■ 幸せファクトリー ■

 茂木は不幸であった。
 生まれた時から不幸であった。
 親は茂木を虐待し、小中高ではいじめられ、不良どものパシリとして学生生活を過ごした。茂木自身もいつしか環境に染められ、高校卒業してからの数年、犯罪組織の末端として活動した。
 しかし、大規模な検挙に逮捕。懲役3年を言い渡された。
 それから2年後。
 ある晴れた日。
 模範囚として刑期を短く終えた茂木は久々に外の空気を吸った。門の外に出たはいいものの、迎えなどは一切ない。
 ポケットには、作業所で働いたぶんの数万円だけが入っている。
 茂木はため息をついた。
 これでは、数日後に金が尽きてしまう。そうなると、食い逃げや強盗など目立つ犯罪行為をしてもう一度捕まった方が、まともな飯にありつけるだろう……再犯罪が減らないわけだ。茂木は自嘲し、自分の右手を見た。
 握っていたのは、最後に話した刑務所なんたらかんたら補佐という男が寄越した、再就職ガイドブックである。
 ――これを機に、人生そのものをやり直してみないか――?
 男の熱っぽい口調が思い出される。
 茂木はひとまず駅に向かい、裏路地のさびれた個人食堂に入った。
 ラーメンを食べ終わると、ガイドブックを開く。
 中には、経歴不問の住み込み仕事が山ほど紹介されていた。住み込みだけに、工事現場の土方仕事が多い。その他、夜間の施設清掃・女性限定の寮付き事務仕事・プラカードを持って交差点に立っているだけの仕事、などなど。場所は全国津々浦々。これなら、まったく誰も知らない県に行けば、本当に人生をやり直せるかも知れない。
 めくる手を止め、慎重に読み進めようとした矢先。
 唐突に表れた「幸せ」という一文に茂木はドキリとした。
『幸せを製造販売しております。24hシフト制。ベッドは工場内併設。美味しいご飯3食付き。アットホームな職場です。』
 事前連絡や履歴書は不要。面接は24hいつでも可能……。
 茂木は工場の所在地を確認した。
 2県ほどまたいだ場所にあるが、今から新幹線で行けば夕暮れまでには最寄り駅に着く。そこからタクシーに乗れば、手持ちの金でも十分に行ける場所である。
 ……幸せ…。
 口の中でその言葉をくり返し、茂木はポケットの中の札を握りしめた。

     ★

 面接はあっさりと終わった。
 採用である。
 Bラインリーダーと名乗る男に案内され、工場内の奥へと進む。ガイドブックに書かれていた「ベッドは工場内併設」という言葉に偽りはなく、工場の奥の壁一面には、ズラッと扉が並んでいた。そのひとつを男が開ける。小さな部屋には小ぎれいなベッドとサイドテーブル、壁にはハンガーがかかっていた。簡素な部屋だが、個室があるだけ有難いと茂木は思った。
 渡された作業着に着替え待つこと数分。
 今度は、Cラインリーダーを名乗る女が入ってきた。
 まずは夕飯を食べましょうと女は言った。食堂へ行くついでに、工場の中も簡単に案内してくれるという。
 茂木は立ち上がり、女と並んで歩きはじめた。
 個室を出たすぐ先に、巨大な銀の箱がある。天井からダクトが伸び、箱の中身は見えない。箱の横からまた違うダクトが伸び、小さめの銀の箱へと繋がっている。
 それを何度かくり返し、両手で持ち上げられるほどのサイズになった銀の箱までがBライン。その箱の横からガラス瓶を入れ、出てきたガラス瓶を梱包する所までがCラインだと説明された。
 透明なガラス瓶は作業員の手でどんどん箱に入り、どんどん出てくる。
 しかし、箱から出てくるガラス瓶は、箱に入る前と何も変わった所はない。空っぽなのだ。
 茂木は不思議に思いながらも、女とともに食堂へと入った。
 これもガイドブックの「美味しいご飯3食付き」という文言に嘘偽りはなく、大変美味しい食事であった。こんなものが毎日食べられるのかと茂木は感動した。おかわりを重ね、腹いっぱいになるまで食べた。ゲップをし、満足そうな茂木を見て、向かいに座っていた女も笑った。
 よく見ると、いい女である。肉付きもほど良く、唇も厚い。まとめられた髪の毛からは時々いい匂いがする。
 茂木は邪念を消すように勢いよく立ち上がり、女に仕事の指示をあおいだ。しかし、今日はもう休んで明日からにしましょうと女は言い、そのまま二人で工場の奥の個室前まで戻った。
「おやすみなさい、茂木くん」
 女の優しい言葉が茂木の心に染みわたり、茂木は久々によく眠れた。
 ……だが、翌日からの仕事に対して、茂木はどんどん不安を抱いていった。茂木にあてられた仕事は、空のガラス瓶入りのカゴを銀の箱の前まで持っていくというものだ。だが、何度見ても銀の箱に入って出ていく瓶は空っぽで、そのままビニール包装され、『幸せの瓶』という名の箱に入れられ出荷されていく。
 この仕事は巨大な詐欺なのではないか……? と茂木は何度も思った。しかし聞けない。聞けるわけがない。聞こうとするたびに、Cラインリーダーの女は茂木を食事に誘う。茂木の拙い話を聞いて、鈴のように笑う。そして眠った次の日には、特別報酬が渡される。休日には、歩いて数分の所にあるショッピングモールまで行くことができる。食堂では食べれないジャンクフードをむさぼり、新しい服を買い、ゲームコーナーでパチンコもできる。銀の箱にガラス瓶を入れる係の男とも仲良くなり、今ではまるで昔からの友人であるかのようだ。
 何もかもが順調で、失われた青春というのはきっとこういうものだったのだろうと茂木は思った。瓶の謎を問い詰めれば確実にクビ――工場から追放される――この心地よさを失うのが怖い。茂木はもやもやしつつ、今日も美味しい食事にひとしきり満足し、個室で眠りについた。
 各個室の通気口からのびたダクトは天井でひとつになり、巨大な銀の箱へと繋がっている。採用された不幸な人間たちから回収した幸福のかけらは、銀の箱の中でちいさく凝縮されていく。こうして丁度いい濃度まで凝縮された幸福はガラス瓶に充填され、密封され、包装され、箱に入れられ出荷されていくのだ。
 そして。
 今日もまたひとり、不幸な人間が採用された。
 おどおどと忙しなくあたりを見回す女性に、Bラインリーダーを名乗る男が「大丈夫ですよ」と優しく微笑みかける。

■ 深海と魚 ■

 オーシャンレジデンスは、この町でいちばん高いタワービルだ。
 最上階にはお父さんとお母さんとボクが住んでいて、部屋の窓際には乾いた石がいくつも並べてある。ボクが潜って拾ってきた、海底に落ちている石たち。
 ボクは毎朝、酸素ボンベを背負って深海にもぐる。
 簡単だよ。
 エレベータの下向き三角を押せばいいんだ。チン、って鳴って開いた箱に乗るのさ。「1」を押すと、ずうっとくだって、もぐっていく。途中、うっ、て、息が詰まるときがあるけれど、それを過ぎればなんてことはない。ボンベには、たくさん酸素が入っているからね。
 ゆっくり歩いて学校に行く。走ると、余計な酸素を使っちゃうから。
 学校に近付くと、どこからか魚たちが集まりだす。おはようおはようと騒いでいる。友達同士でふざけて体当たりしている奴、人ごみの中を走って泳いでいる奴。強い奴にいつもひっついてるタコ。キラキラしたスカートを自慢するクラゲ。
 ボクが集団に近付いていっても、誰も何も言わないでささっと避けて、また後ろで集まって、知らない魚語を話してる。
 魚。
 みんな魚。
 大丈夫、慣れっこだよ。だって、みんな魚なんだから。海底にもぐる人間は誰だって、孤独な観察者なのさ。
 海底から浮上する前、いつも記念に石をひとつ持っていく。窓辺に並べた石を見ながら、お母さんはよく「頑張ってるわね」と言う。頑張っているね、お母さんはよく知っているからね、つらかったらいつでも言ってね、愛しているわよ、大好きよ、覚えておいてね………。
 ボクは別につらくない。
 ただ、最近ちょっと困っているのが、隣の席の、ちいさな魚。毎朝ちいさな声で「ランドセル、横に置いたら?」って言ってくるんだ。
 深海の中で酸素ボンベ外したら死んじゃうし、息ができなくなるから無視するけど、けっこうしつこい。
 そしたら今日、先生がボクのランドセルを後ろから持ち上げて、ボクはイスから転げ落ちてしまった。ボクは海底で茫然と見上げて、酸素ボンベが背中になくて、先生はランドセルを廊下に出してしまって、息ができなくて、なみだが出てきた。口を手でおさえても、息はどんどん出ていって、このままじゃ死ぬ。そう予感して必死でもがく、魚たちがボクを囲んでいる、小さな魚が友達の服を掴みながらおびえている、死ぬ――あ、死んだ。
 と、いうのがさっきあった事。
 気付いたら家のベッドの上だった。窓から夕日が見える。いつも地上にいるお母さんが、どうにかして助けてくれたんだろう。
 ランドセルは先生に取り上げられちゃったし、もう海底には潜れないのかな。でも、別に楽しくもなかったしいいか……、なんて考えて部屋を見渡すと、勉強机の上にランドセルがあった。
 開けて中身を取り出す。教科書、ノート、ペン入れ、使わなかった箸、それから、紙に包まれた何かが出てきた。広げてみるとそれは小さな石で、包んでいた紙には小さな字で「ごめんなさい」と書かれている。
 ごめんなさい、だって!
 カッとなって、窓を開けて石を捨てようとしたけれど、みんな魚だから、魚っぽいことしかできないんだと言い聞かせて、窓際に置いた。
 静かな夕日が、遠く海に沈む町を照らしている。

■ じゃあね ■

 学校からの帰り道はいつも、どこか寂しげな風が吹く土手の上だった。
 由美子の家も、彼方の家も、この土手沿いの住宅街にある。二人は帰る方向が同じため、自然と付き合うようになっていった。
 今日も由美子は、自分の家を見下ろしたあとニッコリ笑って「じゃあね」と言った。
 瞬間。
 いつもいつも言おうと思っていたことを言うタイミングだ、と、彼方は直感したのであった。
「――ユミコ、」
「なあに、どうしたの彼方」
 振り返った由美子の顔は、夕日にあたってオレンジ。
 言おうか、言うまいか、言うべきだろう、今こそ。彼方が制服のポケットにつっこんだ左手をなんとか動かそうとした時、土手の向こうの遠くの町から「エリーゼのために」が聞こえてきた。防犯のため毎日鳴っている、お決まりの曲であった。
 由美子がつぶやく。
「もう五時半よ、帰らなきゃ」
「………」
 彼方は唇を噛んだ。
 二人は目を細め、しばらく夕日を眺め続けた。刻一刻と沈み続けるオレンジの球体。
 由美子はまたつぶやいた。
「まぶしいね……。じゃあね、カナター…」
「やめろよ!」
「えっ、」
 夕日に手をかざしてても、血潮は浮かばないのだ。オレンジの手を、彼方は幻覚だと信じてやまない。そしてその手はおろされた。由美子の手は、ふらふらと落ちた。
「帰るときにいっつも、じゃあねって言うの、やめろよ」
「………」
 由美子は丸くした瞳で、声には出さず「どうして?」と唇を動かした。
「どうしても! ……なぁ、とにかく、やめろよな。明日もだぞ!」
 彼方は走って由美子を追い抜いた。気まずくなる前にそのまま、自分の家まで走る魂胆だった。
「彼方―っ!!」
 後方から、由美子の叫ぶ声が響き、彼方は息もあがったまま振り返る。
 彼方の瞳には、夕日で真っ赤に染まった由美子の瞳が映った。
 幻覚が、惑わせる。
 唇が、笑わせる。
「またねーっ!! バイバーイ!!」

     ★

 翌日彼方は、由美子が交通事故で死んだと、彼女の親から電話で聞かされた。その電話を切る直前、由美子の親はこう言った。
「じゃあね、カナタ君」
 ――じゃ、あ、ね。
 彼方は受話器を置いたあと、頭をかかえてうずくまる。
 忘れていた。
 死神は、いつだって、選んだ方をキーワードにするのだ。

■ 人生レコード ■

 霊園は、昼になっても冷えている。
 僕は自分の黒い墓石の上に座り、散り始めた桜のはなびらを数えていた。検討をつけた花びらが、はらんと地面に落ちるまで。そしたらまた、散っていく幾枚の紅淡から一枚選ぶ。丁度千枚まで数えたときだった。
 スーツを着た男が、僕の墓の前でとまった――いや。僕の目の前で、目を、あわせて。
「初めましてワカクサさん。エフェリックスの新橋と申します」
 男は銀色のアタッシュケースを開け、その中から名刺を取り出した。
 差し出され、受け取ろうとして一瞬、固まる。手を、ひっこめる。
 ――ばかじゃないのか? 僕は……死んでいるんだぞ。
 男は名刺を、墓石の上にちょんと乗せた。
 エフェリックスといえば、音楽に疎い生前の僕ですら聞いたことのある大手レコード会社。名刺を見ると男の名前の前には「エグゼクティブ・プロデューサー」と書かれていた。エグ……何? よくわからないけれど、とにかくプロデューサーだということは分かった。
 男は、しばらく桜を眺めてから僕に笑いかけた。
「ワカクサさん、あなたの人生を、レコードにさせて下さい。ぜひ前向きにご検討いただきたく、お願いにあがった次第でして……」
 彼は銀色のアタッシュケースを石床に置き、パカリと開けた。
 手に余るほどの分厚いファイルを持ち上げ、バランと開いたページ。薄く丸い、色のついた円盤がいくつも貼り付けてある。
 山ほどファイリングされているのは、過去の誰かの人生レコードらしい。ほとんどが茶色や黒の一般的なレコードの形をしている。けれど、中には赤や青といった目をひく鮮やかなものもあった。
「このレコードの色は、その人間の「人生の色」が反映されたものです。ほら、この白いレコードなんかは――」
 男は白く小さいレコードを取り出した。生まれた時から病院にいて純粋なまま亡くなってしまった少女のレコードだという。
「そして、あなたのがコレです。まだ試作段階ですが」
 分厚いファイルから取り出されたのは、明るい太陽に反射して微笑んでいるような、爽やかな緑。
 プロデューサーは熱心に講釈をはじめた。
 レコード会社エフェリックスでは、命日から一ヶ月未満の人間の人生レコードを作ることに成功した。レコードの色は、遺骨の情報から読み取った人生の色。かけて流れる音源は、歯の情報や残っている音声情報から構成した、その人間の最期の言葉だという。
 このサービスを開始して以来、数多の遺族たちがレコード制作を依頼してきた。できあがる色も様々で、たまに赤や青、黄色といった鮮やかな色のレコードが出来上がると重版し、遺族の了解をとった後、一般向けに売る。しかしこれまでただの一度も、緑色のレコードだけは出なかった。緑色の人生をおくった人間というのは少なく、たいてい世間の荒波にもまれ、どの色でも最終的には黒くなってしまうのだそうだ。若い人間の人生をレコードにしても、単純に、怒りの赤や諦めの青、純粋な白のままで死ぬことが多く、緑色が出たのは、僕が初めてなんだそうだ。
「お願いします。あなたのレコードを作らせてはいただけませんか?」
「……残念ですが、僕はボーナストラックなんです、ハハ」
 交渉は決裂した。黒い墓石の前で。
 男が帰ったあと、彼が置いていった緑のレコードを叩き割ろうとした。けれど拳はすり抜け、桜だけが新緑の上にはらんと落ち続ける。

■ 車載動画 ■

 定時にいつもそこにあるモノレールに乗って、羽田まで十分余り。
 昨夜の羽田からの帰りも乗っていた、細長い眼鏡をかけている青年が、三脚を固定してずっと窓の外を見ていた。あまりに二人きりだったため、昨夜よりも気になったのは乗車ミスとしか言いようがない。
 いまこの風景をおさめているであろうカメラには微塵も視線をあてず、ただ外を見てる姿が、何かを連想させる。
 ……何を?
 モノレールはなめらかに動きはじめる。クッと、異和感をおさえられない重力にゆられたー…瞬間、目が合ってしまった。
 数秒。青年は視線をずらす。
 心地よいスピードに慣れるまでこちらも反対側の窓をずっと見ていた。しかし視線をずらそうとすればするほど気になるのは……人間の悪い習慣のひとつとしか言いようがない。また目が合ってしまった。
 青年は、今度こそはにかむように笑い、お早うございますと静かにつぶやいた。
「気になりますか? このカメラ」
「あ、いや……まぁ、はぁ…」
「昨夜は、反対側の窓から撮っていたんです。今朝はこちら側で……」
 まるで、昨日も見ていたんだろうとでも言いたげな言葉は、途切れ、青年はまた窓の外を。
 下から見ると窮屈な東京が、上から見るとこうも幻想的なのはなぜなのだろう。朝焼けは、水面と森を映す。このあたりから先は、空港付近で高いビルがない。徐々に通り過ぎる。
 こんな所の風景をフィルムに切り取って、青年は一体、何をする気なのだろうか? 疑問は、羽田に着いてから解決した。
 席を立ち上がった青年は名刺サイズの紙切れを差し出し、はにかみながらこう言ったのだった。
「あとで更新するので、どうぞ。よければ、ですけど……」
 URLが記されていた。
 アタッシュケースからノートパソコンを取り出せたのは、別な空港に到着し出向先のトラブルを解決しそのままトンボ帰りでまた飛行機に乗り、夜のネオンとモノレールの重力違和にゆふれて自宅マンションのクッションに缶ビールとともにどっかり座りこんでからだった。
 アドレスバーにURLを打ち込むと、動画サイトが現れた。一番上にある動画のサムネイルとタイトルに、思わずドキリとする。
『夜のモノレール〜羽田から〜』
 夜、の。
 あの夜。青年を見かけた夜が、頭をよぎる。クリックすると、モノレールの窓から見える駅のホームが画面に映し出された。と、なめらかに、ゆっくりと右へ動きはじめる。同時にアンビエントな音楽がスピーカーから流れてきた。
 ほとんど毎日見ているおなじみの風景のはずが、なぜかまったく新しいものに感じ、つい最後まで見てしまった。動画はループ設定になっており、もう一度、羽田の駅から夜がはじまっていく。
 ビールを舐めながら、思い出した。あの青年の動じない横顔は――、別れた妻に似ていたのだ……。その答えがこの動画にある。
 見ている風景が、世界が、きっとこんなにも違った。
 動画を閉じ、飲み終わったビールをゴミ箱に投げ入れてから、口うるさくうんざりするほど過干渉だった妻は、自分が見ている世界を共有しようとしていたんだと、今さらながら気づいた。

■ 試作品A” ■

 君は、はれぼったいまぶたをこすって、自転車スタンドに前輪をおしこもうとしている。ガツガツと打ちつけても、前輪はどうにもこうにも入ってくれない。
 今日も、少しだけ唇を噛んで、こうして不幸な一日が始まるのか、と、君は心の中で溜息をつく。
 確認した腕時計の針は、14時をすこしまわり、それとなく振り返った視線の先では、トイプードルが首輪もなく散歩していた。
 空はとても青く、君の瞳には少々まぶしすぎたようだった。しばらくマブタをとじて、ひらいて、とじて、あぁ、見なきゃよかったと後悔し始めた。
 君の人生はいつもこうだ。
 後悔の連続で成り立っている。
 鍵を差し込むと、ドアロックは簡単に外れた。
 昨日の明け方にロックしたかどうか不安になって、もう一度ここまで走ってきてしまったことを君はふっと思い出す。
 思い出さなきゃ良かったと後悔する。
 舌打ちをしても聞く人など誰も居ないのだから、しても仕方がないと思っている。だから、君は、どんなにつらくても、舌打ちはしない。
 そのかわりだ、と心の中でつぶやきドアを蹴り上げた。
 ゴ、と、鈍い音が君の骨から骨へ移動する。
 痛む足をひきずりながら扉の奥の奥、社長室に入り、ソファに沈み込んだ。今まで頑張ってきたことを手放せないで居る君の隣で、秘書が、スケジュールを読み上げている。
 窓から鳥が見える。
 鳥は羽ばたく。
 空へ。
 秘書が「以上です」と言ったとき、君はふと気になって、秘書にこうたずねてみた。
「今日は何曜日だったかな?」
 秘書は、思うよりも取り乱さず、火曜日ですと答えた。
 君はがっかりして、煙草を吸おうと、テーブルの端にある灰皿を中央に寄せた。吸っても、何にもならないことを知っているのだけれど、吸わずにはいられないのだ。
 社員はもういない。
 全員解雇したのだ。
 君が言おうとしていることを、誰も実行してはくれず、悲しみは、会社に幕を下ろすまでに至った。
 唯一の秘書も、今日限りでクビにするつもりだ。
 そう君は、そう、さっき決めた。
 なにもかも、疫病神のせいだと、君は思いこもうとする。疫病神か、でなければ不幸の手紙のせいだと。
 窓辺に目をやると、晴れだと思っていた空は、急に曇り始めた。雨の気配。
 もう君は、何をする気力も起きないでいる――ただひとつ、死にたいとつぶやいた。秘書は無言で部屋を出る。
 煙草の灰をトントンと落としていく。君はもはや、ヒゲは伸び、目も窪み、気力もなく、廃人の装を呈している。
 腕時計の針が15時をさした。
 淡々と煙草を吸い続けていく君の瞳には、窓から見えた鳥の影が余韻のように映りつづけているのだが……。

■ 七月七日 ■

 市街地から遠く離れた、山あいの村。古い日本家屋が立ち並び、砂利道をはさんだ向こうの田んぼには、成長した稲の葉が所狭しと並ぶ。
 曇った空は、七月にしては珍しく、沈もうとしている太陽も遮られて民家は灰色のまま、闇に沈もうとしていた。
「あら、あらまぁまぁ。今年も曇りだったわねぇ、残念ねぇ」
 少しだけ勝手口の木戸を開き、空をながめた女は言った。頬にそっと手をあてていたが、その白い肌にポトリと雨粒が落ちる。
 女は木戸を閉める。振り向き、居間の男へと声をかけた。
「座布団! お願いねぇ、」
 居間に寝ころんでいた男はうめき声で応答し、いかにも億劫だと言いたげに立ち上がった。壁に立てかけてあったちゃぶ台を座敷の真ん中に置き、両脇にボスリと座布団を二枚敷いた。そのうちの一枚に男は座る。女が台所から、ビール壜と肴を乗せた盆を運んできた。
 狭い、平屋の借家であった。
 女の嫁入り道具である樫でできた丈夫な飾り棚の上から、野球中継の声が絶えず男の耳に降ってくる。ラジオだ。男が目をつむると、想像上の、気取った蝶ネクタイの解説者が、先ほどの長嶋の左中間ゴロについてうん蓄を垂れはじめた。
 街角の電気屋の前で、人だかりに混じりテレビを観るよりも、晩酌の旨さがとなりにあるという日常を、男は選んでいた。
 盆の上の、麒麟ビイルの壜に手をかける。もう片方の手に栓抜きを。王冠はいつになく黒々としており、これは新品ではなかろうかと男は少し、考えた。
「おう、コップねぇぞ」
 栓を抜く前に気づいたのは幸運だ。裏手の川でキンキンに冷やしたビイルは、栓を抜くとすぐに白い泡があふれてしまう。
 台所のすだれの奥、ちらりと見える割烹着姿の女が「はいはい」と大きな声で応え、温い水が滴り落ちる蛇口を、キ、と締めた。この曇りでも蝉が声をはりあげている。
 ――ワンナウト、イチルイニルイ。巨人、逆転ナルカ七回裏。
 女がコップを手に居間へ入ると、男が興奮気味に今日の巨人戦の様子を伝えた。女は心得たように頷き、灰色の布を手に背伸びをして、白熱電球をくるりと回した。沈んだ居間があたたかな光に包まれる。
 と、窓硝子にトポトポと雨の音が当たった。女は一旦窓を開け、雨戸を閉めてから窓の木枠を叩き閉めた。
 そうして女が振り向くと、ちゃぶ台の上のコップはもう空っぽである。男と目を合わせると、男はいたずらが見つかった子供のように、すこし、ずらした。仕方がないとばかりに、女はため息をつく。
 ちゃぶ台の上の盆を取り、女が次に台所から持ってきたのは南瓜の煮つけとひじき煮、笹の葉の上に乗ったサバの塩焼き、そして白米が盛られた茶碗だ。女がそれぞれを並べ置いていると、男がつぶやいた。
「箸ねぇぞ」
「あらっ、」
 急いで女が、台所から夫婦箸を持ってくる。また、男が言った。
「今年も何だって? さっき……言ってはろ」
 南瓜の煮つけを口に含みながら睨みつける男に、女はにこりと笑みをなげかけた。
「七夕よ」
 雨の音、蝉の声、そこへ蛙がまじりはじめ、男はラジオの音量を上げた。

■ SECRET CODE ■

「――聞け!」
 電脳技師の声が高らかに響く。
「ワタシの最高傑作がここに誕生した!」
 満足げにゆがむ顔は、普段の技師の無邪気さとは違い、狂気を孕んだ悦びの海にひたされている。
「ワタシを殺すことのできる、唯一無二の機械精霊が!!」
 ゼロイチイチゼロゼロゼロイチゼロイチイチゼロゼロイチゼロイチゼロイチゼロイチイチイチゼロゼロイチ。
 この千年の間、世界は移り変わり発達してきた。
 人類はとめどなく増え続け、環境を破壊された地球は、酸の雨と紫外線、放射能を含む野菜、水銀を大量に含む魚介類、そしてそれらを喰らう家畜の山となりはてた。
 その結果、可能な限り人類を殺す術ばかりが、金儲けのように取引されている。
 医師たちは、栄養薬の製造限界を悟り、死神の側に寝返ったのだ。
 自分たちが生き残るために。
 しかし、電脳技師は死ななかった。
 幼少の頃から毒をもった自然の野菜や魚、肉を食べ続け、成長は少女時代で止まった。
 それからというもの、どのような劇薬を口に含んでも、どのような凶器を自身につきつけても、死ななくなった。いや、死ねなくなったのだ。毒には既に耐性がつき、そして外見こそ人間だが、血管の通り道や消化器官の場所まで変形してしまった。本で読んだ急所は、どこも少しばかり血が出るだけだった。
 何も満たされず、ただただ痛みばかりが身体に残る日々。
 少女は電脳技師になることを誓った。

     ★

「……ねぇ、母さん。僕にはどうして名前がついていないの?」
 首をかたむけて問うた少年に、技師はこう言った。
「名前など、ない」
 少年は不満そうな表情をうかべ、椅子にかけている技師の足元に座る。
 そしてとびきりの笑顔でこう言った。
「母さんの名前は?」
 この混沌とした世界で生かすために、技師は機械精霊を少年の形に造った。
 それも、とびきり美しい少年に。
 そうすれば、技師が死んだ後もどうにか生き残れるだろう。技師は自身にあるだけの知識をつめこんで少年を造った。
 飲食もできる。排出もできる。冷凍精子まで内臓させた。
 人間として必要な器官は全て備えさせたのだ。あとは事実さえ隠しておけば、そっくりそのまま人間として、生きてゆける。職に就けるように、電脳技師としての知識もアーカイヴに入れておいた。
 椅子に座ったまま、技師は少年をながめる。
 精巧な機械。
 まるで本物の彼のようだった。
 技師の記憶の奥から、幻想がとびだす。
 それは、かつて技師が恋して、どこかの医者に殺された、彼のことだった。
 しかし、少年は機械。人工知能がそうトレースしているだけなのだ。
 思い出を、ただ。
 ……技師は、だんだんと死ぬのが億劫になってきた。
 すぐに、電脳技師を殺すコードを少年に言い、殺されれば良かったものを、完成品が正常に動くかどうか、確認したいという科学的欲求が勝った。
 それが、誤算。
 このまま少年といつまでも生きていて、それで、いいかと思うようになった技師は、いつまでたっても自分の名前を、少年に教えずにいた。
 窓からながめる空は、相変わらず変な色に輝いている。
 河の水は緑色に、土は紫色に、空気はうっすらと、黄土色に。
 この汚い世界で、キレェに生きれる筈はないが、技師は、少年とならいつまでもこの世界を好きでいられた。
 この環境がなければ、彼女は電脳技師になろうとは思わなかったし、死ぬこともできた。そして少年を造ることもなく、静かに息をひきとることができたのだ。
 次第に技師は、少年に心を惹かれていった。
 それは想像以上に酷なことだった。
 技師は、自分を殺すためのコードを、自分の名前にしていたのだ。
 少年に名前を、自分の名前を呼んでほしい。
 しかし、そう言って自分の名前を教えたところで、プログラム通り少年は技師を殺すだろう。少年が名前を呼ぶころには、もう息はない。
 あの時、少女を一人にした彼。
 復讐をしようか。
 しかし、少年を一人にしたところで、果たして寂しいという感覚は、機械に芽生えるのか。
 ……否。
 ただの、機械なのだから。
 ゼロイチイチゼロゼロゼロイチゼロイチイチゼロゼロイチゼロイチゼロイチゼロイチイチイチゼロゼロイチ。
 少年に名前を与えた。
 それは、彼と同じ名前だった。
 技師は以前にも増して、自分の心が苦しいと感じた。
 痛いのはもう、身体のせいばかりではなくなっていた。
 命令し、交わった。
 しかし、それでも技師の心は満たされなかった。
 少年は相変わらず「母さん」だの「博士」だの、ときには「あなた」と技師を呼ぶ。
 とうとう耐え切れなくなった技師は、ある日、必ず読むようにと、少年に紙を手渡した。
 少年はクスリと笑って紙を受け取る。すっかり内部のシリンダーと馴染んだ肌は、人間味あふれる笑顔となって技師の目に焼きついた。
「母さん、」
 少年は少女にキスをした。
 紙に書かれた通りに。
 唇を離した瞬間、技師は少年の耳元で、そっと、ささやく。
「母さんではない、ワタシの名はー……」
 瞬間、少年は、倒れた技師を目の前に、赤い涙を流していた。
 しかし、よく見るとそれは涙ではなく、技師が血のついた手で、最期に少年の頬を触った痕だった。

■ 死焼けサロンにご招待! ■

「編集長……、編集長! もうすぐ着きますよ!」
 俺の隣に座っている小太りの男は、閉じたまぶたが貼りついた醜い顔を左右にゆらしている。いや、馬車の振動か。
 さっきまであんなに声を出していたにもかかわらず、口はあけたまま。よだれが際限なく垂れている。眠り始めのうめき声はなんだったんだ。悪夢でも見てやがったのかこいつ。くそ。気持ち悪い。
 Yシャツに耐えられなくなり脱いだ。タンクトップは、もう汗でビショビショになっている。
 馬車にゆられること一時間。俺と編集長は、噂の死焼けサロンに到着した。いくら雑誌の企画だからといって、編集長までついてきたとあってはバダルフタワーズ支所も恐縮だろうと思い、空港で、俺は俺が一人で来たとケインズに知らせた。今回の取材旅行の手筈は、すべてケインズが受け持っている。その結果がコレだ。
 馬車は狭く、おおよそ俺の2倍の体重を誇る編集長とギュウギュウ詰め。あろうことか寝始める始末。
 アホではなかろうか。
 ギシギシと音をたてて、バダルフでは珍しい漆喰の壁をもつ四角い家の前で馬車は止まった。起きようとしない編集長を、俺とロバ使いの二人がかりでおろし、音に気づいて出てきた男も巻き込んで、なんとか応接室のソファに座らせた。暑い。
 運んでる途中で編集長の体から落ちたポケットに入っていた小銭やら、汗やなにやらでベトベトになっている小ナイフやら飴やらちびた鉛筆やらは、ロバ使いに駄賃として全部プレゼントした。
「所長のイラノンです」
 手伝ってくれた細身の男が死焼けサロンの所長だとわかり、俺は即座に詫びたが気にしないようだった。カップに入ったミルクが出される。
「バダルフマチリカのミルクは美味しいですよ」
 浅黒い肌の男は、ニコニコしながらこちらを見ている。もう取材は始まっているのだ、と、俺は俺を鼓舞した。写真を撮っていいかと尋ねると笑いながら承諾してくれたので、インスタントカメラで撮影した。
 今時はこんなんで十分使える。どうせ載せても古紙を再利用したザラザラの紙面だし、俺とイラノン所長の目は黒い線で消される。
 写真を撮り終わると早速手帳を開き、インタビューを開始した。
 レコーダーなんてのは不要だ。録音したところで、翻訳するのが手間だ。バダルフ語はイントネーションで意味ががらりと変わる。その場の雰囲気や話の流れは、録音じゃあ無理だ。
 ―― 死焼けサロンというのは?
「病気などで部屋に寝たきりの老人は、徐々にその黒さが失われていきますしかし、我々の神は黒しか天の国へ運ばないので、死後も短時間で日焼けさせる場所が必要だったわけです」
 ――なぜサロンという場所が必要だったのですか? 外に放置しては?
「言い伝えがあり、死後の7日間のうちに鳥に食べられる者は悪人だと。シナラあたりでは、鳥に食べられるとそこだけ天国に運んでもらえないとも言いますね」
 ――珍しいですね、となりの国では鳥葬が主流ですが
「えぇ、我々の神はバダルフ人だけのものです。名はウーナイといい、とても大きな手を持ち、土をくりぬいて湖を作りましたそして爪を埋め、そこからバダルフの先祖が生まれたといいます。我々の肌は元々白く、しかし神ウーナイはそれを良しとしませんでした。肌を黒くするために太陽と昼を、黒を崇めるために夜を、そして夜をくりぬいてー…」
 ――のぞき穴をつくった?
「その通りです! それが月というわけで、我々の礼拝の時間が夜だというのはそこに関係しています」
 ――死焼けサロンの構造についてお聞きしても?
「大人と子供、また体系でも黒くなる時間や温度が違いますので、機械を3つ用意しています大人用、子供用、サイズフリー。まず村の子供が走ってきてここが用要りであることを知らせます。そしたら機械の電源を供給して、ロバ車が死人を運んできます」
 ――電源はどこから?
「ジュパンNPOが開発した、豚のガスからとれる熱発電です。今回の取材に応じたのも、ジュパンからわざわざと聞いて」
 ――大変そうですね
「あとは体験していただければわかりますでしょう」
 所長が電源供給のため席をいったん外し、俺は編集長に断わってひとり、実際の機械が置かれている部屋へ入った。薄暗い。カメラを構える。日本の日焼けサロンにあるような、筒状のカプセルが2つ、そして大きめのものが奥にひとつ。上についている小さな天窓には、鳥対策のための鉄格子がはめられている。
 思ったよりも早くイラノン所長が戻り、編集長もまじえ実際の作業を体験させてもらうこととなった。幸い、死んですぐの遺体があり、それを使わせてもらえるようだ。数人の黒い所員に交じり、死体の服を脱がせて大きめのほうのカプセルに詰め込む。
 暑さで朦朧としているのか、死体だとは思えず普通にさわれる。
 しかし死体のほうは動かないのだ。詰め込むのも一苦労である。
 皆やけに喋りまくって詰め込むと思ったら、よく聞くと所員たちは、いたわるように死体に話しかけていた。
「こうしたほうが、よく動くんですよ。きっと錯覚でしょうがね」
 ハハ、と所長が苦そうにやさしく笑う。俺はたまらず、思考をきりかえるために声をあげた。
「ちょっと編集長! 手はもっと上に動かしてくださいよ!!」
 すっぽりと収まった死体の前で、もう一度写真を撮ろうと思った。
 俺と、編集長とイラノン所長の3人で写りたいと思ったため、所員のひとりにインスタントカメラの使い方とタイミングを教えなければならなかった。死体をかこむようにしゃがんで、上方面から撮ってもらう。
「アパーファ、ドゥッパ・サトーン・ノンス、」
 カチッ。
「そろそろ、ハッチを閉めますよ」
 イラノン所長の一声に、俺はずいぶんと放心していたんだと思い当たった。ストンとなにかが落ちてしまった気分。それは開放感だった。全身が笑おうとヒクついている。立ち上がって見下ろす醜い顔に所員が手のひらをかざし、ピチリとまぶたはまた閉じられた。
 ゆっくりと。テープレコーダーを取り出す。
 このために使いたくなかった。記念の一声だけを永遠にリピートしたい欲望。俺は日本からずっと考えていたその別れの一言を、所員がハッチを閉めている最中に、その音にかきけされないように、大声で笑い、ふるえている。昔の仕打ち、今の給与、あぁ、俺を追い込ませたのはお前だ。だがせめて天国へ逝ってもらおうとするのは、俺なりのやさしさなんだ、ぜひとも感謝して受け取ってくれたまえ!
 レコーダーの赤い録音ボタンを押した。
「…―さぁ編集長、身ずからご体験ッ!!」

■ 自殺宣言! パラドックス ■

 彼女の一挙一動に、ワッと歓声をあげる人々。
 私は彼女の「自殺宣言」を、窓際に立ち、見物している。
「わたしはー! 3日後にぃー!!」
 この国では、2年前から「自殺宣言者特別待遇奨励法」が起用され、それ故、自殺する人たちが後をたたない。
「このビルからー! 飛び降りてー!!」
 彼女は法令が施行されてから15952人目の宣言者になる。
「自殺しま―――――すぅ!!!」
 自殺を宣言した者は、1分〜3日の期限を与えられ、その間一つだけ「願い」を叶えるコトができるのだ。
 ちなみに私が珈琲をすすって立っている、このビルは、その自殺者の願いを叶える為の、通称「叶ビル」……安直なネーミング。
 そして、宣言をしている彼女が立っている、向かいのビルが通称「願ビル」……やはり安直なネーミングだ。
 自殺者が宣言しているトコロを、私はずっと見つめてきた。
 施行されてから、ずっと、ずっと。
 なにせ、私たち公務員が、汗水たらして彼女らの願いを叶えなければならないのだ。どんな願いか、聞き届けなければならない。
 最初の頃は「何で自殺なんか」とか「可哀想」とか、色々思っていたのに、2年もすれば感情なんて消え失せて、今では半ば「呆れて」この窓から眺めるだけ。
 今までの願いは、90%ぐらいの確率で、ほとんど叶えられている。無理すぎる願い、というのは、やはり、あるのだ。
 叶えられない願いは、こうしてファイルに収めてある。例えばー…。
 私は棚から、赤いファイルを取り出しページをめくる。
 あぁ、そうそう。こんな願いもあったっけ。
 この願いは、制定されてから一年ほどたった、ある寒い冬のこと。
 そう、冬。
 今宣言している彼女と同年代の……声変わりもまだしていなかった、少年の願いー……。

     ★

「こらからー! 3日後にー!」
 私は願いを、ストーブの前で聞いていた。
 オイルショックはずいぶん前に過ぎ去ったけれど、私は、多少高くとも灯油ストーブを使う。こちらの方が、窓際でも暖をとれる。
 少年の声は震えていた。
「首をつってー! じさつしまーーす!!」
 片手のココアは私の体温よりヌルく、私は少年に「きのどくだ」という目を、向けていた。たぶん、そうだと思う。そうでなかったら、誰があんな願いを言うだろうか。
 一瞬、少年と目が合ったのだ。
 ほんの、一瞬だけ。
「……っ?!」
 少年のキレェな顔が大きく歪む。
 ゾッとするほど白い肌に、茶色の瞳をギラつかせ、少年は私の顔を見据えた。
「おれの願いはー!」
 ドクン。
「誰かあのおねぇさんをー!!」
 ドクン。
「ころしてくださ―――い!!!」
「っつ!!」
 タタッ!! タタタッ!!
 反射的にしゃがんだ瞬間、ライフルの音が部屋中に響く。撃ったのは、同じく部屋でココアを飲んでいた同僚だった。観賞植物の葉に穴があく。
 私は腰に提げていたWP60ー0を手に取り、すばやくリボルバーの安全装置を解除した。
 ピスッ。ピスッ。
 シングルアクションで同僚を射殺。正当防衛だ。法廷では勝つだろう。
 しかし、こうなってしまった以上、ここに留まっていては危険だ。
 この自殺宣言で、なぜあんな大勢の人間が下にたむろしているか、それは、公務員以外の人物が願いを叶えると、国から報酬が貰えるからなのだ。
「……チッ!」
 使えない銃。もう弾がなくなった。いえ、使えないのは普段の私。弾を入れていなかったのだ。階段を駆け上がり、屋上へ。
 少年の「私を殺せ」という願いは可能だ。殺される。
 ――殺される!
 早く逃げないと……一般人でさえ銃を持っているのだから。いえ、逃げたところでどうするの? 何か、助かる方法は。焦ってつまづきながら、階段をかけのぼる。だんだん、吐く息が白くなってゆく。
 助けて……っ誰かー…!
(パラドックスー!)
 そのトキ。私の脳裏に、彼のコトバが焼き付いた。この法令を作った、イタズラ好きの私の彼。
(そう、この法にはパラドックスが隠れているんだよ、ジュリー)
(ヒント? そうだなぁ。願いを言う段階で、気づく人は居ると思うよ)
(もし君が解けたなら、ボルドーネのワインを奢ってあげるよ)
(パラドックスは一つじゃない。君は何個気づくか、楽しみだなぁ)
 彼は、とっくに死んだ。
 いくつもの謎と、この法令だけを、私に残して。そして私はー!
 勢いよく扉を開けると、雪が降っていた。屋上。少年を見下ろす。
 少年は、私を見上げた。
「私はこれから1分後に自殺をするわ。私の願いは―――!!」

     ★

 今でも笑みがこぼれる。
 あの少年は2日と23時間と50分、死の恐怖に耐えた、そして自殺した。涙を残して。
「わたしの願いを言いまーす!!」
 外では彼女がクライマックスの最中だった。あの様子じゃぁ、大した願いじゃなさそうね。私はフッと彼女に微笑んだ。
 しかし、彼女はあの少年のように、私の存在には気づかない。
 私の「宣言」後に改正された、新しい制度。ある意味で、少年は
「善い行い」をしたのだと言えるだろう。
 パラドックスをひとつ、見つけてくれたのだから。
「わたしの願いは――――!!!」
 この絶望的なパラドックス。あなあたはもう、解けたかしら?

■ 春夏秋冬……春 ■

 その二つの指輪、今も俺の手元にある。
 俺の薬指には入らない7号の指輪と、俺の薬指にピッタリな13号。
 どちらもシルバーで、シンプルな、ただの、輪。
 何の役にも立たない在るだけの指輪は、それでも、昔確かに、俺と彼女と笑える時間が存在していたと、ふと気づかせる、大事な物。
 ……ふざけあった日々。
 あいつの痛みに気づかなくて、ただ笑ってばかりいた、俺。
 あの頃を想うと、痛みのような笑いのような、涙のような何かが、俺の内側からあふれてきて、唇を噛む。
 幸せだった。
 本当に、幸せだった。
 春風に桜が舞えば。
 夏の夜に蛍が消えれば。
 秋雨が楓を濡らせば。
 お互いにお互いを見て微笑んだ。
 何も考えなくて良かった。
 つながっていると思った。
 このまま一緒に居られるのだと確信して、それを愛の子守唄にした。
 信じていた。
 頼っていた。
 それが……あいつをどんなに苦しめたのか、今ならわかる気がする。
 彼女に頼りすぎていた俺は、自分を強い人間だとばかり思っていた。
 愛を勘違いしていたんだ。
 ――そんな雪の降る夜。
 母の手から渡された、一通の封書。
 それは、俺の存在を心から揺らした宣告だった。
 そして母は、翌年の夏に日本を発つ事を、俺も一緒だということを、俺には既に選択権がないことを、ゆっくりと説明した。
 それは、君への態度を一変させるには申し分ない代物で。
 戸惑う日々が始まり、そしてそれは君へと向かった。
 大した事でもないのに大声で怒鳴りつけ、冷たく当たり、泣かせてばかりいた。それでも気丈な君は、俺に背を向けて「なんでもないよ」と無理して笑い声を出し、涙をふいていた。
 小さいときから内向的だった彼女は、声をあげて泣くという事を知らない人間で、そして、我慢強い人間でもあった。
 真っ直ぐのびた髪。
 いつも下を向いて歩いていた。
 どんなことをしても……。
 あれほど降っていた雪が止み、辺り一面がまばゆい光に包まれてからも、あいつは俺の家にやってきて。
 その度にけんかをして、君は自分の家に帰っていく。
 その繰り返しが続いた。
 別れるにはこうするしかないんだ。
 俺はそう、思い込んでいた。
 君を忘れて日本を発たなければ、自分がダメになる。
 ここは、この場所は、この風は、君は、あまりにも優しすぎた。
 君は、まるで雪のようだった。
 いつも静かにやってきて、俺を受け入れてくれる。
 でも、それが辛すぎて……。
 そうしてまた春が廻ってきたとき、俺とあいつは全く会わなくなっていて、これは自然消滅だと、俺はよくやったと、自分で自分を褒めて君が来ない虚しさや淋しさをココロの奥に封じ込めていた。
 そんな時。
 春風と配達員と桜の花びらと一緒に来た、君からの手紙。
 空色の封筒と便箋には白い雲が映り、書道を習っていた君らしく、一角、一角、丁寧に書かれた俺の名前と文章。
 空に埋もれた細い字が、結構見にくかったのを覚えている。
 俺はてっきり、古風な別れ方だと思っていたけれど、まるっきり検討違いだった。

   それは、遺書だった。

 最初のページには、とても楽しかった日々を。初めてのデート。手を繋ぐのさえ緊張したこと、グラタンを作ってあげたこと。辛口の批評を吐きながら、残さず平らげてくれたこと、夏の星達にキスを見られたこと、俺の赤面するような愛の言葉が嬉しかったこと……。
 次のページには、あいつが今まで耐えてきたコトが書かれてあった。
 交通費は全部あいつがもっていたこと、短気な俺が怒ると、理不尽だと思っても自分が謝らなければいけなかった、浮気をしていると嘘をついたこと。
 冬の間中、自分の存在を否定され続けて、とても疲れたこと、生きる気がしないこと、今、死ぬ準備が整ったこと。
 そして最後のページには、こう書かれていた。
「それでも大好きでした。さようなら」
 今すぐに逢いたい。
 逢って、抱きしめて、謝りたい。
 出てきた涙を拭こうかと思ったとき、はずみで封筒が床に落ちた。
 ――コッ。
 俺ははっとして、封筒を拾い上げ、中の物を取り出した。
 それは、付き合って半年たった日に買った、ペアリングだった。
 思えばこれだけが、あいつにプレゼントした唯一の品で。
 そう、特売で、ペアで1500円だったっけ。ということは、何万円もかけて俺と付き合ってきたあいつが、俺から貰ったものといえば。
 ……750円の指輪と、一年にも満たない平和な日々と絶望と死。
 いや、あいつにとっては平和じゃなかっただろうから……たった750円?
 結局、俺は自分勝手にあいつを振り回したあげく、泣かせ、悩ませ、苦しませ、ついに殺してしまったのか?
 どれだけ自分がワガママに振舞っていたか、反省してもしきれない。
 遠距離恋愛だってできたのに。
 ……庭の水仙が枯れる頃、俺は日本から韓国へと渡った。
 あいつの葬式には、とうとう行けなかった。
 俺は、あいつの家がどこにあるのか知らなかったのだ。
 何も知らなかった。
 本当に何も、何も。
 俺は今では、こちらでうまくやっている。
 彼女もできて、来月、結婚する予定だ。
 それでも、この小さな袋に仕舞われた、小さな封筒の中の、小さな小さな指輪を見るたび、思い出す。初めて出逢ったとき、春風の中で笑った、あいつの優しい微笑みを。