■ Slow (was) Falling ■

 雨と硝子をはさむ、紫壇の窓枠。
 その右下の『しかるべき場所』に男は、彼女の頬骨を置いた。
 いつか日差しを浴びて輝いていた頬の記憶をくつがえすように、窓枠はずうと陰になる。夏至の太陽でさえ目を伏せる小さな避暑地。数年かかりようやく見つけた『しかるべき場所』であった。
 朝から降そぼる雨。
 やまない音を聞かされているのはベッドに横たわった死体。
 否。
 肉は解け、すでに白骨と化している。
 全身の骨のうち半分ほどが、男の手により『しかるべき場所』へと移された。
 頬骨は今しがた紫檀の窓枠に。手首の月状骨は春に切り取られ、食器棚の左から2番目の引き出しに。奥歯の骨は彼女が長年弾いていたアップライトピアノの蓋裏に。
 外が『しかるべき場所』の場合もあった。
 薬指の骨はチャペルの花壇わきの砂利に。足首の骨は海岸沿いの散歩ルートにある、せり出したポートから海に。肩の骨は庭に葉を繁らせている大樹の下に……。
 男は靴音を響かせ、白骨の傍らに立った。
 しばらく眺め、すっかりやせ細ったねと声をかける。
 ベッド横のちいさな椅子に腰をおろすと、男は服のポケットから白いハンカチ―フを取り出した。
 広げてベットに置き、今日も場所を見つけてきたのだと男は死人に語りかける。
 その声色は静かに優しく、決して返答は来ないはずなのだが、男はしばしば返答を待った。記憶の中の彼女はもう、ずいぶんと色あせている。
 しばらく近況報告にうつり、話題がそれ続けていることに気づいた男は微笑んだ。 
 すまなかったと彼女に断り、腰椎の5番を丁寧につまみ、ハンカチーフで包み込む。
 『しかるべき場所』は、それほどあるわけではなかった。
 長い年月を共にした、愛しつづけた骨を置く『しかるべき場所』を男はいつも探したが、そのたびに心臓が――音にない音をたて痛む。
 そのたびに、男はいつも思うのだ。
 自分の胸を切り取って、横たわる、あなたのように切り取って、本当の場所に運びたい、と。
 ここではない、『しかるべき場所』に心を……。
 男はちいさな椅子の上で、自身を抱きしめるように屈んだ。
 あの頃ふたりで過ごした――今は廃墟になっている――そこで、男はしばらく雨音を聴いた。湿気をおびた骨がついには、コトリ、と、動くような気がしている。
 けれど。
 もう、動くことはない。
 動くことはないのだ、もう。雨でさえ、こんなにも絶え間なく動き続けているというのに。
「……いつか…」
 男がつぶやいた願いは、雨の音にかすれて消えた。
 いつか全てが順序良く、『しかるべき場所』へと綺麗に収まったなら――。
 あなたに一言詫びて。
 たおれてしまいたい。

■ スーサイド ■

 みどりの目、みどりの髪、みどりの足に、ふ、れて。
 みどりの手、みどりの口、みどりの四肢に、キス、を。
「あなたがそう、笑うから……僕の世界が死に耐えはじめた。あなたがこう、触れるから……切り花にして諦めたはずの恋が、しおれたまま喘いでいるんだ。ぜんぶ、あなたのせいだ。あなたが、……あなたが」

     ☆

 彼女が葉になる病にかかったのは、ちょうど世界が緑に染まる五月のことだった。
 皮膚は。唇は髪は眼球は鮮やかなみどりいろにそぞまり、こころは枯れていく花弁のように、いちまい、またいちまいと剥がれ落ちていく。
 最初に落ちてしまったのは非情なことに悲しみの回路だった。
 そこからはもうこの病に対して彼女が泣くことはなくなってしまった。
 今ではひがな一日ぼうっと部屋の椅子に座り、光を静かに食べている。
 会うたびに言葉の数は少なくなり、ついには何も言わなくなったとき――禁忌を犯すように、はじめて自分からあなたに触れた。
 あなたの細い指……、爪についた美しい新緑の染みを最初、ただの絵の具だと思ってしまったね。
 初期症状のうちに腕ごと切り落とせばまだ助かったはずが、それが唯一の交差点だとも知らずにYへの恋にあけくれていたのだろう!
 病が進行していくにつれ心をなくしていく植物人間、美しい彼女のような形の葉は、ただの実験道具として、以来、研究者である僕にすべてを冒されることとなる。
 足の指を一本切り取り、解体してみる。あふれる血液は透明な液体に変化している。採取し、成分を分析する。組織を顕微鏡で確認し、ヒトの細胞からの変化を見つける。
 彼女はとうとう水の経口摂取もできなくなった。テーブルの上に巨大な水槽を設置し、そこへ裸体にした彼女を横たわらせ、水をうすく張る。
 記憶の中のときめきを拾いあつめて、傀儡のように身を任せているあなたに愛を見出そうとするのは、そんなに悪いことなのかな。
 脚をひろげて、葉のしげみへ指を這わせ、あなたが吐き出す酸素を唇から吸う。あなたは歪みもせず、僕を無表情のまま受け入れてくれる。……違う。こんなのは、受け入れるなんてものじゃない。
 けれど。
 Yの記憶も。
 僕の想いも。
 全ては解体された。
 あなたはなんてひどい人なんだろう……。
 行為が終わったあと白衣を羽織り、無表情でその葉にふれる。いつも通りの美しい寝顔がそこにあったが、動くことはない。
 ひたった水が白濁したため、とりかえようとポンプを動かす。ふと、乳房の先が褐色へ変化している事に気づいた。まだ全身は濃いみどり色だけれど、おそらく数日のうちに枯れ始めるだろう。
 こんなことも知らずにYは今でも手紙を待ち続けているはずだった。笑える。たった今、あなたは僕のものになった。
 独り言のように息を吐き出した瞬間、左の乳房から茎がのび、まるで生きているかのような速さで花をひろげた。
 死、だ。
 僕は花弁をいちまい口にふくみ、深夜の実験棟で嗚咽した。

■ すなめ ■

「おまいさん、すなめだな?」
 立ち止まったボクの足下で、灰色の布をかぶったオジイサンが言った。
 ココは駅から歩いてほど近い、公園裏の道路わき。
 最短距離が好きだから通る、学校からの帰り道。
「……すなめ、」
 ボクは舌先でなぞるようにその言葉をくり返し、右目にやんわりとあてていた手のひらで、グリ、と、まぶたをこすった。
 道のはしで知らない人に声をかけられるのはよくあることだった。
 ショッピングセンターで、バスの待合室で、病院の廊下で、真夜中の駅でも、話しかけられたときの対処法は決まっている。
「そうですね、そうかも知れませんね」
 にっこり笑って何事も肯定。
 足早にその場をあとにして、自分の家に戻りたかったけれどボクの手は右目をおさえているから、走りたくても競歩のようになってしまう。
 ――あぁ、右目が、また痛んだ。
 春一番はいいことかも知れないけれど、ボクはよく砂が目に入る。
 しかも、なぜかいつも右目だけに入る。
 だからボクの手は、春限定で右目の前に朝昼晩あるし、片眼でよろめくような期間は、とっくの昔にすぎていたし。
 すなめ、砂の目か。
 そう漢字に変換すると納得がいく。それにしてもあのオジイサンは、どうして知っているのだろう……。
 一週間後にその道を通ったときオジイサンは、まだ灰色だった。
 ホームレス。
 そんな言葉が頭をよぎる。
 通り過ぎる少し手前でしばらく立ち止まっていると、オジイサンはこちらに気づいたようだった。
 右目にかぶせた手のひらに指をさし、やはり灰色の声で、
「さぞ痛かろうに」
 心配されてしまった。
 知ってるんだ。
「いいえ、重いだけですから」
 そうこたえてオジイサンの前に行き、しゃがむ。
 両手を膝の上に置いたのは、ほんとうに久しぶりだった。窓際の席も楽じゃない。窓を開けていると必ず砂が、目に入るからだ。
 と。
 オジイサンはなんの前触れもなく、ボクの右目にコツリと触れた。
 指先から、砂が。
 違う、この目から、流れ出ているんだ。
 瞬間、突風。
 静かな音は風に消され、砂は、舞い上がってー…。
 あわてて右目をおさえて立ち上がったボクを見て、オジイサンは、やはり灰色がかった声で笑った。
「ワシもすなめじゃけんのう」
 春風がおさまる頃、オジイサンはどこかに消え、ボクの義眼の調子もすっかりよくなっていた。
 また重くなってきたら、今度はボクが、オジイサンの砂を取ろうかと思っている。
 もう会うことは、ないだろうけれど。