■ そしてようやく助け出す ■

 鬱蒼とした森の中の洞窟に、老人がひとり住んでいる。
 鬱蒼とした森から1時間も歩けば、県道とちいさな集落があって、老人はたまに買い物に来るらしい。
 ちいさな商店のご主人が、ものごころついた辺りから既に、老人は老人であったという。
 あれは、十年も前のこと。
 老人が商店にやってきたのを合図に、悪ガキたちが洞窟探検に森へ。
 老人の住処である洞窟の入り口には、小さな枝がうず高く積まれ、焚き木としての乾燥をぼんやり待っているらしい。
 悪ガキ達がそれを足で蹴飛ばしバラ撒いたことで、戻った老人は侵入者に気付いたのだ。
 洞窟は入り組んで、老人が把握している道以外にもたくさんの分かれ道があるという。
 ぜいぜいと青い顔で走ってきた老人の声で集まった地元の消防団。屈強な若者、大人たちが、懐中電灯とヘルメット、それに綱をたくさんつけて次々に洞窟へと入っていったらしい。
 悪ガキ達のうち、いちばんの大将であった少年だけが戻らなかった。
 青い、青い、地下水の湖を見つけふらふらと、夢見るように歩き、すいこまれるように飛びこんだ。
 そう、悪ガキ達は泣きながら話した。
 大人たちは、誰も責めなかった。
 悪ガキ大将の母親ですら、手に余っていたんだ、せいせいした、とのたまった。
 老人は自責の念からかもう、洞窟で暮らすことはなくなった。
 次の住処はどうしたのかというと、その悪ガキ大将の母親が、老人を家に引き入れ、最期まで面倒を見、死を見届けた。
 理由はわからない。
 洞窟はその後、土を限界まで運び入れ、木の板を打ち付け、封鎖された。
 そこへ。十年ぶりに僕はやってきた。
 花束を抱えながら、道なき道を黙々と進んで。
 十年前、僕は背中を見た。たしかに見た。
 ふらふらと左右にゆれながら、光る、青の水面に、彼の背中はゆっくり落ちていくー…。
 音は……、したのかもしれなかった。けれど、まったくといっていいほど記憶にない。なにもかもが静寂で、身動きもとれないまま、波紋もないそこを、ただ、見ている。
 夢のように。
 たどりついた洞窟は、もはや洞窟ではなかった。
 穴の中から水があふれそこら一帯が、広い湖になっていた。
 青く光る湖面の向こう岸に、ちらりと岩肌がのぞく。あの辺が洞窟の入り口だっただろうか。
 鬱蒼と茂る森なのに隙間から光がさしこんで、きらきら、きらきら、夢、が。
 いかないと、助けに。行かないと。
 花束が落ち、道案内のように青のうえを漂う。
 いかないと。
 いかないと。
 今度こそ。
 ――トプン。

■ その夜、透子さんの髪を切った。 ■

 錆びたカッターナイフが、透子さんの極上の黒髪を滑る。
 一度も染められたことのない髪を、指先で器用にまわしながら前に、「あの人も染めてないから」
 と笑顔で言っていたのを思い出した。
 指は床に置かれたまま、壁を背に、透子さんはぼんやりと宙を見つめている。
 瞳の中に美しさや、悲しさや、愛しさや、そうだね、色々混じっている。透子さんの瞳の中に僕の瞳がたしかに、映っている。
 外は雨が降っていた。
 買い物にも出かけられず、一日中ギターを弾いていた。
 透子さんは座ったまま、時々立ち上がって、そのたびに僕は付き添って浴槽の中へ透子さんの足を入れた。
 この間、病院から透子さんを家に連れて帰ったとき、東京の狭いユニットバスに感謝したけれど、そんな事を面白おかしく話しても透子さんの表情はなにひとつ変わらなかった。
 細い音がする。
 キューティクルが音を立てるものだとは知らなかった。それと同じように、忘れてもいいことだって世の中にはある。
 カッターナイフが錆びた原因は僕の血。
 手を使う職業柄、僕はもっぱら足首にオレンジの傷をつくっていた。
 横山。
 あの薄汚い男は、あろうことか退院の日に見舞いに来た。
 僕と透子さんを見比べ
「病んでる同士、お似合いだ」
 と薄笑いで、殺してやろうかと僕が思う前に。
 透子さんは。
 あいつに。
「どちら様ですか……?」
 昔、透子さんに、無理やり美容室に連れていかれたことがある。待ち時間もじっとしていられず、幼い僕は透子さんのまわりを歩きながら髪の毛を拾った。
 そう、おんなのひとに、汚いからやめなさいと言われた。あの美容室を思い出しながら、少しずつ、カッターを動かす。
 床には何も敷かなかった。
 透子さんの手に髪の毛が落ちた。
 立ちひざで反対側に移動するとき、ザリザリとした感触があった。
 雨が止むまでには終わらせようと思う。明け方まで止まないことは、もう、ラジオで聞いているけれど。
「――……透子さん、」
 聞いて。
 ねぇ、透子さん。
 一緒に暮らそう。
 あなたの傷ついた心や、事故の裁判や、あの男を愛してしまったあなたの間違いでさえ、僕は。
 取り戻さなくてもいいから、このまま。一緒に。
 カッターナイフが床に着地する音。透子さんはもう、夢を見ている。
 寝息が空気をゆらしている。
 僕は透子さんの横に座り、ゆっくり、寝顔をのぞきこんだ。
 伏せられた睫毛にキスをするかわり、僕は、透子さんの髪を、指先ですこし、梳いた。