに紹介してやったんだから。……あいつは本当にイイ奴だった…幸せにしてやるんだって、言ってたのに!! ――ねぇ奥さん。あいつは奥さんが死んで、今頃どうしていると思います? 泣いてる? それともー…」
「……腐ってるでしょうね。残念。……?!」
 自然と口をついて出てきた言葉に、私は自分で驚いた。
 腐…って……??
「ほらッ!! 聞きましたか陪審員の皆さん、この女は畜生以下の存在だ! 善悪というモノがなんなのか、それすらわかっちゃいない!!」
「本当になんなの!! 私はただ料理をしていただけなの! 彼のために、彼と、二人でー……」
 幸せになるための料理を――
「生肉、を、」
 彼と一緒になるための――
「切って、」
 彼とひとつになれる――
「料理、を……」
 ぐらぐら揺れていた記憶が、ようやく鮮明になる。
 殺した彼の肉を切断していた私、チャイムの音、押し入ってきたワルシノアン、驚きで見開かれた目、憎悪の表情、私が死んで……彼は今頃どうなってしまったのだろう……腐って、鑑識にまわされ、焼却されてしまったのだろうか。
「こ……、これだけは言わせて下さい私は! 彼を、愛してました……」
「嘘だね」
 ワルシノアンの言葉を最後に、裁判長のハンマーが、振り下ろされた。
 ――カンッ。

■ ワガママ。 ■

 太陽は粉雪に隠れ、君の影が見えない。
 ここは、人気のない雪山で。
 吹雪きさえなければ安全な山なのだけれど今日は彼女の願いどおり、吹雪だった。
 どうして僕が今、こんな所に居るのか、少し説明しなければならない。
 結構短いので聞いてほしい。
 僕の彼女は、とてもとても不思議な雰囲気の人だ。まるで、おとぎ話の国から突然現実世界に連れてこられたような、そんな感じの女の子。「今」という時間を生きていない感じのする彼女は、事あるごとに……それは、僕からしてみれば小さなアクシデントでも、自分を責めて、死にたいと言う。
 どうして「死」という言葉をそんな軽々しく言うのだろう?
 両親を早くに亡くした僕には、彼女の死にたい気持がよく理解できなかった。
 そんなある日。彼女に
「あたしを殺して」
 と、言われ、僕はヘラヘラ笑いながら
「無理」
 即答した。
 当たり前じゃないか。
 君を殺して? それから僕はどうすればイイんだい?? 罪に心を蝕まれ、死ぬまで君の存在を証明しろと?
 そんなの、無理に決まってる。
 すると、彼女はこう言った。
「それじゃぁ、約束して。あたしが本当に死にたい時には、車で雪山まで連れて行って」
 僕は意味がわからずうなづいたけれど、ココにきてようやく解った。
 ……凍死、するの?
 というか、もぉ遅い。彼女は何分か前に、僕が「危ないから」というのも聞かずに、車を降りてどこかへ行ってしまった。
 そういえば、今日の彼女の格好。
 冬着にしては、なんだか薄くなかったかい?
 凍死……する気?! ちょっと待って!!
 ――バンッ!!
 車のドアを開けると、いきなり視界は光の世界に包まれ、僕は一瞬天国に来たのかと思った。
 ドコ? どっちに行ったの?!
「……ドコに居るんだい……!!」
 僕の叫びは、風に乗って無意味な曲線を描き、そして、消えた。
 この白い世界。君も、僕の声も、白に飲み込まれて消えてしまった。
 届かないの?
 僕の声、君には届かないの??
 死なないでって、言ったじゃないか。
 君が「死にたい」と、自分の手首を傷つけたり泣きながらビルの屋上に上るたびに、
「……死なないで…」
 君が好きだから、
「行かないで……」
 言ったじゃないか!!
「死ぬな――――――――ッッ!!!!」
 ……声は横切る風と粉雪に斬られ、消えた。
 しばらく僕はそのままで。
 それから、雪があまりにも冷たいから、車の影に移動した。
 どれもこれも、全て約束どおりだ。彼女と笑って交わした約束どおり、僕は彼女を車に乗せてココまで来た。そして彼女は薄着で車を降りた。
 要するに、僕が彼女を殺したも同然だ!!
 頭を抱えてそのまま死にたくなった。こんな酷い気分は、生まれて初めてだった。
 その名前は、罪。
「愛してる」という言葉ダケで満足し、本当に彼女を愛することができなかった僕の、罪。
 彼女にとっては、僕の願いよりも自分の死の方が大事だったんだ。僕は悔しさと怒りが入り混じった涙で、氷の結晶を眺めた。
 君はこのまま帰ってこないかもしれない。
 本当に、消えてしまったのかもしれない。
 ……でも。
 願ってもいいかい? どうか、愛しい君。僕のわがままを聞いてくれ。僕には君が必要なんだ。
 この白い世界に消えないで……。
 瞬間、風がやんだ。
「………れ、」
 足元に、何かある。かがんでよく見ると、それは君が今日履いていた靴だった。そっと拾い上げる。
 もしかして、まだこの近くに居るの?
 そう思った時、雪の合間に何かが見えた。
 ――君が。
 反射的に駆け出したと同時に、雪がうなり声をあげ始めた。一瞬で視界が白く閉ざされる。それでも僕は、自分の瞳を信じて前に進んだ。
 あれは絶対彼女だった。
 消えないで。
 行かないで。
 ……どれくらい進んだのだろう。前に出そうとした足に何かが突っかかって、僕は前のめりに倒れた。
 ……ぼふっ。
 雪の音は緊張感がない。こんなに必死なのに。
 半ばあきらめて笑った僕の目の前に、
「……来てくれたんだ…」
 君が居た。
 君もうつ伏せに横になっていて、僕はそっと君の頬に手を滑らせた。
 冷たいカラダ。でも、まだ消えてない。
「一緒に帰ろ? 僕には、君が必要なんだ」
「…―まだ死なせてくれないの」
 僕は立ち上がって、君の腕を無理やり引っ張り、雪の中を歩き始めた。
 死なせない。
 絶対に死なせない。
 これは、罪?
 死にたい人を死なせないなんて、罪のうちに入るのかな……。
 とにかく車に戻ったあとで、僕は冷えた君の体を抱きしめ、長い長いキスを。
 君は涙をためた瞳で、君を生かした僕を、悲しく許して受け入れた。