■ 第1番変ロ短調 Op.9-1 ■

 部屋は薄暗い 。
 なにも聞こえない。
 いや、なにも聞こえなくしているのは僕のほうだ。
「……ショパンは嫌いかしら?」
 つりあがった唇が、甘い音を紡ぐ。
「いえ……」
 時折、月の光が、ベッドの端をなぞって消える。
 満月でもないのに、やけに明るい、夜。そうだ、この部屋の窓にはカーテンがひかれていない。
「ボウヤはそんな事、気にしなくていいのよ」
「ア、」
 クっと、顎に爪が喰いこむ。
 爪は長い。
 とても。
 教えてください僕は、もう、こうしてずっと、貴方の指先だけ見ていればいいんですかー…それで、いいんですか。
 目が合うと疑問は、戸惑いに変換されて伝わった。アイシャドウが濃くて、有無を言わせない力に圧倒される。
 きっとそうだ。
 みてはいけないもの、してはいけないこと。それらに人は、どうしようもなく惹かれる。開けてはいけない箱を開けてしまった少女の逸話を、ほんの一瞬だけ思い浮かべて僕は、息をつめる。
 雲が動く。
 月に反射したチークの、キラキラとした光沢が、まるでお菓子のようにちらついてあぁ。
 どうしようもなく、胸が苦しい。
 ――貴方を愛するくらいなら、この場で舌を噛み千切って死んだ方がマシだ。
 そう、思い込もうとする。
 抵抗する心に丁寧に鎖を巻いて。痺れて融ける恍惚は、あっという間に僕を骨抜きにするだろう。
「ショパンを……」
「なぁに、」
「ショパンをとめて…ください……」
 ベッドの上はやわらかく、後ろにさがろうとすると、そこには壁。頭をしたたかに打ちつけ、僕はそのまま、ずるずるとベッドのふちにもたれた。はずみで、顎から指先が外れ、不服に思ったのか貴方は両手をついて僕の顔をのぞきこんだ。
 反射的に目をそらす。
 貴方の息が、首筋にかかる。
 僕を、こわす。その、
「……してもらいたかったんでしょう…?」
「――あ、ァ……」
 そうです。
 僕は貴方のその指に、唇に、こうして溺れたかったんです。瞳を閉じて、何も考えずにただ。
 ショパンはやまない。
 月が、貴方の爪を紅く染めた。マニキュアの色だと気づいたときにはもう、深い夜の奥で。
 長いチェンバロのため息で僕は、微熱にうかされ侵されていく。



■ 高橋さんと雪死体 ■

 彼女が夜、僕の部屋にきた。
 雪がざくざくと降る真夜中1時の事だった。
 ぐしゃぐしゃに泣いた顔で、どうしたのって言うまでもなく高橋さんのせいだとわかった。
 いつもそうなんだ。
 彼女がここにくる時は、決まって高橋さんのせいなんだ。
「ねぇ、きみは愛されているよ。僕からも、高橋さんからだって、」
「……嘘つき!」
 彼女はそこだけ大声。残りの嗚咽は室内を、偽作の雪のように静かに満たしていく。とぎれとぎれの言葉で、僕は彼女の来訪の理由を知った。
 ――アンタなんか死んじゃえ!
 だって。
 ダメじゃあないか高橋さん。彼女にそんな、コト言っちゃ。
 あぁ、でも、困るよね。
 高橋さんがそんなことを一切言わないと、彼女は僕のマンションにこようとか思わないだろうし、そうすると僕が彼女に会えなくなってしまうし、だから高橋さんには、できる限り彼女を傷つけてほしいけど、もうたまらないって彼女の顔。
 あぁ。
 僕も。
 たまらない。
 扉は閉めて、電気も消して、薄暗い、緑の雪が、なみだが、うつくしくて、たまらなくて、永遠にしたくて、愛って言って。
 ゆるく縛っておくからね。こわれてこわれ、ないように。

     ★

 高橋さんが夜、僕の部屋にきた。
 雪がしんしんと落ちる真夜中1時の事だった。
 切羽詰まったような顔で「彼女を知らない?」なんて言うから、僕はだめじゃあないかと高橋さんを責めた。
「だめじゃあないか、高橋さん」
 ちゃんと縛っておかなくちゃ。
「彼女の水死体ならずぶん前から預かっているよ。緑色に氷った奥の、右はしに置いている。え? 臭い? いい匂いじゃないか 彼女。体ごと、溶けてしまいそうになってからいつでもこんな香りを発しているよ。ウジ? え、何? やめて見ないでくれる?」
 扉の隙間から部屋を覗こうとする高橋さんを制し、僕は更に続ける。
「愛していたとは嘘くさい。間違いくさいよ高橋さん、気付かなかったのも嘘くさい。彼女はもう限界だったんだよ。……水? あぁ 飲ませたよ。浴槽に顔を全部つけてね。腐、って? え、何? 入らせて?? いやだよ彼女を裏切ったくせに。嘘つきな高橋さんには、後悔がお似合いだよ」
 僕と彼女の部屋の扉をしめると、世界の外側で高橋さんが泣きはじめた。
 彼女の雪はまだ続いていて、身体中から涌いて出てくる白いもの。
 うごめくそれごと抱きしめて、彼女を愛しているのは本当に本当に僕だけだったという話なんだ。
 そしてこれからは。
 もう。

■ たまごのスケッチ ■

 この、うまいぐあいに叩くというコトができなくて、わたしはいっつもシフをよんだ。
 シフが、のっそり部屋のロフトからおりてくるのがわかる。
 足音だ。
 フローリングの床がキュっとなる音。
 わたしは目が見えないけれど、シフの足音ならきっとわかる。町の中でも、もちろん、部屋の中でもだ。
「あぁー、あぁ、あぁ、」
 やる気のない声を出してシフがまずしたことは、わたしのおでこを
「いたっ!」
「いた、じゃないでしょ、ユウ。ほら、カラをボウルに入れて。雑巾はー…、あったあった。はぁーあ、これで何個目だと思ってる?」
「……数えてない」
「だろうなぁ」
 ちからまかせに割った卵のなかみはまだ、わたしの指を手をてのひらを、トロトロさせている。
「うん、洗ったほうが早い」
 シフが、よっと声をかけてわたしを腰から持ち上げた。
「蛇口、蛇口わかる? うん、そうそれ。ひねって。えーっと右に」
「わかってるよ。わたし、子供じゃないんだから」
 おもいっきり子供だよね、というシフの声は、水の音で聞こえないフリをした。

     ☆

 わたしは料理がすき。
 見えなくても、香ってくるし、見えなくても、食べることができるから。シフの料理はおいしい。前に、いちど、料理人になったらと言ったことがあるくらいおいしい。
 けど、シフは乗り気じゃない。
 わたしが……おっと、これはちょっと暗くなったかも。まぁ、だから、もっとちゃんと暮らせるように――目がみえなくてもちゃんと暮らせるように――なったら、わたしは笑顔で、こんどこそシフに自立しなよ、って、言うんだ。
「いいの、そんなこと気にしなくて。宝くじにあたったから、当分ね、暮らせるし、僕はユウとの生活が気に入っているんだよ」
 気に入っているんだよ。
 ぼそりと、シフは二回言った。
「さ。じゃあ、卵わってみようか」
「うん、」
 シフがわたしの後ろに立って、わたしの右手をつつむようにした。
「はい、卵。持って」
「うん」
「はいいくよー、コンコン」
「……なにそれ」
「言ってよ、ユウ。ノリ悪いなぁ。ほぅら、コンコーン」
「……コンコン」
 キッチンテーブルの角にぶつかった卵は、わたしの右手の中で少しはじけた。シフの左手が、わたしの左手もつつむ。
「今度は両手。ここが、コンコンしたところ。ヒビ入ってるでしょ、わかる? ここ。ここに親指を入れて、ふたつだよ。そう、ちょっと力入れてはいパカー。はい、いい子ですねー。よくできましたー」
「最後おかしい! よけいすぎ!」
「ぷっ……、へはっ」
「バカ! バカ! シフばか!」
「あはははっ」
 笑いながら、目玉焼きにしようお昼、それでいいよね。もう一個卵割ろうか、いい子のユウちゃん、できる? だって。
「できないっ!」
 あんまり腹がたったから、わたしはシフの足を思いっきりふんだ。
 手をぶんぶん振って、キッチンの椅子をさがしあてると、わたしは体育座りでシフの料理を聞いた。
 パチチチチ。コンロに火がついて、カタン、フライパンがおろされる。わたしのとなりのかたまりに手をあてると、ツルツルしていて温かい。そうか、これは炊飯器だ。
 ジュウ、ジジ、ジジジ。さっき割った卵が投入される。バカン、これは冷蔵庫を開ける音。もう一個の卵だ。コンコン、チャッ。ジュワン。ジクジクジジ……。
「海苔のつくだにでいいよねー、あと、ほら、納豆のパック余ってる」
「朝とおんなじじゃん」
 それに、納豆シフしか食べないし。わたし超絶びんぼう食。不満をムシして、シフは部屋のテーブルにお皿を並べはじめた。
「シフー! たまごはー? 火事になっちゃうよ」
「なんない、なんない。いいのいいの。あ、じゃなくて、ユウはさー、ひっくり返すんだっけ」
「毎ッ回きくよね、それ」
「ユウだって気分あるでしょ、僕はうーんそうだなぁ。今日はー…」
「ひっくり返す!」
「あ、そう。じゃあひっくり返す」
 カゴカゴとフライパンをゆすって、シフがよっと声をあげると、次にはまた、ジュワワンとでっかい音がきこえてきた。
「あぁー残念だなぁ。この華麗な技をユウに見せられないなんて」
 そんなことをシフが言うから、わたしは「別に見なくてもいい、興味ない」と椅子からとびおりた。
「ユウ! テーブル気をつけて、お皿とかあるから」
「わかってるよもぉー…」
 本当は、興味ある。
 もし、わたしの目が見えている間にシフと出会っていたら、きっと、わたし、シフが卵をひっくり返すたびに拍手、したよ。けれどじっさいは違う。目はみえないし病院にも行っていない。たぶん、一生治らない。
「いただきまーす……」
「はい、どうぞ。いただきます」
 カリッカリに焼けた白身に、口からひたりおちるしょうゆ。シフが持たせてくれたお茶碗から、あわててご飯をかきこむ。おいしい。
「ん、ひふ! なっほぉやめへよ、ふはい!」
 わたしの抗議はやっぱりムシして、シフはコツコツと、皿を、箸で。
「どう? 自分で割った卵の味は」
「むん?」
「ちゃんと、そっちがユウ割ったほうだから」
 シフが、ニッコリしているのがわかった。そのくらいはわかるんだ。

■ 脱退せよ! クリスマス大作戦 ■

 クリスマスのために、並木道の大通りにつけたのは何千個かのイルミネーション。リリンジは独身だが、独身であるがゆえにクリスマスライトアップの実行委員に選ばれた。
 彼女や彼氏、妻や夫と平常にラブラブしているだれかかれかは、そもそも実行する側ではなく見物する側である。悲しい事にリリンジは、20才になった今も彼女一人できねえであった。高校時代に彼女のひとりもできねえヤツはいくつになってもかぶってる、とは、現在男と同棲している先輩(現在ホスト業)の談である。
 ライトアップされた光はあたたかな肌色で、リリンジと同じ実行委員のタケノン(会社員・32才)は
「いいねえリリンジ君。まるで母親の中みたいだ」
 とマザコンまるだしのコメントをリリンジの隣で首をコキコキさせながら呟いた。リリンジは、先週離婚したばかりのタケノンに対して数分間コメントをはさまず……というかコメントが浮かばず「見回り行ってきます」と赤色の帽子をかぶった。
 実行委員は全員、金太郎飴のような赤と白のサンタ服を着ている。一番似合っているのは皮肉なことにタケノンであった。
 とにかく寒いので見回りもそこそこに売っている屋台の豚まんでも買おうかと冷えた夜を満喫するつもりでいた。
 人がひしめく並木道の遊歩道をあるき、ライトアップのための募金をつのっている他の実行委員に「オっカレーッス」と声をかけた。順調に豚まんを確保すると、リリンジはすぐ食べようと、配電の大元である並木道のはじまり付近。交差点の、隅の黒い電柱の前にしゃがみこんだ。
 ふとみると、配電盤を女がいじっている。サンタ服は着ていない。面倒くさいと思いながらもリリンジは女に声をかけた。
「あのー、」
「ぴゃ?!!!」
 マネキンのように動かない女と、手が凍ったままのリリンジを置いて夜は動き出した。信号が青になる。ハトの声のような音にあわせ、誰もがうごめいてやまない。
 ピッポー、ピッポー、ピッポー、ピッポー、
「なにしてたんスか。配電盤には、実行委員以外触っちゃダメなんスよ」
 肩をふるわせていた黒づくめの女が、目をあわせないまま何か言った。もっとよく聞こうと、足を体を近づける。女は黒髪でボサボサのショートカット、コートも黒、手袋も黒、ズボンもブーツも黒であった。まるでどこかの漫画かアニメの世界から抜け出てきたようだなとリリンジは思った。
「…だい……マス…せん」
 ブーピー、ブーピー。ブーピー、ブー。信号の音が終わった。
「大作戦……、あ、の、クリスマス……大作戦なん…です」
 そんな大きな作戦にもかかわらず女の言い方は小さく、リリンジは思わずというか実はワザとなのだが「おっと」と言って女の腕をがっしりとつかんだ。女は抵抗もせずに、リリンジに引きずられるように歩く。
 並木道のはじまりの公園には、臨時のスケートリンクなるものも設置されている。そこの裏手まで引きずり、すると観光客の声はほとんど遠くなった。放りだすように座らせる。
 豚まんはまだ温かい。「ちょっと待ってください」と言ってサンタ姿のリリンジは4口で豚まんを処理した。
「あの、すいませんが、あの、失礼っすが、テロリストかなんかスか」
「まさか!」
 女は大げさに首を振る。ウソだ、と直感的にリリンジはおもった。
「あの、私……信じていただけるかわからないんですが、この世は愛という名の宗教で凝り固まっているんです」
「はぁ、」
「それを開放するのが私の役割で、神の啓示という形をとって私の前に指し示めされました、みなさん愛だの恋だの言っておいて、そんなのはエゴのすりかえでしかありません。いってみれば一対一の思い込みの宗教でしかないんです、それを解放してあげるのです。硬く閉鎖された殻からの、そう、簡単にいえば、この世の不条理からの脱出なのです! 去年もやっていましたが、戦場のジャングルにクリスマスツリーを飾りつけてテロリストの脱退をうながす作戦がありましてですね、私はそれにちなんでクリスマス大作戦というのを決行しようという結論にいたったわけです! あ、いえ、結論ではなくてですね、それは神が導いた完全なる世界への実現なのです! おわかりいただけますか!?」
 はあはあと女の口から白い息がはばたいたとき、リリンジは聞いていたウォークマンをはずした。女はかたく握っていた拳をちからなくほどき「私はただ……」と言いかけてうなだれた。
「クリスマス中止のお知らせッスか、今年もネットで流行ってー…」
「違うんですサンタさん! 私は、あっ、………あの……お名前…」
「リリンジです。あのー」
「キノシタ、です」
「ハイ、きのしたさん……っと、」
 リリンジが取りだした警備用のメモ帳に書き込む様子を見て、女はあわてて立ち上がった。
「あの、違うんですリリンジさん! 私はただ俗世の愛という嘘にだまされた穢れた人間たちを困ら……しがらみから解放するために……じゃなくて、少し人波にやられてしまいまして、ええ、休んでいただけなんです! 私! 人酔いするんですッ!!」
「――あ、ノンさんスか? 怪しい女性を確保しました、警察に連絡する前に見てもらいたいと思って、ハイ、ちょっと待ってますね」
 携帯電話のボタンを押して連絡を終えると、女はあっという間に涙ぐんでいた。その変わり身の素早さといったら、リリンジがよくプレイするカーレースゲームの、例の坂のヘアピンの迫りくる具合にやたらよく似ている、親近感すらわいてきてしまった。
「……愛とか、よくわかんないッス。愛のコト知ってるだけで、大人の女だって思う……かな、オレ、何言ってんだろ」
 ティッシュをさしだすと、女は鼻をすすりながら「ありがと」と言った。その左手奥から、タケノンがどしどしと歩いてくる。
「おーい、リリンジくん、お手柄……」
 声がとまる。リリンジが不思議に思ってみると、焦点をあわせたまま、唇をあけたまま、タケノンさんは静止していた。フッと首を動かすと、黒づくめの女も目をあけたまま止まっていて、
「…タケノリさん……」
「ミユキ、」
 気をきかせてもとい、面倒な事は回避したいリリンジは、そのままサンタの格好をしたまま冷えた夜の見回りに走った。イルミネーションはバカみたいにきれいで、たしかにココは、この並木道は愛の空気はあたたかくて細長い殻のようだった。だがリリンジは、そこを抜けても星空が泣きそうなくらいみずから美しく光っていることを知っている。
 タケノンさんは、翌日、休んだ。