■ ちくわ近未来系 ■

 白いケーキボックスを片手に ドアをガチリと開けたミキは、リビングから漂ってくるだしの香りに愕然とした。
 見えるのは、おたまを手に正座しているマナブと、カセットコンロの上の土鍋。
「お帰り、丁度来ると思っ……」
「ちょっと何それ!? 信じらんないッ!!」
 ヒザまである深いブーツを乱暴に脱ぎ捨て、ズカズカと突進したミキが仁王立ち睨みつけたのは、ふつふつと煮えているおでん。
「なんでおでんなの今日忘れてない?! 今日、アタシ達が付き合って4年目の記念日だよね!」
「知ってる」
「なんでおでんなのあーもうアタシせっかくキルフェボン寄って帰ってきたのに! おでんと苺タルトってマジ合わなくね?! 今日忘れてたの?!」
「いや、覚えてたけど……」
「はいはいはい! アタシがバカでした! なんかパスタにワインでも用意してくれるかもぉー〜な〜んて期待したアタシがバカでした!」
「戸、閉めて……寒いから」
「あーっ! きたぁ〜その顔『うわー、記念日記念日って女ってマジウッゼーな』って顔だ?! はいはいウザくて悪ぅございましたね! ウザミキさんですけど何か!?」
 はあはあと息を切らすミキに、おでんを見守り続けるマナブ。
 しばらく沈黙が続くも、炊飯器のピーという炊けた音をきっかけに、ミキは乱暴にケーキ箱を冷蔵庫へ入れ、マナブはいたって冷静に、お椀をテーブルの上に並べ置いた。
「ミキ、」
 唇をとがらせたままコートを脱ぎ背を向けるミキを、マナブは後ろから抱きしめる。諭すように、優しくささやいた。
「今日、寒いから。ね、ミキの好きなウィンナーも入ってるよ」
「……別に。好きじゃないし」
「ハイハイ」
「好きじゃねーよ! 別に毎回入れなくていいから! あれはアタシの家だけの習慣ってコトでもう理解してるっての!」
「ハイハイ、もう煮えてるから」
 つけっぱなしのテレビでは、秋の特別番組として、芸能人クイズ王決定戦が放映されている。それを観ながら二人であーだこうだ言いつつおでんを食べていると、CMに入ったところで急にマナブが真面目な声を出した。
「ミキさ、実はこれ、一種の告白なんだけど。俺、ちくわ覗くと近い未来が見えるんだよね……」
「、は?」
「ちくわの穴をさ、こう、」
 マナブはほどよく煮えてくったりしているちくわを持ちあげ、穴を覗く仕草をした。
「……あのさマナブ。アタシ髪の毛金髪だし、危険が危ないし、ちょっとバカだけどわかるよ」
「ん?」
「エイプリルフールは4月1日にしかな、い、ん、だ、よ! 食い物で遊ぶなバーカ!」
 いーっと歯をむき出して威嚇した後、ウィンナーをほおばるミキ。
 マナブが諦めたようにちくわの端を噛むとCMが終わり、TV画面は派手な格好をした司会者に切り替わった。
『さぁ、次からの決勝戦は、一般正答率1%以下の超☆絶☆難問!』
 問題文が下枠に表示される。
「あ、これわかるよ。さっきちくわ覗いたから。ウンウンセプチウム」
「――は?」
「ウンウン、セプチウム」
 司会者の隣に立っていた女性アナウンサーが、問題を読み上げ始めた。
『問題です。2009年に存在が確認されたが、科学上の制約でまだ発見されていないとされている元素、周期表117番Uusの名前は?』
 会場の誰も答えられず時間切れ。画面に大きく出たのは――、ウンウンセプチウムの文字。
「……マジ?」
「マジです」
「えっ、じゃあ東大合格したのも……?」
「いや、センターとか、ちくわ持ってけないでしょ。俺の筆箱、どんだけちくわ臭いの」
「じゃあさー、じゃあさー、宝くじ当て放題じゃね?」
「だから、街角でちくわ出せないでしょ。変質者になるのイヤだよ」
 それより俺、春から社会人になるわけだけど、とマナブは箸を置いた。
 鍋の中は食べつくされ、ほとんど汁だけで、ちくわと崩れた大根が端にポツンと残されている。
「このちくわで、ミキと結婚するか決めようと思う」
「はぁッ!?」
「覗いて、楽しい未来が見えたら結婚。悪い未来が見えたらー…」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って!」
 箸を両手で持ちながら、お伺いをたてるように上目使いで半笑いのミキ。
「悪い未来見えたら、別れるってコト……?」
「あ、どうしよっかな」
「やめてよマジ最悪! なんでアンタっていつもそうなの?! そりゃアタシだってワガママいっぱい言ってっけど、それはマナブが許してくれるから……じゃなくて、いい。わかった」
「何が、」
「アタシがこのちくわ覗くわ」
 うやうやしく箸でちくわを持ち上げ、ミキはゴクリと咽を鳴らした。
 悪い未来が見えませんように……。そうっと、慎重に覗く。
 しかし、穴の先に見えるのは、真顔のマナブだけだった。そのマナブは斜め下を見て、何かをポケットから取り出す。黒い、小さな箱だ。
「ウソだよ」
「へ?」
「未来見えるって、ウソ。元素の名前なんて、東大生には常識問題だよ。結婚しよう、ミキ。俺、この間正社員内定したばっかだから、コレ、安物だけど」
 ちくわが鍋に落ちた。
 ミキの顔に汁が飛んだが、指輪を眺めたまま呆然と口をあけている。
 うぐ、ひっくと泣き始めたミキの顔を長袖でぬぐいながら、マナブは今後、ちくわの話はしない事に決めた。
 さっきミキが掲げたちくわの奥にはまだ、教会でキスをする二人のシルエットが映り続けている。

■ 中心ぐら1 ■

 噂には聞いていたけれど、これほど大きな蔵屋敷は初めてだった。
 どこまでも続く白壁と黒の瓦たち。数十棟の蔵から成り立つこの蔵屋敷には、未だに人が住んでいるらしい。居間がわりの蔵、台所の蔵、仏間の蔵、寝室の蔵――。もちろん、ただの物置の蔵もあるときく。
 僕はカメラが入った黒い四角鞄を小脇に抱えながら、門の前に立ちつくしていた。今日は、雑誌の依頼を受け「古今東西 日本の屋敷」というコーナーに掲載するためここに来ている。事前に電話でOKはもらっているのだけれども、まず、ここのご主人に、挨拶するのが筋だろう。
 ……どの蔵にいるんだ?
「こんにちはーぁー!」
 僕にしては大きな声で、言ってはみたものの白壁に反響し、奇妙にまのびする。
 とにかく一歩と思い、門の中に足をふみ入れると
「……はぁーぁあー…ぃ…ぃ……」
 遠くから、声が返ってきた。
 女性の声だ。奥さんかな? ご主人は、不在なのだろうか?
 とにかく、僕は声のする方へ行こうと左に進路をとった。小さな蔵をひとつ廻り込むと、突然ひらけて庭に出た。
「―…うわ、すご……」
 しっかりと手入れされた日本庭園だ。白い砂利には波打つ模様。キッチリと長円に切られた松。巨大な池の中では赤白まだらの錦鯉が、ゆっくり踊り泳ぐ。
 庭のはじをそうっと横切り、今度は右に曲がった。声はもう聞こえないけれど、たぶん……こっちだ。そう、ここを通りぬけて……、ここをまた右に……。僕はいつの間にか、奧へ奧へ奧へと歩いて……小走りに……走って……。
 なんだ?
 この感じ。白と黒が、続く迷路に。奥に。引っ張られる。なにかー…、誰か、いる?
 たどり着いたのは小さな蔵だった。やっぱり白い、壁。黒い、瓦。扉も黒だ。いかにも厚そうなその扉には閂がかけられていて、入れそうにもない。閂を抜いたとしても、開けられるかどうかもわからない。そもそも、声、は?
「………あっれー?」
 僕は、わざと馬鹿な声をだした。「知らずに来てしまった」という、責任逃れのために。
 目だけで左右を確認して、きびすを返した。このまま戻ろう。この屋敷の者が、誰も来ないうちにー…。と。
 ――ゾッ。
「えっ……?」
 立ち止る。ゾゾ、ゾゾゾゾ。音に、背筋が凍る。閂がー…、ひとりでにはずれている……? 振り返る。確認する。動いている。閂、が。
 ゾゾゾゾゾゾゾ、ゾ。キィ。キィ。キィ。
 目をうたがった。外れて、閂がゆれているー…、ギッ。ゴ、ギ、ギ。扉が、開く。開く。開く。動けない。
 ギィィィィィィイイイイイ。
 暗い、奥に、女が見える。長い、髪の、着物の女、目が合う、濡れた、蛇のような目。女はゆっくり、ニイイと笑った。
「――アラ、あなた“そっち”からオイトマかしら?」
 ぐらっと、“こっち”の世界が動いた瞬間。

■ 沈黙の丘 ■

 昨日、私の羊が死んだ。
 すっかり暗くなった部屋の中、カーテンを開けても夕暮れは止まらない。遠くにひとつの木とひとつの影。
 まだ、まだなのか。
 沈黙の丘では相変わらず彼女が傘をさしたまま、どしゃぶりを待っている。一本だけ葉をしげらせているけやきがまだらに、小さな島のように影をはらはらさせているだろう、あの丘で。
 この家からは、沈黙の丘が見渡せる。
 私は、むかし、よく弟とあの丘まで競争したものだった。たいてい弟のほうが速かった。けれど優しい弟は勝ち誇るようなことはせずに、けやきの前で私を待っていた。記憶は苦味に変わる。
 昨日、そうだ。
 昨日弟も死んだ。
 治らずに進行し続けていく病。このままゆっくり死に逝くのと、私に殺されるのとどちらがいいかと聞くと弟はしばらく押し黙り、うすく褪せて乾いた唇をふるわせながら、殺してくれと呟いた。
 銃とナイフどちらがいいかと聞くと弟は、
「断然、銃がいいな。兄さん。今日は風が強いね……」
 ついに陽は完全に暮れ、紫から黒に変わりつつある丘には、彼女とけやきがあるのみだ。
 沈黙の丘で雨を待っている彼女は、弟の羊であった。
 彼女は美しい。
 肌は、私の羊とは似ても似つかない透明な白。毛も、私の羊は明るい茶だったが、彼女は漆黒のストレートをずっと伸ばしている。
 私は玄関を出て、傘をさしながらゆっくりと、沈黙の丘にのぼった。
 彼女の隣に立つ。
 雨粒がひとつも落ちない丘の上で、私たちは一言もしゃべらずに夜を迎えた。
 と。
 気付く。
 彼女が私をじっと見つめている。髪と同じ、漆黒のひとみで。私は勇気をふりしぼって彼女に声をかけた。
「どうか……おかしくならないできいてほしい。私と、結婚してくれないか。お互い、今はもう何も考えられないとは思う。決して傷口を舐めあおうとか、そういう事でもなくて……。すまない。私はどうかしているのだろうか」
「殺さないで!」
 彼女は叫んだ。
「わたし、知ってるわ。あなたの奥さんをあなたが――、いえ、いっそ殺して頂戴。私も夫の元へ逝きたいの……どうやっても……! 殺さないで、やっぱり生きていたい……けど殺してほしくもある、わたしもきっと! ……きっと、どうかしているのだわ」
 数日後、ようやくどしゃぶりがやってきた。黒い雲をひきつれ、雨が立つ。雨粒の合間に雷の音。沈黙の丘にはもう誰もいない。
 昨日、羊が死んだ。
 私が殺し、少しだけ食べ、そうして埋めた。
 弟も、私の羊も、弟の羊もすべて――同じ場所へ。家の庭へ。
 この窓からは沈黙の丘が見える。視線を下に移せば、庭がある。
 私は、誰もかれもをこれほど愛しているとは、ついぞ気付かぬさもしい乞食であった。失い、そして二度と戻っては来ない。