■ ドッキリ ■

 幽霊、という言葉を信じるか信じないか。それは、オレの中で、ひとまず置いておく話題となった。なんでかっていうとー…
「ヒデ! 早く走って!!」
「走ってるよ!!」
 今まさに、幽霊から逃げている所だからだ。
「はい! コレ」
 将美から、何やら変な記号の書いてある紙を渡される。
「なにこれ!」
「お札っ!! ほら、あのヒョロ公からパクった……」
 はぁ? お札って、こんなの本当に効くのか?!
 ちらっと後ろを振り返ると、白い着物と長い髪をなびかせた女の人が手まねきしながら音もなく近づいてくる。
 こっっえーっ!!!
「ヒデ! なんか…っ呪文! 呪文言ってお札投げてよ!!」
「なんて言えばいいんだ?!」
「なんでもいいから早くー!!」
 何でもって……将美、お前、人使いが荒いぞ。
「え、えーっとぉーっ」
 今日、日本史の授業で習った言葉がパッと思い浮かんだ。
「天下統一!!」
 ビッ! 渾身のチカラで腕をふり、お札を飛ばす。
 ――ギャァァァ!!
 ドス黒い叫び声。やった、効いてる?! よし、と思って、後ろを振り返らずにまた投げる。
「玄宗皇帝! 虞美人草!!」
 ビッ! ビッ! えーっと、なんだ、あとなにあったっけ??
「っと、焼肉定食! 豚汁とほうれん草のおひたし付きっ!!」
 ビッ!
「はぁ?!? 食べたいの?」
 将美が変な顔でこっちを見る。
「んなワケねーだろっ!!」
 と言いつつも、腹がグーッっと鳴った。ちょっと食べたいカモ……。後ろをふり向くと、道には暗闇だけが広がり、幽霊は居なくなっていた。やった……振り切った…。立ち止まって、息を整える。
「はっ…ぁ、よかっ……」
 ――ウフフフ……。
「将美?」
「え?」
 一瞬、将美が笑ったのかと思って見ると、将美はキョトンとした顔でこっちを見てー…
「ヒッ!」
 ひきつった顔になった。震えている。オレを見て、ガタガタと指をさす。ドクンと心臓の、うねり。いやな予感がする。
「う……うしろっ…―!」
 背中がぞくりとする。
「うしろ……?」
 ドクン。
 聞かなくても、わかってる。
 ドクン。
 ゆっくり振り返るとそこにはー…!!!

■ 時にふり返る、恋の話 ■

「……ふふっ」
「ん?」
「ううん、何でもないの。思い出し笑いしたダケ」
「何、聞かせて?」
「あ、動いちゃダメ。せっかくのパリパリシーツが、シワだらけになっちゃうでしょ。ちゃんと私のまくらになって」
「はいはい、じゃぁ、もっと近くにおいで? 腕が棒になっちゃうまでだからね」
「ん、痛くなったりしたらスグ言ってね」
「その前に君が寝返りうつさ。それで、何の話?」
「うーん……、話さないほうがイイかも……」
「聞かせてよ。君の話なら、なんだって大歓迎だからさ」
「でも……」
「いいから」
「うん……昔、ね。そう…あれは高校の時だったと思う。とても暑かった夏に、付き合ってた人が居てね。」
「それだけ?」
「違うわよ。もう、人の話は最後まで聞くの。それでね」
「うん」
「その夏の終わりに別れたコトを、ただ突然思い出したの。あなたにこんな話したって面白くないでしょう? 別の男の話なんて……」
「まぁね。面白くないよ」
「正直でよろしい」
「でも、聞かせて? 青春してた君の話を、聞きたいな」
「青春って……今どき誰も使わないわよ」
「今使った。だから聞かせて?」
「……もう。わかったわよ、話す話す」
「いよっ、待ってました」
「そんな……お祭りイベントじゃないんだから。ついにあなたもオヤジ年齢ね」
「うそっ?!」
「ふふっ、冗談よ」
「………」
「あ、もしかしてショックだった? なにもふて腐れることないじゃない」
「………」
「あぁ、ごめんってば、ホラ。お話してあげるから」

     ★

 自転車で通る学校からの帰り道は、いつもセミがうるさくて嫌いだった。
 でも家までの最短距離だったから、私は土手の上の道路を走っていたわ。
 毎日毎日、同じ道。
 その時付き合っていた先輩は、運動部の部長をしていたから、なかなか一緒に帰れなかった。そのぶん、早朝の音楽室や昼休みの図書館で、二人で笑って過ごして……。
 楽しかった。それが「付き合う」っていう事だと思ってたの。
 そうして夏の終わりにさしかかった頃、彼が珍しく「一緒に帰ろう」って言ってきて、私はこの夏初めて、市街地を通ったわ。
 先輩と一緒に帰れることは嬉しかったけれど、とても暑くて、この日ばかりは「セミが居るけれど、木陰のある涼しい土手」が恋しくなった。
 先輩は無言で自転車を走らせていて。私、なぜだか不安になったわ。
 と。
「――先輩!」
 声をあげた瞬間、先輩は目の前にあった看板に思いっきりぶつかってしまって、派手に転倒しちゃって。私は、ただ「先輩、危ないですよ」って言おうとしたダケだったのにね。
「先輩、大丈夫ですか?!」
 自転車と一緒にからまって、面白い体勢で地面にカラダを放り投げている先輩に、私はあわてて駆け寄った。
 そうしたら先輩が
「俺にかまわないでくれ」
 って、言ったの。私は
「怪我してるかも知れないじゃないですか! 放っておけませんよ!!」
 倒れた自転車を起こして、先輩に手を貸して、先輩の家まで付き添ったわ。
 その次の日。
 学校に行ったら、私と先輩が別れたことになっていて、私は訳のわからないまま、また土手の道を通り始めた……。

     ★

「わかる? 私、とんだ勘違いしちゃったのよ? だって、その人が「かまわないでくれ」って言ったとき、てっきり「こんな姿は恥ずかしくて見せられないから、かまわず帰ってくれ」っていう意味だと思ったんだもの」
「君は昔も、相変わらず早とちりだったんだね」
「失礼ね」
「否定するのかい? 君が早とちりしなきゃこうして僕と居ることもなかったのに」
「それはー…」
「僕が街角で「好きな遊園地の乗り物アンケート」をしていたときに、」
「あ! 言わないでよ!」
「君に「すいません」って声をかけたと思ったら「え、あのっ、ごめんなさい! 私もう男の人とお付き合いするのは懲りごりなのであの、本当にごめんなさい!!」って言って、そのあとー…」
「わかったから! 言わないでってば」
「ね、早とちりでしょ?」
「………」
「あれ、もしかしてふて腐れちゃった?」
「そんなコトありません。私はあなたと違って立ち直りが早いんですから」
「はいはい、ふて腐れちゃったんだね。さ、そろそろお話も終わりにして、寝ようか」
「……ねぇ」
「ん?」
「――……好き」
「ん、昔から知ってるよ。おやすみ。可愛くて早とちりな、僕の大好きな君」
「……ふふっ、ありがと。おやすみなさい」

■ 敦煌にて。 ■

 いつものようにニヤニヤしながら地図帳を広げた浅野先生を見て、ボクは唇をとがらせた。
「おーにごっこすーるヒートこーのゆーびとーぉ、まれっ! カズンー! なにやってんだよ、指切っちゃうぞー!」
「あ、ごめん! いま行くー」
 教室の戸口から、先生の机を振り返ると先生は、やっぱりニヤニヤしながら地図を眺めていた。
 どちらかといえば、ボクは、褒められる方が好きらしい。
 浅野先生が5年2組の担任になってから、ボクは一度も遅刻をしていない。今一緒にジャンケンをしているミッチーなんかは、浅野先生に怒られるために、わざと遅刻や忘れ物をしてくるというのに。
 浅野先生が担任になって気づいたことといえば、毎月……といってもまだ6月だから、今日で3回目なんだけど、葉書を学校に持ってきて、地図を開くということ。
 先生は、目的の場所を見つけるまで、授業もうわのそらで。
 葉書は、見せてもらうことができるんだ。今日来た葉書は、土の色の建物と、色とりどりの布の写真だった。裏返してみると、漢字ばっかりが書いていて、何がなんだかわからなかった。
 先生に、これなんて書いてあるのと聞くと、先生は
「先生にもわからないのよ、だから、学校が終わると図書館に行くの」
 と笑った。
 適当に走り回りながら2階の教室の窓を見上げた。……先生はまだ、机に座っている。

     ☆

 今日の浅野先生は、上機嫌だった。
 どうやら、葉書の場所が見つかったらしい。
 ボクたちはウンテイ横の登り棒付近に集まって話しあい、誰が一番最初に浅野先生に告白するかを決めていた。
「カズン、お前行けよ」
「え、ボク?! 無理だよドンちゃん行ってよ」
 ドンちゃんは頭が良くて、だから将来、浅野先生と結婚したらでっかい会社に就職して楽させてあげるんだ、と豪語している。
「あのなぁ、カズン。僕は本命なんだぞ、先に誰か行ってこいよ。ミッチーでいいじゃん」
「………!」
 ミッチーは高速で首を振っている。
 普段悪ぶってるけど、こういうときには小心者だ。
 こうして話し合いは、いつも通り告白の譲り合いに終わり、ボクはランドセルを背負って図書館に向かった。ボクの家は、図書館の上にある。
 いつものようにカウンターのカルエ姉とカナエ姉に、ただいまを言う。
「お帰りカズン、学校、楽しかった?」とカルエ姉。
「そういえば、浅野先生が辞書を借りていったわよ」とカナエ姉。
「カジモ兄は?」
 ボクがそう訊くと、ふたりは揃って首をかしげた。双子の特権だ。ボクはため息をついたあと、図書館の奥の扉から出て非常口を駆け昇る。
 なんだかモヤモヤする。
 どうしてだろう、これが恋というやつなのかな。
 ――世界中を旅しているカジモ兄なら、浅野先生の葉書の写真、どこだかわかると思って。
 そう前置きした後で写真の風景を語ると、カジモ兄は
「お前、ひゃくぶんはいっけんにしかず、って言葉知ってんのか?」
 と、ベッドに倒れ込んだ。ベッドの横に移動して、思いつく限りの葉書の詳細を話し始めると、カジモ兄は両手で耳をふさいだ。
「兄、聞いてる? あとね、漢字がいっぱい書いてるんだよ、住所のとこに。でも漢字じゃないっぽいんだよね、変な漢字。あとねあとね、えっとー…そうそう砂漠みたいだったよ。遠くがね、砂だらけなの。でねー、漢字の下に、蛇みたいな記号がたくさん書いててー…」
 カジモ兄は動かない。寝てしまったようだった。
 仕方なく立ち上がると、ぐもった声でボソっと何かがボクの耳に届いた。
「敦煌じゃね?」
「……へ?」
「地図見ろ、チ・ズ」
 カジモ兄はそれっきり喋らなくなった。きっと連日の稽古で疲れてるんだろう。
 それにしても、変な響き。
 ――トンコウ。
 豚骨? トントウ? 観光? それはドコにある国なんだろう。ボクでも行けるのかな。明日、浅野先生に聞いてみよう。うん、そうしよう。
 それから告白するんだ。
 ぬけがけ。ドンちゃんもミッチーも、言おうとしないんだもん。ボクは違うぞ。絶対、せーったい浅野先生と結婚するんだ。

     ☆

『拝啓、浅野先生へ。
 お元気ですか? その前に、覚えていらっしゃいますか? 安曇です。
 先生が、最初に赴任なさった小学校の5年2組のカズン、と言った方が思い出しやすいかも知れません。無理に思い出さなくとも、教え子の一人だった者です。
 先生、僕は今、敦煌に居ます。
 こちらはとても熱いです。
 先生、校長先生になられたそうですね。おめでとうございます。
 偶然、前と同じような写真の葉書を見つけたので。
 おめでとうございます。
 P.S.おめでとうございます』

 5班の班長になってからの、最初の掃除当番は校長室。ボクはチャイムが鳴り終わったと同時に、机をガタガタさせて教室を飛び出した。
「こうちょうせんせい! 掃除しに来ましたーっ!」
 校長先生は笑って「ありがとう」と言う。ボクは校長先生が大好きだ。
 放送準備室から掃除機をとってくる前の、このひととき。最高。
 校長室のソファにゆったりと腰をかけ、クリスタルの灰皿にティッシュをあしらって遊ぶ。
 ふと机の上を見ると、はがきが一枚置かれていた。なんだろうと思って、めくったら「だめよ、掃除機とってきなさい」と、校長先生に取り上げられた。
 校長先生はいつもニコニコしている。ボクは仕方なく戸口に向かい振り返る。校長先生は、今日はなんだか、いつもの5倍ぐらいニコニコしている。

■ 飛べない小鳥 ■

 貴方の、その美しくて汚らしい唇から放たれる言葉は、私の意思を封じ込める甘い鎖。
 私は形だけ抗って、そして貴方の歪んだ愛をそのまま受け止める人形。逃げようと思えばドコにだって逃げられるハズなのに、どうして私はまだ、ココに居るのだろう?
 私の名前はコトリという。
 偽名じゃない。本当の名前。
 貴方も最初、偽名だと思っていたわよね。
 私が風邪をひいた時、病院に連れて行こうか迷った貴方は、保険証を見てようやく納得してくれた。
 まったく、貴方に嘘をつく理由なんてないのに、貴方はいつも不安になっている。
 私がいつ貴方から離れるか気が気ではと貴方は宣言して、こうしてトリカゴの小鳥よろしく、ずうと白い部屋に閉じ込めている。
 私はこの部屋に入れられたあの日から、一度も外に連れて行ってもらえない。
 あの簡単に開くドアに手を掛ける事もなく、一日中ベッドで過ごす。
 時折、買ってもらった小さなテレビをぼんやりと見たり、学力が低下しないように参考書を読んだり、少しだけ眠ったりしている。近頃は、歩くことさえままならないほど衰弱しているのが自分でも分かる。このままだと私は、一生をこの部屋の中で終えることになるのだろう。
 けれど。
 貴方から逃げ出す気には、到底なれないのだ。
「逃げないのは、コトリちゃんの意思だよ」
 と、貴方はよく言う。
「コトリちゃんは、ボクの事を愛しているから逃げないんだよ」
 そうして私に触り、なにか「いけないこと」をする。
 よくわからない。
 愛?
 本当にそうなのかしら。
 私は、激しく動く貴方にしがみつき、考える。
 それじゃぁ、貴方の「愛」というのは、私をココに閉じ込めるコト?
 私の気持ちも聞かずに、ただ私の中で動くこと?
 カラダは勝手に反応しても、私が望んだコトじゃないと、貴方は知っているハズで。
 ――白い液体が私を濡らす。
 貴方の激しい吐息がかかる。
 私は既に学習していた。このむせかえる臭いを受け止めて、ぐったりと眠るふりをすればいい。そうすれば貴方は、少なくとも私を殺す事はない。
 家族は。
 父や母や姉は、心配しているだろうか。最近瞳をつむると、やけにそればかり考えるようになってしまった。もう捜してもいないのではないかと思う。貴方は私にバスタオルをかけ、部屋から出て行った。そのまま回想する……。
 私がここに連れてこられたのは、今から何年も前のコト。
 家で独り留守番をしていた私に、セールスマンを装った貴方は、母の知り合いだと言った。そして私に「これからお母さんの実家に行ってお泊まりするから」と、服やら何やらを指示して持ってこさせ、まんまと車に放り込んだのだ。
 ちなみにその時、私は小学5年生。世間一般的に、これを誘拐と言うらしい……のは、テレビで見て知った。
 ワイドショウで毎日報道される、あれは私の顔写真。
 私は貴方に誘拐された。
 そして。
 連れてこられたこの部屋で、なにかに侵され始めたのだ。
 この人は狂ってる。
 部屋に貴方が入ってくるたび、逃げたら殺される逃げなくても殺されると、そう思って怯えていたのに、いつの間にか思わなくなって、そうしてそれが普通になっていって。
 友達と走ってまわった外の景色すら、思い出の中で霧につつまれてゆく日々。
 最初は私とベッドを繋いでいた鎖も、とうになくなっている。
 ……のろのろと起き上がり、タオルで体中をこする。赤くなって痛くなって、泣きそうになるくらいこする。
 汚い。きたない。
 まだそう思えるの?
 貴方が。
 私も。
 こんなに白いのに。白はきれいな色だって、先生言ってたのに。
 逃げようか。
 そうだ、飛ぼう。ここから。鳥のように。
 貴方から。
 泣きそうになるのをこらえて、部屋の隅に無造作に置かれたTシャツを着た。瞬間ドアノブが、カチリと動いた。
「起きたのかい?」
 ゆったりと微笑んで、貴方が入ってきた。外行きの格好をしている。手には紙袋をさげ、つい今しがたどこかに行って帰ってきた、そんな様子だった。
 私が逃げ出すなんて、夢にも思っていない顔。
 貴方はすっと私のそばに腰かけ「コトリちゃんにあげる」と、袋から何かを取り出した。
 それは、ピンクのワンピースだった。
 着てみてと強く言われ、シャツを脱ぐ。どうやって着るかよくわからないと言うと、私の両手に貴方の手が添えられた。動かされるまま、足を通して肩にかけ、袖を通す。背中のチャックは貴方があげてくれた。
 後ろを何回もふりかえり、スカートの裾を持ちながらクルリと回る。
 生憎、ここには鏡というものがない。
「……ど…、どう……?」
 思わずきいてしまった。
 けれど、貴方は私をじっと見たまま、動こうとはしなかった。
 夕日がかたむく。
 この部屋に窓はないけれど、私はその空気を知っている。毎日そうだもの。
「コトリちゃん、逃げてもいいよ」
 そのワンピースで、どこへでも逃げなよ。
 貴方は卑怯で、汚くて、白くて、私を閉じ込めようとする。唇が、歪んで、私が動こうとするたび甘やかな鎖になる。
 この後なんて言うのか、貴方はもう知っているのに。

■ 止まらないって、教えてくれるから。 ■

 弔問客からは見えない、障子で仕切られた縁側でお車代を渡して頭を下げる。お坊様はひとつ大きく頷くと、玄関から黒い車に乗って行ってしまった。
 おとうさんはまだ、魂が抜けたようになっている。頼りにならないので、おばさんと一緒に今夜までの予定を再確認した。今夜も泊ってくれるというので、心強い。
 明日には形見分けがある。母方の連中も来るのか……そう思ったとたん、胃がしくしくと泣きはじめた。あわせて腸も、下腹部全体がキュウ、キュウ、と締まる感覚。胃薬、飲まなきゃ。
 首の、パールネックレスをさすりながら台所に行くと、制服姿のあゆむが水を飲んでいた。
「ごめん、あゆむ。わたしにも一杯」
 無言で蛇口をひねる弟。テーブルに、ダンと置かれるコップ。
「あゆむ。ガラス割れちゃうでしょ、もっとやさしく置きな」
 弟はチッと舌打ちして台所から出て行った。反抗期ということもあいまって、通夜からこちら、あゆむとは一言も話していない。小さい頃は、小学校の宿題をやるたびに「おねえちゃん、おねえちゃん遊ぼう」と言いながら袖をひっぱってきたのに……、年を重ねるごとにこんなにも、気まずくなるなんて。
 胃薬を流し込む。なにか、ものを食べてからの方が良かったかも知れない。
 一息ついた直後、おばさんが、重ねたお膳を運んできた。
「風子ちゃん、下げたお膳、ここに置いておくから」
「はい。助かります」
 わたしも作業に加わらなければならない。戸棚につっこんでおいたエプロンをつけて、座敷へと向かった。

     ★

 時間は待ってくれない。
 正しく進んで、時計なんか、見なくても。止まらない。誰も止めてくれない。
 おかあさんの部屋には、うっすら埃が積もっていた。いつも使っていた黄色のエプロン。お出かけ用のちいさなバッグ。いつもの帽子。中学生だったわたしと小学校に入ったばかりのあゆむでプレゼントした、黄色いハンカチと肩たたき券も出てきた。クローゼットにかかっていたのは、昔、授業参観でよく見たベージュのスーツ――、高校の三者面談で見たのが最後だった。床には畳まれた洗濯物。おかあさんの普段着。白くかすれた、くたくたのジーンズ。もう何年も、同じのを履きっぱなしだったことに、ようやく気付いてしまう。
 戸棚の中を開けると、ペットボトル数本に、びっしり入った5円玉。この辺はあゆむ君に渡そうか、と、おばさんが言った。
「そうですね。いっつもお金ないってぼやいてるし、いいかも知れませんね……、」
 と。玄関のドアが勢いよく開く音。足音を大きく鳴らして踏み込んできたのは、おかあさんの親戚と名乗る、大勢の知らない人たちだった。持っていたペットボトルを乱暴に取られ、けれど、そこからが始まりだった。室内は荒らしに荒らされ、おかあさんの部屋以外の場所も物色された。おばさんと2人じゃ止められなくて、結局、家のほとんどの、価値あるものは持っていかれてしまった。無事だったのは、貸金庫に預けておいた通帳や印鑑、登記簿なんかの書類だけ……。
 帰ってきたおとうさんは、惨状を見もしないでフラフラと寝室に閉じこもった。帰ってきたあゆむは、大声で悪態をつきまた家を出て行った。
 泣いて謝るおばさんの背中をさする。
 死守した年代物のブローチを、形見に持っていってもらう事にした。本当は、わたしが形見にもらうつもりだったけれど、他には何もなくなってしまった。どうしようもない。
 おばさんを帰したあと、台所の椅子にゆっくり腰かけた。線香の匂いに包まれながら、明日は片づけて終わりかな、と考える。会社の弔休と短い有給では、明日が限度だった。あさってには、もう出社しなければならない。
 玄関の扉が開く音。
 あゆむだった。声変りも終わり、すっかり低くなった声で「どうすんだよ」と呟いた。
「……なに?」
「どうしてくれんだよ! っつってんだよ、オレの部屋!! 弁償しろよ! アレとかアレとか、3万もしたヤツも、全部ねーし!!」
「……仕方ないでしょ。でも、もうあと来ないと思」
「ハァ?! バッカじゃねーの?! 何してんだよ! 何で……!」
 ガタン。と、椅子を引いた。
 立ちあがる。
 言いたいことはこっちだって沢山ある。悲しくて、やるせなくて、叫びたくて、でも、全部我慢しないと回らなくて。何でおとうさんだけ悲しみにひたってられるの。何であゆむだけ怒りをぶつけられるの。おかあさんが死んで悲しいのは、わたしも同じなの。ああいう事されて、叫んで怒りたいのはわたしも同じなの!!
「あゆむ、」
 わたしの含むところに気がついたのか、あゆむは身をかたくした。
「何だよ……」
「わたし、明日、ディズニーシー行ってくるから。留守番してて。日曜でしょ。用事ないの知ってるから。ついでにリビング片づけてといてくれたら助かる。朝イチで行くからあと話しかけないで。じゃ、おやすみ」
 一気に言って、素早く台所から出て二階にかけあがり、部屋に閉じこもって鍵をかけた。
 あまり眠れなくて、すぐに夜が明ける。
 わたしは最低限の化粧だけして、財布だけ持って、家を飛び出した。車を乗り継いで舞浜駅へ。日曜というだけあって、朝でもひどい人ごみだった。構わない。忍耐強く待って、ようやく園内に入る。
 まっすぐフォートレス・エクスプロレーションに向かい、中のペンデュラムタワーへと歩く。目的のものは……、高い位置から吊るされた大きな振り子はゆっくりと動いていた。静かに。でも止まらない。
 地球の自転も、世界の時間も、止まってはくれないのだ。
 立ち止まって眺めている間に、私の後ろを、カップルや子供たちが楽しそうな声をあげて進んでいった。
 ふいに、おかあさんの声。
 バッとふり返ると、わたしを訝しげに見ながら、ひと組の家族連れがそそくさと通り過ぎていった。
「お母さん、あとでアイス食べたい!」
「はいはい、あとでね」
 今、優しくされたかった。こらえきれなくて、涙が、しとりと落ちた。