■ 手 ■

 晴れた放課後の教室。太陽が傾いてきたから、カナタの頬は半分オレンジに染まっている。机に開きっぱなしの本。カナタはさっきから、頬づえをついて本を眺めている。
  ――あがげざららう。
  ――かに、あがげらう。
「ねぇ、これって日本語?」
 私は本を持ち上げる。とたんにツンと、油みたいな臭いがした。
  ――あが!
  ――くらまちせんな、ねのはらふぞ。
 このページから出てるんだと思って、すぐに閉じた。ボロボロの、黒の表紙。手のちからを抜くと、ペロンと、さっきのページがすぐに開いた。折り目ついちゃってるんだ。
  ――ほどぅ、あがげあに。
  ――ぷるぅとあに。
 そっと、机の上に戻した。よく見るとページ自体も、茶色い染みが点々とついている。古いんだ。だから書かれた言葉も、なんか、こう、よく読めないのかもしれない。日本語だとは思うけど、方言? なのかな。
  ――かかくちらやそおで。
  ――かぬさと、りままありままあも。
「訳してほしいの? できるけど、そのまんまの意味だよ」
 カナタは一度手をおろして、今度は反対の手で頬づえをついた。
「そのまんま……、って?」
「………」
「ねぇ、」
「………」
 カナタは答えてくれなかった。
  ――あいしてた。
  ――ぐさり。
 カナタは立ちあがった。
 本を閉じ、鞄を机のうえに出す。カチン、金具の音。本をしまって歩き出す。私はカナタをおいかけて、廊下の先でカナタの制服をつまんだ。
「早いよぉ」
「ごめん」
  ――も、
  ――あも、ぐ
  ――あ。
 下駄箱は赤くて、外に出ると土も校門も赤くて、それで、カナタとつないだ手も真っ赤。ぼんやり夕日を見ていら、急に、カナタがギュッと私の手をにぎってきた。
「……あのさ、」
 カナタを見る。カナタも私を見る。見つめる、目も真っ赤。血みたい。
「あの話のみたいに、ぼくら、なれるかな」
 私はまったくあの本の内容がわからなかったけれど、
「うん!」
 とりあえず笑っておいた。
 夕日はまだ沈まない。
  ――あがげざりっぱ、ぼらてとさ。
  ――ほるるくあきめ、いざららう。
 私たちは手を放さなかった。一度だけ放したとき、カナタは黒い本を鞄から取り出して、なんでもないような感じで道端にぽろんと捨てた。

■ Territory ■

 いつも青白い顔で本を読んでいる私は、クラスの皆から「不治の病のミカミちゃん」という名で呼ばれている。
 私は、自分で言うのもなんだけれど体力もないし、よく貧血になるし、時々喘息も起こすし……とにかく、私の体は弱い。
 でも、別に「不治の病」ってワケじゃないんだけど……。
「ミーカミちゃん! 今日も青い顔してるねっ! たまには笑ってよ、わはははは」
 隣の席の三上修が話しかけてきた。
 かなり「私に近寄らないで」オーラを出している私は、クラス男の子に声をかけられた事、あまりない。
 こいつを除いては。
 いつもいつも、私のテリトリーの中に平気でズカズカ入ってこようとする。こいつ、苦手。
「今日もってどういう意味よ。私だって、毎日青い顔してるワケじゃないんだから」
 私はそっけなく返すと、また本を読み始めた。今日中に読んでしまわないと、図書の先生にしかられちゃう。返却期限、とっくに過ぎてるから。
 刺々しく言ったつもりなのに、私の言葉にダメージをくらった様子もなく、彼はまた話しかけてきた。
「ねーねーミカミちゃん、何読んでんの? ねえ、ねえ、」
 ……うるさいなぁ。
 本に集中できないじゃない。
「放課後のキィーノートっていう本。本に集中できないから、少し黙っててよ」
「はいはーい」
 三上は席を立つと、他の男子の所へ走っていった。
 はぁ、やっと本が読めるわ。
 そう思ったのもつかの間。今度は後ろの席の葵ちゃんが話しかけてきた。
 これは「黙っててよ」なんてセリフ、言えないわ。
 私は、怒らせた女の子の怖さ、よく知ってるから。
「ミカちゃん、オサム君となに話してたの」
「……別に。本のコト」
 葵ちゃんは瞳を細めて、うっとりとした表情で言った。
「オサム君ってカッコイイよねー」
 瞬間、解った。
 顔に、恋の香りがにじんでる。
 私は自分のカラダの事で精一杯なのに、この子は恋する余裕があるのだ。
 神様ってば、とても、いじわる。
「ねぇミカちゃん、今度オサム君に彼の好きなお菓子聞いてみて。簡単に作れる物だったら、私、作ってみようかな」
 なんで私が聞くんだ……自分で聞けば?
 ちょっとだけそう思ったけれど、彼女には、直接聞くなんて勇気もないのだ。恋は、人を、弱くする。
「いいよ、わかった。聞いとくね」
「本当?!」
 葵ちゃんは大喜びで、私に握手まで求めてきた。
 いや……そこまで感激しなくても…。
 で、放課後。
 私は三上が廊下に出たのを見計らって、さりげなく声をかけた。
「ねぇ」
「なに……えっ?!」
 彼は振り向き、声をかけたのが私だという事に、とてもビックリしたらしかった。
「好きな、お菓子、ある?」
 私はビックリしている彼が聞き取りやすいように、言葉を区切って言う。
「え……え…っと」
 彼は言葉につまっている。
 くっ、まだるっこしい。
「他の女子に頼まれたダケだから、答えなくてイイわよ。じゃぁね。さよなら」
 多少なりともイライラしていた私は、さっさと廊下を歩き始めた。
 ハッキリしない男ってキライだ。
 ――と。
「……ッ?!」
 いきなり視界がゆがむ。
 やば……こんなトコロで貧血起こすなんて最悪……だ…。
 私は廊下に座り込んだ。
 コンクリートは冷たかったけれど、私の意識まで冷静にしてはくれなかった。
「ミカミちゃん?! 大丈夫?!!」
 三上が駆け寄ってきた。
「………」
 まいった……気持ち悪すぎて何も言えない。
「保健室、行く?!」
 何ほざいてんのよ……こんな状況で歩けるワケないでしょ。
「ミカ……うん。よし」
 彼は一人で納得すると、私を「ひょい」と持ち上げた。
「え? あんた……なに…」
 ダメ。ビックリしたけど気持ち悪くて何も言えない。
 彼は私を抱いて、廊下を走り始めた。
 二階ぶんの階段を降りて、左に曲がると保健室。
 いつ誰が来てもイイように、保健室のドアは開きっぱなし。だから、彼は私を抱いたまま、保健室の先生を驚かせた。
 ……数十分後。
 私は三上と一緒に、帰り道を歩いていた。
「大丈夫よ」と、私は言ったけれど、
「いや、ミカミちゃんがドコで貧血になってもイイように」
 と、彼は言った。私は貧血になる予定なのか?
 その疑問は、彼の笑顔にかき消された。
「いつもムスっとした顔してないでさ、笑って? ミカミちゃん」
 三上は、夕日を背に、とても素敵な笑顔で、私を見てー……。
 そのとき、私の中にあの、恋する女の子特有の、とても可愛い香りが生まれるのを感じた。
 ごめん葵ちゃん。単純だな、私。
 そう思ったトキ、彼は驚いた顔で私を見た。
「笑っ……た」
「悪い?」
 恋する余裕、自分で無いと思い込んでただけだったみたいだわ。

■ デイビットと数学とワタシ ■

 ワタシは駅前のアーケード街をブラブラと歩きながら、オイラーについてしばらく思考の奥へと潜れるような、適当なカフェにでも入ろうと考えていた。
 ディビットの元を訪れるときはいつもそうだ。
 あの太っちょな親友は、数学を生業としている。
 数学的な問題が頭をよぎる時、ワタシは決まって彼のボトムスのめくれ具合を思い出した。太っているのは構わないが、余った裾を何重にも折るのは、いい加減やめろと言っている。聞かないのは学者特有の頑固さのためで、彼の美しい妻でさえ呆れているのは、誰の目にも明らかだった。
 数メートル進むと、パステルカラーの色遣いで木を基調とした、カントリー風のカフェを発見した。まだオープンしたてのようで、開店記念の花束が入り口に並んでいる。
 しがない外人であるワタシ、しかも、ワタシは男であるが、まぁ当然入りにくいものだ。デイビットであれば意気揚々と入るところであるが、遠慮がちにくぐった狭い扉。女性の店員がいらっしゃいませと声をあげる。思ったよりも空いていた。
 ブレンドを注文し、テーブルに飾ってあるコーヒー用の大きな缶を手に取り、頭では、もはやオイラーの数式が、洪水のように氾濫しはじめる。
 舵取りは上手くいかない。
 ワタシが数学者ではないからだ。
 知識だけあっても、それを取りまとめる全体の指導者がいないからだ。ディビットは違う。彼と話してさえいれば、ワタシのまとまらない話は――気球と虚数、島と橋、オッカムのかみそりと競馬の寓話――とたんに整然と並べられ、ゆるやかな流れのように一つの命題へと導かれてゆく。確実な解答を求めないのはデイビットの悪い癖だった。しかし、仕事以外の話しなら解を求めなくとも暇つぶしにはなる。
 一旦思考を停止し、手に持っていた大きなコーヒー缶をじっくりと眺めた。挽きつぶしたコーヒー豆を保存するための手順が、番号順に細かく描いてある。
 1、よく挽きつぶす(工場、次につなぎを着た男性がコーヒー豆を挽いている絵)2、よく乾燥させる(太陽、豆は薄く並べられている)3、木片大に集める(木片ひとつにつき5人分ほどのコーヒーの量)4、木で囲み釘を打つ(順番にお早めにお召し上がりくださいと注意書きがなされている)5、……コーヒーが届いた。
 匂い、味ともにすこし薄っぺらいが仕方ない。数回に分けてちびちびと飲むと、店内にオルゴールの音が響いた。ハッと腕時計を見ると、時刻は八時。
 あわてて飲み干し、店を出た。また歩きはじめる。数十分もすると、閑静な住宅街にたどりついた。
 デイビットは少々風変りな男であるということを、ワタシは認めないわけにはいかない。
 彼のもとを訪れるたびに、彼は変な(彼にとっては真面目な)実験をしており、それに妻や子供まで巻き込んでいる。もちろんワタシも巻き込まれる。数学者は物静かなイメージ? とんでもない。彼ほど楽しい男はそういない。今夜はどんな無理難題を繰り広げているのか、ワタシは浮き足立ちながらディビットの住む高級マンションへと足をふみ入れた。
 インターホンを押して正面の自動ドアを開けてもらう。十階にたどり着くと、出てきたのは彼の妻だった。ワタシから見ても美しい女性である。息子や娘もそうだが、デイビット以外は全員細く美しい。住民共同の体操室にいるという。数階さがって会いに行くと、彼は息子にバク転をさせているところだった。
 やあ、とお互い手を挙げる。
 挨拶も早々に、君は宙返りできるかい? とデイビット。彼のメタボリックな体型では宙返りなどできない。ワタシは、やってみた事はないがと、上着を脱ぎチャレンジする。が。その全てが、頭か背中をマットに叩きつけるという散々な結果に終わった。
「……難しいな。それにしても、どういうわけだい?」
 デイビットが意気揚々と説明するところによると、要は、左肩をかばいながら、どう回転すれば左肩をひねらないで回転できるかを実験しているらしい。意味が分からない。
 彼の妻が夜用の茶菓子を持ってきてくれた。ワタシは体操室のソファに寝そべりながらぼんやりとその様子をながめ、合間にはさまれる息子の側転などに拍手をした。
 デイビットは飽きもせずノートに数式を書き連ね、次はこうしてくれないかと息子に指示を出している。彼の面白いところは、風変りな何かをさも真剣に考えまくっているその様子である。ブツブツ独り言をつぶやいたかと思えば、口をすぼめて天井を見上げる。クルクル変わる表情に、ワタシが癒されているなどとは、彼は微塵も思っていないだろう。
 未知の世界へ挑戦するバイタリティ……ワタシは数学者ではないし、そして、それを幸福に思っている。
 体操室から戻り、しばらく煙草をくゆらしながら談笑していると、彼の娘が顔を出した。この少女も、彼の妻に似ていて美しい。
 ワタシがあと20才若ければ、などと邪な考えを抱いていた矢先、娘はプールに入りたいと言った。デイビットに聞く。
「プール?」
「あぁ、8階にある。体操室と同じで、住人には24時間開放している場所さ」
 付き合うことにした。夜のプールに対して恐怖のイメージしか持って居なかったが、存外明るく、すぐになじんだ。ワタシたちしか居ない。貸し切りだ。
 デイビットは黒いシャツでプールチェアに腰かけながら、ストップウォッチをカチカチしている。娘は25メートルプールをいま泳ぎきったところだった。
 暑い。ワタシも泳ぎたくなってきた。
 ワタシはいたずらを思い付き、シャツを脱いだ。トランクス一枚になってデイビットの腕をひっぱり走り、もろともプールに飛び込む。思ったよりもずっと深く、月の光がガラスと水で緑色に反射し、水中に美しく届いている……。
 ワタシに引き込まれたデイビットは思ったよりもあわてなかった。
 ニヤリと笑い、ワタシをふりほどいて水面に向かう。ワタシも一度顔を出すと、今度はデイビットがワタシを水底まで引き込んだ。
 ここまでやっておいてなんだが、ワタシは泳ぎがあまり得意ではない。二人でじゃれあっている様子を、彼の娘があきれながら笑い、見ている。
 水面に浮かびながら、デイビットがふいにうわのそらになった。
 おそらくはシャツが濡れて重くなるための時間か面積か何かを考え込んでいるのだろう――あぁ。水だ、涼しい。