■ うるう明後日 ■
氏が、戸棚から瓶を取り出した。
薄青く、厚いガラスの中にひとつ、赤い尾ひれと胴体が横たわっている。微動だにしないそれが巨大な金魚だということに、2度3度見て私はようやく気付いた。
「――失踪する前日の、妹さんの様子をうかがってもよろしいですか?」
私は黒皮の手帳を開き、いつもスーツの胸ポケットにさしている細い、銀のペンを握る。
窓の外は曇天。眼下に大きな湖が見える……2月の寒さに耐え切れるわけもなく、湖の表面はすべて氷で覆いつくされていた。
氏が、机に瓶を置く。
話し始めた内容を手帳に書き取りながらも、蓋の部分に目がいく。タグがつけられている……売り物? こんなものを? 氏のうしろの棚には、同じような瓶がずらりと並べられていた。
背筋が、スッと冷える。
気味が悪い。仕事でなければ、どうしてこんな。
「妹は赤い着物が好きで、よく着ておりました。あの日もそうだったと記憶しています。外に散歩に行くと言うので、ワタシも一緒に出かけたのです。そこの湖のほとりを途中まで、」
氏が窓の外を指差したとき、先ほどとは全く別の光景が、目にとびこんできた。一面の白。吹雪だ。これには氏も驚いたようで、困ったように笑った。
「天気予報では、午後には晴れ間が出ると言っていたのですが……、車は大丈夫ですか?」
「あっ……、」
路上駐車が悔やまれる。すぐだと思い、コートは車の中に置いてきた。まぁ少し待ちましょうかと、氏は私にコーヒーを淹れてくれた。自然と、雑談になる。
「妹さんとは、かなり仲が良かったようですね……恋人なんぞ連れてきた日には、大変だったでしょう」
「えぇ、そうなんですよ。ガラにもなく嫉妬してしまいましてねぇ……嫉妬というか、親心でしょうか。両親を亡くして、小さな頃からずっと育ててきましたから……お恥ずかしいかぎりです」
「失礼ですが、そちらの瓶は? ずっと気になっていたんですよ」
「あぁ、これは私の作品です。中の金魚はレプリカですよ。樹脂で作って、色を付けてあるんです。湖から連想したんです……まぁ実際、あの湖には、金魚なんて住んでいませんけれどね」
氏は視線を窓に移し、愛おしそうに目を細めた。
金魚。赤い着物。湖。青色の瓶。
瓶の中の、白濁した眼球。
もしかしたら、湖の中に、妹さんは、湖の中に……憶測をふり払うように頭をふった。窓の外はやまない吹雪で……眠い。
額に手をあて、もう一度頭をふる。
氏の声がぼんやりと響いた。
「……作品にすれば、永遠に愛でていられる……」
がたん、と、椅子がゆれた。
動かない。しびれている。氏が、私のてのひらに触れた。力の入らない左手首が、ゆっくりと持ち上げられる。
ひたり。
ナイフ。
私の皮膚から、金魚が飛び泳ぐ。
■ 美しい水 ■
「触れて、雪はもう終わると思った。閉じられたまぶたから水が流れて、嗚咽もなく美しくて透明に光って、死なせてくれたらいいのにと、唇からたしかにおちた」
雪を踏みつけ歩く。
日本は今頃、夏だ。朱色に燃える夏。想像は抽象的で、それはもう何年も日本に帰っていないからだった。
――帰って? 国籍ももうないのに。
「逃げてしまおうとハッキリ思ったのは冷えた冬の日だった。日本での、最後の冬。今では夏に、その日付だけがあやふやと立ち消える。過去を振り返っても何の得にもならない。言い聞かせて振り返らなかった。飛行機の座席は通路側に。空さえ」
雪がおちている。今日はもう少しあたたかい料理がいい。
扉にはりついた雪を、妻がハタハタと箒でほろっている。立ち止まって眺めた。滅多にない光景だ。
仕方がないので重ねた。夢のせいだ。雪が降ると必ず見る、あの夢。
「死が、そのあたりの雪をまたたく間につつんでいった。飛び降り自殺に失敗したまま、ぐったりと横たわっているコートをかき抱き、そうだ、あの読んだ本の言葉を伝えよう。死にたいと思っている者はその中に永遠の生を内包している。伝えようとしたのに、目の奥に映る唇から、また何かがこぼれた。美しい水だった」
まったく似つかない女を妻にした。
髪の色も。肌の色も。瞳も、言葉も信仰も。けれど彼女はどこか似ていて、落胆の色は隠せない。
靴を響かせ後ろから抱きしめる。重ねている。
あの時そうしたように、唇のはしから舐めとるようにキスをした。
「抱きかかえたまま犯してあげようと思った。乱暴に、心をはぎ取るように。腹上死しなよ。中に入れたまま、腹の上で死んでくれたらもう言うことはない。けれどそうはならなかった。劇的におちていた雪は、予感のとおりやんだ」
夜。となりで寝ている女をじっと見つめる。もう重ならなかった。
日本は今頃夏だった。手を放したのは冷たかったから。
幻想のように消える。
あれが夏のことだったら、何かが変わっていたのかも知れない。
「キスをして逃げた。内蔵に損傷を受けているだろうことはわかっていた。答えなど最初からでるわけもなかった。何時間か後に死ぬだろう。逃げるしかなかった。追い詰められていた。舐めとった、この美しい水を吐き出せばまだ間に合った、の、に」
ゴクリ、喉を鳴らして飲み込む。鉄の味が広がった。無意識に、舌で下唇をなぞった。声に出したのは逃げる宣言だった。肌にとけて
「姉さん、僕が死ぬよ」
僕が死んでしまうよ。姉さんが死ぬと僕が死んでしまうよ。だから先に死ぬよ。生きていればいいなんて欺瞞だ。ここから逃げて音信不通になるよそれは死と同義語だから。だから姉さんも死ねばいい。この世で愛している一切を捨ててもう死ねばいい。
これだけ覚えていて。僕の中に姉さんは今のまま生きている。
「すきだ。さよなら。犯したい。僕は逃げる。理不尽な世界だ。捨てたくなくて、刃物のように冷たい。雪が、肌に」
朝になって外へ出ると雪は消えていた。
とけた水が、キラキラと反射してやまない。美しかった。
アスファルトという単語がふと浮かんで、いつぶりだろうと思った。
■ 海と大地の塩祭り ■
カメラの入った黒く、四角いボックスは、見た目よりも重くはない。
タシギはボックスからのびるベルトを右肩にかけた。目的の車を見失わないよう、歩道と車道の境界線ギリギリを、ゆっくり歩いては振り返る。
約束の時間はとうに過ぎており、雪もちらついている。
前方に見えるドトールに一旦避難しようとタシギが決心した矢先。クラクションがパップァーと鳴り、白いワンボックスカーがタシギの横につけた。窓が開く。
「先輩! 乗って乗って!」
運転席の真宮有紀が叫ぶ。タシギはため息をつき、ドアを開けた。
12月25日。海と大地の塩祭り当日だ。
☆
「いやぁ、込んで込んで! こぉんな朝から渋滞ですよぉ! うむ、ほとんどカップルでしたな。マミヤも先輩と今日だけカップルになります? マミヤのテクニックは極太ですぞぉ〜」
タシギが無言で睨むと、マミヤは「うひゃぁ!」と奇声を発した。
「ジョーダンですジョーダン! ってか、何のテクニックかきいて下さいよぉ。も、ち、ろ、ん、手打ちそばのテクニックです! せっかくマミヤの地元に来るんですから? あれ、オモテナシってやつ? しちゃいますよぉ、なんてったって、お祭りですからな!」
喋り方からしてお察しの、つくづく頭が残念な後輩・真宮有紀の地元で行われる祭りに、田鴫良輔が同行したいと言った理由は単純だ。
東南東の大学祭に出す、写真撮影――タシギは写真部員なのだ。
黒いカメラボックスの中にはキヤノンのデジタル一眼レフEOS・7Dマークツー。祭りの様子をメモする手帳とペン。財布と携帯。そしてバッテリーが入っている。
貯金をはたいて買ったばかりの新品。
プロ志望のタシギにとって、これ以上ない機会であった。
「めっちゃくちゃ盛り上がりますからねぇ。神輿とかエビナックとか……、や、でも今まだ朝だからぁー…、うん! 高速使えばミソギ神事にも間に合いますぞ。使います? あっ、高速代は……、デヘヘ。いいっすか? いっちゃいます?」
マミヤは高速道路の看板を確認し、ハンドルを左に切った。
高速で飛ばしている最中、タシギは気になる単語をマミヤに振った。
「あ、エビナック? 気になるんすか? えーっと、奉納の……何でしたかな。あ、そうそう神前奉納菓子ってヤツです。美味いですぞ。境内で撒かれるんで、あとで食べまっしょーう!」
マミヤは簡単に、この祭りの生い立ちと流れを話した。
真宮有紀の地元は沿岸部にありながらも、海のすぐ後ろが山、という特殊な立地なのだという。小麦栽培に適した気候であることから、山の段々畑では小麦を。清浄な海では昔ながらの塩造りや海老漁が盛んなのだという。
土地を豊かにしている神は、冬になると眠りにつく。今までの感謝と、目覚めてからもよろしく頼むという意味をこめて、毎年この時期に行われるのがこの、海と大地の塩祭りである。
車を走らせて一時間余り。
マミヤの地元に到着した。
早速、ミソギ神事が行われるという山の渓流へと向かう。白装束に身を包んだ数十人の男女が河原に並んでいた。タシギがカメラを構えると同時に法螺貝が鳴り、全員がしぶきをあげて川の中へと進んでいく。
初めての連写。曇り空から射しこむ光。冷えた水が反射する。
いい写真が撮れたという手ごたえのかわりに、タシギはフッと息を吐き出した。マミヤはふわりと笑い、タシギの腕をとる。
「さっ、早いうちにベストポジションへ行くのです!」
午前中に行われた奉納神事では、マミヤのいう「ベストポジション」が役に立った。しかし、昼食をマミヤの実家で食べた事で喜びは半減。当然のことながら、マミヤの家族はタシギを彼氏と思い込んだのである。状況が状況だ、仕方がない、と言い聞かせ、マミヤが奢った売店のチョコバナナで手打ちとした直後、神輿の運行が始まった。
町中を練り歩く男たち。威勢の良い声。道すがらの軒先から何度も神輿にかけられる海水。タシギの一眼レフにもかかりそうになり、思わず庇う。マミヤは思いついたと叫び、ビニール傘を持ってきた。ちらちらと雪が舞う中、しかも祭りの神輿の後ろで傘をさす人間はいない。非常識さを叱ると、マミヤは唇をとがらせたままタシギの後ろに下がった。
タシギは、そっとふり返る。
トボトボと歩くマミヤ。昼の家族の反応を必死に謝ったマミヤ。はしゃぎすぎて「ベストポジション」の資材の山から転げ落ちそうになったマミヤ。奇妙な喋り口でオモテナシと自信たっぷりに言ったマミヤ。大学のゼミが終了した後、祭りを見に行きたいと打診した時の、パッと花が咲いたように輝いた、マミヤの顔……。
なんとつまらない一分、一秒だろうか。
切り撮る瞬間はついに訪れす、神輿の写真を一枚も取らないまま夕方となった。
☆
神前奉納菓子が撒かれるというアナウンスにしたがい、タシギとマミヤが境内に入ると、すでに人でごった返していた。そんなに美味いのかときくタシギに、マミヤは力のない微笑みをかえした。
「……そうっすね」
会話は終わる。
二人は並び、上を向いたまま数分。紫色の袴を穿いた男が、籠を持って現れた。何かを唱えた直後、籠の山盛りの小袋を掴み、放り投げた。
天を舞う、白い紙の小袋。手をのばす人々。写真撮影も忘れ、タシギは必死に手を伸ばした。手に当たる感触。つかむ。小袋を開く。中には、肌色をした短い棒状の菓子が数本。一本つまみ、急いで口に入れる。
と。
覚えのある味が、舌にじんわりと広がった。
ゴクリ。飲み込み、推理する。
奉納の海老……小麦……塩……この形状……この味……どう考えても
「かっぱえびせん……?」
「いいや、違いますなぁ。これはエビナックっすよ、先輩!」
同じく小袋を開け、菓子を持ったマミヤが言った。泣きそうな目に反して、口元は笑っている。
突然撮りたいという衝動が心の奥からつきあげ、タシギは白い小袋が降る中、彼女に向けてカメラを構え、シャッターボタンを押した。
■ 映らんのですなぁ ■
映らないらしいんです、これが。
それで彼のことを、幽霊一歩手前、とか、ドラキュラの末裔、とか、言う人がいるんですよ。もう、いやになっちゃいますよねぇ。
何のことかって?
だから、彼がどこにも映らないって話です。鏡、写真、硝子、水面、ビデオ。全部ダメ。
もちろん、彼は生身の人間ですよ。
身体もあるし、食事も美味しそうに食べるし、触ると、ほんのすこし温かい。血が通っているって事です。声も出せるし、学生で、友人もそこそこいるし勉強もできる。
ただ映らないってだけで……。
鏡に映った自分の顔って、どこか別世界みたいですよね。その奥から青い手がのびてきて、突然連れ去ってしまいそうなー…。
ところが彼ときたら、そもそも映らないものですからね。「鏡のような別世界が連れてくる恐怖」といった感覚がわからない。
ほら、日本のホラー映画って、よくそういうシーンがあるじゃあないですか。鏡とか水の底から自分と同じ顔が迫ってくる、みたいな。
彼はね、ホラー映画の面白さがわからないらしいんですよ。
むしろ幼少期からの映らない生活で、はやし立てたりいじめたり、噂をたてたりしている人間に接してきたものですから、現実世界のほうがよっぽど怖いと思っている節がありましてねぇ。
この間なんかも、悲鳴をあげられてしまいまして。
え? どういう経緯かって?
まぁそれはこんな事です。男子便所の手洗いに、鏡がありまして。そこで手を洗い終わって、前髪をちょっいちょいっと直してた老人がいたんですよ。つまり、まぁ、教授なんですけどね。彼は教授に用事があって、肩を叩いたわけです。
ね? もうおわかりでしょう?
鏡に映らないから、教授にしてみれば無人の男子便所で、幽霊に肩を叩かれたようなものでした。
少しだけ救いなのは、教授は彼の性質に寛容的であるという事です。悲鳴の後に彼を認識してすぐに謝って笑ってくれたものですから……。
おっと。
そろそろ彼のバイトの時間です。
この間、彼は至極おもしろい仕事を見つけてきましてね。
なにを隠そう、デッサンモデル。
裸になる抵抗感よりも、もしかしたら自分という人間を客観的に見れる唯一のチャンスじゃないかと友人達に力説したうえでの初回。デッサン時間終了後、紙に描かれたたくさんの自分を見て、彼、泣いてましたね。
俺、こんな顔してたんだ、ってね。
けっこう深刻な悩みになっていたみたいです。
映らないことで自分と自分という境界わけができず、自分と他人という境界だけで今まで生きてきたストレスが、ちょっぴり解決した模様です。
そういう所を見ると、彼って、やっぱり人間なんですねぇ。
今まで辛かったぶん、彼のこれからの人生に良い事があるといいですねぇ。見ていてこっちも嬉しくなってきますから。
ま、幽霊の自分が言う事じゃないですけど。
時々写真に写ってしまう自分が言う事じゃないですけど。
■ 宇宙は空気、水は迷子、 ■
赤い羽根をもらうために、毎年おきまりのように50円を募金した。
朝の会が終わったとき、後ろの席のマミがいくら募金したか聞いてきたから
「んー…、ごじゅうえん」
とほっぺをかくと
「ええっ?! 50円?! ウッソー…あたし10円なんだけどー」
ぺろっと舌をだされた。知らない、そんなこと。10円でも1円でも、とにかく中学生にはまだ、裏面にシールがついている羽しかくれないんだから。
今日は募金の日。お兄ちゃんの高校でも、きっとやってる。
お兄ちゃんは高校生だから、金針のついた羽をもらえる。ま、どうせ交換なんてしてくれないだろうけど、ダメもとの願掛けってヤツ。
貼るのはガマンして、そっとフデバコの中に入れた。
適当に部活終わらせて家に帰ると、アサガオのとなりにお兄ちゃんの自転車があった。あ、もう部活動の先輩たちのパシリは終わったんだね。
いったん家にあがってスグの廊下から右のガラス戸を開ける。サンダルをつっかけて一段さがると、小さな作業場でガリガリ貧相な少年が紫色の羽を空にかかげていた。
「お兄、ただいま。なにしてるの」
「おかえり。……なぁ、青い羽募金って知ってるか?」
逆に質問された。
お兄ちゃんはいつも、わたしの質問に対してちょっとズレる。
「その羽、どうしたの? 何? 工作?」
「青いスプレー探したのに、紫しかなかった」
「……それで、」
「海の遭難者を助ける募金らしいんだ、青い羽募金」
「だから作ろうって?」
「神社みたいなもんだよ」
「なにそれ」
お父さんもお母さんも知らない。お兄ちゃんは先輩たちにパシリにされていて、同級生からもハブられている。
けれど、お兄ちゃんは泳げなかった。
しばらくその紫色の羽をながめて、ここが海なら、と思った。
ここが海だったら、誰か、さ、お兄ちゃんを救助してくれるの?
家が、もう町もぜんぶ。ぜんぶぜんぶ、水に沈む。ザンザンたゆたう波にさらわれ、寝てる間に迷子。遭難。巨大だ。
いっそのこともう地球が海になっちゃえばいい。
そしたらさしずめ
「カリフォルニアロールみたいな水槽……」
「なんだよそれ」
「ちょーだい」
「コレ?」
「奮発して100円あげるから。神社なんでしょ」
「おサイセンかよ」
いいよ、ホラ、と差し出された紫の羽を受け取った。初めてだった。
あわてて、フデバコから出したわたしの赤い羽をあげると、お兄ちゃんは作業台に置いてあった紫のスプレーを。まだ作る気らしい。神様。
迷子になってるお兄ちゃんに、だーれも気づいてくれないし。
わたしで救えないなら、水槽から、宇宙から、羽をみつけて掬ってみせてよ。
■ 嘘の国の新聞社の朝 ■
人の名前というのはいつも、音程をともなって耳に届くだろう?
なぜならこの地球というホシは、巨大なオルゲルだからさ。
「――ヴォルゲリ・ル・ミ・ハン・ロ・アルノラ、ついに指名手配、か……どう思う? ミミック」
新聞に見入ったまま熱い珈琲の入ったマグカップを、机の上に広げた古本の上に置いた。
悲鳴をあげるくらいなんだってんだ。際どいくらい椅子の背もたれにもたれかかり、引かれっぱなしの引き出しの上に足をドカッと乗せる。
それが俺のスタイル。成人という代名詞だ。
しかし、これにだって、トイレットペーパーを右巻きするのと同じような、確固とした理由がある。
こうでもしないと、本当の新聞が読めないのだ。
下手にプライバシーに気をつかうこの国の新聞には、写真が無い。文字だらけ。しかも、犯罪者も偽名で扱うものだから『嘘の国』というあだ名もあながち嘘ではない。
写真のある新聞や実名を公表した新聞は、隣の隣の国でしか手に入らないが、俺は毎日、隣国の実名入りの新聞を読んでいる。今のように、窓から見られないよう椅子に悲鳴をあげさせながら。
ミミックはご自慢の宝箱から、
「良かったじゃないっすか。これでこの街も更に安全になるっすよ」
針が動いていないネジマキ時計を取り出した。根金布で丹念に拭いていく。それを薄目で眺めてから、俺は椅子を更にしならせ、手をのばして棚のフィケーサーを取った。
この街は、ミミックの言うとおりそれほど安全じゃあない。フィケーサーが近くにないと、安心して眠れやしない。
俺は、ミミックに聞こえるようにため息をついた。
「実はこいつと幼なじみだったんだよなぁー」
「え?!」
ミミックは驚く。
思い通りの反応。
こういう時、ミミックを雇って本当に良かったと思う。
「マジっすかヴィノラさん、それ、ヤヴァいっすよ」
オーバーなリアクションをとりながら、ミミックはまた時計を取り出す。ヤツの持っている時計は、どれも動かないものばかりだ。そして、どれもネジマキ式だった。宝箱の中身は、知らない間に増えている。
「いんや、ヤバくはないさ」
俺はミミックにフィケーサーを向け、その引き金をひく、フリをした。
……バァン。
「やめてくださいよ、ヴィノラさん、この辺、また殺人事件が多くなってきてるんスから」
そりゃぁそうだろ。
俺が指名手配犯なんだから。
この嘘の国の新聞記者は、勝手に俺の名前にミドルネームをつける。おかげで本名のヴォルゲリさんが逮捕されたワケだ。
「ハハ、なんかいい事件ねぇかなー。500万フラン拾いましたとか」
「ヴィノラさん、また捏造っすか? それとも収賄っすか?」
「バーカ」
そしてその嘘の新聞社がココ。新聞記者がミミック。代表取締役が、この俺なワケ。
ぬるい珈琲なんて、クソくらえだ。
■ Vexations. ■
ドー…ドーシーレー、シー…ミードーシーローレー、シー…ドーシー
「……どこからか、声がする…」
「そうね、声がするわね」
レーレーソー、ミー…ミー…ミ…。
「歌って…る……?」
「いいえ、音階。曲の音階を声に出しているのよ」
ファー…レーレーソー、シー、シーレーミーソーレー、ミー、
「でも……音…」
「そうね。でも、これが言いたかったのよ」
ファーレーヤーレーサー、レー…レー…。
「これが言いたかったの、あの人は」
ドー…ドーシーレー、シー…ミードーシーローレー、シー…ドーシーレーレーソー、ミー…ミー…ミ…。
「……ねぇ…いつまで続くの……」
その女はかたつむりの形をしていた。
女の周りには、頭に冠をかぶった女王のかたつむり達が居たが、海岸の砂浜から、海へ行ってしまった。女もすぐにその後を追った。かたつむりは水平線まで見えなくなり、私は後悔した。
この奇妙な風景は、きっといつまでも続くのだ。
私は取り残されていた。
為すすべもなく、空は曇り、日は一向に差し込まなかった。
ドー…ドーシーレー、シー…ミードーシーローレー、シー…ドーシー。
「さぁ、腕を出すんだ。なに、嫌? きみ、注射が嫌いなのかい? そいつは結構。けれどこれだけは、どうしてもしなきゃいけないんだ。きみの為にね。え? 音楽を止めてくれ? 何を言っているんだい? この病室は、鳥と虫の声しかしないことで有名なんだ。きみもさぞかしグッスリ寝られたのだろう? なんてったって、睡眠薬のほかに色々入れておいたからね。ん、どうしたんだい? 混乱しているのかい? その瞳、キレェだよ。けれどこれだけは、あぁ、だからあれほど気をつけろと云ったのに。まったく、そんな風だからエルトラドとエメラルドを聞き分けられないんだ、きみの悪いクセだよ」
レーレーソー、ミー…ミー…ミ…。
看護婦はクスリと笑ったまま、そのベッドの上の青年を眺めていた。
青年はとても端正な顔立ちをしていた。虚ろな瞳は、時々閉じられ、そして思い出したかのように、時々開いた。看護婦は、音階だけの曲を、小声で口ずさんでいた。この曲はとても気に入っていたが、レコードの針が、どこかへ飛んだままになっている。看護長達の執拗な嫌がらせから逃げこむには、ここは最適な場所と思えた。その曲の題名も気に入っていたし、戸口のプレートに書かれた青年の名前も気に入っていた。唯一気に入らないのは、青年の隣に吊るされた、点滴袋の色だけだった。
ウー…レーレーミー、レー、レーファーシーファーレー、ミー、ファーレーシーファーラー、ソー…ソー……。
俯いたまま、ここで朽ちてゆくのかと思い、私は唇を噛んだ。
そこから出た血が雨を呼び、私は久しぶりに口をあけて笑った。
「私は自由なのだ! しかし、今は自由がほしい!!」
手当たり次第に貝や石をつかみ、走り回ってはそのまま投げた。
見守られているような気が、していた。
ドー…ドーシーレー、シー…ミードーシーローレー、シー…ドーシーレーレーソー、ミー…ミー…ミ…。
歌はいつまでも続いている。かたつむりは還ってこなかった。
■ 運命 ■
これも全て運命なのだ。
夕闇もとうに過ぎ去った窓辺に立ち、私はそう結論づけた。とぐろを巻く、黒い夜。昼間はここから、花のない桜が望める。が、今はそれすら塗りつぶされている。襲いかかるような闇は、かろうじて硝子に遮られていた。
私は思い出す。
あの、凍ってしまった夜を。
丁度同じ時期であった。もう何年も前の話だが、つい昨日の事のように、鮮やかに思い出せる。
その日、私の耳はまったくの暗闇に立たされて震えていた――いや、あれはあるいは、寒さの所為かも知れなかった。
扉を叩く音がしたのだ。
四回。
ダンダンダン――ダン。
私は直感でこう思った――…あぁ、ついに、私の元へ死神がやってきたのか。ずいぶん遅かったじゃないか。と。
ピアノの周囲に書きかけの楽譜や催促の手紙や、汚い旋律が乱雑に散らばった部屋で死ぬなら本望だ。世界に絶望した私なら、きっと、何も残すことなく逝けるだろう。残るのは、誰も聴くことのない旋律の残滓だけ、というわけだ。
扉を見やる。
ニヤリと笑う。
音楽家にとって、耳の聞こえない人生というものは死と同意義だった。徐々に聞こえなくなっていった事実をひた隠してきたが、今夜が耳の命日だと気付いたとき、私の絶望は死を呼んだ。
ギイ、とかすれた音とともに、扉が開いた。
するりと室内に入ってきた死神、その姿はにわかには言い難い。すり硝子をはさんだようにゆらゆらと実体が変化する。濃紺のローブと長い鎌だけが、かろうじて死神だという証拠をかもしだしていた。
だが、これだけはわかった。
死神は、そのゆれ動く顔を私に向けると、唇を曲げてニヤリと笑ったのだ。
『お前の絶望は、やけに美味しそうな匂いがするな』
声は低く、私はグッと心臓をつかまれたような気がした。痛い。
『……そうか、この匂いは、お前の心臓の音か』
しばしの沈黙。
そして死神は、私に取り引きを持ちかけた。未来の世界に必ず残るであろう名曲を作る「才能」を与えるかわりに、「耳だけを先に喰わせろ」というのである。
耳の命日、音楽への絶望、乱れすぎた部屋、散らばる五線譜、私の、唯一のピアノ。ピアノ……音楽……、くそっ、あんなもの!!
死神は笑っている。見覚えがある、その姿。気付く。私は、気付いてしまった。その顔は! あぁ、わかった。あれは、あの死神の顔は、私だ。絶望している私の顔そのものじゃないか――。
一ヵ月後。私はこの暗澹とした人生に憤りながらも四つの音が苦しめる傑作を作り上げた。
記憶の中の音を頼りに、ピアノに頭をつけながら骨伝導を頼りに作曲する日々。なぜか、あの死神の姿は、記憶の中で天使に変わろうとしている。
きっと私は、本当はもう死んでいるのだ。
■ 嘘つきリロイと百万アクアリウム ■
ノイズの向こうから聞こえてきたのは、紛れも無く弟の声であった。
『――ロイ、ロイ! 助けてくれ……、殺される!!』
この時点で私が拳銃の動作をしっかり確認しなかったのが良くない。
しかし、研究所の白いバンに乗って弟の住むアパートに向かった後、別段確認しなくても拳銃など役に立たないという事がわかった。
キートンのはずれに建っているコンクリートの簡素なアパート。切羽詰った声が脳内に響く。もしかしたら大怪我を負っているのかも知れない。路駐でキップを切られるより、弟のほうが心配だ。急いで階段をかけあがり、鉄素材のドアを素早く三回叩いた、ガンガンガン!
鍵はかかっていない、応答はないがかまわず開けるー……。
全てのものがバラバラに暴かれ荒らされた室内の中央で、黒いスーツを着た男たちが、倒れているアロハシャツの青年をかこむようにして立っている。手には拳銃。一目で裏側の人間だとわかった。
リロイ。死んだのか?
彼らは思考も体も停止している私に銃を向けて何も言わずに取り囲むと、白衣を探りポケットから拳銃をとりあげた。
「手を後ろに組んで、座ってもらおうか。ロイ・ジェイムスさん。いや、心配しなくていい。あんたの弟は生きてるぜ」
一番奥の男が口を開く。と同時に、床に倒れている弟が、うめくような声をあげた。床から少し浮き上がった顔は紫色や赤色に染まっている。来るべきときがきたのだ、と、私は手を後ろに組んで座りながら思った。
私とリロイは、海好きの父親の影響でそれぞれ魚に関係する職についた。私は魚の生体を研究をする海洋研究所に。弟は、魚同士を交配させて美しい観賞魚を売る魚のブリーダーに。しかし、弟は……。弟のやり口はあまりに詐欺まがいで、私は電話がかかってくるまで弟とは縁を切ったものだと思っていた。弟の売る魚たちは確かに美しいが、その魚を買った客が交配させようとしても、絶対に上手くはいかない。「その」器官を巧みに潰してから売りつけるのだ――法外とも思える値段で!
「あんたは魚の研究をしていると聞いたが、魚の値段……まぁ、相場という意味でだ。わかるか?」
奥の男は、いかにも優しそうに笑みをうかべている。私はその真意をはかりかねて「ああ、」とだけ頷いた。
「よし。立っていいぞ。あんたはこれから隣のブリード室に行って魚の値段を言う、俺たちは百万ドルぶんの稚魚と成魚を選ぶ」
「――やめてくれ!」
床のリロイが叫んだ。黒服の男たちが、高級そうな革靴でリロイの腹を蹴る。シャツがめくれ、動かなくなった無様な弟の姿。私はとっさに拳を握り唇も噛んで、耐えた。仮にも弟だ、しかし反撃などできるはずもない。私にもまだ拳銃がつきつけられているのだ。
さっきまで笑っていた男が、いきなり鋭い声でリロイを罵倒した。
「このクソったれがッ! 生かしておくだけでも奇跡だと思え!!」
おそらくこの男もリロイに何かしら騙されたのだろう。
私はこんな状況で、心から男に同情した。
広いブリード室には、数段に組んだ棚にずらりと水槽が並べられてはいたが、なまけもののリロイらしく、ポンプや光の配線は、床に節操なく敷かれていた。交配が難しい熱帯魚や古代魚、はては金魚まで、主人の不幸をそ知らぬ顔で泳いでいる。その中央には広く平らな机が配置され、空の水槽と、その下には大量の餌が置かれていた。
「言え。どこからでもいい」
上段、下段は、魚体の大小によって分けられていた。中段はほとんどディスカスしかない。いかにもリロイの得意がわかる配置だ。上の段からひとつひとつ見ていっては、それ相応の値段を言う。隣に立っている黒服の男は逐一メモし、計算していった。
最後の、右壁下段に置かれた水槽をのぞいたとき、隣のリビングがにわかにさわがしくなった。どうやらリロイが何か言っているらしい。
男が黒服に指示し、引きずられるように連れてこられたリロイは、私の顔を見て涙を流した。
「兄貴、その水槽覚えているだろ? その水槽だけは、そのカメは……」
そこまで聞いて、ハッと水槽を凝視する。この水槽。そうだ、これは。
まだ私とリロイが幼い頃、父親が私たちにと買ってくれた水槽。一番はじめに育てたのは、魚ではなくカメだった。笑いあいながら餌をやった記憶ー…。水槽には白い砂利が敷かれ、カメがじっと、動かない。
「俺たちも鬼じゃあないんでね、そのカメはいい。おい、やれ」
黒服の男たちは、メモを持った男の指示にあわせて動き、魚たちを網ですくっては床に叩き付けた。あまりの光景にただただ見ているだけで。
どの魚も水を求めパクパクと必死に口を動かし、果てに目が淀み、そして死んでいく。叩きつけられる。アロワナも、ネオンテトラも、ポリプテルスも死んでいく。部屋中に広がっていく死の臭い……。
全てが終わり、水槽にはほんの数匹のディスカスしか残されていなかった。黒服たちはまるで一仕事終えた、といった風に満足げに顔を袖でぬぐい、魚をふみつけ外へ出て行く。一番最後に残った男が、放心しているリロイの襟をつかみ一発殴ったあと、唾を吐いて立ち去った。呆然としたまま数分がたち、リロイを見ると細かくふるえだしていた
「リロイ?」
「……く、はっ…、あ、あはははは! は、はは、はははは!!」
神よ。私の弟はあまりのショックでおかしくなったのでしょうか。
リロイはさんざん腹をかかえて笑ったあと、場違いな笑顔で挨拶した。
「久しぶり、ロイ」
「お前、少しは反省したのか? こんなに殺されて……片付けないとな」
「あぁ、いいんだいいんだ。魚なんてまた始めればいい。宝石はそうはいかないさ。はァー、あいつらはバカだな、本当」
……宝石? 私の疑問をよそに手をかしてくれと言われ、私はリロイの手を引き、持ち上げるように立たせた。するとリロイはフラフラと、カメの入ったあの水槽を持ち上げ、斜めに倒し、白い砂利を遊ぶようにかきまわすと、その中から何かを掴みあげた。ひとつづきになったネックレス。キラキラとまぶしく反射するそれはー…!
「ダイヤモンド……?」
「と、パール。ここはシルバー。百万ドルの宝石さ! ホント焦ったよ。魚の搬入がてら盗んできたんだがな、こんな早く気づかれるとはなぁ」
「……リロイ…ッ!」
仮にも私の弟だ。仮にも。仮に……。
私はたまらず、壁面にゴンと拳を打ちつけた。
「今度電話がきても来ないからな!!」
「いいよ。あの電話も演技だし。あいつら臆病だから殺しはしねーんだ」
手短かに帰ってもらえて良かったよと、嘘つきな弟は爽やかに笑った。
数ヵ月後、リロイは結婚した。
結婚式に参列した私は、女性の首に巻かれているネックレスを見て、何と嘘をつかれて嬉しげに首に巻いたのか、おそらくリロイの悪癖を見抜けていないのだろう……。
祝福の鐘が鳴る中、私は心から彼女に同情した。