■ 造血器室 ■

 生まれてこのかた、大した病気もなく生きてきた。
 助産師を呼んでの家庭出産。安産で何事もなかったらしいし、両親もどちらの親族も全員O型だったため、血液型は検査しなくてもO型だからと母親に言われた。
 人並みに風邪もひいたが、入院するような悪化はせず回復した。
 外で遊ぶより本を読んでいたい子供だったため、物理的な怪我もなく、救急車を呼ぶようなトラブルもなく、本当に何事もなく育った。
 だから。
 入社2年目の健康診断で、人生で初めて血液検査を受けた。
 でかい注射器いっぱいに自分の血がとられる様子は圧巻だったし、針のあとはしばらく自分で押さえていないと駄目な事も初めて知った。
 会社の嘱託医による集団検診だったため、検査結果の紙は翌週の朝礼で配られた。
 ただ、自分だけなぜか配られず、課長に
「君は別室で話がある」
 と最後に言われた。
 急に心臓がドキリとうねり、その後もドキドキと聞いた事ないようなでかい音をたてた。
 血液検査で異常が見つかったのかも知れない……。課長の後ろについて廊下を歩いている最中もドキドキは収まらず、胸に手をあてて大きく息を吸っても、なおもドキドキし続ける。
 たどり着いたのは嘱託医が常時駐在する医務室。入ると白衣の男たちが6人ほど立っていて、一斉にこちらを見た。逆光にまぎれて全員の顔が一瞬見えなくなった。
 課長に促され、目の前の丸椅子に座る。
 6人のうちの1人が椅子に腰かけ、検査結果の紙を手渡してくれた。
 検査項目であろう単語の横に、自分の数値と、理想とされる基準値が並んで書かれている。
 けれど、何度見直しても基準値を飛び越えてはいない。
 健康体だ。
 眉をひそめると、医師は
「ご覧の通り数値自体は正常です」
 と言った。
「ただ、問題なのは血液型でして。通常の血液型にあてはまらない、特殊な血液型と出たのです」
「……はぁ、」
 思わず生返事をしてしまった。
 気を取り直して言い直す。
「あの、両親はO型で、両親の祖父母もみんなO型で。だからO型だと思いますがー…」
「いいえ」
 医師はハッキリと否定した。
「あなたはO型ではありますが、アールエイチはヌル型という、極めて稀な血液型です」
「ぬるがた……?」
 聞いた事ない単語に、思わずオウム返ししてしまう。
 医師は神妙な顔で頷いた。
「血液型にはABO式の他にRh式もあり、基本的にはRh+のABO AB、Rh−のABO ABという8種類で識別していますが、あなたの場合はこのRhがNull、つまり、+でも−でもない型なのです」
「……えっと、それって駄目な事なん「とんでもない!!」
 医師はかぶせるように叫んだ。
「全ての血液型に輸血できる『黄金の血液型』と呼ばれる型です。日本では6名ほど、世界でも50名ほどしか発見されていません。そのため、大学病院の方から再度の血液提供、および、家系調査の申し込みを行なわせていただきたく。こちらの方は大学病院のー…」
 ここで後ろに立っていた白衣の男たちが、大学病院に所属する血液の研究者だと知った。
 そして、家系調査の結果は自分だけがRhNull型だった。
 さらに翌月からは、月に1度有給扱いで大学病院へ赴き、血液サンプルの提供や継続的な健康チェックを受けるよう上部から通達が来た。
 というのも、RhNull型というのは、自分の血は他の誰にでも与えられるけれど、自分に輸血してもらうのは同じNull型でないと受け付けない、厄介な性質があるらしい。
 生まれてこの方、大した病気も怪我もなく生きてきた自分にとっては、輸血の話はあまり重大な事のように感じなかったが、何か起こってからでは遅いと課長に言われた。
 検査の場所はいつも「造血器室」と書かれた無菌室で、二重扉の最初の室内で消毒を受けて奥の部屋に入る。自分が入る時には、必ずもう1人、若い女性が先に入って座っていた。
 何回目かの検査の時にようやく挨拶し、彼女もRhNull型だという事が分かった。そこから打ち解けるのは早かった。お互い大病した時には輸血し合おうという協力話から世間話に発展し、1年経つ前には恋愛感情が芽生えていた。
 初めて無菌室以外の場所で合い、お互いに「血」以外はいたって普通の人間だと再確認し、キスを交わし、同棲をはじめ、ありきたりな喧嘩もした。
 その間にも検査は続いていて、病院の造血器室で向き合うたびに、新たな彼女の内面を知った。
 それは例えば、喧嘩していても顔を合わせるこの空間に気まずくなって顔を真っ赤にしながら謝ってきたり、この空間にいる事を逆手にとって誕生日のサプライズプレゼントの用意を家に準備したり、彼女といると飽きずにこの先の人生を過ごせそうな気がした。
 プロポーズは自分のほうから、サプライズで指輪を渡した。ささやかな結婚式。その後も検査は続いたが、お互いに大きな事故や病気もなく過ごすことができた。
 同棲生活が結婚生活に変化したあとも変わらず夜を共に過ごし、彼女のお腹に新しい生命が宿ると、当時課長だった今の支部長からお祝いのメールが届いたりした。
 妊娠中はナーバスになり、造血器室で少し泣いたりもした彼女だったが、妊娠後期からは大事をとって入院し、輸血の準備もしてもらった。もちろんその血は、同じNull型である自分の血だ。
 明け方に近い夜。
 小さな、それでいて力強い産声があがった。
 喜びもつかの間、白衣の男たちが慎重に赤ん坊の血液を採取し検査に走っていった。
 産湯を終えた我が子を見ながら妻を労っている時、向こうの部屋から歓声が聞こえてきた。おそらくは望む結果だったのだろう。
 けれど、そんな事はどうでもいい。
 今はただ、彼女と出逢わせてくれた事を……彼らの善意だと思わせてほしい。

■ そしてようやく助け出す ■

 鬱蒼とした森の中の洞窟に、老人がひとり住んでいる。
 鬱蒼とした森から1時間も歩けば、県道とちいさな集落があって、老人はたまに買い物に来るらしい。
 ちいさな商店のご主人が、ものごころついた辺りから既に、老人は老人であったという。
 あれは、十年も前のこと。
 老人が商店にやってきたのを合図に、悪ガキたちが洞窟探検に森へ。
 老人の住処である洞窟の入り口には、小さな枝がうず高く積まれ、焚き木としての乾燥をぼんやり待っているらしい。
 悪ガキ達がそれを足で蹴飛ばしバラ撒いたことで、戻った老人は侵入者に気付いたのだ。
 洞窟は入り組んで、老人が把握している道以外にもたくさんの分かれ道があるという。
 ぜいぜいと青い顔で走ってきた老人の声で集まった地元の消防団。屈強な若者、大人たちが、懐中電灯とヘルメット、それに綱をたくさんつけて次々に洞窟へと入っていったらしい。
 悪ガキ達のうち、いちばんの大将であった少年だけが戻らなかった。
 青い、青い、地下水の湖を見つけふらふらと、夢見るように歩き、すいこまれるように飛びこんだ。
 そう、悪ガキ達は泣きながら話した。
 大人たちは、誰も責めなかった。
 悪ガキ大将の母親ですら、手に余っていたんだ、せいせいした、とのたまった。
 老人は自責の念からかもう、洞窟で暮らすことはなくなった。
 次の住処はどうしたのかというと、その悪ガキ大将の母親が、老人を家に引き入れ、最期まで面倒を見、死を見届けた。
 理由はわからない。
 洞窟はその後、土を限界まで運び入れ、木の板を打ち付け、封鎖された。
 そこへ。十年ぶりに僕はやってきた。
 花束を抱えながら、道なき道を黙々と進んで。
 十年前、僕は背中を見た。たしかに見た。
 ふらふらと左右にゆれながら、光る、青の水面に、彼の背中はゆっくり落ちていくー…。
 音は……、したのかもしれなかった。けれど、まったくといっていいほど記憶にない。なにもかもが静寂で、身動きもとれないまま、波紋もないそこを、ただ、見ている。
 夢のように。
 たどりついた洞窟は、もはや洞窟ではなかった。
 穴の中から水があふれそこら一帯が、広い湖になっていた。
 青く光る湖面の向こう岸に、ちらりと岩肌がのぞく。あの辺が洞窟の入り口だっただろうか。
 鬱蒼と茂る森なのに隙間から光がさしこんで、きらきら、きらきら、夢、が。
 いかないと、助けに。行かないと。
 花束が落ち、道案内のように青のうえを漂う。
 いかないと。
 いかないと。
 今度こそ。
 ――トプン。

■ その夜、透子さんの髪を切った。 ■

 錆びたカッターナイフが、透子さんの極上の黒髪を滑る。
 一度も染められたことのない髪を、指先で器用にまわしながら前に、「あの人も染めてないから」
 と笑顔で言っていたのを思い出した。
 指は床に置かれたまま、壁を背に、透子さんはぼんやりと宙を見つめている。
 瞳の中に美しさや、悲しさや、愛しさや、そうだね、色々混じっている。透子さんの瞳の中に僕の瞳がたしかに、映っている。
 外は雨が降っていた。
 買い物にも出かけられず、一日中ギターを弾いていた。
 透子さんは座ったまま、時々立ち上がって、そのたびに僕は付き添って浴槽の中へ透子さんの足を入れた。
 この間、病院から透子さんを家に連れて帰ったとき、東京の狭いユニットバスに感謝したけれど、そんな事を面白おかしく話しても透子さんの表情はなにひとつ変わらなかった。
 細い音がする。
 キューティクルが音を立てるものだとは知らなかった。それと同じように、忘れてもいいことだって世の中にはある。
 カッターナイフが錆びた原因は僕の血。
 手を使う職業柄、僕はもっぱら足首にオレンジの傷をつくっていた。
 横山。
 あの薄汚い男は、あろうことか退院の日に見舞いに来た。
 僕と透子さんを見比べ
「病んでる同士、お似合いだ」
 と薄笑いで、殺してやろうかと僕が思う前に。
 透子さんは。
 あいつに。
「どちら様ですか……?」
 昔、透子さんに、無理やり美容室に連れていかれたことがある。待ち時間もじっとしていられず、幼い僕は透子さんのまわりを歩きながら髪の毛を拾った。
 そう、おんなのひとに、汚いからやめなさいと言われた。あの美容室を思い出しながら、少しずつ、カッターを動かす。
 床には何も敷かなかった。
 透子さんの手に髪の毛が落ちた。
 立ちひざで反対側に移動するとき、ザリザリとした感触があった。
 雨が止むまでには終わらせようと思う。明け方まで止まないことは、もう、ラジオで聞いているけれど。
「――……透子さん、」
 聞いて。
 ねぇ、透子さん。
 一緒に暮らそう。
 あなたの傷ついた心や、事故の裁判や、あの男を愛してしまったあなたの間違いでさえ、僕は。
 取り戻さなくてもいいから、このまま。一緒に。
 カッターナイフが床に着地する音。透子さんはもう、夢を見ている。
 寝息が空気をゆらしている。
 僕は透子さんの横に座り、ゆっくり、寝顔をのぞきこんだ。
 伏せられた睫毛にキスをするかわり、僕は、透子さんの髪を、指先ですこし、梳いた。